Friday, December 26, 2008

済州島で過去清算法・運動めぐる研究会

一 はじめに

 二〇〇六年一〇月一三日から一五日にかけて、済州島の済州市ヨルリン情報センターで「韓国の過去清算法と過去清算運動」をめぐる研究会が開かれた。主催は、日本側から立命館大学コリア研究センター、韓国側からジェノサイド学会、四・三研究所である。

研究会では、韓国において進んでいる現代史の見直し、過去清算運動、過去清算法とその成果を詳細に検討した。その視点は、韓国史の中に位置づけることと、同時により幅広く国際的な文脈における意義をも合わせて検討するものであった。

 おおまかなスケジュールは次の通りである。

 第一日――オープニング・セッション「過去清算の普遍性と東アジア」

 第二日午前――セッション1「韓国の過去清算法・清算運動」

 第二日午後――セッション2「韓国の過去清算と日本」

 第三日――済州島フィールドワーク(済州四・三事件現場跡)

以下、その概略を紹介したい。

二 過去清算の普遍性と東アジア

 第一日(一〇月一三日)のオープニング・セッションでは三本の報告が行なわれた。

韓寅「韓国の過去清算と市民社会の成熟」

本報告は研究会全体の基調報告である。報告者は、ソウル大学法科大学副教授、刑法専攻である。司法改革委員会委員、法と社会理論研究会前会長。著書に『刑罰と社会統制』(博英社)、『陪審制と市民の司法参加』(峨山財団)がある。

報告は、権威主義の統治の下における諸事件が裁判を通じて確定したが、それをめぐって「司法府の受難」と見る見解を検討し、「顔をそむけ無視する戦略」を批判する。国家刑罰権の不正による被害があったのだから、「司法被害による実存的苦痛」に対して向き合うことが必要である。国民統合を強制的に進めるために「スパイ」「共産主義者」「不穏分子」として、人権保障も適正手続も無視して生命・身体・自由・財産が蹂躙された。抑圧の過去を忘れることなく、過去の司法そのものを問い直す作業が求められる。確定判決と社会正義の間の衝突を治癒するためにも、被害者のための回復的正義実現のためにも、裁判を通じた過去清算を実現するときである。しかし、刑事再審請求が次々と棄却された。再審裁判を通じて無罪判決が得られた最初の事件は、ハム・ヂュミョン事件である。「疑問死」真相究明も進められ「司法殺人」の実相が徐々に明らかになっている。イ・スグン事件、イ・チャンヒョン反共法事件、カン・ヒチョル国家保安法違反事件などが再審請求中である。再審請求準備中の事件には、キム・チョルジョ総連連携スパイ事件、宋氏一家スパイ団事件、イ・サンチョル事件、キム・ヤンギ総連連携スパイ事件、珍島スパイ団事件などがある。また、国家賠償請求も進められている。消滅時効による切り捨ては許されない。スージー・キム事件やチェ・ジョンギル事件では国家の消滅時効の主張を退けた。「司法府の過去清算は、法と正義を正しく打ち立てるためにも必要であり、被害者のための回復的正義の確立のためにも必要であり、国民統合のためにも必要とされる。少なくとも司法府としては再審と消滅時効の部分で、既存の機械的・形式的な法適用から脱皮し、国家暴力の被害者に対して回復的正義の確立を支援せねばならないだろう」。

前田朗「植民地責任論――世界的動向と日本」

本報告は、第二次大戦後の植民地解放から植民地独立付与宣言へと至る過程における植民地と植民地主義の表象を確認し、エメ・セゼールとフランツ・ファノンを瞥見した。さらに、二〇〇一年にダーバン(南アフリカ)で開催された「人種差別に反対する世界会議」の準備過程とその成果としての「ダーバン宣言」における植民地認識を追跡した上で、「9.11」の暗転がもたらしたものを<二一世紀植民地主義>として把握した。また、日本における議論の状況を、一九九〇年代の戦争責任論や戦後補償論、これに対する逆流としてのナショナリズムの台頭、そして「9.17」以後の日本政治と社会の様相の順に見たうえで、アジアとの関係での日本の植民地主義の二重の意味を検証し、それと同時並行的に貫通してきたアメリカとの関係での日本の<自己植民地主義>について検討した(前田朗「内から見た日本」『東アジアから見た日本――日本はどこへ行くのか』社協ブックレット八号参照)。

ジョン・プライス「人種主義、帝国連合そして東アジアにおける国家暴力」

報告者は、ビクトリア大学準教授、カナダ政策研究センター研究員、バンクーバー市正義平和委員会メンバー、二〇〇六年にバンクーバーで開催された世界平和フォーラム主催団顧問である。日本現代史及び朝鮮現代史に関する論文、特にサンフランシスコ講和条約、朝鮮戦争における細菌戦争に関する論考がある。

報告はまず朝鮮戦争時におけるカナダ軍兵士による民間人虐殺などの戦争犯罪の実例を検討した。従来、米軍による戦争犯罪はよく知られているが、カナダ軍については研究があまりない。当時、民間人に対する残虐な殺人、強姦、略奪などがいくつも発覚して、軍法会議において有罪となった事例もあるが、多くの兵士は帰国後、短期間で釈放されている。カナダでは二〇世紀初頭には人種主義が顕著であり、アメリカとともに日本人排斥を行なったように、人種差別的な白人優越主義国家であった。それが犯罪の発生や、その事後処理にも大きな影響を及ぼしている。カナダにおいて人種主義国家が変容し始めるのは一九六〇年代のことである。しかし、人種主義も帝国主義もなくならなかった。中東における戦争政策やイスラム教徒への差別が今日も続いている。

三 韓国の過去清算法・清算運動

 二日目(一〇月一四日)午前のセッション1「韓国の過去清算法・清算運動」では、四本の報告がなされた。

金武勇「真実和解委員会、過去清算運動の制度化と国民統合主義路線」

報告者は、韓国現代史専攻で、歴史学研究所研究室長、高麗大学講師を経て、真実和解のための過去史整理委員会委員である。韓国現代社会主義運動や労働運動に関する論文がある。

