Thursday, September 08, 2022

地域を変えよう!地域から変えよう 「共同テーブル」第1回自治体選挙シンポの呼びかけ

 地域を変えよう!地域から変えよう

「共同テーブル」第1回自治体選挙シンポの呼びかけ

 

参議院選挙が終わり、自民党やその他の改憲勢力が3分の2を優に超えた国会状況となり、「憲法改正」が視野に入り、いよいよ9条が姿を消し、戦争をする国になる危険が現実のものとなってきました。

 また、「元統一教会と自民党安倍派との深い関係」「国葬」問題が喫緊の課題になっています。

 さらに、“黄金の3年”といわれる期間中の2023年4月には「統一自治体選挙」が予定されています。「共同テーブル」は参院選で様々な共同を支援し、一定の成果をあげた成果を、さらに地域に幅広く生かしていきたいと思います。

 

 「共同テーブル」が掲げる「いのちの安全保障確立に向けて非正規社会からの脱却」の実現には、国政とともに自治体政策の転換が極めて重要です。教育、医療、住居、保育、介護など生活に必須の公共サービスの多くを自治体が担っているからです。

  

 「共同テーブル」としては、政党公認候補支援だけでなく、相互推薦や共同で候補者を生み出すことへの援助、公約への提案、提言、学習会などへの講師派遣などをめざします。

 そこで、共同の取り組みを始めるにあたり、シンポジウムを開催することにしました。

 

 

2022年9月17日(土)午後1時30分~4時30分

                       (午後1時10分受付開始)

中野サンプラザ7階 第13研修室

        JR中央線中野駅北口、徒歩1

 

内 容  ・「共同テーブル」発起人あいさつ(杉浦ひとみ)

基調報告(白石孝)

杉並区長選挙から区議会議員選挙へ(要請中) 

    ・超党派での政策推進の取り組み

      国のコロナ政策(山田厚・甲府市議)

      グリーン政策(橋本久雄・小平市議)

      個人情報保護条例改定(要請中)

    ・共同で闘う自治体議員選挙、少数の定数選挙区の選挙

       東京都議会議員選挙(小金井市選挙区から 要請中)

        大分県議会議員選挙(大野市選挙区から 要請中)

        葛飾区議会議員選挙(みずま雪絵・葛飾区議)

       近畿ブロックでの共同の討論(山下慶喜・大阪茨木市議)

       千葉県における共同の討論(伊藤とし子・千葉県議)

     ・コメントとまとめ(上原公子・元国立市長 「共同テーブル」発起人)                

オンライン参加(zoom)希望の方はここにご連絡ください kyodotable@gmail.com

 

参加費 1000 (zoom参加はカンパをお願いします)

 

「共同テーブル」自治体選挙シンポ事務局(白石孝  服部良一 石河康国)

Tuesday, September 06, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(205)ヘイト・クライム規制法

新恵理「アメリカ合衆国におけるヘイトクライム規制法の動向と、日本の課題」『産大法学』48巻1・2号(2015年)

20151月に京都産業大学の紀要に公表された論文だが、見落としていた。

新は被害者学の専門家で、1998年にヘイト・クライムについて修士論文を書いていた。かなり早い時期だ。前島和弘(上智大学教授)とともに、日本におけるヘイト・クライム研究の草分けと言ってよいだろう。

目次

1.        はじめに――問題の所在

2.        アメリカ合衆国におけるヘイトクライムの様相

(1)  ヘイトクライムの類型

(2)  政治、経済、国際状況により勃発するヘイトクライム

3.        アメリカ合衆国における、主なヘイトクライム事件

4.        日本におけるヘイトクライム

5.        アメリカ合衆国におけるヘイトクライム法の内容

6.        ヘイトクライム法をめぐる、合憲・違憲判断

(1)  表現活動への違憲判決「R.A.V.v. city of St. Paul

(2)  厳罰法の合憲判決「Wisconsin v. Mitchell

7.        アメリカ合衆国同時多発テロ以降のヘイトクライム

(1) 同時多発テロ事件以降のヘイトクライム

(2) 「マシュー・シェパード、ジェームズ・バード・ジュニアヘイトクライム防止法」の成立

8.        ヘイトクライム規制法の是非

おわりに

本文11頁、文献列挙が3頁の短い論文だが、アメリカにおけるヘイト・クライムの実態、類型、具体的事件、規制法をめぐる議論を紹介している。20151月公表の論文だが、当時すでに紹介済みの内容である。

