Tuesday, June 14, 2022

ヘイトスピーチ研究文献(198)憲法問題のソリューションd

市川正人「1 表現の自由――ヘイトスピーチの規制」市川正人・倉田玲・小松浩編『憲法問題のソリューション』(日本評論社、2021年)

 第7に、思想の自由市場論そのものへの疑問である。

『ヘイト・スピーチ法研究原論』240頁で、市川への応答として、私は次のように書いた。

「第五に「思想の自由市場」論は検証されたことのない仮説に過ぎず、社会科学的根拠がない。そもそも検証可能性がない。日本国憲法が「思想の自由市場」論を採用しているという論証もなされていない(本節第二項参照)。」

 既に述べたように、私は「憲法第21条と第12条と第13条」を根拠に議論している。

 これに対して、市川は「憲法21条と思想の自由市場論」を根拠に議論する。市川は憲法第12条と第13条に依拠しない理由を示すことなく、思想の自由市場論という日本国憲法に書かれていない独自の見解を根拠に据える。これは憲法解釈ではなく、改憲論ではないだろうか。

思想の自由市場論への疑問を、私は『ヘイト・スピーチ法研究原論』232235頁、及び『ヘイト・スピーチ法研究要綱』7274頁に詳しく書いた。その要点を再確認しよう。

思想の自由市場論は憲法原理でもなければ社会科学理論でもない。一度も検証されたことのない仮説であり、単なる比喩的表現に過ぎない。

①思想の自由市場を経済市場と類比する根拠や具体的内容が明らかでない。思想の自由市場論の比喩の正当性自体疑わしい。ウォルドロンは「彼らはロースクールの学生に、『思想の市場』という呪文をまくしたてることを教えるだけである。経済市場においては政府による一定の規制が重要だと一般的に思われている。にもかかわらず、私たちは、『思想の市場』に関しては、そうした規制に類比されるものを何も生み出してこなかった」と言う(ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』186頁)。経済市場には貨幣という「共通言語」があるが、思想の自由市場には「共通言語」が存在しない。

②自由市場論の成立には市場参入者の同質性と平等性が保障されなければならない。この前提を掘り崩すヘイト・スピーチに思想の自由市場論を適用することはできない。同質的で平等な市民同士の意見交換ならば少数意見が多数意見に変わることがありうる。異なる人種・民族等に属し、構造的差別の下に置かれている場合、マイノリティがマジョリティに変わる可能性があるとなぜ言えるのか。

③タイムスパンが明示されない。万が一仮に長期的には思想の自由市場論が当てはまる場合があるとしても一般的に適用できるとは限らない。大衆がナチスを支持し、マッカーシズムがアメリカを席巻するのが現実である。

④「悪貨は良貨を駆逐する」という常識を考慮する必要がある。思想の市場において悪貨が良貨を駆逐してきたことは改めて証明する必要がない。思想の自由市場論は質の悪い喩え話にすぎない。あるいは思想の自由市場論という悪貨が良貨を駆逐してきた。

⑤市場に参入するつもりがない被害者をなぜ無理やり引きずり出して、参入を強制しなければならないのか。加害者が一方的に押し掛けて罵声を浴びせる事例で、被害者に対抗言論を強制する論者はヘイト・スピーチの「共犯」ではないだろうか。

結論として、①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、あいまいな比喩的表現を超えるものではない。②思想の自由市場論が仮に検証されてもヘイト・スピーチに適用する妥当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法が採用しているという論証がなされたことはない。④思想の自由市場論をヘイト・スピーチ論に持ち出すことは、被害者を無理やり引きずり出すことであり、他者の主体性を無視する暴力である。以上が私の考えである。

市川は次のように主張する。

「しかし、そもそも『思想の自由市場』論においては、本来、だれでもが思想の自由市場に登場することを禁止されていなければよいのであって、表現行為のしやすさや思想内容の受け入れられやすさは問題とならない。それゆえ、実際に反論することが困難であるとか、反論が有効性をもたないがゆえに『思想の自由市場』論は十分には機能しないので、当該表現を禁止すべきだという主張は、国家の規制によって健全な思想の自由市場を確保しようとするものであって、『思想の自由市場論』に立つ表現の自由論に大きな修正を加えようとするものである。しかし、こうした立論を安易に認めれば、「『思想の自由市場』の実質的な保障」、「表現の自由を守るため」といった名目で、国家による広い範囲の表現行為の禁止が認められることになり、表現の自由の保障は大きく損なわれることになるであろう。」(10頁)

市川は思想の自由市場論を前提とした修正論に反論している。私は思想の自由市場論そのものを否定しているので、ここでは議論がすれ違っている面があるが、まず、市川の主張に即して私の見解を対置してみよう。

 ①市川は「そもそも『思想の自由市場』論においては、本来、だれでもが思想の自由市場に登場することを禁止されていなければよいのであって、表現行為のしやすさや思想内容の受け入れられやすさは問題とならない」と言う。「市場に登場することを禁止されていなければよい」から、「市場参入者の同質性と平等性」を保障する必要はないということだろうか。市場でだれがどのようにふるまうかはどうでもよく、とにかく市場への登場を阻止されていなければよいという趣旨だろうか。そうであれば、「思想の自由市場ではより良い思想が生き残る」というテーゼは何処へ行ったのだろうか。「少数意見が多数意見に変わる」というテーゼは何処へ行ったのだろうか。不思議である。

②仮に「表現行為のしやすさや思想内容の受け入れられやすさは問題とならない」というのも、「思想の自由市場ではより良い思想が生き残る」というテーゼや、「少数意見が多数意見に変わる」というテーゼを実質的に修正しているのではないだろうか。

 ③「市場に参入するつもりがない被害者をなぜ無理やり引きずり出して、参入を強制しなければならないのか」という私の見解との関係では、市川は「市場に参入するつもりのない被害者は市場の外で黙って被害を受け続ければよい」と言うのだろうか。

 以上の3つは、市川の主張への疑問であるが、次に市川が言及していないことを確認しておこう。

 ①市川は「思想の自由市場を経済市場と類比する根拠や具体的内容が明らかでない。思想の自由市場論の比喩の正当性自体疑わしい。」という私の指摘には応答しない。

 ②「タイムスパンが明示されない」点にも応答しない。

③「悪貨は良貨を駆逐する」点にも応答しない。

④思想の自由市場論を、日本国憲法が採用しているという論証がなされたことはない点について応答しない。

市川は「当該表現を禁止すべきだという主張は、国家の規制によって健全な思想の自由市場を確保しようとするものであって、『思想の自由市場論』に立つ表現の自由論に大きな修正を加えようとするものである」と言う。

私は「日本国憲法の表現の自由」を論じているが、市川は<「思想の自由市場論」に立つ表現の自由>を論じている。「『思想の市場』という呪文をまくしたてる」(ウォルドロン)だけである。

 思想の自由市場論は、中学や高校の教室で子どもが頭の体操をするのには便利かもしれないが、建付けが粗野であり、憲法学が論拠としうる議論ではないだろう。思想の自由市場論という比喩表現を根拠に差別を容認することは、憲法の人権原則を解体する危険性が高い。