報告は過去清算作業の担い手としての立場から現状と反省点を浮き彫りにしている。過去清算作業は、過去の問題を扱うだけではなく、反共独裁体制が生産して来た慣行を清算し、社会において人権と民主主義に対する反省的省察をする意味を持っている。真実を語ること、記憶の政治を復元すること、韓国社会が正常化するための出発点である。真実和解委員会の設立は、過去清算運動の大きな成果であり、その制度化であった。国家の側には「過去協商」戦略があるが、過去清算から民主主義と移行期正義の局面に来ている。しかし、国家の側にも社会意識にも国民統合主義路線が強く影響を及ぼして、市民団体など運動的過去清算論と、国家機構としての真実和解委員会の制度的過去清算論との間に葛藤が生じている。過去清算は、一方で過去との批判的対面を通じて自らを反省する作業である。過去清算は記憶と忘却が極端に対立する場所である。過去清算は、被害者と加害者の位置を逆転させて別の敵対をつくるのではなく、社会全体を変革し、共存の未来共同体をつくる作業である。国家暴力に沈黙したり傍観することのない社会意識を構築する必要がある。

張完翼「民間人虐殺の過去清算法」

報告者は、弁護士で、親日反民族行為者財産調査委員会常任委員兼事務所長、日帝強占下強制動員被害真相究明委員会委員である。

韓国では居昌事件、四・三事件、老里事件などの個別の民間人虐殺事件について特別法を制定して名誉回復・犠牲者審査・真相究明の活動が続き、真実和解、強制動員被害、親日反民族行為などの調査も始まっている。報告は、四・三事件、疑問死、強制動員被害、親日反民族行為、民間人虐殺、軍疑問死、親日財産についての調査・真相究明方法の異同を検討した。過去清算関連委員会の真相究明方法はその性格によって多様であり、具体的な手続きは関連委員会が成立した時期とも関連する。事件の性格に沿わない調査方法をとっている場合もないわけではない。事件の性格、資料の存在状態、被害者の状況なども考慮して十分な調査が行なえるようにしなければならない。これまでは真相究明を徹底的に行うために必要な調査権限をいかに確保するかが問題であった。しかし、真相究明とはそもそも何を究明するものなのか。真相究明の後には何をなすべきか。韓国社会の同意を得なければ真相究明も無駄になってしまうので、まだまだ議論が必要である。

文ソンユン「四・三特別法の主要内容と性格」

報告者は、弁護士で、言論改革市民連帯弁護人、済州特別自治道選挙管理委員会委員、四・三研究所理事である。

報告は、四・三特別法の制定、これまでの過程、主要内容、性格を検討した。四・三事件は長い間タブーとされてきたが、一九八七年の六月抗争以後に議論が始まった。十年に及ぶ島民の努力によって、二〇〇〇年一月、「済州四・三真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が制定され、四・三委員会が設置された。委員会は、真相究明の結果を、二〇〇三年一〇月に「済州四・三事件真相調査報告書」として公表した。その結果、さらに調査が必要ということが判明し、特別法改正が課題となっている。特別法は、事件を一九四七年三月一日を起点とし、一九四八年四月三日に発生した騒擾事態、および一九五四年九月二一日までに発生した武力衝突と鎮圧過程で住民が犠牲になった事件と定義している。しかし、この定義は調査開始のための定義であり、当時は事件の真相が明らかではなかったため、定義自体に限界があり、不適切な部分も明らかになっている。例えば、犠牲者について、事件によって死亡した者、行方不明となった者、後遺障害が残っている者で、委員会が犠牲者として決定したものを言うとされているが、受刑者が含まれていない。一九四九年七月頃までに軍事裁判を受けて受刑者となった者約三八〇〇人も犠牲者に含めるべきである。遺族の範囲も狭すぎる。集団虐殺地の調査、遺骨の発掘なども進めなければならない。

李載勝「過去清算の法哲学」

報告者は、全南大学法科大学教授、人権法と法哲学専攻である。著書に『法思想史』(共著、放送大学出版部)、『人権法』(共著、アカネット)などがある。

「正義の遅延は正義の否定である」といわれる。過去清算においては遅れた正義が鍵となる。報告は、過去清算は重層的課題との取組みであるから、単に回顧的に行うのではなく、移行期の正義として位置づけて正義の是正を実現する必要があるとする。そして、その理論的基礎を、刑事、民事賠償、裁判清算、悪法清算、真実究明と文化構築の分野ごとに検討する。国家権力による拷問、暴力、虐殺、疑問死、失踪などの国家犯罪の追及に関しては韓国司法は後ろ向きの姿勢をとっているし、現在の力量からは立法も困難である。光州補償法と民主化運動法は賠償を規定しているが、その他の事件では賠償ではなく、生計支援や医療支援などあいまいな形で処理されている。個別賠償では国家の消滅時効の主張を退ける判決が出ているが、さまざまな国家暴力の諸類型のうちどこまで救済できるかはなお不明である。事件の類型別の整理、時期別の整理を踏まえた包括的立法が必要である。刑事再審は一部進んでいるが、再審以外の名誉回復も必要だ。人権侵害を支えたさまざまな悪法を廃止しなければならない。韓国は国際人権規約や国際刑事裁判所規程を批准したし、国内に国家人権委員会を設置しているが、国家権力の監視は十分とはいえない。国家保安法、保安観察法、非常事態法制など悪法の見直しが求められる。「過去清算運動は、過去に表現された現実を改革し、その中で未来を共に夢見る運動である。人権を抑圧する慣行と制度が、全て過去のことになればよいが、残念ながら相変わらず健在している。過去の人権侵害を可能にした制度、慣行、意識をそのままにし、人権侵害が再発しないように祈りだけを捧げるとしたら、それはまことに遺憾である。韓国は現在、全方位的に過去清算作業を推進しなければならない状況にある。それが民主主義の強化と深化につながらなければならない。しかし、残念ながら、制度圏の中でこのような流れを推し進める政治勢力は見えない」という。報告は「いくら時間遅れの正義であっても、正義として貫徹させなければならない。亡者に地上の正義が必要なのか? 正義は、生き残った者たち、これから生きていく者たちのために必要であるのだ」と締めくくられる。

四 韓国の過去清算と日本

 第二日(一〇月一四日)午後のセッション2「韓国の過去清算と日本」では、三本の報告が行われた。

 金仁徳「強制動員真相究明委員会の活動と課題」

 報告者は、成均館大学東アジア学術院研究教授(韓国近現代史、在日朝鮮人史)、韓日民族問題学会理事である。著書に『強制連行史研究』(京仁文化社、二〇〇三年)、『私たちは朝鮮人ではない』(ソヘ文集、二〇〇四年)、『在日朝鮮人士と植民地文化』(京仁文化社、二〇〇五年)などがある。

