Saturday, February 26, 2022

歴史学の真髄に触れる02 『歴史のなかの朝鮮籍』b

鄭栄桓『歴史のなかの朝鮮籍』(以文社)

第3章 戦時下の「国籍選択の自由」──朝鮮戦争と国籍問題

第4章 国籍に刻まれた戦争──いかにして朝鮮籍は継続したか

第5章 同床異夢の「朝鮮国籍」──停戦から帰国事業へ

3章は、朝鮮戦争時の日本政府の外国人登録に関する方針変更を扱う。南北朝鮮の戦争時、米軍が国連軍となって朝鮮半島に出兵し、日本もこれに協力したため、朝鮮敵視と韓国支援が全面化した。このため外国人登録においては、在日朝鮮人の国籍を韓国籍に一本化しようとする動きが始まる。1965年にまとまった日韓条約のための日韓会談は朝鮮戦争勃発直後に始まった。「北鮮系」朝鮮人取り締まりの強化、韓国籍と「韓国政府の在外国民登録証」の連動、朝鮮人強制送還論、そのための出入国管理令、さらにサンフランシスコ平和会議からの南北朝鮮の排除、さらには日韓会談における国籍・強制送還問題と、激動する戦後史に在日朝鮮人が翻弄されていく。これに対して、民戦や祖国防衛全国委員会による強制送還反対運動がおこるとともに、「国籍選択の自由」論が登場する。日本政府による「韓国籍」の強要に対する抵抗である。ここでの朝鮮籍は、将来の統一朝鮮、あるべき朝鮮国籍としての意味を有することになるだろう。日本人側では平野義太郎が「国籍選択の自由」を論じていたという。

4章は、サンフランシスコ条約によって日本が朝鮮の独立を承認し、在日朝鮮人の国籍を韓国籍にしようとしたが、在日朝鮮人の強い反対のため、韓国籍への統一ができず、朝鮮籍が継続することになった経緯を、外国人登録法の制定、サンフランシスコ条約発効後の外国人登録一斉切替を中心に分析する。

日本は平和条約発効に伴いすべて韓国籍にする方針をとったが、国会においても、韓国だけを正統政府と認定すること及び国籍強要への疑問が示された。第一次日韓会談が決裂し、法的地位に関する協定を締結することができず、「空白」が生じた。空白を埋めるために、朝鮮戦争において韓国が「国連軍」とともに戦っていることなどを掲げたものの、法理論的には説明になっていない。そして外国人登録一斉切替反対闘争に直面した日本は、民団の要請に応じて、「旧朝連系」朝鮮人を弾圧しながらも、韓国籍の押し付けには無理があると判断し、朝鮮籍の継続を認めることになった。平和条約による日本の国際社会への復帰、南北分断と朝鮮戦争の影響、在日朝鮮人の南北分断、外国人の在留資格の安定化といった諸要因が絡み合う。

さらに、韓国籍への切り替えをしない者には多様性があった。日本国籍を希望する者、朝鮮民主主義人民共和国の公民を望むもの、将来の統一朝鮮の国籍を考える者である。国籍選択の自由の幅はかなり広かったといえよう。しかし、現実政治の狭間に置かれた在日朝鮮人は、朝鮮民主主義人民共和国の公民を選択していく。「共和国の国籍」である。とはいえ、日本政府はこれを「符号」とする姿勢を変えていない。正規の国籍ではなく、外国人登録法上の国籍表示が政治闘争の焦点であった。

5章は、朝鮮戦争停戦から日韓条約締結までの12年間を、在日朝鮮人の国籍問題の「過渡期」と位置づけ、朝鮮総連結成後の朝鮮人運動の高まり、朝鮮籍への書き換え運動が登場したことを扱う。「外国人登録上の国籍」表示を韓国から朝鮮へ、あるいは朝鮮民主主義人民共和国へ書き換え、変更、訂正することを求める動きが出て来る。在日朝鮮人は朝鮮半島南部出身者が多かったので、韓国とするのは自然であったが、「内戦」状態のため、統一されるまでは朝鮮としたいという者もいたし、知らない間に韓国と記載されたので訂正したいなど多様な理由があった。強制送還問題、警察による朝鮮人弾圧問題、そして朝鮮人学校閉鎖などが続く中、在日朝鮮人への迫害を朝鮮民主主義人民共和国への敵対行為と見る意識も生まれた。指紋押捺反対も始まった。ふたたび国籍選択の自由に光が当たる。警備公安警察は、国籍書換えを公安情報収集の機会ととらえ、活動を活発化させてもいた。

