Sunday, June 09, 2019

鹿砦社・松岡利康さんへの返信(3)


松岡利康さん



お返事ありがとうございました。



【カウンター大学院生リンチ事件】「唾棄すべき低劣」な人間がリーダーの運動はやがて社会的に「唾棄」される! 前田朗教授からの再「返信」について再反論とご質問 鹿砦社代表 松岡利康




6月7日は大阪でヘイト・スピーチ講演(ヒゲ戸田パギやん共謀企画 6/7"ヘイト&組合弾圧"と闘うための大学習会」)、8日は豊中で日本軍性奴隷制(「慰安婦」)問題の講演でした。いずれも、内容の充実した会になりました。



さて、まず、本件の事実関係に関する私の誤解を匡していただきましてありがとうございます。



次に、反差別と反ヘイトの運動に直接のご協力はいただけないとのご趣旨、残念です。とはいえ、差別に反対する姿勢は共にされておられるので、いつか、また、どこかで同じ課題に取り組む機会に恵まれることがあるかもしれません。



また、松岡さんのご体験を披露いただきました。ちょうどいま手元にある『テロリズムとメディアの危機』以来のご活躍のごく一部を、私も拝見しておりました。文字通り、時代の最先端を駆け、危機に立ち向かい、警鐘を乱打されてきた貴重な闘いに改めて敬意を表します。



その余の記載は、ほとんど同じことの繰り返しのため、申し訳ありませんが、私も同じ趣旨のお返事を差し上げることしかできません。



第1に、「私の『救援』記事の骨子にはいまのところ訂正の必要を認めません。」「『救援』記事で友人たちに忠告をしておきました。私にとってはそれで十分です。」――これが今回の主題ですから、本来ならこれ以上お返事を差し上げる必要もないのです。



第2に、「せっかくこれほど力を尽くして本件に向き合ってこられたのですから、もう一歩前進するために、細部に目を配るだけでなく、目の前の最重要事実を直視されてはいかがでしょうか。」――私としてはこれで十分です。松岡さんがどうしても事実を直視するのは怖い、直視したくてもできない、ということであれば、これ以上申し上げることはありません。



にもかかわらず、松岡さんはいつまでも、あれはどうだ、これはどうだ、と蒸し返し、掘り返し、執拗に自説を唱えています。松岡さんとしては「何度でも繰り返す。しつこいと言われようと、延々と言われようと、正義が実現されるまで、必ず、絶対、いつまでも繰り返す」とお考えのことと存じます。それも松岡さんの自由ですが、他人がこれにおつきあいする理由がありません。



また、松岡さんの文章には、次から次と「あいつはこうだ、こいつはこうだ」と、意味不明の記述が続いています。松岡さんは言葉の上では否定されていますが、実際には骨の髄まで「敵/味方」思考に貫かれているため、「敵の友達は敵だ。その友達も敵だ。そのまた友達も敵だ・・・」と芋蔓式に次から次と「敵」を発見して、撃破、撃破の連続です。ネットゲームならおもしろいかもしれませんが、現実世界では共感の対象と成りがたい所作ではあります。正義だ、正義だ、正義だと言わんばかりのその作法は、同時に正義を削り落としていくのではないかと疑念を持たざるを得ません。



せっかくお返事を頂いたので、以下、若干のコメントをさせていただきます。



1 法的救済と人道的救済

2 多面体と一次元的人間

3 権力への視線

4 おわりに



1 法的救済と人道的救済



法的救済を求めて提訴したのですから、裁判所の判決が確定した以上、通常の法的手続きは終了です。例外的な場合もあるでしょうが。判決が確定した後に「判決など関係ない」と唱え、しかもさらに「法的救済を求める」というのは、了解不能の事態です。松岡さんは「法的、人道的救済を求めていきたい」とのことですが、議論を整理していただいた方がよろしいかと思います。法的救済と人道的救済をどのようにご理解でしょうか。