 報告は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会関連法に基づく調査活動を概括した。「強制動員」とは、同法によると、満州事変以後、太平洋戦争に至る時期に日帝によって強制動員された事実を指すという。一般に強制連行という語が用いられるが、ほぼ同じ意味である。報告では、同法制定経過、委員会の設立、委員会の活動、組織編制、調査の成果、被害者受付の状況(申請は二二万三一件、うち労務動員が一五万三五九九名、軍人動員が三万六八二四名、軍属動員が二万六二四一名、軍慰安婦が三五九名など)、その地域別の統計、真相調査、資料収集、韓日遺骨会談、資料館などについて明らかにされた。今後の課題として、積極的な関連資料の収集、委員会組織の改善、他の過去史委員会との有機的な関係の構築が指摘された。

 金昌禄「韓国における韓日過去清算訴訟」

 報告者は、慶北大学校法科大学副教授(法制史、法哲学)、法と社会理論学会編集委員長、韓国法史学会編集委員長である。主要論文に、「制令に関する研究」法史学研究第二六号(二〇〇二年)、「日韓間の過去清算における国家の論理と個人の権利」法史学研究第三〇号(二〇〇四年)などがある。

 一九九〇年代以前にも過去清算訴訟は見られたが、「請求権協定」関連法律の手続き面に関するものであった。一九九〇年代には、韓国の民主化、冷戦の終結により、被害者たちが日本に対して被害救済を訴え始めた。続いて韓国司法への問題提起が始まった。立法不作為違憲確認憲法訴願は、「請求権協定」により対日請求権が一括妥結させられたにもかかわらず、それに応じた立法がなされなかったことを取り上げたが、憲法裁判所は、これは不真正立法不作為に過ぎないなどの理由で却下した。補償金支給終結違憲確認憲法訴願についても、憲法裁判所は、請求権協定関連法律廃止後の所定の期間に提訴されていないとして却下した。仲裁要請不履行違憲確認憲法訴願について、韓国政府に仲裁すべき作為義務があると見ることはできないなどとして却下した。

しかし、二〇〇〇年代にはいると、各種の過去清算法の成立などの状況変化が見られた。国連人権委員会のクマラスワミ報告書をはじめとする成果も踏まえるようになった。釜山三菱重工強制徴用訴訟では、三菱重工連絡事務所のある釜山地方法院に提訴して審理中である。遺骨引渡し訴訟は、韓国政府を相手にソウル地方法院に提訴し、一審で敗訴したが、日本から引き渡されたのが遺骨ではなく位牌であった事実が明らかになったので控訴せず確定した。韓日会談文書公開訴訟では、外交通商部による文書非公開決定を争い、ソウル行政法院で原告一部勝訴となった。その後、韓国政府が韓日会談関連文書の全面公開を決めたので、双方とも控訴を取り下げた。④ソウル新日鉄訴訟では、ソウル地方法院に提訴して審理中である。⑤Posco訴訟では、請求権協定によって導入された資金によって設立されたPoscoを相手にソウル中央地方法院に提訴して審理中である。⑥日本軍「慰安婦」憲法訴願は、韓日会談文書全面公開によって日本政府の責任が明らかになったにもかかわらず、必要な措置をとっていない韓国政府を相手に、憲法裁判所に提訴して審理中である。このように訴訟が増えてきた背景には、韓国社会の変化、日本での訴訟による情報の増加、市民・弁護士の連帯があると指摘された。最大の問題は「時間との戦い」であり、立法による解決が求められているとまとめられた。

 ⑩松本克美「日本における戦後補償訴訟の現状と課題」

 報告者は、立命館大学法科大学院教授(民事責任論、時効論)、ジェンダー法学会理事、民主主義科学者協会法律部会理事、日本法社会学会理事である。『時効と正義』(日本評論社、二〇〇二年)をはじめとして、戦後補償に関連して夥しい論考がある。

 報告は、日本の裁判所における戦後補償訴訟の類型を二つに分けている。

①<戦争犯罪責任型>――戦争犯罪などによる被害に対して被害者・遺族らかが提訴した訴訟

②<戦後処理責任型>――戦時中はもとより、戦後においても被害が生じているため戦後処理のあり方を問う訴訟

前者は、「慰安婦」訴訟、平頂山虐殺事件訴訟、南京虐殺訴訟、捕虜虐待訴訟、強制連行・強制労働訴訟などである。後者は、浮島丸事件訴訟、劉連仁訴訟、毒ガス弾遺棄訴訟などである。これまで一〇五件の判決が出たが、原告勝訴判決はわずか八件、率にして八%である。つまり敗訴判決の山が築かれてきた。その法的問題は、①国家無答責の法理、②時の壁(時効・除斥)、③条約で解決済み論、である。日本司法は、過去に向き合って、事実に即した法の適用や法の解釈を行うのではなく、過去のことだから仕方がないと思考停止する傾向がある。しかし、報告者は、八件とはいえ、日本政府や企業の責任を認めた判決を手がかりに、三つの壁を乗り越えることは可能であり、市民の法による解決ができるはずだと強調する。

五 済州島四・三事件フィールドワーク

 第三日(一〇月一五日)は、済州島四・三事件現場跡のフィールドワークであった。

 フィールドワークを主催した「済州四・三研究所」は、その目的を次のように述べている。

 「今から半世紀前に済州島全域をことごとく血で染め四・三抗争の現場を自ら体験し、四・三抗争の歴史的意味とともに済州の伝統文化と自然、そして天恵の観光地を効果的にめぐる機会とする。済州踏査を通じて、済州島の固有な歴史と文化を理解し、美しい風光とその背後に隠されている辺境・済州の実体を理解する」。

 案内は、呉承国(済州四・三研究所事務所長)である。

*以下は、当日の通訳を務めた村上尚子さん(津田塾大学大学院、救済州四・三研究所特別研究員)から提供を受けた資料による。

四・三平和公園

半世紀のあいだ無視されてきた犠牲者の霊を慰霊し、四・三の歴史的意味を反芻し、犠牲者の名誉回復および平和と人権のための教育の場として済州道済州市奉蓋(ポンゲ)洞に造成中の平和公園である。面積約四〇万平方キロ、総事業費約六〇〇億ウォン、事業内容は慰霊塔、慰霊祭壇、追悼広場、四・三資料館などである。

