Friday, November 16, 2018

軍備拡大と改憲・戦争への道を許すな! 「明治150年」徹底批判!


軍備拡大と改憲・戦争への道を許すな!

「明治150年」徹底批判!

侵略と植民地支配の歴史を直視し、アジアに平和をつくる国際シンポジウム



1129日(木)14時(開場1330分)

会場:衆議院第1議員会館・B1・大会議室

1330分から衆議院第1議員会館のロビーで、入場カードの配布を開始します。



総合司会:市来伴子 (杉並区議会議員)

主催者挨拶:藤田髙景 (村山首相談話の会) 

連帯のご挨拶 野党各党、福山真劫・平和フォーラム共同代表

基調講演:  

「明治150年」史観批判―近現代日本の戦争・植民地支配と国民統制―

山田朗(明治大学教授)



※ 韓国・中国の戦争被害者の発言があります



アジアと日本の連帯実行委員会

消防法の関係で会場は300人定員です。定員になりしだい締め切りますので、恐縮で

すが、大至急、下記のメールアドレスまで、出席申し込みをお願いいたします。

☆連絡先  E-mail e43k12y@yahoo.co.jp  

携帯 : 090-3163-3449  



主催:アジアと日本の連帯実行委員会

代表呼びかけ人

鎌田慧(ルポライター)

鎌倉孝夫(埼玉大学名誉教授)

田中宏(一橋大学名誉教授)

内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)

高嶋伸欣(琉球大学名誉教授)

鳥越俊太郎(ジャーナリスト)

山田朗(明治大学教授)

高野孟(インサイダー 編集長、ザ・ジャーナル主幹)

前田朗(東京造形大学教授)

藤田髙景(村山首相談話の会・理事長)

Tuesday, November 06, 2018

元徴用工の韓国大法院判決に対する弁護士有志声明


元徴用工の韓国大法院判決に対する弁護士有志声明



韓国大法院(最高裁判所)は、本年 10 30 日、元徴用工 4人が新日鉄住金株式会社(以 下「新日鉄住金」という。)を相手に損害賠償を求めた裁判で、元徴用工の請求を容認した差し戻し審に対する新日鉄住金の上告を棄却した。これにより、元徴用工の一人あたり1億ウォン(約1千万円)を支払うよう命じた判決が確定した。

本判決は、元徴用工の損害賠償請求権は、日本政府の朝鮮半島に対する不法な植民地支 配及び侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被 害者の日本企業に対する慰謝料請求権であるとした。その上で、このような請求権は、1965 年に締結された「日本国と大韓民国との間の財産及び請求権に関する問題の解決と経済協力に関する協定」(以下「日韓請求権協定」という。)の対象外であるとして、韓国政府の 外交保護権と元徴用工個人の損害賠償請求権のいずれも消滅していないと判示した。

 本判決に対し,安倍首相は、本年 10 30 日の衆議院本会議において、元徴用工の個人 賠償請求権は日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決している」とした上で、本判決は「国際法に照らしてあり得ない判断」であり、「毅然として対応していく」と答弁した。

しかし、安倍首相の答弁は、下記のとおり、日韓請求権協定と国際法への正確な理解を欠いたものであるし、「毅然として対応」するだけでは元徴用工問題の真の解決を実現することはできない。

私たちは、次のとおり、元徴用工問題の本質と日韓請求権協定の正確な理解を明らかに し、元徴用工問題の真の解決に向けた道筋を提案するものである。



1 元徴用工問題の本質は人権問題である

  本訴訟の原告である元徴用工は、賃金が支払われずに、感電死する危険があるなかで溶鉱炉にコークスを投入するなどの過酷で危険な労働を強いられていた。提供される食事もわずかで粗末なものであり、外出も許されず、逃亡を企てたとして体罰を加えられるなど極めて劣悪な環境に置かれていた。これは強制労働(ILO第 29 号条約)や奴 制(1926 年奴隷条約参照)に当たるものであり、重大な人権侵害であった。

