Saturday, August 29, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(35)人種差別撤廃法の制定を

師岡康子「私の視点:人種差別撤廃法案 今国会での成立をはかれ」朝日新聞2015年8月29日

国会に提出されている「人種差別撤廃施策推進法案」の基本内容と審議経過を少し説明して、「言論を委縮させるという懸念については、ヘイトスピーチをより厳格に定義したり、何がヘイトスピーチにあたるかを具体的に例示するガイドラインを策定したりと工夫すれば、解決できると考える」とする。外務省によると、OECD加盟国34カ国のうち30か国以上にヘイトスピーチ規制法があるという。著者は、人種差別撤廃委員会も日本政府に立法を勧告していることを受け、「国と社会が差別の被害者を放置してきた歴史を早く終わらせるべきだ」と結論付ける。

戦争をさせない1000人委員会の戦争法批判新書

戦争をさせない1000人委員会編『すぐにわかる戦争法=安保法制ってなに?』(七つ森書館)
1冊で4度おいしい本だ。
7人委員会とか、15人委員会と言うのは聞いたことがあったが、1000人委員会と言うのは初耳だった。「1001人目以下を排除するのか」と冗談を言ったこともあったが、憲法学者、弁護士をはじめさまざまな市民が協力して、戦争法案批判の論陣を張り、集会を開き、声明を出してきた。今回はコンパクトな新書サイズの本を出した。みなで読んで、運動の力にしようと言えるサイズだ。
第1章「戦争法ってなに?」は解説編で、戦争法(飯島滋明)、グレーゾーン、集団的自衛権(清水雅彦)、ガイドライン(前田哲男)、沖縄の問題(高良鉄美)、アフガニスタンの状況(清末愛砂)などを分かりやすく提示する。
第2章「私たちも戦争法に反対します!」では、青井美帆、雨宮処凛、上野千鶴子、小山内美江子、鎌田慧、小室等、佐高信、菅原文太、なかにし礼、山口二郎の発言を収録している。レディーファーストかと思ったら、アイウエオ順だった。菅原文太のラストメッセージ、心して読んだ。
さらに、第3章「憲法と平和を考えよう」では、高橋哲哉、浦田一郎、高良鉄美、落合恵子が平和について論じている。平和をつくると言う観点があればもっと良かった。
第4章「最高裁判決Q&A」では内田雅敏が論じている。最後に内田は、民衆の安全保障を説き、日本の「平和資源」を壊すなと訴えている。



