月刊誌『マスコミ市民』が本年3月号をもって休刊することになった。686号で終了の見込みだ。
もとはNHK労組の機関誌的な雑誌だったらしいが、その後、独立した月刊誌となっていた。1967年2月創刊、第3種郵便物認可が1967年5月だ。
私は1994年6月に安孫子誠人編集長と出会い、1995年から編集に協力するようになった。編集委員の時期もあれば寄稿者の時期もあったが、30年ほど、直接間接にかかわってきた。
現在の石橋さとし編集長になった時期に、「拡散する精神/委縮する表現」というコラムを書くようになったが、そのコラムは現在178回目だ。あと2回なので180回で終わる。ちょうど15年だ。
2019年に600号を迎えた時に書いたコラムを下記に貼り付ける。
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拡散する精神/委縮する表現(94)
一九九〇年代の安孫子誠人編集長(一)
チマ・チョゴリ事件調査
本誌が六〇〇号を迎えたのを機に、一九九〇年代の安孫子誠人編集長(故人)の思い出を若干披露しておこう。一九九〇年代、本誌は深刻な経営難に陥り、編集室を失って漂流していた。特に九〇年代中後期のことは、関係者にもほとんど知られていないので、その一断面を知る筆者の記憶から若干紹介しておきたい。
安孫子編集長と初めて会ったのは一九九四年六月二八日、埼京線の十条駅改札口前であった。集まったのは、床井茂(弁護士)、近藤日佐子(声楽家)、西野瑠美子(ルポライター)、水野彰子(弁護士)など。名刺交換をして、東京朝鮮高級学校まで歩いた。
一九九四年四月、朝日新聞報道に端を発して「北朝鮮核開発疑惑」が重大問題として大騒ぎ状態となった。この件は夏の米朝交渉によって一段落したが、日本国内では朝鮮学校に対する脅迫、嫌がらせが集中し、駅や路上で朝鮮学校生徒に対する暴行と暴言が多発した。チマ・チョゴリを着用した女子生徒に対する暴行事件が頻発したため、当時「チマ・チョゴリ事件」と呼ばれた。
「事件は殴る、服を切る、髪を切るといった犯罪行為である。被害は、朝鮮の民族衣装であるチマ・チョゴリ(朝鮮学校の制服)を着た女子学生に集中した。電車の中で後ろからチマ・チョゴリをナイフやハサミで切り裂かれる。髪をハサミで切られる。同一犯人と思われるものに繰り返し襲われる。また、民族差別的な侮辱が加えられる。『朝鮮人は帰れ』といった無責任な暴言も多発している。民族差別的な暴言も含めて、報告された事件は一五五件を数える。また、朝鮮学校に対する電話による嫌がらせや脅迫も頻発している。」(『朝鮮人学生に対する人権侵害調査報告書』同委員会、一九九四年七月)
現在いうところのヘイト・クライム、ヘイト・スピーチ事件である。筆者は一九八九年に法律家や市民のグループ「在日朝鮮人・人権セミナー」(実行委員長・床井茂、事務局長・筆者)を結成していたので、被害調査を行った。東京朝鮮高級学校の校長に許可をいただいて、被害生徒からの聞き取りである。大阪の弁護士たちも大阪朝鮮学校で被害聞き取りを行っていた。
ブックレット出版
東京では六月二八日、右のメンバーが東京朝鮮学校教室で数人の生徒たちから聞き取りを行った。『マスコミ市民』編集部が関心を持っているという連絡があり、十条駅で待ち合せたのである。
七月に報告書をまとめて記者会見を行ったが、その過程で二つのアイデアが出された。一つは国連人権機関に訴えることであり、筆者がジュネーヴに飛び、同年八月一一日、朝鮮人差別と暴力事件を国連人権委員会・差別防止少数者保護小委員会で訴えた。
もう一つがブックレット出版であった。調査結果はコピー印刷して配布したが、「せっかくの調査だからきちんとした出版物にしよう」という安孫子編集長の提案で印刷・製本することになり、朝鮮人学生に対する人権侵害調査委員会編『切られたチマ・チョゴリ』(在日朝鮮人・人権セミナー/マスコミ市民、一九九四年九月)というブックレット(六四頁)にした。床井茂、西野瑠美子、近藤日佐子、崔一洙(在日本朝鮮人人権協会会長)、筆者のほかに、福島瑞穂(弁護士)、落合恵子(作家・月刊『子ども論』発行人)、早乙女勝元(作家)が寄稿している。当時、筆者はこの三人と面識がなく、原稿依頼も印刷・製本の手はずも安孫子編集長の手によるものだっただろう。
安孫子編集長は「あとがき――事件とマスコミと」で「北朝鮮非難」政治キャンペーンと朝鮮学校・生徒への暴行・暴言事件を列挙して「これらそれぞれの事柄がリンクした問題であるにもかかわらず、別々の現象としてしかマスコミは取り上げない。原因と結果を結びつけようとしなければ、まさにマッチ・ポンプではないか、と言わざるをえない」と指摘している。