 本件は、重大な人権侵害を受けた被害者が救済を求めて提訴した事案であり、社会的にも解決が求められている問題である。したがって、この問題の真の解決のためには、被害者が納得し、社会的にも容認される解決内容であることが必要である。被害者や社会が受け入れることができない国家間合意は、いかなるものであれ真の解決とはなり得ない。



2 日韓請求権協定により個人請求権は消滅していない

   元徴用工に過酷で危険な労働を強い、劣悪な環境に置いたのは新日鉄住金(旧日本製鐵)であるから、新日鉄住金には賠償責任が発生する。

また、本件は、1910 年の日韓併合後朝鮮半島を日本の植民地とし、その下で戦時体制 下における労働力確保のため、1942 年に日本政府が制定した「朝鮮人内地移入斡旋要綱」による官斡旋方式による斡旋や、1944 年に日本政府が植民地朝鮮に全面的に発動した「国民徴用令」による徴用が実施される中で起きたものであるから、日本国の損害責任も問題となり得る。

   本件では新日鉄住金のみを相手としていることから、元徴用工個人の新日鉄住金に対 する賠償請求権が、日韓請求権協定 2 1 項の「完全かつ最終的に解決された」という条項により消滅したのかが重要な争点となった。

   この問題について、韓国大法院は、元徴用工の慰謝料請求権は日韓請求権協定の対象に含まれていないとして、その権利に関しては、韓国政府の外交保護権も被害者個人の賠償請求権もいずれも消滅していないと判示した。

   他方、日本の最高裁判所は、日本と中国との間の賠償関係等について、外交保護権は放棄されたが、被害者個人の賠償請求権については、「請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく、当該請求権に基づいて訴求する権能を失わせるにとどまる」と判示している(最高裁判所 2007 4 27 日判決)。この理は日韓請求権協定の「完全かつ最終的に解決」という文言についてもあてはまるとするのが最高裁判所及び日本政府の解釈である。(註1

この解釈によれば、実体的な個人の賠償請求権は消滅していないのであるから、新日鉄住金が任意かつ自発的に賠償金を支払うことは法的に可能であり、その際に、日韓請求権協定は法的障害にならない。

   安倍首相は、個人賠償請求権について日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決した」と述べたが、それが被害者個人の賠償請求権も完全に消滅したという意味であれ

ば、日本の最高裁判所の判決への理解を欠いた説明であり誤っている。他方、日本の最高裁判所が示した内容と同じであるならば、被害者個人の賠償請求権は実体的には消滅しておらず、その扱いは解決されていないのであるから、全ての請求権が消滅したかのように「完全かつ最終的に解決」とのみ説明するのは、ミスリーディング(誤導的)である。

   そもそも日本政府は,従来から日韓請求権協定により放棄されたのは外交保護権であ り,個人の賠償請求権は消滅していないとの見解を表明しているが,安倍首相の上記答弁は,日本政府自らの見解とも整合するのか疑問であると言わざるを得ない。(註2



3 被害者個人の救済を重視する国際人権法の進展に沿った判決である

   本件のような重大な人権侵害に起因する被害者個人の損害賠償請求権について、国家 間の合意により被害者の同意なく一方的に消滅させることはできないという考え方を示 した例は国際的に他にもある(例えば、イタリアのチビテッラ村におけるナチス・ドイツの住民虐殺事件に関するイタリア最高裁判所(破棄院)など)。このように、重大な人権侵害に起因する個人の損害賠償請求権を国家が一方的に消滅させることはできないという考え方は、国際的には特異なものではなく、個人の人権侵害に対する効果的な救済を図ろうとしている国際人権法の進展に沿うものといえるのであり(世界人権宣言 8 条参照)、「国際法に照らしてあり得ない判断」であるということもできない。