Monday, August 24, 2015

同和教育・解放教育の「発展」「衰退」を追いかける

上原善広『差別と教育と私』(文藝春秋)
これまでも『日本の路地を旅する』などで部落差別問題を取り上げてきた著者だが、解放教育を受けた体験、そして取材に基づいて、1970年頃には盛んだった解放教育・同和教育を振り返る。
著者は大阪府松原市の出身で、崩壊しかけた過程に悩みながら少年時代を過ごしたが、松原三中での解放教育をきかっけに立ち直った。自分の経験を詳しく披露するとともに、当時の解放教育を実践した教師にも取材して、解放教育のいきさつも紹介する。さらに部落解放運動全体の中に位置づけるとともに、特に八鹿高校事件と、広島・世羅高校長自殺事件に絞って、背景、経過、当事者たちの現在の声を伝える。そして、同対法・地対法に次元が切れた2002年以後、解放教育がしぼんでいった経過を追いかけ、どこに限界があったのかを呈示する。
被差別部落出身であることをカムアウトしての部落ルポだが、何かと軋轢を生んでいるようだ。特に橋下徹・大阪市長の件でも、批判を受けている。
解放教育・同和教育の実践報告は多数出ているが、本書のように、解放教育を受けた側の体験記は参考になる。当時の解放教育の限界、そして02年以後、解放教育がしぼんでいったことを、「人権の季節」という表現で説明している点は、あまり説得力がない。
70年当時の「人権の季節」というのは、実は「政治の季節」のなかでの一局面でしかない。人権よりも政治の論理が先行し優越していた時代であり、「人権」の理解には大きな限界があった。後智慧で言うのも何だが、当時の人権観念は残念ながら低水準と言わざるを得ない。著者が云うように「人権の季節」だから、ではなく、「人権が理解されない季節」に「政治の季節」の中で申し訳程度に「人権の季節」と呼称したことに問題がある。
一方、解放教育が法的根拠をもって推進されたことが、同時に権力による政策遂行の一環となったことが、積極的な意義を有するものの、法的根拠が失われたとたんに衰亡していった遠因となっているのは当たっている面もあるのかもしれない。それは部落解放だけでなく、他の多く分野にも共通だ。現行憲法の自由と平等の下、四半世紀かけてようやく70年前後に花開いた自由や平等や民主主義の発展を求める運動が、いまや高齢化し、後継者が十分ではなく、運動を支えた団体もかつての力を失っている。どの分野でも共通の悩みだ。
このため、近年の逆行現象が目につく。安倍政権の歴史認識が典型だし、ヘイト・スピーチ流行という事態を許してしまっているのも同じ性格の問題だろう。人権擁護どころか、「人権屋批判」のように露骨な反動と人権軽視が日本社会を覆っている。著者はそうした事態にはあまり関心を示さないようだ。日本の現実を踏まえつつ、より普遍的な反差別と人権の教育を構築していく必要は明らかなのだから、同和教育・解放教育の実践を基に、その成果と限界を的確に解明しつつ、継承させていくことこそ重要だろう。現在の日本国家と社会では、ひじょうに厳しい課題だが、あきらめるわけにはいかない。

ベルン美術館散歩

ベルン美術館は「光の石」展が開催されていた。ガラス工芸か何かかなと思いながら行ってみると、近代絵画の展示だった。光る石、輝く石、輝石、クリスタル、氷河などを描いた作品だ。第1の視点は「クリスタル――秩序、力、愛、死」。エルンスト・ヘッケル、ユタカ・ソネ、アルフレド・エルハルト。第2の視点は「山脈のクリスタル」。フォン・ヘラー、カスパー・ヴォルフ、カラーメで、アルプス風景画。第3は、「クリスタルの構築物」。ブルーノ・タウト、ハンス・シャロウン、ヴェンツェル・ハブリク。第4は「抽象イメージのデザイン」アドルフ・ヘルツェル、ライオネル・ファイニンガー、パウル・クレー。第5は「現代アートにおけるクリスタル」。ヨーゼフ・ボイス、マリーナ・アブラモヴィック、アウグスト・ジャコメティ、メレト・オッペンハイム。学芸員の工夫が良くわかる展示だった。
もちろん、常設展も見てきた。何度も見ているが、ドガ、ベックリン、ヴォルフ、バロットン、ホドラー、アンカーをはじめ、スイスを中心に西洋絵画。ベックリンが3点あるのは忘れていた。人魚と死をモチーフにした作品は重要。クーノ・アーミエ、シャガール、マルクも。