2009年に連邦レベルでヘイト・クライム法が成立したことは書かれているが、それ以前の州法にどのようなパターンがあったのか、2009年法成立に至る過程(ブッシュ大統領の反対によりいったん挫折したが、オバマになって成立した過程)に言及がなく、2009年法の具体的な適用事例にも言及がない。

新は、規制の是非についていまなお議論があるとして次の4点を指摘する。

(1)  ヘイトクライムと認定するための捜査上の問題

(2)  「法の下の平等」に抵触するのではないかとして指摘

(3)  ヘイトクライムで保護されるカテゴリーをどこまで増やすかという問題

(4)  マイノリティ同士の対立を深めているという問題

 以上のうち(4)については、黒人とユダヤ人の対立について論じているが、(1)~(3)についても論究があると、なおよかったと思う。

新は、ヘイト・クライムとヘイト・スピーチを概念的に区別していない。日本的議論では、①暴力によるヘイト・クライムと②表現によるヘイト・スピーチを明確に区別して、後者は表現の自由の問題とする理解が一般的である。その立場から見ると、新の用語法はやや異なる。

ただ、アメリカの議論では、①と②を区別する例が多いとはいえ、両者をともにヘイト・クライムと呼ぶ例も少なくない。憲法学では両者を区別するが、社会学の論考では必ずしも区別していない。新は、①をヘイト・クライムとし、②をヘイト・スピーチとし、両者を全体としてヘイト・クライムと呼んでいるようだ。

その点では、実は私と似ている。私は②のヘイト・スピーチの刑事規制を主張しており、それゆえ「ヘイト・クライムとしてのヘイト・スピーチ」とみている。①のヘイト・クライム、②のヘイト・スピーチを前提に、両者を含めて全体を③「ヘイト・クライム/スピーチ」と呼んでいる。新の用語法もこれに近いのだろう。

Sunday, September 04, 2022

文化的少数者の権利論の方へ

栗田佳泰『リベラル・ナショナリズム憲法学――日本のナショナリズムと文化的少数者の権利』(法律文化社、2020年)

<ナショナリズム論の考察から規範的憲法理論の構築を試みる。天皇制や法教育等の批判的な実証分析を踏まえ、リベラル・ナショナリズムの憲法学においては「批判的検討の積み重ね」と「一人ひとりの平等な顧慮(多元主義)」、そして他者の権利としての「文化的少数者の権利」が憲法上要請されることが必要なことを説く。>

序章

第Ⅰ部 ナショナリズムの憲法学的考察

1 章 ナショナリズム、「現実」、「異人」

2 章 多文化社会における「国民」の憲法学的考察

3 章 リベラル・ナショナリズム憲法学を構想する

 

第Ⅱ部 日本のナショナリズムとリベラリズム

1 章 文化問題としての天皇制

2 章 憲法教育の「法定」に関する序論的考察

3 章 法教育における人間観

4 章 高等学校公民科新科目「公共」における主権者教育、愛国心教育、憲法教育

5 章 日本のナショナリズムと憲法

 

第Ⅲ部 日本の文化的少数者の権利

1 章 多文化社会における憲法学の序論的考察

2 章 「新しい人権」と「一般的行為自由」に関する一考察

3 章 多文化社会における「国籍」の憲法学的考察

終章

20201月の出版だが、本書を最近まで知らなかった。表題に驚いて、購読した。サブタイトルに「日本のナショナリズムと文化的少数者の権利」とあったからだ。

日本国憲法には「少数者」という言葉が登場しない。権利の主体は「国民」とされている。草案段階では外国人の権利が規定されていたが、削除された。憲法14条は法の下の平等と差別の禁止を定めるが、マイノリティに言及していない。このため、憲法学は、少数者の権利をほぼ無視してきたのが実状だ。ところが、本書は「少数者の権利」を掲げている。

栗田はナショナリズムの現実と憲法を取り巻く現実を踏まえつつ、文化的少数者の権利を引き出すという。そのための理論的考察として、ナショナリズムの憲法学的考察を行い、リベラル・ナショナリズム憲法学を構想する。その具体化として、天皇制や憲法教育について分析する。そのうえで、多文化社会における憲法学の序論的考察を踏まえ、「国籍」の憲法学的考察を行う。なかなか意欲的な試みだ。

もっとも、本書は私の関心に応えてくれるわけではない。栗田はリベラル憲法学を構想し、その概要を提示し、そうすれば文化的少数者の権利を引き出すことができることを丁寧に論証する。それは有意義な試みであり、学ぶに値する。ただ、そこまでである。