4 日韓両国が相互に非難しあうのではなく、本判決を機に根本的な解決を行うべきである 

 本件の問題の本質が人権侵害である以上、なによりも被害者個人の人権が救済されなければならない。それはすなわち、本件においては、新日鉄住金が本件判決を受け入れるとともに、自発的に人権侵害の事実と責任を認め、その証として謝罪と賠償を含めて被害者及び社会が受け入れることができるような行動をとることである。

   例えば中国人強制連行事件である花岡事件、西松事件、三菱マテリアル事件など、訴訟を契機に、日本企業が事実と責任を認めて謝罪し、その証として企業が資金を拠出して基金を設立し、被害者全体の救済を図ることで問題を解決した例がある。そこでは、被害者個人への金員の支払いのみならず、受難の碑ないしは慰霊碑を建立し、毎年中国人被害者等を招いて慰霊祭等を催すなどの取り組みを行ってきた。

  新日鉄住金もまた、元徴用工の被害者全体の解決に向けて踏み出すべきである。それは、企業としても国際的信頼を勝ち得て、長期的に企業価値を高めることにもつながる。韓国において訴訟の被告とされている日本企業においても、本判決を機に、真の解決に向けた取り組みを始めるべきであり、経済界全体としてもその取り組みを支援することが期待される。 日本政府は、新日鉄住金をはじめとする企業の任意かつ自発的な解決に向けての取り組みに対して、日韓請求権協定を持ち出してそれを抑制するのではなく、むしろ自らの責任をも自覚したうえで、真の解決に向けた取り組みを支援すべきである。

 私たちは、新日鉄住金及び日韓両政府に対して、改めて本件問題の本質が人権問題であることを確認し、根本的な解決に向けて取り組むよう求めるとともに、解決のために最大限の努力を尽くす私たち自身の決意を表明する。



(註1 )山本晴太「日韓両国政府の日韓請求権協定解釈の変遷」(2014 年)参照。 http://justice.skr.jp/seikyuuken-top.html

(註 2 1991 12 13 日参議院予算委員会,1992 2 26 日衆議院外務委員会,1992 3 9 日衆議院予 算委員会における柳井俊二条約局長答弁,1992 4 7 日参議院内閣委員会における加藤紘一外務大臣答弁等



2018年11月5日  



(呼びかけ人・弁護士)※五十音順(一部にずれがありますがご容赦ください)敬称略

 青 木 有 加     足 立 修 一     岩 月 浩 二   殷   勇 基     内 河 惠 一     大 森 典 子   川 上 詩 朗        昌 浩     在 間 秀 和  張   界 満     山 本 晴 太



(賛同人・弁護士)    
  赤 石 あゆ子     秋 田 智佳子     泉 澤         伊 藤        井 上 明 彦     井 上        井 上 正 信     猪 野        岩 佐 英 夫      内 田 雅 敏     大 江 京 子     大久保 賢 一  金井塚 康 弘     北 澤 貞 男        東 周        星 姫        喜 明     桑 原 育 朗         政 和     小 林 保 夫     小 牧 英 夫     佐 藤 博 文     澤 藤 統一郎     志 田 なや子      清 水 善 朗     下 山        鈴 木 雅 子      高 貝        高 崎        高 橋         高見澤 昭 治     田 中 貴 文     辻 田         野 上 恭 道     端 野                    平 田 かおり     福 山 洋 子     船 尾        星 野           典 男     宮 坂   浩  毛 利 正 道     安 原 邦 博     山 田 延 廣  山 田        米 山 秀 之        尚 昭    渡 辺 和 恵        雅 之        奉 植   原 田 學 植     新 倉           昌 錫       惠 燕     中 谷 雄 二     米 倉      米 倉 洋 子        博 盛     齋 藤   耕   裵   明 玉     長谷川 一 裕     山 内 益 恵   白 川 秀 之     空 野 佳 弘     幸 長 裕 美  奥 村 秀 二        範 夫     武 村 二三夫   宇賀神          角 田 由紀子     矢 﨑 暁 子   藤 井           銘 愛     神 保 大 地   具   良 鈺     丹 羽 雅 雄     向 山   知   谷   次 郎     五十嵐 二 葉     幣 原   廣   仲 松 大 樹     穂 積        田 巻 紘 子   魚 住 昭 三     佐 藤 むつみ     今 橋   直     愛 須 勝 也     新 山 直 行        竜 介    韓   検 治     久 野 由 詠     田 中 健太郎   石 川 元 也     年 森 俊 宏     水 野 幹 男   北 村         森 山 文 昭