ポルトコロニアル・アート(2)君はヤスクニズムを知っているか

拡散する精神/委縮する表現(53)
君はヤスクニズムを知っているか
*『マスコミ市民』2015年8月号

この夏、「東アジアのYASUKUNISM(ヤスクニズム)展」が開催される。七月二五日(土)~八月二日(日)、会場は西武新宿線武蔵関駅北口六分の「ブレヒトの芝居小屋・東京演劇アンサンブル(TEL: 〇三-三九二〇-五二三二)」で、展示は洪成潭(ホン・ソンダム)の連作<靖国の迷妄>である。
 東アジアのYASUKUNISM 展実行委員会によると、「<ヤスクニズム>とは、ダグラス・ラミス氏(沖縄国際大学教員)が日本の保守派の軍国時代のロマンを『靖国(ヤスクニ)+イズム=ヤスクニズム』として、ドイツの『ナチズム』と比して皮肉った造語です。つまり、私たちの日常に潜む『国家主義、国家暴力』と言いかえることができる」という。
 戦争症候群の安倍政権のみならず、日本社会がミリタリズムに飢えている現状は、まさに<ヤスクニズム>という魑魅魍魎の跋扈する光景といえよう。侵略と植民地の歴史を否定し、あるいは美化し、次の戦争を目指す意識。アジアに対する敵意と蔑視をむき出しにして、日本の歴史や文化を誇る卑劣な虚妄のナショナリズム。にもかかわらず、ナショナルな日本主義と、アメリカ追随の「属国主義」が奇妙に同居し、「美しい国」「日本をとり戻せ」と呼号しながら国土を破壊する原発再稼働政策を推進する。「3・11」後のフクシマと沖縄にヤスクニズムの矛盾が集中的に表現されている。
 実行委員会は<ヤスクニズム>に潜む美化の作用を、まさにその美によって見つめ直し、表現する展覧会を開催することにした。一〇年をかけ完結した洪成潭の連作<靖国の迷妄>の展示を軸に、トーク、詩の朗読、パフォーマンス、映画上映等を繰り広げ、東アジアの歴史的課題<ヤスクニズム>を浮き彫りにしていくプロジェクトである。
 洪成潭は、一九五五年全羅道生まれの画家である。一九八〇年、軍の武力弾圧によって多数の市民が犠牲となった光州民衆抗争で文化宣伝隊として活動し、その後、韓国民衆美術運動の最先鋭の担い手となる。二〇〇五年から連作<靖国の迷妄>に力を注ぎ、二〇〇七年、東京GALLERY MAKI で初の<靖国の迷妄>個展を開催。二〇一四年、光州ビエンナーレ二〇周年の特別展で《セウォル五月》(洪成潭と視覚媒体研究所の共同制作)が、「直接的な政治批判」という理由で展示を拒否された。二〇一五年四月、ベルリンでの「禁止された絵」展に招聘。著書に『光州「五月連作版画- 夜明け」ひとがひとを呼ぶ』(夜光社、二〇一二年)など。
併設展示されるのが、大浦信行の連作<遠近を抱えて>全一四点、および金城実<沖縄から世界を彫る>光州ビエンナーレ出品抗議作・新バージョン(初公開)である。
 実行委員会は「芸術と運動があわせてその力を花開かせたとき、『靖国史観』を凌駕する『私たちの東アジアの歴史』が始まるのではないでしょうか」と呼びかける。
また、会期中、連日イベントが予定されている(イベント中は作品のみの鑑賞はできない)。例えば八月一日は、映画『“記憶” と生きる』 上映+トーク:土井敏邦(映画監督)・洪成潭(画家)。八月二日は、ダグラス・ラミス(政治学、沖縄国際大学教員)の話。
 さらに、八月五日~三〇日、一部作品の巡回展が「原爆の図・丸木美術館」(埼玉県東松山市下唐子一四〇一、TEL:〇四九三-二二-三二六六)で開催される。八月一一日には、トーク:洪成潭× 岡村幸宣(同館学芸員)も行われる。
 美術界では、いまだに非政治的なポーズの芸術至上主義が支配しながら、他方で横山大観やレオナール・フジタのほとんど無条件賛美による復権が目論まれている。ご都合主義的な政治主義が美術も政治も歪めていることに気づこうとしない。
東アジアの民衆が共有しうる美術観とはどのようなものであるのか。それは歴史や政治を超越したものではありえない。ヤスクニズムを知ることが日本と日本美術を知ることにもつながるはずだ。