1に、文化的少数者の権利が引き出されると言うが、いかなる権利をどのように構築するのかには言及がない。国際自由権規約や国連マイノリティ権利宣言を基に展開されてきた国際人権法上のマイノリティの権利に対応する分析はない。あくまでも文化的少数者の権利を憲法上是認することができることの論証にとどまる。

2に、「文化的」少数者に言及するが、人種、民族、宗教等の少数者に論究するわけではない。「国籍」に関する論述も、文化的少数者のネイションとの関連について論じるが、そこまでである。換言すると、マイノリティや先住民族に対する差別問題は本書の理論的射程には入っているが、具体的な論述はない。差別問題、差別されない権利、ヘイト・スピーチを受けない権利といった問題は、栗田の関心の外である。栗田の関心はナショナリズム研究であって、人権論ではない。

とはいえ、栗田のナショナリズム論(憲法政治と憲法哲学)は少数者の権利概念を引き寄せる。ここから次の議論につながる多様な可能性が開かれている。

私の主たる関心は人権論、反差別論だが、もちろんナショナリズム研究にも関心がある。ナショナリズムとレイシズムは極めて密接な関係にある。そこで少しおまけを書いておく。

「リベラル・ナショナリズム憲法学」というのは不思議な言葉だ。近代国民国家の憲法は基本的にナショナリズムだ。憲法学もナショナリズムだ。「リベラル憲法学」は基本的に「リベラル・ナショナリズム憲法学」だろう。

リベラル・ナショナリズム憲法学

②非リベラル・ナショナリズム憲法学

リベラル・非ナショナリズム憲法学

④非リベラル・非ナショナリズム憲法学

普通に存在するのは①と②である。③と④はあるだろうか。もちろん、どの憲法にも憲法学にも単にナショナルな部分だけではなく、インターナショナルな部分もある。日本国憲法前文は随分とインターナショナルでもあるが、憲法第1章の天皇は歪んだナショナリズムだ。憲法第3章の権利義務規定は「国民」概念を前提としている。とはいえ、憲法11条や97条は開かれている。

「リベラル・ナショナリズム憲法学」を導出するのは何のためだろうか。栗田は、文化問題としての天皇制、憲法教育の「法定」に関する序論的考察、法教育における人間観などで具体的な論述を行い、さらに文化的少数者の権利を想定している。天皇制を主権論でも差別論でもなく、文化問題として扱う。それは一つの決断だが、なぜ前者でないのかの説明は欲しい。憲法教育や法教育は、歴史認識や歴史教育にも関わり、喫緊の課題にもなるので、なるほどこういう形の議論なのかを受け止めた。

もう一つ、憲法前文・9条と日米安保条約との関連で、リベラル・ナショナリズム憲法学とは何を意味するのだろうか。何を帰結するのだろうか。安保破棄・米軍撤退・自衛隊国軍化ではないだろうとは思うのだが。

Saturday, September 03, 2022

「復帰」50年企画・沖縄の未來を共に考えよう!

「復帰」50年企画・沖縄の未來を共に考えよう!

「沖縄はどこに向かうか?自己決定権の今」の講演会です。

9月14日(水)午後5時(開場4時半)~、

てぃるる(那覇市西町)

【講師】

新垣毅氏(琉球新報報道部長)

仲里効氏(「越境広場」編集者)

司会:宮城恵美子

スタッフ:与那覇恵子、木村朗

入場無料(資料代5百円)

「琉球処分」以後、沖縄の自己決定権は行使できていない。

現在、米中対立が強まる中、米は中国が危険だと煽り、元安倍首相は「台湾有事は日本有事」と喧伝、今に至る。米軍が自衛隊と一緒になって琉球弧の有人島を移動しながらミサイルを撃つ遠征前方基地作戦(EABO)計画がある。しかし「有事」になると米軍はグアムかハワイに撤退する。島々の人々の命を盾にしておきながら、いざとなれば米軍は逃げる。

米は日本に防衛費増額をしむけてきた。日本政府は国民生活を貧しくしても米の要求に答えているのが日本政治である。「もう二度と沖縄戦を招来させてはいけない!」という沖縄の悲願を無慈悲にも捨てさるかのように、琉球弧にミサイルを配備、辺野古では埋立て反対の声を封殺して埋立強行を続けている。中高生でも分かるように、ミサイル攻撃から生き延びるのは至難の業でそんな愚策でも日本は米従属を受け入れ、近隣諸国外交は軽視している。日中共同声明50年だ。私たちは誰に支配されているのか。日米(軍)である。複雑骨折な政治状況を読み解き、沖縄の自己決定権の行使の在り方を考えたい。「沖縄はどこに向かうか?」と。

090-1946-6702(宮城)。

主催:東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会

共催:ISF(独立言論フォーラム)

Sunday, August 21, 2022

安倍国葬 やめろ! in札幌緊急集会

安倍国葬 やめろ! in札幌緊急集会

 

違憲・違法の政治利用をゆるすな!

