Friday, December 02, 2022

ジャーナリズムの未来を語ろう ――『ジャーナリストたち』出版を記念して

ジャーナリズムの未来を語ろう

――『ジャーナリストたち』出版を記念して

https://31shobo.com/2022/09/22006/ 

日時:2023年1月7日(土)午後1時30分開場、午後2時開会、5時終了

会場:渋谷勤労福祉会館・第一洋室(定員90名)

東京都渋谷区神南1-19-8

公園通り・パルコはす向かい

参加費:500円

 

<座談会>「ジャーナリズムに未来はあるか」

池田恵理子(元NHKディレクター、女たちの戦争と平和資料館)

朴日粉(元朝鮮新報記者、朝鮮大学校朝鮮問題研究センター運営委員)

竹信三恵子(元朝日新聞編集委員、和光大学名誉教授)

文聖姫(週刊金曜日編集長)

永田浩三(元NHKプロデューサー、武蔵大学教授)

前田朗(司会、東京造形大学名誉教授)、ほか

 

<あいさつ>

三一書房編集部より

 

戦争と環境問題によって世界はますます分断されています。東と西の分断、北と南の分断。オフラインとオンラインの分断。人種や民族、性別、性的アイデンティティ、あるいは貧富の格差など、あらゆる領域に境界線が引かれています。

ITやAIをはじめとする技術的可能性は、メディアを飛躍的に発展させたように見えて、操作と単一化の危機に瀕しています。全体主義の罠にはまりかけ、フェイクとヘイトと陰謀論が蔓延し、メディアの信頼性は低下する一方です。しかし、いまあるメディアの先にしか展望が拓けません。

ジャーナリズムはどこから来て、どこへ向かおうとしているのでしょうか。かつては自明だったはずのこの問いに、私たちはどのように応答できるでしょうか。一人ひとりの実践と思索を踏まえて、あらためてジャーナリズムの未来を語り合いましょう。

 

<主催>

平和力フォーラム/『ジャーナリストたち』出版記念会実行委員会

連絡先:E-mail:akira.maeda@jcom.zaq.ne.jp

  

Wednesday, November 30, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(217)レイシズムを考える07

明戸隆浩「差別否定という言説――差別の正当化が社会にもたらすもの」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

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1 はじめに――現在進行形の「否定」

2 事実の否定と責任の否定

3 事例(1)――「ファッキンコリア」

4 事例(2)――関東大震災における朝鮮人虐殺

5 おわりに――「差別否定」にどう対抗するか

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明戸は、エリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』の翻訳を手始めに、ヘイト・スピーチに関する社会学的論考を多数発表してきた。法律論に傾きがちな私にとっては、明戸の分析に学ぶことは重要である。

明戸は西欧における「ホロコースト否定」に代表される「歴史修正主義」に言及しつつ、「否定」は「歴史」に限られず、「差別否定」と呼ぶべき事例があることに着目する。「直接的差別が行われた後で、それを否定したり、過小評価したり、正当化したりする」言説であり、「差別煽動」→「直接的差別」→「差別否定」という流れで理解できるという。

明戸はブライシュのホロコースト否定論の説明では、「正当化」「過小評価」「否定」の三つに分けられているという。他方、テウン・ヴァン=ダイクは、「否定」「過小評価」「正当化」「弁解」「非難」「転化」が挙げられる。明戸は、これらを手掛かりに、検討する。

一つの視点は、「事実そのものを」否定する場合と、「(事実については認めたうえで)事実についての責任」を否定する場合の区別である。

また、事実の否定だけならば「自己弁護」にとどまるが、さらに文音で被害者側に責任を押し付ける「犠牲者避難」を伴う場合がある。

明戸は、第1に「事実の否定」と「責任の否定」、及び第2に「自己弁護」と「犠牲者非難」という視点を交差させて、差別否定の分類を試みている。

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明戸は具体例として、2017年の「ファッキンコリア」事件について、否定と過小評価、転化、正当化と弁解、非難の要素を抽出する。また、関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる議論にも、否定と過小評価、転化、正当化と弁解、非難の要素があるという。