大江健三郎を読み直す(49)大江文学における子ども性

大江健三郎『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮社、1985年[新潮文庫、1989年])
本書は文庫になって初めて読んだ。主な部分は新潮社の『波』に連載され、後に単行本になっている。4~5年遅れで読んだので、少しずれがあるのがよくわかった。
一つには、主な部分が大江がカリフォルニア大学バークレーに招かれて滞在していた時期に書かれているので、そこでのエピソード、その時期の読書に規定されている。
また、米ソの核対立が激しい時期であり、欧州だけでなくアメリカでも反核運動が盛り上がった時期であることが反映している。国際ペンクラブ大会が日本で開催された時の大会声明を巡る、大江と江藤淳の対立は、他でも書かれていたが、「懐かしい」話ではある。吉本隆明の反核運動批判も少しだけ登場する。
もっとも、本書の特徴は『小説の方法』をより平易に、短いエッセイの中で解説し直しながら、次の一歩を模索している様子を描いている点が当時の読みどころだったはずだ。ロシア・フォルマリスム、バシュラール、エリアーデ、山口昌男。他方で、ヴォネガット、アーヴィング、マラムッド、チーヴァー、スタイロン、ケルアックなどアメリカ現代作家たち。その点では、『同時代ゲーム』と対をなすはずだった長篇小説『女族長とトリックスター』がなぜ実現しなかったかの楽屋話が一番興味深かった。すっかり忘れていたが、今回読み直してみて、思い出した。デビュー間もなくの時期は別として、長編作家として作家人生を歩んできた大江は長篇小説を準備びしていたが、この時期続いた『「雨の木」を聴く女たち』から『新しい人よ眼ざめよ』に至る中・短篇集に転用したために、当時の方法論の適用と言う点では中・短篇集で目的を達成したために、長編をお蔵入りにした、ということだった。
もう一つ、川本三郎の解説が、大江文学における「子ども」性に着眼し、「ハックルベリィ経由大江健三郎行き」と称していることが面白かった。当時読んだはずだが、すっかり忘れていた。確かに初期短編群も少年たちの物語であり、息子・光をモデルとした『個人的な体験』以後の作品群も、子どもを中心に置いた構図が貫かれている。

Sunday, August 23, 2015

冤罪を生む法医学、再審を実現する法医学

押田茂實『法医学者が見た再審無罪の真相』(祥伝社新書)
専門書以外には『医療事故』『法医学現場の真相』を出してきた法医学者の刑事再審への関与の経験を踏まえた著作。日本の刑事裁判が誤判・冤罪だらけになる理由の一つとして、いい加減で非科学的な法医学があり、その誤りを明らかにする科学的な法医学をしっかり確立する必要があることを打ち出している。著者が関与した事件は、再審無罪事件では、袴田事件(正しくは再審開始決定まで)、東電女性会社員殺人事件、足利幼女殺害事件、布川事件、氷見事件。再審請求中の事件では、福井女子中学生殺人事件、飯塚事件(死刑執行され、遺族が起こしている再審)、姫路郵便局強盗事件。他にも各種のわいせつ事件。これらの事件の法医学鑑定上の問題点を適宜示して、問題点を明らかにしている。
再審無罪に関する問題点として、特にDNA型鑑定を取り上げ、日本におけるDNA型鑑定の進歩と問題点を解説する。具体的なDNA鑑定の恐るべき事例として、宮崎県警「資料を被害者に返したとする警察」、神奈川県警「証拠資料を抹消してしまう法医科長」、山口県警「科学捜査研究所員の証言に驚愕」、鹿児島県警「死刑が無罪」などの例を紹介し、法医学の悲惨な実態を厳しく批判している。全体として法医学者や科学捜査研究所員のいい加減な証言を徹底批判しているが、個人攻撃ではなく、法医学に関する認識、体制の在り方、裁判と法医学の関係などの改善を目指している。他方、誤判を量産する裁判官への批判は控えめで、瀬木比呂志『絶望の裁判所』を紹介する程度なのは、法医学者として発言するべきことを踏み越えず、自制しているのであろう。もっとも、きちんと読めば随所で裁判官の異常ぶりが明らかになる本だが。

死刑事件は袴田事件、飯塚事件、鹿児島老夫婦殺人事件(死刑求刑、裁判員裁判で無罪)。