韓流と嫌韓流のはざまで
11月7日、東京しごとセンターで、平和力フォーラム主催の「表現の自由を考える 韓流と嫌韓流のはざまで」が開催されました。「 NHK番組改編問題、立川ビラ配り事件、映画「靖国」問題など、言論の自由にかかわる問題が次々と起きています。私たちは、一つ一つの事件が起きるたびに言論の自由が危ういのではないか、との思いを抱いてきました。メディアにかかわる人々の姿勢を見ていると、言論の責任がおざなりにされているのではないかとの不安もあります。他方、金光翔による<佐藤優現象>批判論文が注目を集めましたが、論壇では不可解な沈黙が続いています。こうした言論状況を考える連続企画を準備しました。第1回は嫌韓流現象を批判的に検討します。(案内チラシより)」 報告は板垣竜太さん(同志社大学准教授)と米津篤八さん(翻訳家)の2人。嫌韓流ブームの背景、嫌韓流の基本構造を明らかにしつつ、実は「韓流の中にすでに嫌韓流がひそかに存在していたこと」「朝日・岩波に代表される日本リベラリズムの中に嫌韓流が深く根づいてしまっていること」を解明しました。会場発言からも「嫌韓流はブームではない。日本が嫌韓流でなかったことがあったのか」との指摘があり、近代日本の植民地主義と嫌韓流の密接な関係に改めて切り込む必要性が痛感されました。
Wednesday, November 05, 2008
Tuesday, November 04, 2008
Sunday, November 02, 2008
Saturday, November 01, 2008
すいす・しんどろ~む(8)アヴァンシュ
ローマの円形闘技場――アヴァンシュ
駅に降り立ったときは一瞬、降車駅を間違えたのかと思ってしまった。
駅の周辺には、何もないのだ。
小さなレストランが一つと、民家が並んでいるだけだ。線路の向こう側にはひまわりの花と麦畑が広がっている。
これがローマ時代の古都アヴァンシュだろうか。スイス中世史に繰り返しその名を刻んできた町だろうか。思わず駅の表示を見直してアヴァンシュ駅に間違いないことを確認した。それほど予想していたイメージとは違った景色だった。
駅の周辺をぐるりと歩いて見渡すと、少し先の道路中央に小さな標識が見えた。標識には「ローマの闘技場」と印されている。間違いない。ここがアヴァンシュだ。田舎町の坂道をゆっくり登っていくと、前方にかわいらしいお城が見えてきた。
現在のアヴァンシュの町並みは、ローマ時代のそれから見ると、郊外の丘の上に位置する。17世紀から18世紀のルネッサンス様式の町並みだ。台地状の丘の上にメインストリートが走り、両サイドに家々が連なる小さな町である。一角にお城が建っているが、その隣にローマ時代の円形闘技場が口を開けている。
こんなところに、なぜローマの遺跡なのか。
スイス中部の平野、ヌシャテル湖に隣接したムルテン湖南部のさびれた町である。ムルテン湖に面した港でもないし、格別の地理的要因があるとも思えない。
ローザンヌからリス行きのローカル鉄道で1時間半ほどの距離。南はパイエルヌ、北はムルテンの町である。ムルテンならば、ベルンのツェーリンゲン家が造った中世の城砦都市や、ムルテン湖の遊覧などのめぼしい観光資源もある。
ローマ時代には2万人が住んでいたというアヴァンシュは麦畑の下に埋もれ、今の町並みは数千人の住民しかいない。町というより村といったほうが近いかもしれない。リス行きの鉄道は1時間に1本しかなく、ローザンヌ方面行きも同じ。町の中心部ににホテルが1軒あるだけだ。
野球場と同じスタイルの円形闘技場の上部をぐるりと回り、座席に座ってみてはローマ時代に思いを馳せるが、光景は容易に立ち上がってこない。闘技場の下に降りて土の上を歩く。野球でもサッカーでも、コンサートでも演劇でもできそうな闘技場だ。
* *
スイスがローマ帝国に編入されたのは紀元前15年のティベリウスとドゥルーススによるアルプス地方征服からである。ガリアへの大遠征の一環として行われたヘルウェーティア作戦の延長で、指令したのはアウグストゥスである。ヘルウェーティアといってもどこのことかわからないかもしれないが、これがスイス地方の名称であった。