(賛同人・学者研究者) 
    上 脇 博 之    浦 田 賢 治    岡 崎 勝 彦        惠 丰    丸 山 重 威       英 樹     右 崎 正 博          

     11 5 日午後 11 時現在,弁護士 109 名,学者 7 名,合計 116 名)

Monday, November 05, 2018

革命ごっこ、サブカル、天皇主義


安彦良和『革命とサブカル――「あの時代」と「いま」をつなぐ議論の旅』(言視舎)


アニメの「機動戦士ガンダム」や、「クルドの星」「虹色のトロツキー」「ヤマトタケル」などの漫画家の安彦良和が、弘前大学全共闘に関係した人々(連合赤軍、安田講堂占拠、演劇集団)等にインタヴューした記録に、安彦自身による時代評論を加えた1冊である。

全共闘世代を世代論として語ることには疑問があるが、時代を揺さぶった大事件続出の世代だけに、当事者たちの記録、回想、手記はなるべく読んできた。本書もその延長で、いちおう読んでおこうという程度の関心で読み始めた。

冒頭で驚いたのは「思えば、我々の世代も寡黙だった。」という一文である。全共闘世代ほど饒舌な世代はない。時代のことも自分たちのことも、当時も後も、ひたすら語ってきたし、時代の中での位置づけも、評価も、他の世代による位置づけを押しのけて、ひたすら自分たちで評価してきたのが全共闘世代だ。にもかかわらず、安彦は「寡黙だ」という。何か特別な意味合いがあるのかと思いながら読み進めると、安彦は、植垣康博、永田洋子をはじめ、全共闘世代の主だった著作をほとんど読んでいないという。自分の無知を棚に上げて、「寡黙」と決めつけて話を始める。まさに、これが全共闘世代だ、と言いたくなる(笑)。

全共闘世代の自己正当化にはいろいろなパターンがあるが、主なものは2つにまとめることができる。

1は、あんなにひどかったが問題意識は優れていたとか、結果は無残だったが青年らしい問いかけだったとか、学問の権威に対する異議申し立てには意味があった、といったたぐいの、論証されていない主観的正当化である。学問の権威に対する異議申し立てという正当化が浅はかなのは、自分たちが権威の側に回ったときの姿勢で見事に露呈しているからである。「彼らの権威」に異議申し立てしただけで、「自分たちが権威になりたかっただけ」と言われても仕方がないのが、大勢だろう。

2は、1968年の世界的激動の中に再定位する方策である。パリやプラハを持ち出して、世界的な革命運動があったのだ、われわれもその一員であったのだ、という、一見すると「客観的な」、しかし、全共闘世代が後付けで言い出したきわめて主観的な正当化である。

重要なのは、これほど自己正当化に汲々とした世代はない、という点だ。何十年たっても,とにかく自己正当化にしか興味がない。

いよいよ古稀を迎えて、安彦も当時を振り返り、友人達に会い、当時の対立者にもインタヴューし、時代を語る。なかなかおもしろい本だが、革命ごっことサブカルと天皇擁護につきあうのも、時間の無駄とも思う。最後には、必死になって杉田水脈の差別発言を擁護している。やはり、全共闘世代と言うべきか。

