イザベラ・ハンマード(岡真理訳)『見知らぬ人を認識する』(みすず書房、2025年)
心が折れるという表現がある。呑気に、のんびり生きてきた私たちが安易に使う言葉でもある。
本当に心が折れることを、私たちは想像できるだろうか。
否、このような反問は不適切かもしれない。
心が折れる、押しつぶされる、縮みあがる。現実の前に、言葉の無力さに打ちひしがれながら、それでも言葉を紡がなくてはならない。生きるために、そして生きるために闘うために。
人間らしく生きる。人間として生きる。そのことさえ全否定された、灼けるように凍り付いたこの世界で、言葉を唯一の武器として暴力に抗する精神はいかにして形成されるか。
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2023年9月28日に、コロンビア大学エドワード・サイード記念講演において、イザベラ・ハンマードは、「人生において転換点がどこに存在するのか」と問い、ただちに「転換点なるものもまた同様に人間の構築物であり、あとから遡って見出されるものです」と折り返す。
あまりにも当たり前で、平凡な転換点の思考は、しかし、例えば1939年や、1947/48年や、1967年や、2007年という時代に引き寄せていくと、現代史の大きなテーマとして立ち現われ、小説など文学の未踏の課題として浮き彫りになる。ハンマードは「サイードのおかげで、とりわけ文学をはじめとするヨーロッパの表象の伝統と帝国権力の働きとの関係」に論究する。サイードに学び、再演し、さらに一歩を踏み出そうとするハンマードの精神は、思いがけないほど穏やかに、しかし想像を超える鋭さをもって、鮮やかな言葉の数々を運び出す。
対位法、アナグノリシス(認識の場面)、ナクバ、入植者植民地主義、「ユダヤ人の救済」、エピファニー、「人間の物語」、認識/承認、「異邦人」。
2023年10月7日の直前に語られたハンマードのテクストは、そのはるか以前に及ぶのと同じように、その後の現在にまで及んでいる。
2024年1月に書かれた「ガザについて」という短文が追加されて1冊の著書に編まれることで、あらためてパレスチナの苦難の全史に読者は向き合うことになる。
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訳者による「解説 ホロサイドに抗して」は、サイードからハンマードへ手渡された精神のリレーをすべて引き受け、さらにその先へとリレーする意志の産物である。
訳者は、読者に向かって、「あなたはこのリレーに加わるつもりがあるのか。あなたはあなた自身の闘いを、どこでどのようにして完遂するのか」と問いかける。
ガザでジェノサイドが行われている。人道に対する罪が行われている。ホミサイド、リンギサイド、ドミサイド、ホロサイドがこれでもかと言わんばかりに続いてきたし、いっそう激化して世界を震撼させている。
訳者はホロコーストとジェノサイドを掛け合わせて、ホロサイドと言う。
2002年に出版した私の『ジェノサイド論』(青木書店)において、リンギサイドやプラネティサイドと言った言葉を紹介したことがある。その後も多様な言葉が提案されてきた。私自身の関心はアフガニスタンやイラクだった。ジェンダー・アパルトヘイトやジェンダー迫害という概念が国際人権法では用いられている。
2025年、イタリアでフェミサイド刑法が制定され、日本でもニュースになった。だが、イタリア刑法は必ずしも新しくない。ラテンアメリカ刑法では普通の規定だ。前田朗「フェミサイド研究のために――ラテンアメリカのフェミサイド刑法の紹介」『女性・戦争・人権』23号(2024年)に詳しく紹介した。
先週調べていた所、フェミサイド研究の中で、「フェミジェノサイド」の提唱もなされているので、『マスコミ市民』2月号に紹介する原稿を書いた。
ジェノサイドの周辺に新しい言葉を作ることに意味があるというわけではない。ジェノサイドと対立する概念を明快に打ち出すことに意味がある。
訳者は例えば「人間として認められる権利」を提起する。1948年の世界人権宣言第6条に明記された言葉だ。同じころナクバが起きていた。国連総会は、ナクバを知りながら、何もせず、何もできず、他方で「人間として認められる権利」を創案した。
この言葉は日本国憲法には書かれていないため、日本ではまったく使われない。そのことに私は驚愕し、震撼した。前田朗「人として認められる権利――世界人権宣言第六条を読み直す」『明日を拓く』129・130号(2021年、東日本部落解放研究所)
だが、日本では全く反応がなかった。訳者がガザの事態を前にこの言葉に着目したのは見事である。
どん底のどん底から立ち上がり、這い上がるために、暴力に抗して言葉で闘うために、ハンマードと岡真理が見据えているのは、何よりも私たちを、だ。果たして私は人間なのか。