 一九九九年六月、大統領が済州訪問時に慰霊公園造成事業費の支援を約束したことに始まり、二〇〇〇年一一月に公園造成基本計画研究がまとめられた。二〇〇二年三月、公園造成基本計画一段階事業が確定し、二〇〇三年四月に起工した。すでに慰霊塔、慰霊祭壇、追悼広場は完成していて、公開されていた。慰霊祭壇には犠牲者の位牌が壁一面に並べられている。資料館は建設中であり、二〇〇七年に完成する。

アブオルム

朝天里松堂里のアブオルムは、巨大な噴火口である。済州島は、四・三事件を素材にした金石範の小説の表題が『火山島』であるように、火山の多い島で、噴火口が三六〇ほどあるという。アブオルムは、映画李在守の乱の撮影地である。

小さな山の斜面を登りきると噴火口に出る。多数の家族連れやグループが観光に来ていた。漢怒山がよく見えるので、みな記念撮影をしていた。

モクシムル窟

済州市朝天邑善里にある洞窟で、善屹里の焦土化以後、住民たちが身を隠していて犠牲になったところである。

一九四八年一一月二一日、一帯が討伐隊によって焼かれた後、善屹里民は洞窟を隠れ場所とした。しかし、洞窟が発覚し、多くの犠牲を払った。一一月二五日、モクシムル窟から約一キロ東側にあったトトル窟が発覚し、多くの住民が現場で銃殺された。

二六日朝、咸徳駐屯第九連隊の討伐隊は、案内人を先頭にして善屹窟に向かった。住民たちは、前日のトトル窟での事件をその日の朝になって知った。死体を収集する準備をし、数人が食事の準備をしていたときに、討伐隊が押し寄せてきた。一部は近隣の藪の中に駆け込んだ。

モクシムル窟はトトル窟より小さい洞窟だが、住民二〇〇人以上が隠れていた。討伐隊は洞窟の中に手榴弾を投げ入れ、住民に出て来るよう唆した。出て行けば殺されるので住民たちは耐えたが、子どもたちだけでも生かさなければならないという意見が出て、外へ出始めた。実際には子どもや老人も殺された。犠牲者は四〇人余りだった。油を注がれ燃やされたため、後に死体の顔を見分けるのが困難だったという。

モクシムル窟は入口が二つあり、長さは約一〇〇メートルほどである。一方の入り口は一人が伏して入っていくほど狭くなり、もう一方は比較的大きい。中には広い空間もあるが、溶岩が流れて固まった岩石が底を形成しておりデコボコして、天井も低い。周辺には四・三当時、武装隊や避難住民が石で囲って生活していた「ト」(アジトの略称)の痕跡も散在している。

北村国民学校

済州市朝天邑北村里にある北村国民学校は、四・三当時、最大の被害を受けた北村里虐殺の象徴である。

一九四九年一月一七日朝、第二連隊三大隊の一部兵力が咸徳へ向かう途中で、北村国民学校の西側の坂道で武装隊の奇襲を受けて二人の軍人が死んだ。村の元老たちは、軍人の死体を担架に乗せて咸徳大隊本部へ運搬した。しかし、咸徳駐屯第三大隊の軍人たちは、ほとんどを銃殺してしまった。そして、二個小隊ほどの兵力が北村里を襲った。軍人は朝から、住民たちが隠れられるところを探しながら家に火をつけ、住民全員に学校に集結するよう命令した。北村里は瞬く間に火の海と化した。

校庭を取り囲んだ軍人たちは装填した機関銃を三方向に設置し、住民の逃走を防いだ。住民に校庭を走らせて、突然拳銃で射殺した。学校の垣根に設置された機関銃が火を噴き、住民七、八人が倒れた。校庭は瞬時に修羅場と化した。人々は散らばった死体を片隅に移した。縁故のない女性の死体は、軍人によって西側の垣根の外に投げ捨てられた。指揮官は、住民の何人かを呼び出し、軍・警察の家族と民保団の家族を区分しろと言った。住民は直感的に軍警家族の隊列に入れば生き延びられるだろうと考え、何とかしてその隊列に合流しようとした。何とか隊列に入り込んだ人もいたが、大部分は軍人の制止で合流できなかった。

月汀駐屯第一一中隊を視察し帰ってきた第三大隊長は、前を走っていた車両が奇襲されたという連絡を受けて部隊を出動させ、住民たちが集結した北村国民学校に来た。下級指揮官から報告を聞いた大隊長と指揮下の将校たちは、大隊長が乗ってきた車のなかで即席会議をもった。それから、軍人らは住民を学校の東側のタンパッと西側のノブンスンイ一帯へ連れて行き銃殺し始めた。結局、四〇〇名が殺された。

死者の数があまりにも多いので、死体は生き残った女性たちによって周辺に仮埋葬されたが、事態が鎮静された後に正式に埋葬された。家族が皆殺しにされたり縁故のない死体は、雪に覆われたまま長い間放置されていたが、後にオルムに埋められた。

当時の北村国民学校は一階建ての瓦屋根だったが、村が焼却された後、国民学校の建物は解体され、咸徳里の韓青団長の倉庫を建て、韓青の事務室として使われるようになった。現在の学校の敷地は、当時とあまり変わらないが、建物の形態は現代式に様変わりした。

⑤ノブンスンイの子どもの墓

北村の住民たちが畑仕事をして戻ってくると休んだ広場があったことから「ノブンスンイ」と呼ばれるが、ここには子どもたちの墓が二〇ほどある。

一九四九年一月一七日、咸徳駐屯第二連隊第三大隊の軍人によって北村国民学校のグランドに集められた住民は約五〇~一〇〇人ずつ引っ張られていった。まず、学校の東側のタンパッで銃声が響いた。そして、西側のノブンスンイ一帯へ住民たちを引っ張ってきた軍人たちは、テッチルやケスワッなどで住民を集団銃殺した。虐殺から生き残った女性たちが死体を収集するのにも長い時間を要した。子どもや無縁故者らは臨時埋葬した当時の状態のまま今までも残っている。そこが今のノブンスンイ小公園である。

ここは四・三以前から、子どもが病気にかかって死ぬと埋めたところだという。長い間、松や荊の茨が生い茂って墓が見えなかったが、二〇〇一年、北済州郡小公園造成事業の敷地として整理され、露出した。ここにある全ての墓が四・三犠牲者の墓ではないが、当時の状態のまま保存されている。

