Wednesday, October 15, 2014

クマラスワミ報告書について(2)

日本軍性奴隷制に関するクマラスワミ報告書(E/CN.4/1996/53/Add.1)が吉田清治証言を引用していることをとらえて、日本政府が、クマラスワミ報告書は誤りであるとし、「強制連行はなかった。慰安婦は性奴隷でなかった」と強弁している。メディアでも同様の主張をする例が多い。しかし、クマラスワミ報告書を読まずに勝手な主張をしている疑いがある。インドネシアの事例で強制連行が確認されているし、そもそも「誘拐罪」の有罪判決も出ているので強制連行に間違いない。
以下では、性奴隷制とは何かという点に絞って解説しておく。ラディカ・クマラスワミ『女性に対する暴力』(明石書店、2000年)参照(以下の引用ページ数は本書より)。
なお、岡野八代「日本軍『慰安所』はなぜ、軍事的『性奴隷制』であるのか」『世界』862号(2014年11月号)も参照。
(1)性奴隷の定義について
クマラスワミ報告書は、慰安婦の「B徴集」と「C『慰安所』における状態」の両面を検討して、性奴隷との認識を示している。軍事的性奴隷制の定義は次のように示されている。
 「特別報告者は、戦時、軍によって、または軍のために、性的サービスを与えることを強制された女性の事件を軍事的性奴隷制の慣行ととらえている」(219頁)
 「特別報告者は『慰安婦』の慣行は、関連国際人権機関・制度によって採用されているところによれば、性奴隷制および奴隷類似慣行の明白な事例ととらえられるべきであるとの意見を持っている」(220頁)
 クマラスワミ報告者は1926年の奴隷条約を前提にして議論している。国連人権委員会で議論しているのだから、当然、国際法を基にして議論しているのである。日本政府はいまだに奴隷条約を批准できない恥ずべき国家だが、奴隷取引の禁止が1930~40年代の慣習国際法の地位にあったことを認めている。ところが、日本政府は<「奴隷の禁止」は慣習国際法の地位にはなかった。奴隷条約を批准していないのだから、日本政府は国際法違反をしていない>と強弁してきた。2014年の現在でも、このような破廉恥な見解を採用しているのだろうか。
(2)吉田証言について
クマラスワミ報告書の吉田証言引用は次の通りである。
「・・・さらに、戦時中に行われた人狩りの実行者でもあった吉田清治は、著書の中で、その他の朝鮮人とともに1000人もの女性たちを『慰安婦』任務のために獲得したと告白している。」(227頁)
この100文字程度の記述が大問題になっているが、報告書全体を無視して、ここだけ取り上げても意味がない。
第1に、報告書は、徴収方法について「東南アジアの極めて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない」としている(225頁)。
第2に、報告書は、岡村寧次の回想、1937年南京事件の記録、民間業者の活動、国家総動員法、ユン・ジョンオク論文など多数の文献に依拠して検討している(225~228頁)。
第3に、報告書は、チョン・オクスン、ファン・ソギョン、ファン・クムジュ、ファン・ソギュンなどの証言に基づいて現場の状況を明らかにしている(234~240頁)。
第4に、報告書は、吉田証言を批判する秦郁彦博士の見解を10行に渡って引用している(231頁)。吉田証言の紹介は100字に対して、秦郁彦見解の紹介は400字に及ぶ。
第5に、報告書は、吉見義明教授らの研究成果を反映している(231~232頁)。
クマラスワミ報告書は以上の検討の結果として書かれているのである。このことを無視して、「吉田証言を引用しているからけしからん」というのは極めて短絡的な主張にすぎない。
なお、吉田証言を削除すべきとの主張についての私見は、回を改めて、述べることにする。



ヘイト・スピーチの憲法論(5)