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最後に明戸は、「差別否定」をあらためて「ヘイトスピーチ」の議論に位置付けなおす。ドイツをはじめ、西欧では、ホロコースト否定を処罰する例が少なくないので、これらを参照して考察すると、2016年のヘイト・スピーチ解消法の定義では「差別否定のように結果として扇動効果をもつような言動については、明示的な対象となっていない」とし、「差別否定」の言説が差別煽動としてかなり大きな役割を果たしていることに注目すべきだという。差別否定の一部は、最近、研究が進んでいるマイクロ・アグレッションとも重なるだろう。

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歴史否定犯罪について、私の見解は『ヘイト・スピーチ法研究序説』第10章第5節「歴史否定犯罪(アウシュヴィツの嘘)」、及び『ヘイト・スピーチ法研究要綱』第9章「ホロコースト否定犯罪を考える」において詳しく示した。

西欧諸国ではナチスによるユダヤ人迫害をはじめとする歴史的犯罪の否定が問題となるが、東欧諸国ではスターリン時代の犯罪の否定がとわれる。他方、韓国ではこの種の立法提案がなされてきたため(法律はできていない)研究が進んでいる。また、西欧では「法と記憶」をめぐる議論になるが、ラテンアメリカでは「真実への権利」のフィールドになる。論じるべきことは多いので、明戸論文をきっかけに、さらに研究をすすめたい。

Monday, November 28, 2022

それでも核兵器と戦争の廃絶を求めて

大久保賢一『迫りくる核戦争の危機と私たち――「絶滅危惧種」からの脱出のために』(あけび書房)

https://akebishobo.com/products/nuclearwarfare

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大久保は弁護士で、日弁連憲法問題対策本部核兵器廃絶部会長、日本反核法律家協会会長、核兵器廃絶日本NGO連絡会共同代表である。

著書に『「核の時代」と戦争を終わらせるために』(学習の友社)

https://www.hankaku-j.org/books/220122.html

『「核兵器も戦争もない世界」を創る提案』(学習の友社)

https://www.hankaku-j.org/books/210806.html

『「核の時代」と憲法9条』(日本評論社)

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/8036.html

があり、核廃絶運動の理論的先導者である。

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大久保はこのところ矢継ぎ早に核廃絶を求める著書を送り出しているが、2022年の著書は2冊目になる。ロシア・ウクライナ戦争における核使用の危機を敏感に受け止めて、核使用を阻止し、核廃絶を訴える。日本における「核共有」論への批判も重要な動機である。

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序  核戦争の危険性と私たちの任務

   ――核兵器廃絶と9条の世界化を

第1部 ロシアのウクライナ侵略を考える

第2部 米国の対中国政策と核政策  

第3部 核兵器廃絶のために

第4部 核兵器廃絶と憲法9条

資 料 核兵器禁止条約の基礎知識

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400頁に及ぶ本書で、大久保は従来からの核廃絶の主張を展開するが、同時に2022年の現在の課題として、ロシア・ウクライナ戦争、米中対立、日本における反核の理論と運動について積極的に議論を繰り広げる。現在このテーマでもっとも精力的な議論をしている論者である。

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世界には12,000発の核弾頭があり、プーチンは核使用の威嚇を行い、米中対立も激化している。「核の傘」に依存している日本は核兵器禁止条約に反対し、政治家は「核共有」を唱えている。

「核持って絶滅危惧種仲間入り」という川柳を紹介しながら、大久保は、この状況を打開するために論戦を挑む。

「明日、地球が滅びようとも、私は、今日、リンゴの木を植える」

本書には大久保の論説30本が収録されている。4部構成であるが、どこから読み始めるのも自由だ。後ろから読み始めても構わない。弁護士であり反核の理論家であるが、大久保の論説はフツーの市民にも読みやすい。専門知識をかみくだき、ていねいに論じている。自説を展開することよりも、反対意見を紹介して、一つひとつていねいに応答する。論点が明確で、読者は自分の目で比較検討できる。自分の頭で考えなおすことができる。

本書に限らず、大久保の著作は、いずれもフツーの市民に語りかけるスタイルである。大久保を直接知る者なら、大久保は話し言葉と書き言葉が見事に合致した論者であることを知っている。

もちろん、反核、反戦争の理論書だから、国際法の引用も決して少なくない。核不拡散条約や核兵器禁止条約や、国際司法裁判所の判決も引用される。それでも、小難しい本にならないところが、大久保流である。