それまでこの地域には、ケルト民族の部族ヘルウェーティが住んでいた。ゲルマン民族の移動によって圧迫を受けたローマは、ガリア地方に目をつけ、ビブラクテの戦いで支配の手がかりを得て、現在のスイス中央部の台地をローマ帝国の一部とした。
それ以後、約250年にわたって、リーメス・ゲルマーニクスと呼ばれた全長548キロメートルの防壁(ライン川からドナウ川まで)に守られ、この地域キーウィータス・ヘルウェーティオールムはローマ皇帝の平和を享受した。ここに生まれた都市の代表格がローマ市民の植民都市アウェンティクム(アヴァンシュ)であった。周辺の農村地帯にはケルト人が居住していたが、ローマ人の入植によって、ローマ的な生活様式が持ち込まれた。
当時の都市は、アヴァンシュのほかに、ゲナーヴァ(ジュネーヴ)、ロウサンナ(ローザンヌ)、ウィーウィスクム(ヴヴェ)、オクトドゥールス(マルティニ)、サロドゥールム(ゾロトゥルン)、アクアエ・ヘルウェティカ(バーデン)、トゥリクム(チューリヒ)、クーリア(クール)などがある。
神聖ローマ帝国の時代になってアヴァンシュの栄光はかげりを見せる。534年にフランク族がこの地域を征服し、フランク王国を形成するとその一部とされ、中心はアヴァンシュから新しい司教所在地ローザンヌに移った。マルティニの司教もシオンに移った。修道院はサン・クロード、ロマン・モティエ、ムーティエ・グランヴァルで発展した。
中世から近世にかけての封建領主と都市の繁栄と抗争を通じてスイスの盟約者団が形成され、今日のスイスの原型が造られていく。そのスイス史の表舞台にもアヴァンシュの名は登場する。
13世紀にベルンを中心にブルグント盟約者団が形成されるが、それはベルン、フリブール、ムルテン、アヴァンシュの4都市同盟であった。ベルンのツェーリンゲン家が造営した4つの都市の構造が良く似ていることは、今でも一目瞭然としている。ブルグント盟約者団は、さらにゾロトゥルン、ビール、ラウペン、パイエルヌを加え、ハプスブルク家とサヴォア家の対立の間を巧みに動いて、ベルン領を拡大していくことになる。アヴァンシュは4都市同盟の一員として最後の輝きを見せた。
しかし、15世紀に確立したスイス盟約者団と13邦の中にアヴァンシュの名を見つけることはできない。スイス近代史の担い手は、ベルン、チューリヒ、ルツェルン、ツーク、グラールス、フリブール、ゾロトゥルン、バーゼル、シャフハウゼン、アペンツェルである。
アヴァンシュは歴史の彼方に置き忘れられた存在となる。
* *
ローマのアヴァンシュは爽やかな夏の陽射しに輝く麦畑の下に眠っている。発掘作業はまだ残されており、この地域の建築工事は禁止されている。
発掘調査が済んだのは、円形闘技場、野外劇場、教会、聖霊場である。これらは当時のアヴァンシュの郊外に位置していた。現在のアヴァンシュの東南部にあたる。
円形闘技場の塔は博物館として利用され、掘り出された遺物のほとんどを陳列している。ミネルヴァの頭部、シレーヌの頭部や、数々のブロンズ立像や、柱やレリーフの一部、貨幣、壷、皿をはじめとする生活用品が収蔵されている。とびっきりの目玉は、ローマ皇帝16代のマルクス・アウレリウスの純金像だ。博物館に陳列されているのはレプリカだが、なるほど見事な像だ。これが排水溝に落ちていたというのだから、これからは排水溝を見て歩こうかと思ったりする。
ローマのアヴァンシュは、いまアヴァンシュのローマとして甦る。毎年夏に、復元された円形闘技場でオペラ祭が催されるのだ。2001年7月には、ヴェルディの『リゴレット』が上演された。2002年夏には、ロッシーニの『ウィリアム・テル』とプッチーニの『トスカ』が上演されるという。ヨーロッパ各地から、住民より遥かに多い8000人の観客がやってきて、夏のローマの円形闘技場で伝説と歴史のはざ間を行きつ戻りつするのだ。
半日かけてアヴァンシュを歩いて疲れたので、カフェでハイネケンをぐいっと傾けて、たった1つのホテルに行ってみたら、満室だった。
しまった。
とぼとぼと駅まで歩いて隣町へ向かう羽目になった。教訓――ビールは宿を決めてから呑むことにしよう。
(参考文献)
Hans Bogli, Aventicum: La ville romaine et le musee. Association Pro Aventico, Avenches,1996.