5 経済的権利――憲法第二九条
 ヘイト・スピーチの憲法論としては、憲法第一三条、第一四条、第二五条以外にも、多くの憲法条項が規定する自由と人権が侵害されていると考えるべきである。被害者が朝鮮学校の場合には教育権が否定されている。京都朝鮮学校襲撃事件民事訴訟控訴審の大阪高裁判決は、ヘイト・スピーチによって「民族教育を行う利益」が侵害されたと認定した。人種差別とヘイト・スピーチによっていかなる権利が侵害されるかは、人種差別撤廃条約第五条に列挙されている。ここでは、そのことを指摘するにとどめ、経済的権利についてだけ言及しておく。
 日本国憲法第二九条一項は「財産権は、これを侵してはならない」と規定する。
 日本におけるヘイト・スピーチの議論で経済的権利に言及されることはまずない。しかし、人種差別撤廃委員会での議論を聞けば、人種差別が経済的権利に与える影響、とりわけヘイト・スピーチの結果、被害者の経済的権利が失われることがたびたび指摘されている。日本でもヘイト・スピーチと経済的権利について検討する必要がある。
 新大久保(東京)におけるヘイト・デモでは、店舗が並ぶ路地に入り込んで、「韓国人の店で物を買うな」と叫ぶ行為が行われた。個別の被害者にとっては威力業務妨害罪の被害である。しかし、単に個別の行為を取り上げるだけでは不十分である。ヘイト・デモが繰り返し押しかけ、騒然とした状況を作り出し営業妨害を繰り返したことによって、二〇一二年秋から一三年夏にかけて、新大久保のコリアンタウンは客が激減したことが知られる。各店舗の売り上げは低下し、仕事も減り、労働者の人員も減ったと言われる。地価にも影響を与えたのではないだろうか。具体的な被害として見えにくい面があるが、ヘイト・スピーチを放置しておくと、膨大な財産損害が生じていると考えるのが自然である。
 人種差別撤廃委員会での議論では、こうした事態が生じること全体を深刻な差別と見ている。
 私人によるヘイト・デモであり、日本政府がヘイト・スピーチを行ったわけではないから、日本政府に直接の責任はないように見えるかもしれない。しかし、デモに許可を与えたのは公安委員会である。デモが新大久保のコリアンタウンに押し掛けて、ヘイト・スピーチをまき散らし、被害を生じさせることを知りながら、公安委員会はあえて許可をしてきた。しかも、「韓国人の店で物を買うな」と騒ぎ立てる営業妨害行為の警官がすぐ近くを歩いていたのに、制止も逮捕もしていない。被害者から見れば、ヘイト・デモと公安委員会・警察が「共犯」である。人種差別をなくす責任を有する政府(地方政府も含む)がヘイト・スピーチに加担して、被害者の財産を侵害している。
 突発的に生じた私人による単独のヘイト・スピーチならば、実行者である私人の責任である。しかし、組織されたデモによるヘイト・スピーチが継続している場合は、許可を与えた公安委員会の責任である。国家には、憲法第二九条に基づいて、失われた財産についての損害賠償義務があるのではないだろうか。


クマラスワミ報告書について

日本軍性奴隷制(慰安婦問題)に関するラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告書」(1996年4月の国連人権委員会において全会一致で採択)について議論が続いている。
このところヘイト・スピーチ問題で多忙なため、この件についてあまり発言できなかったが、NGOの一員として国連人権委員会でのロビー活動に加わり、クマラスワミ報告書が会場を揺るがす盛大な拍手で採択された現場に立ち会い、その後、報告書を翻訳出版した責任者として、いくつかの事実を紹介しておきたい。
*ラディカ・クマラスワミ『女性に対する暴力』(明石書店、2000年)(ただし、日本軍性奴隷制に関する部分は、日本の戦争責任資料センター訳と日弁連訳が出ていたので、了解を得て、それを基に若干補正したものを収録した)

