Friday, October 23, 2026

自分を対象化する社会学

自分を対象化する社会学

上野千鶴子『スピリチュアル嫌いの宗教遍歴』

 

 ついに宗教の領野にたどり着いたかと思ったら、逆で、宗教遍歴を披歴して、脱宗教の境地に至った経過を開陳する一冊だ。

 エッセイ集であり、宗教論であり、脱宗教論でもあり、社会学であり、フェミニズムであり、たぶん「脱フェミニズム」でさえある。

 『セクシーギャルの大研究』や『女遊び』に、なんじゃらほいと呟き、『家父長制と資本主義』に頭をガンと殴られて以来、上野フェミニズム&社会学に学び続けてきた。主要著作はほとんどすべて読んだ。『生き延びるための思想』には文字通り圧倒された。「おひとりさま」シリーズはおおいに楽しめた。

 日本軍性奴隷制については見解が全く異なり、対立したが、それ以外のテーマではつねに、読まなければならない研究者であった。法学専攻の私にとって、社会科学方法論の参考になる研究は必読だ。

 その上野千鶴子の「宗教遍歴」と言うので興味深く読むことになった。

「真宗王国・北陸でクリスチャンの元に生まれ、父に反抗して棄教した十代。大学闘争、俳句、フェミニズムと介護研究。そして親しい人との出会いと別れ。スピリチュアルケアと看取りにスピ嫌いの著者が語る内省的な思索と回想。」

なるほど、その通りの著書だ。あちこちでユニークなエピソードが語られるが、社会学とは何かの入門編にもなっている。フェミニズムの思想運動に出会い、開拓し、花咲かせた研究と運動の歴史的意義もわかりやすく記述されている。

団塊世代の著者が80歳を目前にして今さら宗教でもないだろうと思いつつも、どこかで宗教に逃げ込むのではないかなどと「期待」して読んだが、当然のことながらその「期待」は裏切られる。当たり前だ。真底・心底の社会学者にとって宗教もまた分析対象だ。本物の社会学者は、自分自身を対象化し、分析し、「解体」する。他者による「解体」など無用だ。

分析手法は例によってあざといまでに鮮やかだ。ついつい納得させられて、いや、こんなはずじゃ、と読み返す羽目になる。アブナイ社会学者だ。

とはいえ、1990年代に上野の「慰安婦」論に疑問を感じた時とまったく同じ感想を綴ることになる。鮮やかな分析はしばしば過度の単純化によるものだ、ということだ。1990年代の上野は、この批判を受け入れようとしなかった。だが、現在の上野は、この批判を自分自身に向ける。

理論に単純化はつきものだ。単純化しなければ複雑な現象を分析できない。適切な単純化、その積み重ねによって現実を把握することができる。その理論的営みをいかに的確になしうるか。理論に最後まで付きまとう挑戦に大きな意義がある。

理論の単純化は言葉の単純化でもある。必要最小限の言葉で現実をいかに表現するか。語彙が豊かでなければ単純化もできない。上野の一行詩・俳句への傾倒はその前哨戦だったのだろうか。

本書で上野は80年に迫ろうという自分史を宗教の断面に沿って描き出した。

総合的な上野社会学&フェミニズムの全検証は誰がやるのだろうか。「上野ヨイショ本」ならいくつか見たことがあるが、理論的検証は容易ではない。壁が高すぎる。魅惑的だが、極めて困難な課題に立ち向かう若き俊秀はどこにいるのだろうか。