Anne Hochuli-Gysel (ed.), Avenches: Hauptstadt der Hervetier, Mitteilungsblatt der Schweizerishen,Gesellschaft fur
一人ぼっちのシャリナウ公園
一週間先に出かけた先発隊とカブールで合流するはずだったが、連絡がとれなくなった。Eメールを送っても、まったく返事がない。
イスラマバード空港から週に一便しか飛んでいないアリアナ航空にのってカブール空港に着く。入国手続きを終えて空港玄関に出たが、さて、どうしたものか。先発隊が泊まるはずだったホテルはわかっている。タクシーで行けばすぐに着くはずだ。しかし、カブールだ。一人きりでタクシーに乗るのは考えものだ。言葉も通じないし、何より危険だ。道はわかっているが、この暑さの中を荷物抱えて歩くわけにもいかない。荷物を置いたまま、途方にくれる。厳しい陽射しを浴びながら、思いあぐねる。
タクシー運転手が次々と話しかけてくる。ダリ語かパシュトゥ語だろう。まったく意味がわからない。どこへ行きたいのかとか、俺の車に乗れとか、言っているのだろう。どうしようか迷う。
日本の新聞記者の通訳をしたことがあると言う青年が、折れ曲がった古い名刺を見せてくれた。たしかに日本の新聞記者の名刺だ。片言の英語の通訳をし、カブール案内したのは本当だろう。ホテルまで送ってくれると言う。少しその気になる。短い距離だし、日中だし、乗ってみようか。
そんな気になりかけた時、空港玄関から旧知の男が現れた。前回ガイドとしてカブールを案内してくれた彼は、先発隊と会っていて、この日ぼくがカブールに着くと聞いていたので、わざわざ探しに来てくれたのだ。助かった。彼の車でフラワー通りとチキン通りの交差路に近いゲストハウス(民宿)に送り届けてもらった。先発隊もここに来ることになっているという。
チェックインした後、メールチェックのためにインターネットカフェに出かけた。一人歩きは避けたいが、昼間だし、とにかくカブールに無事到着したことを日本に知らせておかなければ。
メールチェックをしたが先発隊からの連絡はない。しかし、ゲストハウスで待っていればいいので、安心だ。インターネットカフェを出て、シャリナウ公園を散歩する。カブール中心部にある公園だ。公園といっても、茶色にくすぶった感じで、やせ細った木々が立っているだけで、花壇もなければ、花も咲いていない。端に映画館があってインド映画を上映しているから、その付近は人々がいるが、それ以外は人もまばらな寂しい公園だ。
シャリナウ公園に花はない。初めてカブールに来た時に調査に協力してくれたNGOのカブール駐在員は「昔はシャリナウ公園は美しい公園だったのよ」と言う。カブール生まれの彼女は幼年時代にシャリナウ公園で遊んだものだという。花咲き誇るシャリナウ公園は、しかし、今はない。あるのは、茶色と灰色の大地だけだ。
花も咲かないシャリナウ公園を一人歩く。思わず「花はどこへ行った(Where have all the flowers gone)」を口ずさむ。
「野に咲く花はどこへいった 娘たちが摘んでいった 娘たちはどこへいった 娘たちは若者たちのもとへ」
ピート・シーガーの作品で、1962年にキングストン・トリオがヒットさせた。反戦フォークの傑作だ。ベトナム反戦運動の中で広く歌われた。輪廻と反戦がテーマといわれる。ピーター・ポール&マリーも1962年のデビュー・アルバムに収録している。長らくスタンダード・ナンバーとして広く歌われている。しかし、最近は反戦フォークとしての意味が忘れられている。
沖縄反戦フォークの先頭を走り続けたまよなかしんやは「花はどこへ行った」にこだわる。日本で普及した翻訳は原意をうまく反映していないと、自ら訳し直して歌っている。
「若者たちは どこへ行った 若者たちは戦場へ 若者たちは今は墓の中 墓の周りは花でいっぱい」
シャリナウ公園に花はない。カブールでも、マザリシャリフでも、クンドゥズでも、花はわずかしか見かけない。ジャララバードからカブールへの道では、脇に戦車が落ちていた。マザリシャリフへの道では、沙漠の砂嵐に出会った。
アメリカの若者が戦場で斃れ、アフガニスタンの若者が沙漠に朽ちてゆく。イラクの若者も砂嵐の彼方に消えてゆく。闘う理由をもたない若者が戦場に送られ、互いに敵対し、憎悪をぶつけ合う。なぜ国家は戦争のサイクルを繰り返すのか。なぜ人々は過ちを繰り返すのか。辺野古の空に向かってまよなかしんやが歌う。
「教えてください 花はどこへ 野に咲く花は どこへ行った 教えてください 花はどこへ いつになれば 私たちはわかるの」
いつになれば――