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理論論争の中で、大久保は絶妙のネーミングも駆使する。一例をあげると、大久保は「『死神のパシリ』の妄動を許すな」という。「死神のパシリ」とは、9条の非軍事平和主義を投げ捨てて、核兵器に頼れと主張する「核共有」論者のことである。具体的には安倍晋三元首相、高市早苗自民党政調会長(当時)、維新の会などのことである。死神とは「人を死に誘う神」、パシリとは「使い走り」である。核不拡散条約も核兵器禁止条約も無視して、核兵器依存を公言するのは「死神のパシリ」だという。

「主観的にはプーチンと敵対しているつもりのプーチン主義者」と言ってもよいのかもしれない。

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私は「安倍晋三は安倍サタン晋三だ」と命名した。日本はサタンだと主張する統一教会の広告塔をわざわざ買って出たのだから、安倍サタン晋三こそ「本名」というべきだろう。「パシリ」ではなく「ミドフィルダー」かもしれない。

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第3部「核兵器廃絶のために」で、大久保は「核兵器5か国首脳共同声明の虚妄」「岸田首相の核兵器廃絶論の虚妄」「日本政府は、なぜ、核兵器禁止条約を敵視するのか」「浅田正彦氏は『核兵器廃絶』おいわない!?」「『核軍縮コミュニティー』の対立を乗り越えることは可能か」「『核兵器のない世界』を実現するために政府との『対話』と『共同』は可能か」「『市民連合』と野党の政策合意について」など、変転する情勢に合わせて、多彩な議論を繰り広げる。

はっきりしているのは、原則である。平和であり、戦争回避であり、核抑止批判であり、国際人道法であり、憲法の国際協調主義であり、9条である。つねに原則を確認し、その都度の論点に即して議論を展開する。柔軟だが、堅固でもある。どちらとみるかは論者の立ち位置によって異なるかもしれない。

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国際情勢は最悪である。国内情勢も悲惨である。憲法無視の岸田政権が悪法の積み重ねに励もうとしている。

だが、大久保は諦めない。大久保は俯かない。口を閉ざすことも、筆を置くこともない。現実が厳しくなればなるほど、舌鋒鋭く現実に立ち向かう。平和運動の現場に根差し、非核・反核運動の現場からエネルギーを得て、大久保は弛むことなく、核戦争の危機に立ち向かう。

終末時計が「残り100秒」を示しても、1秒でも針を戻すために大久保の闘いは続く。

Sunday, November 27, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(216)レイシズムを考える06

百木漠「『左翼的なもの』への憎悪」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

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1 憎悪の転移

2 「左」から「右」へ

3 「置き去りにされた人々」からの反撃

4 「戦後」体制の反転

5 結語

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ネット上の議論が、しばしば「知識人」や「左翼」への反発と憎悪をたぎらせ、感情的に爆発していることはずっと以前から指摘されていた。メーリングリストで議論が始まった時期にも顕著だったが、その後、ツイッターをはじめとする「瞬時」の投稿スタイルが定着するようになり、ポピュリズム、炎上、フェイク全盛となり、事実も論理もお構いなしの罵声が飛び交うようになった。「左翼」への嘲笑や猛攻撃が常態化している。もっとも、そこで「左翼」とされているのが何であるのか、実態としてはイメージしにくく、現実離れのした、どうでもよい議論という印象があった。とりあえず、見る必要はないし、見ても時間の無駄であることだけははっきりしている――と考えるのが普通だろう。

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百木は、単に時間の無駄であるとは考えず、「左翼的なもの」への憎悪が存在するのであれば、それはどのような憎悪なのか、どこから、なぜ生まれてくるのかを分析しようとする。メディアの在り方が大きく変化し、オンライン・メディアが世論を形成し、政治・社会・経済に多大の影響を与えている現在、どんなにくだらないと思われる意見であっても、否、くだらなければくだらないほど、事実を無視すれば無視するほど、そしてフェイクであれヘイトであれ陰謀論であれ、現実に多大の影響力を有するのだから、きちんと分析する必要がある。なるほどと思うが、私にはできない仕事だ。

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百木は、「昨今のヘイトスピーチを支えているのは、在日の人々への直接的な憎悪であると同時に、より広範な『左翼的なもの』に対する敵意でもある。この両者が混ざりあうことによって、互いの憎悪がさらに増殖・拡散され、もはや現実の在日の人々に対する批判・非難としてほとんど実態をなさないところにまで、『在日』バッシングが膨れ上がってしまうという構造が形成されているのである。」という。