昨日、岸田外相が衆議院で、クマラスワミ報告書に対する日本政府反論書の公開を検討すると述べたと言う。朝日新聞11月16日付4面の記事によると、岸田外相は「各国に説明する際、『詳細すぎる』との指摘を受け、簡潔な文書を改めて作成し、国連に提出した」と経緯を説明したと言う。
また、日本政府反論書については、一部の新聞・雑誌ですでに報道され、「スクープ」などと称しているらしい。しかし、上記朝日新聞記事も明示しているように、1996年当時にすでにNGO関係者はこれを入手していたし、「同年、NGO関係者から入手した野党議員が国会で質問した」ものである。1996年当時にすでに明らかになっていたものを、当時のことを知らずに、18年後に「スクープ」と騒いでいるだけである。この日本政府反論書を私は持っている。今それを手元に置きながらこれを書いている。
*Views of the Government of Japan on the addendum 1.(E/CN.4/1996/53/Add.1)to the report presented by the Special Rapporteur on violence against women.

日本政府はこの反論書を国連人権委員会に正式に提出し受理された。作成したのはY.M公使だと聞いた。それを各国政府に極秘のうちに配布して、賛同を求めた。ところが、各国政府から批判が噴出したのだ。「詳細すぎる」などと言う批判ではない。第1に、国際法解釈が間違っている。第2に、特別報告者を侮辱している。この2点で批判を受けて、日本政府はあわてて、反論書を取り下げた。それまで人権委員会に顔を出していたY.M公使はしばらく雲隠れした。取材陣がY.M公使を追いかけたが、国連にも宿舎のホテルにもいない状態だった。このため人権委員会に出て来るのはT.K公使になっていた。
その途中、私たちNGOは、日本政府反論書があると聞いて、日本政府に交付を求めたが、「そのようなものは存在しない」という虚偽の回答だった。しかし、各国政府が日本政府批判をしていて、実はこんな反論書を日本政府が出していると教わった。まもなく、そのコピーが出回り、私たちも入手した。1996年の国連人権委員会には日本から10人ほどのNGOが参加したので、みな持っているはずだ。
無責任な日本政府反論書に驚いたNGOは、それまでの国連人権委員会における国際法解釈の議論状況を明らかにするために「資料集」を作成した。1993年から1996年までの国連人権機関における性奴隷制度をめぐる国際法解釈の発展状況が分かるようにした。これを100部印刷して、各国政府に配布した。それも今私の手元にある。
*Selected Papers on the Legal Issues Concerning Military Sexual Slavery, edited by Etsuro Totsuka, IFOR.
以上の経過について詳しくは、戸塚悦朗『日本が知らない戦争責任』(現代人文社、1999年[普及版2008年])。

かくして、まともな国際法解釈論議が行われ、日本政府の誤った国際法解釈は退けられた。と言う前に、日本政府自ら撤回した。クマラスワミ報告者の国際法解釈は、後にゲイ・マクドゥーガル・戦時性奴隷制特別報告者によって補強された。それも私たちが翻訳出版した。
*ゲイ・マクドゥーガル『戦時・性暴力をどう裁くか』(凱風社、1999年[増補新装2000年版])

クマラスワミ及びマクドゥーガルによる戦時性暴力や性奴隷制に関する国際法解釈は、その後の国連における議論だけでなく、国際刑法にも受け継がれた。旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷やルワンダ国際刑事法廷において、ついに戦時性奴隷制が人道に対する罪として裁かれた。国際刑事裁判所規程にも「人道に対する罪としての性奴隷制」という犯罪規定が盛り込まれた。この点こそが、クマラスワミ報告書の最大の意義であった。その経過は、前田朗『戦争犯罪と人権』(明石書店、1998年)、前田朗『戦争犯罪論』(青木書店、2000年)、前田朗『ジェノサイド論』(青木書店、2002年)など参照。