六 おわりに

 以上、本年一〇月の済州島での研究会とフィールドワークの概略を紹介した。

 四・三事件を見ると、誰もが第二次大戦末期の沖縄戦における日本軍による住民虐殺を思い起こすだろう。

第一に、沖縄戦は、上陸してきた連合軍との戦争のさなかの出来事である。四・三事件は、日本軍の敗戦後、連合軍によって占領された韓国における内戦にも匹敵する混乱と対立のさなかの事件である。戦時ないし準戦時に、軍隊は国民を守らない。それどころか、自国民を殺害する。軍の安全を守るために、あるいは、反共イデオロギーの実践として。

第二に、沖縄も済州島も差別されてきた。沖縄は琉球処分以来、沖縄戦に至るまで差別の対象であったし、戦時においては差別が激しく増幅していた。済州島も、韓国の歴史の中で差別されてきた地域だという。

第三に、事件が隠蔽される。軍隊による自国民虐殺事件であるから、徹底的に隠蔽される。沖縄戦における住民の「集団死(集団自決)」はいまだに隠蔽と歪曲の対象となっている。四・三事件の調査が始まるまでに半世紀の年月が流れた。その意味で沖縄戦も四・三も終わっていない。

こうした悲劇を単に悲劇としてだけではなく、歴史の教訓として伝えていくことが不可欠である。

なお、研究会・フィールドワークに参加した水島朝穂(早稲田大学教授)のウエッブサイトに報告と多数の写真が掲載されている。

http://www.asaho.com/jpn/index.html

(統一評論2006年11月号、および2007年1月号掲載)

Monday, December 22, 2008

すいす・しんどろ~む(14)シオン(2)

魔女の塔と要塞教会――シオン

スイス南西部のヴァレー州はアルプスと氷河とワインのメッカだ。

アルプスはヴァレーだけではもちろんないが、その主峰はヴァレーに集まる。高い順にデュフール(4634m)、ドム(4545m)、ヴァイスホルン(4506m)、マッターホルン(4478m)、ダンブランシュ(4357m)と、スイスの5大峰はすべてヴァレーにある。有名なユングフラウ(4158m)やアイガー(3970m)は、高さについては見劣りする。ちなみに、モンブラン(4807m)は、ジュネーヴからバス・ツアーで行くことが多いが、スイス領ではなく、フランス領である。氷河もヴァレーが本場だ。3大氷河のアレッチ、ゴルナー、フィーシュが揃っている。

そのヴァレーの州都がシオンである。

州都といっても小さな町で、市街地をぐるぐる歩き回っても半日である。人口2万6千人。

スイス第一の都会チューリヒ(36万)、第二のバーゼル(20万)、第三のジュネーヴ(18万)と比べてもずっと小さいし、ローザンヌ(12万)やルツェルン(6万)にも遠く及ばない。ホテルも十数軒しかない。バス停には市街地図が描かれているが、郊外を含めても、そう広くはない。

駅に着くと、まずはお目当ての魔女の塔へスタスタ歩く。

5分も歩けばついてしまう。何の変哲もない小さな塔だが、中央部が妙に膨らんだ不思議なつくりで、魔女の帽子でも思い出させたのか、この名前だ。塔の中には入れないし、特別の案内板もない。誰もいない。石のレリーフに図が描かれているが、どうやらかつてシオン旧市街を囲んだ城壁の一部だったようだ。ほかはなくなってしまったが、この塔だけが残ったのだ。裏手に回ると、柵の中にアヒルがガアガア鳴いていた。

他に何もないので仕方なく、ノートルダム教会へ回り、市役所脇の細い路地を登って、ヴァレールの丘へ向かった。

シオンがユニークなのは、町の中央部に2つの丘があって、一方には要塞教会が聳え、他方には廃虚となった城跡が鎮座していることだ。町の南側にはアルプスが壁のごとくそそり立っているのと比べると、いかにも小さな丘だが、町全体を睥睨するように2つ並んでいる。ラクダのコブのようでもある。

ヴァレールの丘には6世紀から司教座があり、一次は軍事力も保有していたために要塞教会とも呼ばれる。建物自体は11世紀のロマネスク時代のものだという。教会のホールに入ると正面上段に見えるが、演奏可能な世界最古のパイプオルガンが保存されている。教会脇のテラスから隣の丘のトゥルビヨン城跡がよく見える。

一人でカメラをパチパチやっていたら、地元らしきおじさんが写してくれた。

教会もトゥルビヨン城跡もまさに中世の歴史を彷彿とさせる古教会と古城跡である。トゥルビヨン城跡にも登ってみた。土と小石の斜面を汗吹きながら登り、振り返ると、爽快とはこういう風景を言うのだろう。城跡の入り口の黒い縁の中に、中世画のように街並みが広がる。あくまでも青い、どこまでも青い空の下に、とっておきの風景だ。

城跡の裏手は小さな台地になっていて、芝生状に緑が広がっている。家族連れがお弁当を食べている。

ここから見下ろすと郊外には新しい高層住宅や工場らしき建物が形成されている。古都シオンは周辺部で発展しているようだ。

シオンの歴史は古い。

隣のマルティニから南へゆくとグラン・サン・ベルナール峠があるが、ここは紀元後47年に開かれたもので、ローマ軍もここを通ったという。

考古学博物館には、シオン周辺から発見されたケルト時代やローマ時代の発掘物が展示されている。市役所の扉にはスイス最初のキリスト教についての叙述がある。紀元377年という。シオンに司教座が置かれたのは585年で、マルティニ(オクトドゥールス)から移された。高地ブルグント王国の中心はジュラ山脈のスイス側にあり、ヴォーのローザンヌ、ヴァリスのシオン(ジッテン)、ジュラのバーゼルに司教座が置かれた。アルプスの2大峠のグラン・サン・ベルナールとシンプロンは、シオンの管轄であった。

10世紀以後、ヨーロッパは政治的、経済的に比較的安定し、14世紀の疫病流行までは平和と繁栄の時代であった。農業技術も発展し、手工業と商業も定着した。地中海貿易による富が都市を育てた。ジュネーヴ、ローザンヌ、シオン、ザンクト・ガレン、クール、バーゼル、コンスタンツといった司教所在地が都市に発展した。この時期、都市は領主から自立して、直接皇帝の支配下になって、帝国都市への道を歩んだ。1218年、ツェーリンゲン家が断絶してから、チューリヒ、ベルン、ゾロトゥルンが帝国都市となり、後にバーゼル、シャフハウゼン、フリブール、クール、ジュネーヴも続いた。これらの都市は流血裁判権や貨幣鋳造権を獲得した。