Saturday, November 03, 2018

平和への権利を語り合うワークショップ


201612月に、国連総会で採択された、平和への権利宣言。平和への権利とは、どのようなものなのか。“人権というモノサシで社会を測るワークショップ”、“自分の平和―彼らの平和の繋がりをマッピングするワークショップ”で、平和への権利を具体的に考え、語りあいましょう。(高校や大学の授業にも導入できるようパッケージ化したワークショップです)



【日時】 119日(金)18時半~

【場所】 新宿男女共同参画センター・ウィズ新宿

【参加費】500

https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/file12_01_00001.html

新宿区荒木町16番地

都営新宿線曙橋4番出口・徒歩1分/丸ノ内線四谷三丁目4番出口・徒歩10



【ワーク1】「平和な状態を測る」(45分)

人権というモノサシで社会を測る



【2】ワーク「繋がりマップ」(45×2回)

私―あの人/私たちの平和―彼らの平和

繋がりをマッピングすることで、どこまで”彼らの平和”を”私たちの平和”として考えられるか



ファシリテーター:暉峻僚三(てるおか りょうぞう)川崎市平和館専門調査員音楽制作、テレビ番組ディレクターを経て、英国・オーストリアの大学院(修士課程)修了。その後、国際民間協力会ミャンマー巡回医療現地統括、国際市民ネットワーク コソボ多民族融和促進事業統括。2011年に帰国後、川崎市平和館専門調査員。平和教育プログラムの作成やファシリテーション、平和のためのやりとりの場作りを行う。



主催:平和への権利国際キャンペーン日本実行委員会

          電話 070-2307-1071FAX 03‐3225‐1025

          right.to.peace2015@gmail.com

共催;平和学会 平和教育プロジェクト委員会








Friday, November 02, 2018

人種差別撤廃委員会に関する私の報告


8月に開催された人種差別撤廃委員会に関する私の報告。



「人種差別撤廃委員会の日本審査(一)(二)」『部落解放』763号・765号(2018年)

「日本軍「慰安婦」問題人種差別撤廃委員会報告」『救援』594号(2018年)

「四半世紀、国連人権機関に通い続けて思うこと」『子どもと教科書全国ネット21ニュース』122号(2018年)

「国連人種差別撤廃委員会は日本に何を勧告したか」『国際人権ひろば』142号(2018年)

「朝鮮学校差別撤廃の勧告――人種差別撤廃委員会・日本審査」『マスコミ市民』10月号(2018年)

「国連人種差別撤廃委員会、日本に四度目の勧告」『人権と生活』47号(2018年予定)

「人種差別撤廃委員会の四度目の勧告――ヘイト・スピーチ問題を中心に」『法と民主主義』533号(2018年予定)

Tuesday, October 23, 2018

第12回・市民のための実践国際人権法講座 国連先住民族権利宣言とアイヌ民族


第12回・市民のための実践国際人権法講座

国連先住民族権利宣言とアイヌ民族



10月28日(日)13時30分開場、14時開会、16時40分終了

吉祥寺南町コミュニティセンター

武蔵野市吉祥寺南町3丁目131

0422-43-6372

JR吉祥寺駅から徒歩10分)

参加費(資料代含む):500円



「国連先住民族権利宣言とアイヌ民族」

前田 朗(東京造形大学教授)



国連先住民族権利宣言について2回取り上げます。今回はアイヌ民族、次回は琉球民族の権利を扱います。



主催:東アジアと沖縄の平和をつくる会





Sunday, October 21, 2018

ヘイト・スピーチ研究文献(117) ヘイト団体の公共施設利用問題


奈須祐治「ヘイト・スピーチと『公の施設』――川崎市ガイドラインを素材として」『金沢法学』61巻1号(2018年)