法務省は、指紋押捺制度の実施、朝鮮・韓国籍者数の分離公表の停止、外国人登録法の改正により運動の封じ込めを計った。1950年代後半には帰国事業が始まる。1959年には死刑囚だった孫斗八裁判が提訴される(1963年死刑執行)。他方、司法の場で国籍確認訴訟が提訴され、裁判所の判断として朝鮮国籍を認める判決も出て来る。

このように鄭栄桓は、戦後日本における在日朝鮮人処遇を、日本と朝鮮半島の政治変動の中に位置づけ、ていねいに検証している。日本側の植民地支配への無反省と開き直り、サンフランシスコ条約及びアメリカの意向を背景に、朝鮮と韓国の南北対立状況をみながら(利用しながら)、在日朝鮮人の在留資格、法的地位の不安定さを微修正しつつ維持していったのである。その変容過程に日本を国民国家として再形成する欲望が絡み合っていた。

5章の冒頭に、平賀健太「平和条約の発効に伴う朝鮮人の国籍について」(1956年)が引用されている。懐かしい名前だ。1970年代の「司法の危機」の端緒となった「平賀書簡問題」の平賀健太だ。札幌地裁に係属していた長沼訴訟において、自衛隊の合憲性が問われたときに、札幌地裁所長の平賀が、担当の福島重雄裁判官に裁判干渉の手紙を渡した。これに端を発して、青年法律家協会裁判官部会に対する攻撃が激化した。「赤狩り」ならぬ「青狩り」だ。司法の独立を踏みにじり、戦後司法における民主主義を圧殺した司法の危機の主役が、1956年当時は在日朝鮮人抑圧の担当だったことがわかる。

19739月の長沼訴訟札幌地裁判決は、自衛隊の憲法論・法律論・実態論を詳細に検討して、自衛隊違憲の判断を下すとともに、平和的生存権を高らかに宣言した。当時、札幌の高校3年生だった私にも大きな影響を与え、文学志望を法学志望に変えて、法学部に進学することになった。私の『平和のための裁判』(水曜社、1995年)は、高校3年生の時の課題に自分なりに答えた著書だ。

19953月末、国連人権委員会(当時)に参加するため友人と一緒に成田から出立してジュネーヴ空港に着いた。入国手続きで彼が日本政府発行の再入国許可証を提示すると、ジュネーヴ空港の職員は驚いた。直前に阪神淡路大震災が起きていた。その直後に日本から再入国許可証を持った人間がやって来た。担当職員には「大地震が起きた日本から難民が逃げてきた」と映ったのだ。

なぜスイスに来たのか、何処へ行くのか。国連人権委員会? そこで何をするのか。そもそも再入国許可証とは何か。なぜパスポートではなく再入国許可証なのか。在日朝鮮人とは何か。

これらを丁寧に説明しないとスイスに入国できない。丁寧に説明と言っても、背景知識のないスイス人に在日朝鮮人とは何かを説明するのは並大抵のことではない(当時、スイスはまだシェンゲン協定に加入していなかったので、スイス入国の際に大きな問題となった。その後スイスはシェンゲン協定に入ったので、EU域に入域する際にパスポート入国審査となる)。

日本政府の外国人登録法と入国管理法による朝鮮人管理政策の非道ぶりを目の当たりにすることになったが、日本の政治家や官僚には己の無責任さを自覚する機会がない。

もう一つ思い出した。たしか1999年8月の国連人権委員会・差別防止少数者保護小委員会に参加した時のことだ。ロビー活動に来ていた朝鮮籍の在日朝鮮人が再入国許可証を紛失した。ジュネーヴの日本領事館に届け出たところ、「領事館は何もできません。お帰りください」だった。

私も海外でパスポートを紛失したことがある。その時は地元ジュネーヴの警察に紛失届を提出して、その受領証を持って日本領事館に行き、申請すると数日後にパスポートが再発行された。領事館の担当職員はとても親切だった。

ところが、在日朝鮮人が同じ手続きを取ろうとしても、日本領事館は「知りません」と追い出す。結局、彼はフライト当日、ジュネーヴ空港に行ってスイス入管に関連書類を提示し、事情を詳しく説明して、出国とフライト搭乗を許された。成田空港には、家族が本人確認の書類をたくさん持参して待ち受けて、かろうじて入国できた。

再入国許可証はパスポートではないから、諸外国では通用しない。日本に再入国できるだけだ。とはいえ、パスポートに準じる機能をする。にもかかわらず、紛失した場合、日本政府は冷たく見放すため、再発行されず、何もない状態で国際フライトに乗り、成田を目指すしかない。成田で入国できる保証もない。どれほど辛いことか。