近世の盟約者団の形成や相次ぐ戦乱のなか、シオンを核とするヴァリスも、その権益と存亡をかけて歴史の荒波に乗り出した。1414年のヴァリスのラーロン戦争は、ベルンと四森林邦の対立をもたらした。それはヴァリスの自由農民と、ヴァリスのラント首長である貴族ラーロンとの闘いであった。

14~15世紀、全ヨーロッパでコミューン的な民衆運動が展開した。もっとも大きな成果を収めたのがスイスである。なかでもアペンツェル、ヴァリス、ラエティアがそうであった。ラント住民全体が政治的に同権とされ、全ラント住民の集会である「ランツ・ゲマインデ」が最上級機関とされた。

シオンは、アレマン、ブルグント、ランゴバルト3部族の定住地の境にあり、グラン・サン・ベルナールとシンプロンを擁していた。1388年のヴィスプの戦いで、ドイツ系住民たちはサヴォア公の侵攻を撃退した。

15世紀前半、ヴァリスは連邦制的に再組織され、かつて司教の行政区域であったゴムス、ブリーク、ヴィスプ、ラーロン、ロイク、シエール、シオンの7つのツェーンデンから民主的な領域共同体が生まれた。それぞれのツェーンデンには総会と参事会があり、市政は農民・市民・貴族が共同で担当した。そこから近代のスイスへは、あと数歩である。

ヴァレールの丘から市役所に戻り、377年のキリスト教を素早く確認して、自家用車がようやく通れるような露地を抜けると、ホテルが2軒並んでいた。

手前のホテルを覗くと宿泊客はほんの僅かで、直ちにチェックイン。シャワーを浴びてから、レストランに降りると、地元客が喋り、かつ食べまくっている。

テーブルについて、まずはファンダン・ド・シオンFendant de Sionを1杯。

シオンはワインのメッカでもある。駅前にはワインの館もある。

スイス・ワインといえば、まずはヴァレーなのだ。次いでレマン湖畔のヴォー(とくにヴヴェ)、そしてジュネーヴ、ヌシャテル、ムルテンだ。最大の産地であるヴァレーの州都シオンがワインの町であるのは当然だ。

たいていの観光案内にものっているが、スイス・ワインは、ほとんど国内で消費するために輸出はごく僅かである。できあがったものを早めに呑むので、年代にはさほど拘らない。「肉には赤、魚には白」といった「約束事」もない。

また、レストランではオープンワインで注文できる。1デシリットルごとに頼めるので、わざわざボトルを開ける必要がない。たかがワインに悪戯に格式張ったりしない。そこがいい。

ヴァレーでは、赤のドールDoleとピノ・ノワールPinot Noirが有名だが、白ならファンダン・ド・シオンだ。どれも有名銘柄で、ジュネーヴでもチューリヒでも呑めるが、やはりファンダンをシオンで呑んでみたかった。

陽射しは落ちたが、まだ青空が広がるシオンの風に吹かれて、ファンダン――3杯を超えたあたりから、これならボトルを開けてもよかったか……。

Tuesday, December 16, 2008

カブール川、水清く――

がたごと、がたごと砂利道を、車は右へ左へ揺れながら進む。時速二〇キロかそこらで地べたを這うように。場所によっては昔の舗装がかろうじて残っていて快適だ。彼方に白い頂のヒンドークシ山脈も見える。絶景に次ぐ絶景のドライブだが、カブール川と並走するあたりは、道は狭いし、砂利ばかりだ。道路とカブール川の間にはガードレールもない。対向車がトラックだったりすると、こちらは路肩ぎりぎりまで寄せなければならず、眼下の奔流がグググッと迫ってくる。

初めてアフガニスタンを訪れたのは二〇〇二年八月の終わりだった。これまで四回訪問したが、最初はこれ以上ない猛烈な緊張感でピリピリしながらトルカムの国境を越えた。

パキスタンのイスラマバードからペシャワールを経て遥かなカイバル峠へ向かう。峠を越えて下ると国境のトルカム検問所だ。年代モノの車でトルカムから沙漠を突き抜ける。ジャララバードは穀倉地帯で、緑が広がり、灌漑用水も流れている。ジャララバードからカブールまでは沙漠を横切り、丘陵地帯を駆け抜け、断崖絶壁のマイパー峠を這い登る。登り切れば標高一八〇〇メートルのカブール高原に爽やかな風が吹いている。

途中、道路の脇をカブール川が流れている。パンシール渓谷に端を発するパンシール川はカブール市内を抜けるとカブール川となって東へ向かう。マイパー峠を滝のように一気に流れ落ちる。激流が炸裂する。飛沫が煌めく虹をかける。うねりながらジャララバードを通過してパキスタンに分け入り、大河インダスに合流する。

沙漠の中にはオアシスもある。蛇行する川を挟んで緑豊かな林があり、集落がある。遊牧民のテントが並ぶ。子どもたちが遊んでいる。ここだけはカブール川もゆったりと流れている。オンボロ車に揺られながら、呟くように歌う。

カブール川、水清く

滔々と流る――

「9.11」を口実にブッシュ政権は「テロとの戦い」と称してアフガニスタン侵略戦争を開始した。猛烈な空爆で民衆を殺戮し、放射能爆弾をいたる所にばら撒き、タリバン政権を崩壊させた。カルザイ傀儡政権をでっちあげ、「復興支援」という名の植民地政策を進め、NATO軍を巻き込んでアフガニスタンを破壊し続けている。

 二〇〇五年頃からは状況がいっそう厳しくなった。米軍、NATO軍、アフガン軍が一体となってタリバン制圧作戦を続けている。誤爆という名の皆殺しのメロディが流れ、民衆は惨禍に喘いでいる。ジャーナリストもNGOも退避しはじめた。今や、日本が米軍に協力していることも知られてしまった。これでは日本人はアフガニスタンで活動できない。そんな矢先に日本人NGOスタッフが殺されてしまった。日本政府が日本人への信頼を破壊してしまったからだ。

 国際政治の世界では近代アフガニスタン史を「グレート・ゲーム」と特徴付けている。一九世紀中葉、インド洋への通路を求めて南下するロシアと、現在のパキスタンも含むインドを植民地としていたイギリスの利害が対立した。イギリスはアフガニスタンを手中に収めるべく、三度にわたってイギリス・アフガニスタン戦争を惹き起こした。二〇世紀にアフガニスタンは独立国家となって、二〇年代や六〇年代には西欧風の文化が花開いたこともあった。しかし、七〇年代以後、ソ連軍の侵攻、ムジャヒディンの内戦、タリバンの支配、そしてブッシュ政権による侵略と、アフガニスタンはいつも戦場だ。ロシア、イギリス、アメリカ、あるいはパキスタン、イランなどによるグレート・ゲームの被害者はいつもアフガニスタンだ。ゲームのフィールドとされてきたのだ。

