5年前、東京造形大学を定年退職した時、古典を読もうと思っていた。しかし、多忙に紛れて実現できなかった。授業は少なくなったが、論文、エッセイ、レポートなどひたすら書くことに力を注いできたので、自転車操業という感じだった。
読もうと思ったのはまず『経済学批判要綱』だ。院生時代、5年間ほど経済学研究科の宮崎犀一先生の『資本論』ゼミに参加していて、最後の時期に『経済学批判要綱』も読み始めたが、すぐに挫折した記憶があるためだ。
博士後期課程の時、もう一つ、商学研究科の山中隆次先生の古典講読で『経済学哲学草稿』を読んだことも、大いに有益だった。
法学研究者の私にとって、『資本論』『経哲草稿』『ドイツ・イデオロギー』をそれとして読むのではなく、あくまでも社会科学方法論という関心から読んだのだが、法学方法論としても意味があったと、今になって思う。もっとも、法学研究者たちからは邪道と思われていただろうが。
12月に古稀になったので、朝鮮大学校非常勤講師も今年度で定年だ。4月からは授業担当がなくなる。
2026年も忙しくなりそうだが、古稀なので、のんびり古典を読みたいところだ。古典に専念できるわけではないが、少しずつでも読んでいくことにしよう。今読まないと、やがて読書も難しくなる年齢だし。
というわけで、元旦から『経済学批判要綱』を読み始めた。大月書店版(高木幸二郎監訳)第1分冊。
A 序説の「1.生産、消費、分配、交換(流通)」の「1)生産」は、近代の自立した個人と所有が歴史的生産関係に規定されていることの確認である。のんびり読んでいこう。
もう一つ、夏堀正元の『渦の真空』(朝日新聞社)を読み始めた。
夏堀は社会派ミステリーやサスペンスに位置づけられることが多く、戦後文学史において重視されていないきらいがある。埴谷雄高『死霊』、大西巨人『神聖喜劇』、野間宏『青年の輪』といった「全体小説」の系譜に属する『渦の真空』をもう少し評価しても良いと思う。と言いつつ、10数年前に上巻だけ読んで、下巻を読んでいない。改めて全体を通読することにした。
「全体小説」というのは言葉だけであって、明確な定義はないと思うが、ともあれ言葉は不思議な魅力がある。単なる長編小説ではなく、一つの世界を全体的に描き切った作品だ。大江健三郎の『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』や、『燃えあがる緑の木』三部作もそうだ。大江は丸谷才一の『裏声で歌え君が代』をあげていたと記憶する。井上ひさし『吉里吉里人』や筒井康隆『虚航船団』『歌と饒舌の戦記』もある。大江健三郎・井上ひさし・筒井康隆については前田朗『パロディのパロディ』(耕文社)参照。
夏堀正元は、初期の『醜聞家族』『豚とミサイル』や、『海鳴りの街』『人間の岬
あるヤンシュウ伝』『目覚めし人ありて 小説中江兆民』最後の『虚構の死刑台 小説幸徳秋水』まで数十冊読んだし、何より『非国民の思想』は、「非国民研究」の導きの一冊だった。『小樽の反逆
小樽高商軍事教練事件』『蝦夷国まぼろし』など、北海道を舞台とした反逆の小説作品は時代を見事に撃ち抜いている。その意味で近代日本の植民地主義を反映した『渦の真空』を読み通せていないのは問題だ。今年こそ、ちゃんと読もう。
『渦の真空』上巻は、夏堀の父親・釧路地裁判事・夏堀悌二郎が信子と結婚したところから始まる。当時の釧路はまさに最果ての街で、石川啄木流浪の最後の地でもある。悌二郎は啄木に直接会ってはいないが、すれ違っている。信子が釧路に嫁いだのは1923(大正12)年のことで、関東大震災の年だ。まもなく悌二郎が小樽区裁判事に転任して、夏堀正元は1924(大正14年)に小樽で生まれる。
1925(大正15)年に屯田兵一族の子どもとして札幌に生まれたのが私の父親だ。私自身は1955年札幌生まれだが、夏堀が描く北海道の歴史と地理は私にとっても揺り籠のようなものだ。