さらに「このような『憎悪』の歪んだ構造は、間違いなく戦後日本の特異な言説空間に由来するものである。日本のヘイトスピーチ問題が、西洋的なレイシズム(人種差別)の観点だけからでは解けない理由はそこにある」という。

こうした問題意識から、百木は、1982年生まれの自身の生育史や経験を基に、過去20年ほどのヘイトの歴史をフォローし、「価値観の反転」を確認する。そのうえで、百木は欧米諸国のヘイト現象においても、「左派・リベラル側の問題」を焦点化する。百木にとって、ヘイトはヘイト側の問題ではなく、「左派・リベラル側の問題」になる。

百木は日本における「価値観の転換」」を1990年代における「日本の『戦後』体制の実質的な終焉」に求める。

この状況を克服しなければならないが、百木は「厄介なことに、左翼的な人々がヘイトスピーチの『正しくなさ』を強調すればするほど、右翼的な人々はそれに対する反発を強め、いっそうヘイトスピーチ的な言動を強めていくという悪循環の構造がある」という。

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百木の問題意識を、私は共有していないため、論理をすんなり理解することができていない。

日本におけるヘイト・クライムとヘイト・スピーチには150年の歴史があり、戦後日本社会においても構造的な差別の下で継続してきたので、1990年代の「日本の『戦後』体制の実質的な終焉」を焦点化する理由もよく理解できていない。

私の理解では、ヘイトは「左派・リベラル側の問題」ではなく、ヘイト側の問題である。百歩譲っても、ヘイト側と被害者側を含んで形成されている日本の歴史的制度的な差別構造の問題である。「右派」と「左派」の非難合戦は、どうぞご自由にというしかない。そこにマイノリティを巻き込んで、マイノリティにヘイトを浴びせる加害をやめてほしいだけである。それは「ヘイトスピーチの『正しくなさ』」という話ではなく、人権侵害であり、犯罪であるという話である。犯罪を処罰するべきであるということは、「左派」か「右派」かとは関係ない。EU諸国では、ヘイト・スピーチを処罰するのが常識である。

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とはいえ、百木の言う通り、メディアにおいては「左派・リベラル」への憎悪が言説を規定しているように思える。それがフェイクやヘイトと結びついているのも、なるほどそうだろうと思う。その意味では、百木のような分析が必要なのだろう。

Sunday, November 20, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(215)レイシズムを考える05

遠藤正敬「国籍と戸籍」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

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日本における差別の動機(根拠)として主要なものが国籍と戸籍である。外国人差別は国籍による差別であり、女性差別や部落差別は戸籍に関連して行われた。このことはずっと以前から指摘され、その批判をする思考もよく知られてきた。国籍と戸籍の結びつきもそれなりに知られてきた。遠藤は、日本的差別の根拠となる国籍と戸籍の連関を主題に据える。

遠藤は『戸籍と無戸籍』(人文書院)、『戸籍と国籍の近現代史』(明石書店)の著者である。

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1 差別の温床となる戸籍

2 旧植民地をめぐる国籍問題

3 戸籍における“排外主義”

4 戦後における戸籍の“純化”

5 今なお残る国籍の壁

6 おわりに

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戸籍については知っているつもりになっていたが、「日本の植民地統治における国籍と戸籍の関係」の複雑な経過(朝鮮、台湾、樺太)の差異はきちんと知らなかった。遠藤は国籍と戸籍による管理・統合・排除のメカニズムをていねいに説明している。

「戸籍は“排外主義”をそのひとつの主柱」としている。つまり、国家による排外主義である。壬申戸籍に始まる家制度と不可分の戸籍は、「制度としての家が日本国家の基盤とされ、日本人は必ず一つの家に属することが求められた」という。知っていたことだが、その意味を正確に理解していたわけではない。遠藤によると「まさしく家=戸籍は日本人にしか生存を許さない空間なのであった」。