「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」に収められた報告である。


奈須はこれまでアメリカ及びイギリスにおけるヘイト・スピーチ対策に関する多数の論文を執筆してきた。

Ⅰ はじめに

Ⅱ 用語と概念の整理

Ⅲ 川崎市ガイドライン

Ⅳ 学説

Ⅴ 利益衡量のあり方

Ⅵ おわりに

特に注目すべき点を引用しておこう。


冒頭で「とりわけマイノリティ住民の保護のために一定の限られた条件の下で施設利用を拒否することは憲法上可能であると考える。また、川崎市ガイドラインにはいくつかの問題があるものの、十分に合憲と評価できると考える」と、立場を鮮明に打ち出したうえで、本論で詳細に議論している。


公の施設における集会の自由について、憲法学者も弁護士も、泉佐野事件及び上尾事件の最高裁判決を「先例」として引用してきた。ヘイト集会、ヘイト団体による施設利用についても、多くの学説が最高裁判決を先例として扱ってきた。

私はこれを批判してきた。泉佐野事件も上尾事件もヘイト集会とは関係なく、施設利用者(利用申請者)の行為形態も、保護法益も異なるからである。判例の読み方について初歩的知識を有すれば、泉佐野・上尾事件判決は先例ではないとわからないはずがない。しかし、私の見解に賛同する憲法学者はほとんど見られなかった。

この点につき、奈須は次のように述べる。

「これらの判例法理は集会の自由を尊重するものとして評価に値するが、本稿の課題に直接の解答を提示しない。確かに排外主義団体による公の施設利用が敵対的聴衆による秩序紊乱を招く場合にはこれらの法理が妥当するが、ここで主に問題になるのはマイノリティ住民に対する危害の防止である。この点について最高裁は何も語っていないのである。」

実に重要な指摘である。泉佐野・上尾事件最高裁判決はヘイト・スピーチ、ヘイト集会、ヘイトデモに関する先例ではないと明言している。私と同じ読み方である。上記引用以上の言及がないのが惜しまれる。

集会の自由の問題以前に、そもそも地方公共団体が差別に加担してはならず、ヘイト集会が行われる蓋然性が高い場合には、ヘイト集会のための施設利用を拒否しなければならない。もし施設を利用させれば、「地方公共団体がヘイトの共犯になってしまう」というのが私の見解である。この点につき、奈須がどう考えているかは不明である。ともあれ、最高裁判決のまともな読み方を提示してくれたことは大いなる前進である。


奈須は、施設利用を拒否できる場合があるとする川崎市ガイドラインを紹介したうえで、これを批判する否定説として榎透、長谷部恭男の見解、合憲とする肯定説として師岡康子、楠本孝、内野正幸の見解を検討する。毛利透も肯定説だが、やや慎重であり、中村英樹はさらに慎重だという。奈須自身は次のように結論付ける。

「このような否定説の議論に対しては、過度な抽象化、範疇化を行っているという批判ができる。ヘイト・スピーチ規制といっても一様ではなく、標的、害悪、媒体、態様、規制態様等の様々な要素の各々について、どのような選択をするかによって規制の合憲性は変わってくる。規制のありうるバリエーションを考えれば、内容中立性原則等の法理に依拠して一律に制約を違憲とみなすのは適切ではない。」

「一般論としては厳格な条件の下で、ある団体が特に有害で価値の低い言動を行うことを理由に利用を拒否できる。また、地域住民の集会等のために設置された施設では、より高いレベルの礼節が求められることにも留意すべきである。公の施設の利用制限を行う場合、本来法律や条例において明確な規定を置くことが望ましいが、上記のように我が国の法令はこれまで非常に曖昧な規定により集会の自由の制約を認めてきたので、川崎市のようにガイドラインを設けて制約できる場合を明確化することも許されるだろう。」

そのうえで、奈須は川崎市ガイドラインの具体的内容に即して不十分な点をいくつか指摘している。プライバシー侵害を惹起しかねない恐れなど、さらに配慮すべき論点である。閉鎖型施設と開放型施設の差異をどう見るか、マイノリティ集住地域とそれ以外の地域の区別についても論じている。