上記の日本政府反論書及びNGO文書については、下記の10月26日開催のシンポジウム「性奴隷制とは何か」において公表することにした。

http://fightforjustice.info/?p=3374

Tuesday, October 14, 2014

ヘイト・スピーチの憲法論(4)

4 生存権――憲法第二五条 
 日本国憲法第二五条一項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として、生存権を規定している。
 「すべて国民」としているが、日本国籍保持者のみならず、日本社会構成員全員が有する権利である。ただし、生存権を保障するために国がどこまでの作為義務を有するかは、一律には定まらない。
 通常、生存権は福利厚生や生活保護や年金などの問題として議論される。しかし、それは社会的に生存権を確保できている場合に、いかにプラスにするかと言う枠組みである。社会的に生存権を否定されることがないのが当然だからだ。
 他方、ヘイト・スピーチは他者の存在に対する攻撃であり、アイデンティティに対する攻撃である。「殺せ」「日本から叩き出せ」と言った罵声は、被害者の人間存在そのものを否定している。すなわち社会的に生存権を否定する事態である。このような事態を憲法学は想定してこなかったように思われる。
 京都朝鮮学校襲撃事件民事訴訟第一審の京都地裁判決は「排除」に着目した。
判決は「本件活動による業務妨害及び名誉毀損が人種差別撤廃条約上の人種差別に該当すること」において、被告人らが差別意識を有していたこと、自分たちの考えを表明するために示威活動を行ったことから「本件活動が、全体として在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下に行われた」とした。
 その上で、判決は被告らによる数々の差別的発言を確認し、「以上でみたように、本件活動に伴う業務妨害と名誉毀損は、いずれも、在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下、在日朝鮮人に対する差別的発言を織り交ぜてされたものであり、在日朝鮮人という民族的出身に基づく排除であって、在日朝鮮人の平等の立場での人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するものといえるから、全体として人種差別撤廃条約一条一項所定の人種差別に該当する」と判断し、「民法七〇九条所定の不法行為に該当すると同時に、人種差別に該当する違法性を帯びている」とした。
 ここで注目するべきことは、「排除」と明言し、「人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するもの」と判断したことである。私の知る限り、メディアも研究者もなぜかこのことに言及していない。
 人種差別撤廃条約第一条一項の定義は「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先」としている。「区別、排除、制限又は優先」のうち「区別」や「制限」に当たることはもとよりであるが、判決は「排除」に着目した。単に差別的な表現を行ったというものではなく、「排除」する行為である。
よく誤解されるように、ヘイト・スピーチは単なる汚い表現や悪意の表明だけではない。他者を排除する意思の表明であり、排除する行為である。他者の安全や存在を危殆化する行為であり、放置しておくと「迫害」につながるような行為である。「迫害」が組織的に行われた場合、人道に対する罪となることがあることを想起するべきである。さらに、ヘイト・スピーチの極限形態であるジェノサイド煽動型は、生存権だけではなく、生命権(憲法第一三条)をも侵害する危険性を有する。
 このようにヘイト・スピーチは、差別表明型や名誉毀損型だけではなく、脅迫型や迫害型もあり、他者を排除し、迫害する犯罪である。差別の煽動はまさに排除の意思表明である。社会的排除は、被害者の生存権の侵害であり、生命の具体的危険にもなる。
 私人によるヘイト・スピーチであって、日本政府が被害者の生存権を侵害したわけではない。しかし、日本社会において他者の生存権を侵害する人権侵害が継続的に生じているにもかかわらず、政府がこれを規制することなく、ヘイト・スピーチを放置し続けていることは、やはり政府の責任が問われるべき事態である。まして、ヘイト・デモは公安委員会の許可を得て行われている。政府(地方政府)がヘイト・スピーチの「共犯」として、マイノリティの生存権を侵害しているのではないか。
 憲法前文は「圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」すること、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ」ることに言及している。生存権の規定は憲法の基本精神に従って解釈されるべきである。日本社会構成員は「圧迫と偏狭」や「恐怖と欠乏」からの自由を保障されなければならない。誰もが迫害されることなく社会生活を維持できなければならない。
 ヘイト・スピーチの法律論を試みた法学者の中で、憲法第二五条に着目したのは、私以外では金尚均のみであろう。遠藤比呂通が憲法第九条を引き合いに出したのも、同じ趣旨かもしれない。金や遠藤に倣って、この点をさらに強調しておかなければならない。