戦後においても1952年通達から1959年通達にかけて、「国民国家の再編」、旧植民地出身者の排除、外国人の排除が進み、その下で「日本国民」が再構築された。

1981年の難民条約加入により部分修正がなされたものの、基本法制に変化はなく、いまなお「日本国民」は独自の国籍と戸籍の枠内に幽閉され、外国人排除を当然とする思考様式に捕らわれている。反差別の運動にかかわる市民であっても、国籍と戸籍の閉鎖空間から逃れられるわけではない。

「戸籍は、民族、文化、ジェンダーといったさまざまな差異をもつ個人のアイデンティティをその硬直した規格に押し込んで『日本人』として画一化するものである。その規格への適合を拒む者は『まつろわぬ者』や『非国民』として貶められる。かくして日本国家への同調圧力がつくり出されている。これが戸籍のもつ権力性をもってきた。」

なるほど、その通りと思う。遠藤はさらに次のようにまとめる。ここが重要だ。

「レイシズムの厄介なところは、『国民』という表装的な同質化を強要する裏面で、その内なる『血』をも取り沙汰して排撃する点である。戸籍は出自にまつわる境界線を『日本人』のなかに設定し、かつ公示することによって社会的な差別や格差を再生産する効果をもってきた。これは支配権力が国民を階層的・分断的に統治するという目的に役立ってきたものといえよう。」

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国籍と戸籍の壁と同時に、日本国家は「外国人登録」というシステムを構築した。そこにおける「朝鮮籍」の複雑な歴史は、日本国家の人民支配の特質を浮き彫りにする。出入国管理も含めて、その全体を見据えることで、日本国家が見えてくる。

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歴史学の真髄に触れる01 『歴史のなかの朝鮮籍』

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/a.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/blog-post_26.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/blog-post_83.html

崩壊を加速させる日本解体論

白井聡・望月衣塑子『日本解体論』(朝日新書)

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=23726

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<政治状況も、国民生活も悪化の一途をたどり、日本を蝕む閉塞感に打開の一手はあるのか。政治学者と新聞記者が、政治・社会・メディアの問題点、将来に絶望しながら現状を是認し続ける「日本人の病」に迫る。さらに戦後の歴史、国民意識の現在地を踏まえながら、縮小するこの国の、向かうべき道筋を示す。>

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第1章 77年目の分岐点

第2章 「政治的無知」がもたらす惨状

第3章 壊れていくメディアと学問

第4章 癒着するメディアと権力

第5章 劣化する日本社会

第6章 国家による侵攻の衝撃

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「永続敗戦論」「国体論」の政治学者と、映画『新聞記者』のモデルによる対談だ。

第1章・第2章では主に日本政治の病理を鋭く批判し、第3章・第4章ではメディアと学問の劣化・衰退を論じる。第5章は、日本政治・メディア・学問の劣化を必然化させる日本社会の劣化を分析する。

随所で、うん、うん、そうだ、そうだ、その通りと頷きながら読める本であり、ほとんどすべて、私たちがこれまで言ってきたことと同じだ。

与党の横暴と混迷、官僚の腐敗、財界の悲惨さ、ジャーナリズムの消失、御用学者の跋扈――何も新しいことがないと言ってよいほど、この国の愚劣さと恥辱をあますところなく論じている。残念ながら、すべて賛成と言ってよいほどだ。だから、面白いと言えばおもしろいが、おもしろくないと言えばおもしろくない。

天皇制からアメリカ支配に代わった「国体」の寿命が尽きようとしており、日本はあらゆる領域で腐敗しており、腐臭を放つばかりだという。政治外交的に属国であり、内政も外政も自分では決められない。経済的にも衰退の一途を辿っており、放っておけば崩壊するだけの日本を、白井と望月はさらに「解体」しようとする。

政治経済のみならず、メディアや学問も含めて腐朽が進行する一方だが、この国を支えてきた「国民主権」の虚妄は、「国民」の一員たる白井や望月も責任の一端を負う。それゆえ、この国の解体に最後までつきあう姿勢であろう。

白井は、日本は崩壊するしかない、早く崩壊した方が、まだ救いが生まれるかもしれないと考えているようだ。もっとも、その先に何が待っているかには言及がない。おみくじ占いではないので、やむを得ない。

第6章はロシア・ウクライナ戦争を取り上げているが、レーニン研究者の白井はロシア留学経験があるので、この章だけは、知らなかったことが語られている。別の意味でおもしろい。

