ペシャワールからアフガニスタンに向けてグランド・トランク道路を走る。
パキスタン北西辺境州と呼ばれる地域はアフガニスタンの最大民族と同じパターン人(パシュトゥ人)が居住する地域だ。パキスタンの中でも特別な地域で法律も別扱いだという。カラシニコフなど改造銃や麻薬が流通する闇の世界だ。急峻な岩肌の山道を登りきったランディ・コタールから国境のカイバル峠を見晴らすことができる。
ぼくらはランディ・コタールに何度も足を運んだ。牛や材木を積んだ大型トラックが何台もゆっくりと走っていく。ここから下ると国境検問所の向こうには沙漠が続いている。帰還する難民をすし詰めにしたバスがカーブで風を切る。屋根の上に座っている子どもたちが歓声をあげる。2002年3月には戦争が「収束」したから難民の帰還が続いていた。
2003年3月にイラク戦争が始まると、アフガニスタンへの関心は急速に薄らいでいった。あれから4年――。
福田“低姿勢”康夫内閣は「新テロ特措法(補給支援特措法)」を国会に提出したが、自衛隊による米軍への洋上給油に疑惑が浮上した。法の目的外の給油が行われていたのだ。再びアフガニスタンに注目が集まった。
2007年夏の韓国人人質事件に見られるようにアフガニスタンには安全もなければ自由もない。何も外国人だけではない。11月下旬に人道NGOの「オックスファム英国」が発表した報告書によると、アフガニスタンにおける米軍やISAF(実質はNATO軍)による空爆はイラクより激しく、民間人犠牲者が増加しているという。空爆回数はイラクの4倍だという。
2002年10月以来続く戦争のため、アフガニスタン民衆は世界最低水準の暮らしを5年間も余儀なくされている。ソ連侵攻、ムジャヒディン内戦、タリバーン独裁に続く戦争であるから、アフガニスタン民衆は30年戦争の中で生きていることになる。戦争が「収束」するのはいつのことだろうか。
しかし、日本での議論はアフガニスタン民衆の命と暮らしに向けられることはない。米軍支援ではなく国連決議による自衛隊派遣ならよいなどという小沢“プッツン”一郎民主党党首の戯言に続いて、「防衛省の天皇」と呼ばれた前防衛次官が収賄容疑で逮捕され、政治家と官僚の“腐敗競争”が続いている。この国はいつも汚職の季節だ。
11月20日にはルイズ・アーバー国連人権高等弁務官が、アフガニスタンにおける民間人犠牲者の増加を指摘し、ISAFとタリバーンの双方を批判した。侵略者と抵抗者を同じレベルで批判するのは妥当とは思えないが、民間人犠牲者に焦点を当てているのは当然である。
9.11を口実にしてブッシュ政権が始めた「テロとの戦争」の嘘がすっかり暴露されても、米軍は泥沼のアフガニスタンとイラクから撤退することなく、相変わらず空爆を繰り返し民間人を殺戮している。アフガニスタン政府も、米軍やISAFと一緒に自国民を殺害している。テロと無縁の大半のアフガニスタン人が困窮にあえいでいる。
ペシャワールの難民キャンプで出会った子どもたちの大きな瞳と悲しげな表情を思い出す。見渡す限りテントが張りめぐらされたコトカイ難民キャンプでは、大勢の難民に取り囲まれた。一言も発することがない沈黙の視線が痛かった。手作りの土の家が並ぶニュー・シャムシャトゥ難民キャンプで取材した難民家族が振舞ってくれた紅茶は少しも苦くなかったが、心はどうしようもない苦味に浸されていた。ニュー・シャムシャトゥ難民キャンプは帰還が進んでいなかった。
カチャガリ難民キャンプは帰還した難民が多く、土の家が取り払われて整地が始まっていた。跡地利用の計画が動き始めた。しかし、帰還した難民はどうなったのだろうか。無事に故郷に帰ったのだろうか。暮しは成り立つのだろうか。今も生きているのだろうか。
ランディ・コタールからカイバル峠を見下ろすたびに、暖かな風に吹かれてボブ・ディランの「風に吹かれて(Blowin’ in the Wind)」を口ずさんだ。「いつになったら為政者は民衆の声を聞くのだろう。どれだけ人が死んだら気づくのだろう」。その答は吹く風の中にあるのだろうか。ディランは、そんなことを言おうとしたのだろうか。
ランディ・コタールに吹く風の中に答はない。ぼくはいつも風に吹かれて流されながら答を求めていた。でも、いくら風に吹かれても答は見つからない。
ディランが言おうとしたのは、風に逆らって答を掴み取れということだったのではないか――今はこう解釈することにした。ペシャワールで出会った難民たちとの約束を果たせていないぼくの責任を忘れないために。