私が申し上げていることは単純明快です。次の2点です。

A 法的救済を求めたのですから、結論としての判決に従いましょう。

B 判決に納得できないのであれば、法的救済とは別に、人道的救済を求めるのはご自由です。



ところが、松岡さんは、ABを区別することを拒否しています。あえて混乱させて議論を閉塞状況にしてしまっているのではありませんか。



判決確定後も、松岡さんなりのご判断で人道的救済を追求されるのはご自由です。しかし、それを他者に求める理由はありません。人々は法的決着がついた問題にいつまでも引きずり回される理由がないからです。まして、松岡さんに従わない人々を激しく非難する理由にはならないのではありませんか。



2 多面体と一次元的人間



人間人格は多面的であり、決して一次元的ではありません。井上ひさしは、夏目漱石について「多面体」という言葉を使っています。私は井上ひさしについて「多面体」と称してきました。

前田朗『パロディのパロディ 井上ひさし再入門―非国民がやってきた!Part3〉』(耕文社、2016年)


第1話 井上ひさしの遺言

第2話 泣くのは嫌だ、笑っちゃおう

第3話 ガタゴト列車は、人生に乗って

第4話 東京裁判トライアングル

第5話 ユートピアを探して

第6話 笑うブンガク玉手箱

第7話 井上ひさしの平和憲法論

本書は全編、井上ひさしのパロディです。パロディ、ギャグ、コメディ、風刺、漫談、諧謔の井上ひさしをパロディにした文章を、あるミニ・メディアに連載したところ、井上ユリさんに笑っていただけたので、1冊にまとめました。私の代表作です。パロディ作家としてはまだまだ未熟ですが、さらに精進を重ねようと思います。



「唾棄すべき低劣さは反差別の倫理を損なうものである」という評価と、「裁判所に『複合差別』を認定させました。このことの積極的意義を私たちは認め、闘いに敬意を表すべきではないでしょうか」という評価について、松岡さんは「まったく人物評価が異なっています」とし、「どうしてこのように「豹変」したのでしょうか?」と仰っています。



どうしてこのような「質問」が出てくるのでしょう。意味不明です。推測するに、松岡さんの人間観が、常識離れした一次元的な人間観になっているためではありませんか。一人の人間の人格評価は、つねに一時点の、一視点だけからの評価でなければならず、絶対に一次元的に理解するべきであって、多面的な人間など断固認めないという松岡さんの強烈な意志があって初めて可能な言説です。ここではマルクーゼの用法に従っているわけではありませんが、一次元的人間は、他人も一次元的人間であるはずだと確信しているのだろうなと、思わざるを得ません。



世の中には、社会的には立派な医者や弁護士と思われていても、自宅ではDVに励んでいる夫がいるのではありませんか。道徳教育の重要性について熱弁を振るっている政治家が、セクハラ常習犯というのは良くある話です。世の中には、マイノリティ女性に激しい憎悪むき出しでストーカー状態になっている人物が、孤立した被害者救済のために立ち上がった義侠心溢れる好漢ということもあるかもしれません。



私たちは矛盾の塊でもあるのです。普通の人間は矛盾を冒しながら、矛盾とつきあいながら生きているのです。一面を取り上げて鬼の首を取ったように決めつけ、全否定する論法は時として誤りにつながることもあるのではありませんか。人は多面的であり、しかも可変的でもあるのです。一時点での人物評価が異なる時点には変化したところで、それは自然で当たり前のことです。それを理解できない人がいるとすれば、驚異的に浅薄な人間観の持ち主と言うしかないでしょう。



松岡さんも多面体であり、松岡さんなりに矛盾を抱えていらっしゃるのではないのでしょうか。



3 権力への視線



真実を明らかにし、不正義を匡し、議論を呼び起こすために鹿砦社と松岡さんが果たしてこられた役割は大きなものがあります。長年のお仕事に改めて敬意を表します。



とりわけ私が感銘を受けてきたのは、やはり、国家権力の不正義を追及してこられた闘いです。



しかし、権力に向けるべき刃を、マイノリティ女性に向け続ける所作には違和感が残ります。なるほど、誰であっても過ちは改めなければなりません。しかし、いつまでも追及を続け、どこまでも猛烈に非難し続け、地の果てまで追跡し続け、叩いて叩いて叩きまくる作法には、やはり共感することが困難と言わざるを得ません。そのうち宇宙の果てまで、と相成るのでしょうか。