ヘイト・スピーチの憲法論(3)

3 法の下の平等――憲法第一四条
 日本国憲法第一四条第一項は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定める。
 この規定は、「国民」が差別されないことを規定しているが、ここにいう「国民」はつねに日本国籍保持者に限定されるものではない。国政選挙権のように、事柄の性質上、日本国籍保持者に限定される場合を除いて、日本国籍保持者以外にも法の下の平等は適用される。
また、国民が「差別されない」ことを明示しているが、政府による非差別の保障がどこまで義務的であるかについての見解は多様でありうる。政府が積極的に差別を行った場合には政府の行為が違憲であると判断されることがありうるが、政府が社会的差別を是正できなかったからと言って直ちに政府の責任が問われるわけではない。しかし、社会的差別による被害が生じていることを知りながら、長期にわたってそれを是正する措置を講じることなく、差別を放置していれば、政府の責任が問われることがある。
なお、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」が明記されているが、これは限定的列挙ではなく、例示的列挙であると理解されている。人種、信条等に類比できる事柄に基づいて不合理な差別を行うことも禁止されており、例えば民族もここに含まれると理解するべきである。
 法の下の平等の意味について、佐藤幸治は「元来平等は国家による不平等な取扱いを排除するという自由権的文脈で捉えられていた」としつつも、次のように述べている。
 「しかし、上述の平等観念の変容とも結びつきながら展開してきた現代積極国家にあって、国家は自ら差別してはならないだけでなく、社会に事実上存在する不平等を除去しなければならないという、積極的ないし社会権的内容を盛り込んで平等権を捉えようとする考え方が強くなってきた。そして、このことと関連して、社会の中の根強い差別意識のため、通常の社会経済的過程から疎外されている者が存すると認められる場合に、国家は、その者の平等を保障するための措置をとる義務を負うとともに、その者を通常の過程に参与させるために必要やむをえないと考えられるときは、一時的にその者に対して一般の人に対すると異なる特別の優遇措置を講ずることが求められるという考え方が登場する。」
 辻村みよ子は、形式的平等と実質的平等に関連して、次のように述べている。
 「しかし、上記のように、平等の観念自体に変化が生じ、実質的平等保障の要請が強まっていることによって、一四条にも実質的平等の保障が含まれると解することも妥当となる。ただし、実質的平等をも保障していると理解する場合にも形式的平等の原則が放棄されたわけではない。理論上はあくまで形式的平等要請が原則であり、法律上の均一的な取扱いが要請されるが、一定の合理的な別異取扱いの許容範囲内で実質的平等が実現されると解するのが筋であろう。」
ここでも、第一三条と同じ構図で考えることができる。誰もが法の下に平等であって、差別されない権利を有している。日本において人種その他の理由による差別を許さないことの中核には、かつて日本の戦争とファシズムによって被害を受けたアジアの人民が含まれるのが当然である。このことを抜きに憲法第一四条を解釈してはならないだろう。憲法第一四条は、アジアの人民が日本で「ヘイト・スピーチを受けない権利」の根拠である。
憲法教科書では、法の下の平等と言うと、貴族制の禁止、外国人差別の禁止(たとえば政治活動や参政権問題)、部落差別問題などを論じるが、かつて日本の戦争とファシズムによって被害を受けたアジアの人民に対する差別にはほとんど言及がない。これは奇妙なことである。大日本帝国憲法には人種や民族による差別を禁止する規定はなかった。日本国憲法には人種や民族による差別を禁止する規定が盛り込まれた。それはなぜなのかを考えれば、アジア人民が差別されない権利、ヘイト・スピーチを受けない権利こそ、日本国憲法の中心論点のはずだ。
アジアの人民が日本でヘイト・スピーチにさらされないように特別の措置を講じることは、それ以外の人々に対する逆差別になるという反論は適切ではない。かつて被害を受けた人々であり、現在も日本社会において圧倒的に少ないマイノリティ存在(外国人人口は日本の人口の1~2%レベル)であり、被害を受けやすく、現に被害が生じているからである。