前田朗さん、ふるさとで吼える

“自民党よ、反社会的カルト教団から目を覚ませ!”

―国民を巻き込むな!国葬差し止め請求訴訟の現在―

 

会場:札幌エルプラザ・男女参画センター 

F環境研修室(北8西3札幌駅北口)

日時:2022827日(土)

18302030(開場1800)  

終了後会食懇親会(要申し込み)

参加費:500

(ただし、同日昼過ぎの「みんなでつくろう人種差別禁止法」に参加の方々は延長と考え、無料)

Thursday, August 18, 2022

みんなでつくろう人種差別禁止法in札幌

ヘイト・スピーチ解消法やアイヌ新法ができても、差別もヘイトも禁止されていません。路上でもオンラインでもマイノリティに対する差別と侮蔑が横行しています。

マジョリティの特権にしがみついて、マイノリティを迫害する歴史修正主義が跋扈(ばっこ)しています。教育現場でも職場でもメディアでも人間の尊厳が見失われ、この国では民主主義が瀕死状態となっています。自由で平等な市民の連帯を支える条件が失われています。

人種差別禁止法をつくることで国家と社会を変えることが必須です。前田朗さんとともに、話し合ってみませんか?

2022年8月27日(土)13:3016:00(開場13:00

◉会 場 北海道ウリトンポセンター

札幌市中央区北1条東8丁目

※地下鉄東西線「バスセンター前」下車10番出口より徒歩8分(駐車場有)

◉講師:前田 朗

◉参加費 1,000円(資料代含む)

※当日、会場にて受付ます(予約不要)

問合せ先 Tel.090-6446-3974(チョキムシガン)

syu@sapporoyu.org(さっぽろ自由学校 遊)

 

■共催団体 アイヌ政策検討市民会議/一般社団法人メノコモシモシ/札幌市に人種差別撤廃条例をつくる市民会議/茶門セミナー・ハンマダン/パレスチナ連帯・札幌

■賛同団体 沖縄の基地を考える会・札幌/朝鮮学校を支える会/日本軍「慰安婦」問題の解決をめざす北海道の会

Tuesday, August 09, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(204)古典で読む表現の自由04

見平典「第14章 表現の自由」曽我部真裕・見平典編『古典で読む憲法』(有斐閣、2016年)

見平の議論にもう少し学ぶことにしたい。

1.      思想の自由市場論

2.      自己統治

3.      表現の自由の脆さ

4.      対抗言論

5.      民主的討議への寄与

6.      代替策

7.      差別思想の隠蔽

8.      ヘイト・クライム

 

1.思想の自由市場論

思想の自由市場論が不適切であることは私の論文及び著書で何度も指摘してきた。このブログでは、例えば下記参照。

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/06/blog-post_14.html

上記に書いた通り、思想の自由市場論は、社会科学でも何でもない、単なるたとえ話に過ぎない。日本国憲法と無縁である。理論の射程もいいかげんで、あいまいであり、議論に使えない。論外だ。

見平は「ホームズ反対意見のもう一つの重要な特徴は、市場のメタファーである。『思想の自由市場』論は、国家による介入を排した完全に自由な市場における競争こそが、国家や社会に最大の利益をもたらすとの当時の経済の自由市場論を、市場に見立てた言論空間に類推している。」(233頁)と述べる。

明確に「メタファー」「類推」と認めている。理論をわかりやすく説明するためにメタファーを利用することはありうる。しかし、理論を根拠づけるためにメタファーを利用するのは失格だろう。

経済市場には需給関係が成立するが、思想の自由市場には成立しない。経済市場には貨幣があるが、思想の自由市場には貨幣に相当するものが存在しない。被害を生む欠陥商品は経済市場から法的に排除されるように、被害を生む表現を市場から排除することも選択肢の一つだ。