鹿砦社と松岡さんの愛用する手法にアポなし突撃取材があるように思います。権力相手には有効な手法と言えます。しかし、これを個人相手に多用するのはいかがなものかと思いませんか。最初は被害者救済の立場だったのが、代弁者となり、さらには完全に当事者になって突撃取材結果を出版し続ける方法は、一種の炎上商法ですよね。それも一つの手法ですから、とやかく申し上げることではないかもしれませんが。


*上記の「炎上商法」という表現を撤回します。理由はこの頁の末尾に記します。



4 おわりに



最後に、香山リカ『オジサンはなぜ勘違いするのか』を紹介させてください。鹿砦社と松岡さんがひたすらまとわりついてきた、あの香山リカさんです。

香山リカ『オジサンはなぜ勘違いするのか』(廣済堂出版、2019年)



<「長年マジメに一生懸命やってきて、いまも変わらないつもりなのに、最近なぜか周囲の目が冷たい」

―― 若者や女性とのコミュニケーションにうっすらとした不安を覚える、昭和半ば生まれのオジサンたち。

ズレの根源は、オジサンたちが無意識のうちに引きずっている「昭和」な価値観にあります。

昭和の常識は令和の非常識なのです。

 たとえば「『お前のためを思って』とシビアに指導」「休日にLINEで女性部下を励ます」「ふつうの生活を守るために連日残業」「『いつまでもヤンチャ』にあこがれる」「『次のおすすめ』に従って動画を見続ける」

――これらがなぜNGなのか、わからないオジサンはズレています。

もし本書の解説に「イラッ」ときたら、それはもう赤信号!>


先日、香山リカさんから送られてきたので、大阪へ向かう新幹線の中で読みました。ひょっとして私のことか? などと不安に思い、かつ愉しみながら。

香山さんは、「昭和半ばごろまでに生まれた男性」を「オジサン」と呼んで、パワハラオジサン、キレるオジサン、情弱オジサン、セクハラオジサン、文科系説教オジサン、上昇志向オジサン、子ども部屋オジサンの6類型を提示しています。
最後に「オジサンが「おとな」になるために」という言葉が出てきます。「オジサン」は「おとな」になりきれていないからです。これが香山さんから「オジサンたちへの心からのアドバイス」です。

香山さんは、「愛のムチはもう通用しない」と、愛情ゆえの厳しい指導はいまやパワハラと訴えられる可能性があると指摘しています。

上司と部下、先輩と後輩等の関係の下で、上から徹底的に指導する方法は時代遅れです。

「オジサン世代もたぶん、その間違った価値観の被害者なのだと思いますが、いまのおじさんたちはそれを終わらせ、その価値観が支配する社会を変えることができます。」

さすが香山さんと思わされるのは「もちろん、私も自分が“おとなでステキなオバサン”になれているとは思っていません」と冷静な認識を披露しているからです。

それはともあれ、香山さんの指南を参考に、一度立ち止まって、私たちオジサンの思考様式を点検してみませんか。勘違いオジサンは顰蹙を買うだけですし。



ありがとうございました。



松岡さんと鹿砦社のますますのご発展、ご活躍を祈ります。




*追補

「炎上商法」という言葉について、友人から「出版人に対してこの言葉を使うのはもう少し慎重であるべきではないか」という趣旨の忠告を受けました。


第1に、十分な説明抜きに使うと、読み手が「言葉のもっとも悪い意味で使っている」という印象を受ける恐れがある。

第2に、対象の範囲を明示していないと、相手の出版活動全体に対して非難しているように読まれる恐れがある。

第3に、いきなり用いると、対話を妨げ、相手に対する非難だけが突出する。不必要な表現である。


以上のことから、上記表現は不適切であると考え、これを撤回します。



鹿砦社及び松岡利康さんに不愉快な思いをさせたかもしれません。もしご要望があれば、その折りに改めてお詫びいたします。