Monday, October 13, 2014

ヘイト・スピーチの憲法論(2)

2 人格権――憲法第一三条
 ヘイト・スピーチと言うと、多くの憲法学者や弁護士は条件反射のごとく憲法第二一条の表現の自由を口にする。その時点で、終わっていると言うしかない。
 ヘイト・スピーチの憲法論は、憲法第一三条から始めなければならない。
日本国憲法第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とする。個人の尊重、人格権、幸福追求権などの規定である。
第一三条を直ちに権利請求の根拠とすることができるか否かについては議論がある。憲法学上、政府が個人の尊重に反する行為を積極的に行った場合には、当該行為が違憲であると判断されることがありうるが、政府の不作為に対して、個人が政府に作為を求める規定とは理解されていない。
これは国家の役割をめぐる議論につながる。近代国家における自由と人権が、かつては「国家からの自由」と理解されたように、国家は介入しないことが求められた。もっとも、個人の尊重や人格権の場合、単に自由権ではないので、不介入が最初から予定されていたと見るべきかどうかは疑問も残る。現代国家においては、国家が市民の権利を実現するために積極的に介入することを求められる場合がある。
佐藤幸治は、憲法第一三条の権利を「包括的基本的人権」と位置づけて、個人の尊重について次のように述べている。
「では、『個人として尊重される』とは、いかなる意味か。それは、上述のように、一人ひとりの人間が人格的自律の存在として最大限尊重されなければならないということである。この『個人の尊重』は、『個人の尊厳』、さらには『人格の尊厳』の原理と呼ぶこともできる。次の一四条は『人格の平等』の原理を規定しており、一三条と一四条と相まって、日本国憲法が『人格』原理を基礎とすることを明らかにするものである。『人格の尊厳』は当然に『人格の平等』を意味する理であるが、『人格の尊厳』は、他の人格との関係をひとまずカッコに入れて、『人格』それ自体のあり方ないし内的構造を示すものである。」(佐藤幸治『日本国憲法論』成文堂、二〇一一年、一七三~一七四頁)
ドイツ憲法にいう人間の尊厳と日本国憲法の人格権が同じことを意味するかどうかは異論もあり得るだろうが、ここではそう大きな問題ではない。個人の尊重、人格の尊厳、人格権といったアイデンティティの根幹を憲法が尊重しようとしていると理解すれば足りる。
辻村みよ子は、憲法第一三条の権利を「包括的権利と基本原則」に位置づけて、次のように述べている。
「一三条前段の『すべて国民は、個人として尊重される。』という規定は、いわゆる個人主義の原理を掲げたものと解される。個人主義の原理とは、『人間社会における価値の根源が個人にあるとし、何にもまさって個人を尊重しようとする原理』である。一方では、『他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義』を否定し、他方では『「全体」のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義』を否定することで、『すべての人間を自主的な人格として平等に尊重』している。」(辻村みよ子『憲法・第四版』日本評論社、二〇一二年、一五三~一五四頁)
第一三条は「すべて国民は」と定めているが、日本国籍保持者に限定される趣旨ではなく、日本社会構成員が含まれると解釈するべきであるし、そのように解釈されている。
また、「個人の尊重であるから人種・民族差別問題とは関係ない」と解釈するべきではない。個人の尊重の原理は個人主義の立場であるから、人種や民族が憲法第一三条の主体になることはない。しかし、人種・民族等の属性に対する攻撃は、他者のアイデンティティに対する侵害であり、諸個人の尊重を妨げる明白な行為である。憲法第一三条は「他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義」を否定するものであって、ヘイト・スピーチの否定も当然ここに含まれる。
ヘイト・スピーチが憲法第一三条の人格権を侵害するものであることは、すでに金尚均が指摘している。憲法学は憲法第一三条に言及することがほとんどなかったが、刑法学は積極的に言及してきた。ヘイト・スピーチを規制する場合の保護法益論として、ドイツの民衆煽動罪において「人間の尊厳」が焦点となってきたことを参考に、楠本孝、櫻庭総、金尚均等はヘイト・スピーチが人格権や人間の尊厳を侵害することを繰り返し指摘している。