 極東の日本もグレート・ゲームの餌食になりかけたが、運良く免れて独立を維持した。沿海州・オホーツク海から太平洋をうかがうロシアと、太平洋覇権国家の英米。その狭間に立たされながら、明治維新による文明開化・富国強兵によって日本はグレート・ゲームの競技者になった。中国をはさんで対極に位置する中央アジアのアフガニスタンと極東の日本は、まったく異なる道を歩んだ。

 極東におけるグレート・ゲームのフィールドとされたのは、日本ではなく、朝鮮半島だった。ロシア、中国、日本、アメリカ――朝鮮半島の国際政治は、ゲームのルールを決める者たちによって展開された。日清戦争、日露戦争、韓国併合、「満州事変」と続く日本の戦争。朝鮮分断、朝鮮戦争、「冷戦」と続くアメリカの戦争。自らの歴史を刻み、発展させたいと希う朝鮮人の意思に反して、周辺諸国の勝手なルールによって朝鮮半島の現代史は翻弄されてきた。

今もなお朝鮮人は歴史を取り戻す闘いを余儀なくさせられている。「六者協議」と名づけられたゲームが以前と異なるのは、朝鮮人が競技の担い手としてフィールドに立ち、ルール形成に参与していることだ。朝鮮も韓国も、数々の苦難を乗り越えて、時には互いにぶつかり合いながら、ともに自らの足でフィールドに立っている。だから、日本の戦争の歴史清算が前提条件となる。休戦状態のままの朝鮮戦争を終結しなければならない。その上で朝鮮半島の非核化こそが課題である。

フィールドに立った朝鮮と、まだ立てずにいるアフガニスタン。その対比に思いをめぐらせているうちに、車はマイパー峠の大渓谷を登り切った。カブール高原にかかる虹がくっきりと鮮やかだ。抜けるように青い空を仰ぎ、悲しいまでに爽やかな風に吹かれながら、そっと声を出して歌ってみよう。

カブール河、空遠く

虹よ、かかっておくれ――

(「イオ」2008年10月号)

Tuesday, November 11, 2008

古都クンドゥズ











ヒンズークシ山脈を越えてアフガニスタン北部のクンドウズへ行ったときの写真。アフガンの古都だが寂れた町で、「歴史から置き忘れられた都」の印象。馬車やオート三輪車が主要な交通手段。四輪の自動車のほうが少なかった。市場もさびしかった。

韓流と嫌韓流のはざまで






11月7日、東京しごとセンターで、平和力フォーラム主催の「表現の自由を考える 韓流と嫌韓流のはざまで」が開催されました。「 NHK番組改編問題、立川ビラ配り事件、映画「靖国」問題など、言論の自由にかかわる問題が次々と起きています。私たちは、一つ一つの事件が起きるたびに言論の自由が危ういのではないか、との思いを抱いてきました。メディアにかかわる人々の姿勢を見ていると、言論の責任がおざなりにされているのではないかとの不安もあります。他方、金光翔による<佐藤優現象>批判論文が注目を集めましたが、論壇では不可解な沈黙が続いています。こうした言論状況を考える連続企画を準備しました。第1回は嫌韓流現象を批判的に検討します。(案内チラシより)」 報告は板垣竜太さん(同志社大学准教授)と米津篤八さん(翻訳家)の2人。嫌韓流ブームの背景、嫌韓流の基本構造を明らかにしつつ、実は「韓流の中にすでに嫌韓流がひそかに存在していたこと」「朝日・岩波に代表される日本リベラリズムの中に嫌韓流が深く根づいてしまっていること」を解明しました。会場発言からも「嫌韓流はブームではない。日本が嫌韓流でなかったことがあったのか」との指摘があり、近代日本の植民地主義と嫌韓流の密接な関係に改めて切り込む必要性が痛感されました。







Wednesday, November 05, 2008

すいす・しんどろ~む(10)ジョンクション






















左から流れてくるのは、レマン湖から流れ出たローヌ川で、水は青い。右からは、モンブランから流れてくるアルブ川で、水は白い。青い川と白い川がジョンクションで合流する。青と白の間に見事な線ができあがるが、やがて徐々に混じっていく。不思議は光景だ。

Tuesday, November 04, 2008

すいす・しんどろ~む(9)ヴヴェ





























レマン湖に面したヴヴェの町はスイスでも有数のワイン産地だ。ジュネーヴからローザンヌに向かう列車の窓から見下ろすぶどう畑は壮観で、絵葉書にもなっている。夏祭りはワインづくりの歴史を描いた仮装行列だ。手作りの時代から現代までのぶどうづくりとワイン作りの様子を楽しめる。大人も子どもの、動物たちも総出の仮装行列が楽しい。

Sunday, November 02, 2008

地下壕・強制連行(8)岩鼻地下壕











日本軍の火薬工廠は戦時下に疎開し、群馬県の岩鼻火薬地下工場となった。山の中腹に地下壕が掘られた。

Saturday, November 01, 2008

すいす・しんどろ~む(8)アヴァンシュ


































ローマの円形闘技場――アヴァンシュ













駅に降り立ったときは一瞬、降車駅を間違えたのかと思ってしまった。







駅の周辺には、何もないのだ。







小さなレストランが一つと、民家が並んでいるだけだ。線路の向こう側にはひまわりの花と麦畑が広がっている。







これがローマ時代の古都アヴァンシュだろうか。スイス中世史に繰り返しその名を刻んできた町だろうか。思わず駅の表示を見直してアヴァンシュ駅に間違いないことを確認した。それほど予想していたイメージとは違った景色だった。







駅の周辺をぐるりと歩いて見渡すと、少し先の道路中央に小さな標識が見えた。標識には「ローマの闘技場」と印されている。間違いない。ここがアヴァンシュだ。田舎町の坂道をゆっくり登っていくと、前方にかわいらしいお城が見えてきた。







現在のアヴァンシュの町並みは、ローマ時代のそれから見ると、郊外の丘の上に位置する。17世紀から18世紀のルネッサンス様式の町並みだ。台地状の丘の上にメインストリートが走り、両サイドに家々が連なる小さな町である。一角にお城が建っているが、その隣にローマ時代の円形闘技場が口を開けている。