2.自己統治

見平は、「民主政が打ち立てられた諸国においては、真理への到達という点とは別に、民主政の維持という点から、表現の自由を擁護する声も挙がるようになった。」(234頁)、「このような見方に従えば、民主政は表現の自由があってこそ成立しうるものであり、その意味で、表現の自由は特別な意義を有するといえる。」(235)

しかし、民主政は法の下の平等と差別の禁止なしに成立するだろうか。社会の構成員の一部を排除するヘイト・スピーチを放置して、「見平の民主政」は成立するのだろうか。

見平は「民主政は表現の自由があってこそ成立しうるものであり、その意味で、表現の自由は特別な意義を有するといえる」というが、「民主政は法の下の平等があってこそ成立しうるものであり、その意味で、法の下の平等は特別な意義を有するといえる」。表現の自由と法の下の平等の両方とも重要であり、もし両者が衝突することがあるとすれば、バランスをとる必要があるはずだ。

3.表現の自由の脆さ

見平は、「表現の自由がきわめて脆いものである」とし、表現の自由が手厚く保障されるべきなのは「歴史的経験をふまえ、表現の自由がこわれやすいものであるという認識がある。」という(238)

不思議な議論だ。何を言っているのか、理解できない。

歴史的経験をふまえ、法の下の平等はきわめて脆いものではないのか。人間の尊厳はきわめて脆いものではないのか。民主主義はきわめて脆いものではないのか。学問の自由は極めて脆いものではないのか。思想・良心の自由は極めて脆いものではないのか。

4.対抗言論

見平は「実際に、ヘイト・スピーチ規制を支持する声が少数者集団・多数者集団に跨る形で存在しており、規制導入の是非が議論されていることは、対抗言論や思想の自由市場、民主的討議が機能していることを例証している、とされる。」(242頁)と述べる。

果たしてそうだろうか。

1に、「実際に、ヘイト・スピーチ規制を支持する声が少数者集団・多数者集団に跨る形で存在」しているというのは、いつ、どこでなのだろう。

①京都朝鮮学校襲撃事件では、ヘイトが行われた時、どこに対抗言論があっただろう。被害が生じて、何日も後に対抗言論がなされたとして、それが何の例証になるのだろうか。

②川崎ヘイトデモで被害者が対抗言論に立ち上がらざるを得なかった。そこに多数者集団による対抗言論も加わった。それが何の例証になるのか。現に生じた被害を無視した議論だ。

2に、「規制導入の是非が議論されていることは、対抗言論や思想の自由市場、民主的討議が機能していることを例証している」とはいったいどのような事態なのだろうか。

「規制導入の是非が議論されている」が、規制は導入されず、しかも論者は規制に消極的であり、規制に反対しているのだ。差別とヘイトが続いているのに、「規制導入の是非が議論されている」ことが何の例証になるのか。ヘイトを擁護する論者が多数派であることの例証でしかないだろう。

被害者に対して、「規制導入の是非が議論されているから良かったね。規制は導入されないけど、未来永劫、議論だけで我慢してね。被害を受け続けてね」と言うのだろうか。

5.民主的討議への寄与

見平は「ヘイト・スピーチは社会の中に差別思想が存在していること、差別主義者が活動していることを明らかにするが、これは、差別の原因やとるべき政策を議論することを促すという点で、民主的討議に(消極的に)寄与しているとみることも可能である。」(242頁)と述べる。

差別があれば、差別をなくそうと議論するのが普通だ。差別をなくそうと議論しても、差別をなくさないという意見が強いため、規制ができず、差別が温存され続けることは社会的不正義だ。

ところが、見平の議論は違う。①ヘイト・スピーチがあるから、②差別思想があるとわかり、③政策の議論を促すから、④民主的討議に(消極的に)寄与している、という。

この議論では、①ヘイト・スピーチがなければ、②差別思想があるとわからず、③政策の議論を促さないから、④民主的討議に(消極的に)寄与しない、となる。ヘイト・スピーチがあることは良いことだとなってしまう。

「民主的討議に(消極的に)寄与」とはいったい何なのだろう。積極的に差別をなくすことには意味を見出さず、差別の原因や政策を議論することだけを評価する議論とはいったい何なのだろう。

先にも指摘したが、見平の民主政は法の下の平等や差別の禁止とは距離を置いて、表現の自由だけを唱える。社会から一定の集団を排除し、その主張を容認し、つまり迫害を容認して、見平の民主政が成立する。

もちろん、見平は差別に反対しており、法の下の平等を守ろうと考えているだろう。だが、見平論文は、法の下の平等や差別の禁止の意義よりも、表現の自由の保障を重視する立場を鮮明にしている。差別とヘイトの被害があっても表現の自由の名でヘイトを規制しないことを優先しようとしていると読める。見平論文は差別をなくすことについては一切語らない。