人格権の保障を日本国憲法の基本精神に立って再検討すれば、第二次大戦とファシズムによる被害を受けた人々の人格権の再建こそが第一の課題でなければならない。日本の戦争と軍国主義による被害を受けたアジア各国人民の人格権の保障は日本国憲法の前提である。かつて被害を受けた人々を再びヘイト・スピーチに曝すことは許されない。人格権、人間の尊厳を守るために、ヘイト・スピーチを規制しなければならない。

Saturday, October 11, 2014

ヘイト・スピーチの憲法論(1)

1 憲法の基本精神――解釈基準
 ヘイト・スピーチの憲法論を展開するためには、まず何よりも日本国憲法とは何か、なぜ大日本帝国憲法が「改正」されて、日本国憲法とならなければならなかったのか、を明らかにする必要がある。換言すれば、日本国憲法の基本精神を踏まえて、条文解釈のための基準を抽出する必要がある。
 言うまでもなく、日本国憲法は第二次大戦とファシズムへの反省の上に成立したものである。大日本帝国憲法の下、日本軍国主義のアジア侵略と戦争が内外に多大の被害を生み出した。
一九四三年のカイロ宣言は日本国の侵略の制止を掲げ、「日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ」、「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムル」とし、日本の無条件降伏を追及することにしている。
 一九四五年のポツダム宣言は「無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者」を批判し、「無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」とし、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化」を掲げ、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立」を求めた。それゆえ、大日本帝国憲法の「改正」として、日本国憲法の制定が要請されることになった。
 憲法前文第一段落は「日本国民は・・・諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」するとしている。第一に、「諸国民との協和による成果」に言及している。第二に、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」するとしている。ここに憲法の基本精神である平和主義と国際協調主義の前触れが明らかになっている。
 憲法前文第二段落は「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」としている。第一に、平和主義(恒久の平和を念願)、第二に、国際協調主義(平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼)を前提にして、第三に、国際社会における「名誉ある地位」を願う姿勢である。第四に、「圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することを国際社会の課題としている。第五に、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ」ることを求めている。
 ヘイト・スピーチが憲法前文の「圧迫と偏狭」「恐怖と欠乏」に関連しないという解釈を採用することはできないだろう。
 憲法前文第三段落は「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」としている。ここでも国際協調主義が再確認されている。
 以上のことから、日本国憲法は第二次大戦とファシズムへの反省に立って制定されたものであり、その基本精神に従って解釈されなければならないことが明らかである。ヘイト・スピーチの憲法論にとっても、これが最大の要諦である。
 遠藤比呂通は「アウシュヴィッツが二度とあってはならないということは、教育に対する最優先の要請です」というアドルノの言葉を引用して、この視点から「表現の自由とヘイト・スピーチ」について再検討する。それは「日本国憲法下の表現の自由を考えるとき何よりも重要なのは、民主主義と憲法九条の思想的連関を明らかにすることであろう」と述べる。

実に重要な指摘である。憲法前文及び第九条が宣明している平和主義の観点をしっかりと踏まえて、ヘイト・スピーチについて検討するべきである。