こんなところに、なぜローマの遺跡なのか。







スイス中部の平野、ヌシャテル湖に隣接したムルテン湖南部のさびれた町である。ムルテン湖に面した港でもないし、格別の地理的要因があるとも思えない。







ローザンヌからリス行きのローカル鉄道で1時間半ほどの距離。南はパイエルヌ、北はムルテンの町である。ムルテンならば、ベルンのツェーリンゲン家が造った中世の城砦都市や、ムルテン湖の遊覧などのめぼしい観光資源もある。







ローマ時代には2万人が住んでいたというアヴァンシュは麦畑の下に埋もれ、今の町並みは数千人の住民しかいない。町というより村といったほうが近いかもしれない。リス行きの鉄道は1時間に1本しかなく、ローザンヌ方面行きも同じ。町の中心部ににホテルが1軒あるだけだ。







野球場と同じスタイルの円形闘技場の上部をぐるりと回り、座席に座ってみてはローマ時代に思いを馳せるが、光景は容易に立ち上がってこない。闘技場の下に降りて土の上を歩く。野球でもサッカーでも、コンサートでも演劇でもできそうな闘技場だ。













スイスがローマ帝国に編入されたのは紀元前15年のティベリウスとドゥルーススによるアルプス地方征服からである。ガリアへの大遠征の一環として行われたヘルウェーティア作戦の延長で、指令したのはアウグストゥスである。ヘルウェーティアといってもどこのことかわからないかもしれないが、これがスイス地方の名称であった。







それまでこの地域には、ケルト民族の部族ヘルウェーティが住んでいた。ゲルマン民族の移動によって圧迫を受けたローマは、ガリア地方に目をつけ、ビブラクテの戦いで支配の手がかりを得て、現在のスイス中央部の台地をローマ帝国の一部とした。







それ以後、約250年にわたって、リーメス・ゲルマーニクスと呼ばれた全長548キロメートルの防壁(ライン川からドナウ川まで)に守られ、この地域キーウィータス・ヘルウェーティオールムはローマ皇帝の平和を享受した。ここに生まれた都市の代表格がローマ市民の植民都市アウェンティクム(アヴァンシュ)であった。周辺の農村地帯にはケルト人が居住していたが、ローマ人の入植によって、ローマ的な生活様式が持ち込まれた。







当時の都市は、アヴァンシュのほかに、ゲナーヴァ(ジュネーヴ)、ロウサンナ(ローザンヌ)、ウィーウィスクム(ヴヴェ)、オクトドゥールス(マルティニ)、サロドゥールム(ゾロトゥルン)、アクアエ・ヘルウェティカ(バーデン)、トゥリクム(チューリヒ)、クーリア(クール)などがある。







神聖ローマ帝国の時代になってアヴァンシュの栄光はかげりを見せる。534年にフランク族がこの地域を征服し、フランク王国を形成するとその一部とされ、中心はアヴァンシュから新しい司教所在地ローザンヌに移った。マルティニの司教もシオンに移った。修道院はサン・クロード、ロマン・モティエ、ムーティエ・グランヴァルで発展した。







中世から近世にかけての封建領主と都市の繁栄と抗争を通じてスイスの盟約者団が形成され、今日のスイスの原型が造られていく。そのスイス史の表舞台にもアヴァンシュの名は登場する。







13世紀にベルンを中心にブルグント盟約者団が形成されるが、それはベルン、フリブール、ムルテン、アヴァンシュの4都市同盟であった。ベルンのツェーリンゲン家が造営した4つの都市の構造が良く似ていることは、今でも一目瞭然としている。ブルグント盟約者団は、さらにゾロトゥルン、ビール、ラウペン、パイエルヌを加え、ハプスブルク家とサヴォア家の対立の間を巧みに動いて、ベルン領を拡大していくことになる。アヴァンシュは4都市同盟の一員として最後の輝きを見せた。







しかし、15世紀に確立したスイス盟約者団と13邦の中にアヴァンシュの名を見つけることはできない。スイス近代史の担い手は、ベルン、チューリヒ、ルツェルン、ツーク、グラールス、フリブール、ゾロトゥルン、バーゼル、シャフハウゼン、アペンツェルである。







アヴァンシュは歴史の彼方に置き忘れられた存在となる。













ローマのアヴァンシュは爽やかな夏の陽射しに輝く麦畑の下に眠っている。発掘作業はまだ残されており、この地域の建築工事は禁止されている。







発掘調査が済んだのは、円形闘技場、野外劇場、教会、聖霊場である。これらは当時のアヴァンシュの郊外に位置していた。現在のアヴァンシュの東南部にあたる。







円形闘技場の塔は博物館として利用され、掘り出された遺物のほとんどを陳列している。ミネルヴァの頭部、シレーヌの頭部や、数々のブロンズ立像や、柱やレリーフの一部、貨幣、壷、皿をはじめとする生活用品が収蔵されている。とびっきりの目玉は、ローマ皇帝16代のマルクス・アウレリウスの純金像だ。博物館に陳列されているのはレプリカだが、なるほど見事な像だ。これが排水溝に落ちていたというのだから、これからは排水溝を見て歩こうかと思ったりする。







ローマのアヴァンシュは、いまアヴァンシュのローマとして甦る。毎年夏に、復元された円形闘技場でオペラ祭が催されるのだ。2001年7月には、ヴェルディの『リゴレット』が上演された。2002年夏には、ロッシーニの『ウィリアム・テル』とプッチーニの『トスカ』が上演されるという。ヨーロッパ各地から、住民より遥かに多い8000人の観客がやってきて、夏のローマの円形闘技場で伝説と歴史のはざ間を行きつ戻りつするのだ。







半日かけてアヴァンシュを歩いて疲れたので、カフェでハイネケンをぐいっと傾けて、たった1つのホテルに行ってみたら、満室だった。







しまった。







とぼとぼと駅まで歩いて隣町へ向かう羽目になった。教訓――ビールは宿を決めてから呑むことにしよう。













(参考文献)







Hans Bogli, Aventicum: La ville romaine et le musee. Association Pro Aventico, Avenches,1996.







Anne Hochuli-Gysel (ed.), Avenches: Hauptstadt der Hervetier, Mitteilungsblatt der Schweizerishen,Gesellschaft fur Ur- und Fruhgeschichte-SGUF,2001.