戦争については、白井の実感として、ロシアは戦争をやめないだろうと悲観論を唱えている。残念なことに白井の実感には根拠がありそうだ。困ったことだ。

Thursday, November 17, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(214)レイシズムを考える04

間庭大祐「ヘイトクライム、あるいは差別の政治化について――アレントの全体主義論からレイシズムを考えるための試論」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

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間庭は、2013年2月の大阪・鶴橋における「鶴橋大虐殺」発言に「理解しがたいほどのイマージナルで虚構的な性質」を感じ取り、「死」を語る非現実感に戦慄を覚え、20世紀の暴力を全体主義の悪夢と受け止めたアレントの戦慄になぞらえる。そこで暴力としての人種差別を、アレント的な思索により解明しようとする。

ナチスドイツによるユダヤ人絶滅政策が受け入れられてしまった原因を、アレントは、暴力の道具的性格に見出す。「道具はそれを使用する人間の講師によってはじめて暴力となる」ので、正当な目的であれば暴力があたかも正当であるとみなされることがある。

間庭によると、「暴力が人間の人間に対する感覚麻痺を伴った関係切断――人間と『物』との二分法――によって為されるものである以上、人種差別主義はまったく暴力的である。」

その暴力行使を正当化する原理が問われなければならない。それがイデオロギーであり、イデオロギーとしての差別が猛威を振るうことになる。

イデオロギーとしての差別は、アレントの主題では政治的反ユダヤ主義のことである。20世紀の反ユダヤ主義が汎民族運動のうちに現れている。自民族にとって都合の良い仮想現実を提供してくれるのが、反ユダヤ主義である。これがのちに全体主義に継承される。「差別の政治化の極限状態としての全体主義」に目を移す必要がある。

間庭によると、全体主義のイデオロギーは似非科学的な支配装置にほかならないが、イデオロギーは人々に<超意味>をもたらす。「経験としての強制収容所の核心」をアレントは「世界の無意味性」に見出す。それは「自己の無用性」を意味することになるので、世界の意味を見失い、実存的苦境に立たされた人々は、<超意味>に吸引される。

「見捨てられた人間」――「他者との共同性から見捨てられ無世界であるがゆえに、虚妄な世界観あるいはすべてを説明し尽くしてくれるかのようなイデオロギー的<超意味>に頼らざるをえず、きわめて能動的に自己の観念へ閉じこもる」人間。これがテロルへの回路を開く。

間庭は次のように述べる。

「こうした極限的な差別の政治化は、排除し抹殺すべき『内部の敵』を意識的かつ能動的に創出しなければならない原理と構造を内包している。イデオロギー的『プロセス』に飲み込まれた人間はさらに現実から逃避し、イデオロギー的世界観から生まれる自己観念を養うために、常に自分の憎悪の対象を生産し続けねばならなくなるのである。こうなれば、もはや『ユダヤ人』が現実的に何であるのかはまったくどうでもよいことになる。というのも、あくまで『ユダヤ人』は差別の政治化のためのシンボルにすぎなくなるからである。そうであるがゆえに、彼らは『ユダヤ人』を絶滅させると次の格好の餌食を見つけ出し、限りなく『プロセス』を維持し続ける。差別の政治化の最終地点は、人類の絶滅なのである。」

アレントはこうした20世紀の暴力経験を乗り越えるために、「複数」の人々による世界の共有を、他者とのコミュニケーションを通して、自分を創造しなおすことに見る。

間庭の言葉では「自己観念への逃避を自覚的に拒否することであり、人間一人ひとりの『かけがえのなさ』への想像力を保つこと」とされる。

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アレントの『全体主義の起源』は何度か読みかけたが、結局、通読できないままである。アレント研究はずいぶんたくさん出ているので、いくつか読んだが、新書レベルの解説にとどまる。現代思想における最重要の思想家であると思うが、自分できちんと読めていない。

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間庭の思索は、20世紀の暴力経験をいかに乗り越えるかに向けられており、生産的な議論だ。欲を言えば、差別の歴史的構造的な文脈とイデオロギー的な文脈を、もっと明確に接合して展開してもらえると良いなと思う。間庭としては、それは十分配慮した上でのことだろうが、読者の問題意識が、個人の「想像力」の問題に限定される恐れはないだろうか。もっとも、それは読者が自分で考えるべきことかもしれない。