奈須は、従来の憲法学の立論を踏まえて、集会の自由に即して論じつつ、そこにマイノリティ住民の保護という観点を導入することによって、一定の場合に施設利用を拒否できるという結論を引き出している。基本的に賛同できる。


ただ、私の見解は奈須と異なる点がある。集会の自由を根拠に据えることによって、「施設利用を拒否できる場合があるか」と問うのがこれまでの憲法学であり、奈須もこの点では同じである。

しかし、それ以前に論じておくべきことがあるはずだ。それは、地方自治体が差別やヘイトを行ってよいかという問題である。日本国憲法13条及び14条の趣旨からいって、地方自治体が差別やヘイトを行うことは許されない。従って、施設利用を許可すると差別やヘイトが行われる蓋然性が高い場合、地方自治体は当該集団に施設を利用させてはならない。そうでなければ、地方自治体が「ヘイトの共犯」になってしまう。また、公の施設は税金によって運営されているから、ヘイト団体に利用させることはヘイト団体に資金援助を行ったことと同様である。地方自治体がヘイト団体に資金援助することは、地方自治体が「ヘイトの共犯」になることである。この二重の意味で、地方自治体は公の施設においてヘイト集会が行われないようにする責任を有する。だから、施設利用を拒否しなければならない場合があるのだ。これは「集会の自由以前の問題」である。この点を奈須はどう考えるのだろうか。

問題を連人機構に提起するための

際人の視点からヤスクニをみるⅢ



-日時: 20181026()13:00-17:00



-場所: 民族問題研究所



-主催: ヤスクニ反共同行動韓委員



-主管: 民族問題究所、太平洋戦争被害者補償推進協議



-後援: 東北アジア歴史財団、植民地歴史博物館



司会        - 金敏喆(民族問題研究所責任研究員)



開会の挨拶 ⁻ 李熙子(ヤスクニ反対共同行動韓国委員会共同代表)



発表1: 自民党総裁選3選とアベ改憲

      ‐ 矢野秀喜(「植民地歴史博物館」と日本をつなぐ会事務局長)



2: 日本植民地主義批判序説-500年、150年、70年の時代を畳み直す

            - 前田朗(東京造形大学)



3: 朝鮮出身軍人・軍属のヤスクニ合祀問題と国際法

            - 趙時顯(チョウ・シヒョン、民族問題研究所研究委員)



4: 戦後日本と靖国神社問題ー首相の靖国神社参拝違憲訴訟を中心に

            -木村庸五(アベ靖国参拝違憲訴訟弁護団)



5: ヤスクニ合祀取り消し訴訟の意義

- 大口昭彦(靖国合祀取り消し訴訟弁護団)



6: ノー!ハプサ第2次訴訟について

- 浅野史生(靖国合祀取り消し訴訟弁護団)



7: 国連国際機構への対応を通じて過去事問題を解決するための韓国市民社会の動き

            - 白佳倫(ペク・ガユン、済州ダークツアー共同代表、元参与連帯国際連帯委員会活動家)



合討論

Friday, October 19, 2018

歴史、責任、主体――東アジアにおける知識人の対話


徐京植・高橋哲哉『責任について――日本を問う20年の対話』(高文研)


「戦後73年、明治維新150年。

この国は白昼公然とヘイトスピーチが飛び交い、嫌韓・嫌中、

さらには沖縄まで刃が向けられる排外主義が蔓延する社会が出現した。

戦後民主主義という「メッキ」が剥がれ、この国の〝地金〟がむき出しになった。

戦後責任を問い植民地主義を批判し続けてきた哲学者と、

この国の植民地主義に対峙して来た作家が、

日本マジョリティの「責任」について語り合う。」


『私の西洋美術巡礼』『半難民の位置から』『植民地主義の暴力』『日本リベラル派の頽落』の徐京植。

『記憶のエチカ』『戦後責任論『靖国問題』『犠牲のシステム 福島・沖縄』の高橋哲哉。

日本軍性奴隷制(「慰安婦」問題)をはじめとする戦後補償問題、「戦後50周年」をめぐる政治、9・11と9・17後の世界と日本の激動、沖縄米軍基地をめぐる民衆の抵抗、フクシマ原発事故被災。四半世紀の東アジアにおける日本問題を、正面から問い続けてきた2人の対話である。