見平が編集した本書には「第11章 平等」という章が設けられているが、そこでは女性の権利を論じている。本書全体としてヘイト・スピーチの容認という結論が明確に打ち出されている。

6.代替策

見平は、「差別の克服や平等の実現のためにとりうる手段は、ヘイト・スピーチ規制以外にも存在していることが指摘される」(242頁)という。一般論として、他に取りうる手段があるのに刑事規制という手段を安易に用いるべきでないのは確かだ。

しかし、他に取りうる効果的な手段の提唱はなされていない。具体策を提示せずに、このような主張をするべきではないだろう。

また、二者択一には根拠がない。他に取りうる手段というが、ヘイト・スピーチ規制論者は、あれかこれかの二者択一を主張していない。国際自由権規約も人種差別撤廃条約も、刑事規制と他に取りうる手段の両方を推奨している。人種差別撤廃条約は、差別の禁止、差別法の撤廃、アパルトヘイトの禁止、ヘイト・スピーチの刑事規制、被害者救済、反差別教育、反差別の情報・メディアをすべて必要だとしている。当然だ。そのすべてを総動員しても、西欧や北欧ではヘイトがなくならないのだ。差別とヘイトをなくすために必要なすべての手段を取るべきである。

見平は、刑事規制を採用せずに、他の取りうる手段で、具体的にどのようにして差別やヘイトをなくせるのか、明確に提唱するべきではないだろうか。

7.差別思想の隠蔽

見平は「特に、差別の克服という観点からみれば、ヘイト・スピーチ規制によって社会に存在する差別思想が隠蔽されてしまうことの方が問題であるとされる」(242)と述べる。

実に奇怪な主張である。

反差別の思想や運動にかかわってきた者なら、ヘイト被害をなくすために刑事規制をと唱える。規制によって、まず何よりも深刻なヘイト被害をなくす必要がある。そのうえで、なお残る差別をなくすためにさらに措置が必要なことは当然である。

ところが、見平によると、①ヘイトを抑止すると、②「社会に存在する差別思想が隠蔽されてしまう」、③その方が問題であるという考え方が成立するという。

つまり、①ヘイトを容認し、温存しておけば、②「社会に存在する差別思想」が明らかになるから、③差別の克服という観点からは、その方が良い、④だからヘイトがあり、深刻なヘイト被害が続くことが良いことだ、ということになるだろう。見平はこうは述べていないが、他にどのような解釈が可能なのだろうか。

補足しておくと、見平の議論は、時制が不明確である。

思想の自由市場論もそうだが、時制を不明確にしておけば、なんでもありの暴論の世界に陥る。「より良い思想が生き残る」という妄想が可能になるのは、1か月後のことを言っているのか、1年後なのか、10年後なのか、100年後なのか、それとも1万年後なのか、一切特定しないからだ。

いつ、どこで、どのようなヘイトがなされ、どのような被害が起きているのかを明確にして、そのヘイトをなくす議論をしなければならない。いつまでになくすのかを吟味・検討しなければならない。ところが、見平は時制を特定しない。

8.ヘイト・クライム

最後に見平論文では言及されていないことを一つだけ取り上げておこう。通常、その論文で取り上げていないことをあれこれ論評することは筋違いになりかねない。

しかし、ヘイト・スピーチとヘイト・クライムは切っても切れない関係にある。このことは、この10年以上ずっと主張してきた。私の2010年の本は『ヘイト・クライム』であり、そこではヘイト・クライムとヘイト・スピーチを取り上げている。ヘイト・スピーチはスピーチに重点があるとはいえ、暴力的であり、差別と暴力の煽動である。

見平はヘイト・クライムに言及しない。多くの憲法学者の議論は、ヘイト・クライムに言及しない。多くの憲法学者が京都朝鮮学校襲撃事件をヘイト・スピーチという。だが、京都朝鮮学校襲撃事件は威力業務妨害罪や器物損壊罪で有罪になった事件である。ウトロ等放火事件はヘイト・クライムだが、同時に差別思想の宣伝であってヘイト・スピーチでもある。相模原やまゆり園事件もヘイト・クライムだが、優生思想を宣伝したヘイト・スピーチでもある。

現実に目を閉ざして、「表現としてのヘイト・スピーチ」だけに限定した議論をすることで、具体的な問題解決を困難にする論法だ。