筆者にとっては、ここから『マスコミ市民』との付き合いが始まり、国連人権機関へのロビー活動が始まった。あれから四半世紀、国連人権機関に通い続けているのも、安孫子編集長との出会いの結果である。
『マスコミ市民』601号(2019年)
拡散する精神/委縮する表現(95)
一九九〇年代の安孫子誠人編集長(二)
漂流する編集部
一九九〇年代後半、本誌編集部は深刻な経営難に陥り、編集室を失った。居所・連絡先が二転三転し、ついに安孫子誠人編集長(故人)の自宅を編集室とすることになった。京王線府中駅から徒歩一〇分ほどのマンションの一室である。
安孫子宅での編集会議は二年ほど続いただろうか。多い時で四人、少ない時は安孫子編集長と私の二人だけで編集会議を重ねた。
二人だけの編集会議で月刊誌の企画を案出するのは無理である。すぐにネタは切れるし、友人知人の伝手を頼って執筆者探しをするのも大変だった。それ以前からの連載執筆者や、長年に渡る協力者がいたから発行を維持できたが、編集の管理、原稿の督促もきちんとできないため、毎号毎号締め切りを過ぎても原稿が集まらない。発行予定日を過ぎてしまうことも度々で、ついには不定期発行の事態に陥る危機が続いた。
インターネットが今のように普及していないから、原稿の多くはFAX送信だった。郵便で届く原稿もあった。オペレータに打ち直してもらう経費を節減し、安孫子編集長自らワープロに向かっていた。
特集企画を練る余裕もなく、その都度の思い付きで、とにかく集まった原稿を並べて構成する始末だ。発行日を過ぎても頁数が足りないので、安孫子編集長や私が慌てて追加原稿を書いた。朝方電話がかかってきて「今日中にもう一つ原稿を書いてほしい」と頼まれる。
私は本名のほかに複数のペンネームを使うことになった。「明神駆」というペンネームは自宅所在地、「宇津貫拓」は勤務先所在地の町名から取った。無署名記事も書いたが、「蛍」というサインをした記憶もある。ひどい時には同じ号に四~五本の記事を書いた。
こんな状態だから雑誌の質が著しく低下したのは当然である。古くからの読者から厳しい批判を受けた。そうした読者が次には支えてくれたので、何とか立ち直れたように思う。
府中駅前の寿司屋で、安孫子編集長が「雑誌を潰すわけにはいかない。なんとしてでも継続発行したい」と繰り返し呟いていたのを昨日のことのように覚えている。
文化の夕べ
いよいよ限界となったので、寿司屋での討議の結果、諸団体に協力要請することにした。私も安孫子編集長と一緒に他団体に協力要請に出かけたことがある。最初に協力してくれたのがJR東日本労組関係だった。
創価学会にお願いをして、マスコミ問題の集会を共催し、その記録を雑誌に掲載したこともある。たしか創価学会副会長の文章も掲載した。この時ばかりは古くからの読者から厳しい叱責があった。単発の依頼原稿を掲載するのならともかく、これでは他団体の宣伝機関誌に成り下がるのではないかとの疑念が指摘された。特定団体に強い協力をお願いすると「御用雑誌化しかねない」との判断で方針変更に立ち至ったと記憶する。
一時期、安孫子宅から徒歩五分ほどの喫茶店に事務所を置いたこともあった。一階が喫茶店で、二階が展覧会や会議用のスペースになっていたので、片隅に机を置かせてもらったのだ。
楽しい思い出も紹介しておこう。一九九〇年代終わりから二〇〇〇年代にかけて数年間、「文化の夕べ」と称して、志賀高原の小規模ホテルを借り切って講演と音楽のプログラムを持ったことがある。前回紹介した在日朝鮮人に対する差別・暴力事件の被害調査に引き続いて協力してくれた歌手の近藤日佐子さんや金剛山歌舞団のメンバーによる音楽(歌と演奏)がメインだ。安孫子編集長の知り合いが保有しているホテルで、シーズンオフなので格安料金で借り、素敵なワインを嗜んだ。
東京から志賀高原まで、安孫子編集長運転の軽自動車で往復したが、窮屈なうえに、ダンプカーに幅寄せされる恐怖を味わいながらの旅であった。
星野安三郎先生(東京学芸大学名誉教授、故人)との出会いもマスコミ市民編集会議であった。安孫子宅の会議に星野先生が加わったことが二回あった。平和的生存権を初めて提唱した伝説的な憲法学者にお目にかかることができたのは幸運であった。
安孫子編集長の無私の努力のおかげで雑誌が潰れることなく今日に至った。日本政治とメディアの状況は悪化する一方にも見えるが、マスコミ市民が役割を果たすべき時期ともいえる。灯をともし続けることの意義を反芻しながら、次の一歩を踏み出したい。