「Ⅰ 戦後民主主義という「メッキ」」において、応答責任から逃避した日本の20年を振り返り、高橋と加藤典洋との論争におけるナショナリズムと日本リベラル派の基本構制を抉りだす。女性国際戦犯法廷/NHK番組改ざん事件、教育基本法改正、靖国問題──感情の錬金術を論じることで、戦後民主主義の限界を的確に浮き彫りにする。

「Ⅱ 日本の「地金」」において、1989年の昭和天皇の死、天皇の戦争責任をめぐる軽薄な語りの意味を探り、「言論弾圧」と「空虚な主体」の実相をあぶりだす。他方、小泉訪朝/日朝平壌宣言/日本人拉致問題、『前夜』創刊、朴裕河『和解のために』を振り返り、「共感的不安定」のレトリックに頽落の一因を見る。リベラル派の頽落は、『帝国の慰安婦』現象において絶頂(どん底)に達する。

「Ⅲ「犠牲のシステム」と植民地主義」において、この国の「犠牲のシステム」とは何かを、「フクシマ」と「福島」や、米軍基地引き取り論を通じて解き明かす。広島・長崎の経験にもかかわらず、核を否定できない二重基準の国の問題を指弾する。

「Ⅳ「普遍主義」の暴力」では、逆に植民地主義的思考が普遍主義的形態をとって現象することを、「日本的普遍主義とは何か」「象徴天皇制という地金」「虚構の平和主義」として論じる。

最後に、高橋哲哉は、「日毒」の消去という課題を提示し、徐京植は、日本型全体主義の完成に言及する。「明治維新150年」を騒ぎ立てる日本植民地主義との精神の闘いが続く。
徹底して思想の徒でありながら、行動する知識人でもある2人の交流は東アジアにおける知識人の歴史的社会的責任に関する比類のないモデルとなるであろう。

Monday, October 15, 2018

ヘイト・スピーチ研究文献(116)近代を誤解する前近代の憲法学


駒村圭吾「ヘイトスピーチ規制賛成論に対するいくつかの疑問」『金沢法学』61巻1号(2018年)


「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」に収められた報告である。


駒村論文は次のように始まる。

「まず、はじめに申し上げておきたいことは、私は憎悪表現を憎悪している、という点です。日本社会において憎悪表現と指称される発話のいくつかはまったく私の言論作法の埒外にありますし、二度と耳にしたくないものです。したがって、私は、時に誤解されるのですが、“ヘイトスピーチ容認派”ではありません。」

そして、駒村は。自分はヘイト・スピーチ規制消極派ではなく、「むしろ積極派に分類していただきたいところです」という。違いは、駒村は既存の法的手段でヘイト・スピーチ規制は可能かつ十分と考えるのに対して、いわゆる“積極派”はそれでは不十分として新たな規制を提案している点だという。


以下、私のコメント。

第1に、駒村は、自分の個人的感情ないし心情と、ヘイト・スピーチの法的規制の可否という問題を混同している。おそらく故意に混同しているのだろう。駒村が憎悪表現を憎悪しているか否かは、憎悪表現の刑事規制の可否をめぐる憲法論とは関係ない。関係ない話題を持ち出して議論を始めるところに駒村憲法学の特徴がある。これは、ヘイト・スピーチ問題をめぐる議論が始まった時期に、一部の評論家が「ヘイト・スピーチは汚い言葉だから聞きたくないが、表現の自由だ」と述べたのと同じレベルの話である。ヘイト・スピーチは汚い言葉であるが、汚い言葉がヘイト・スピーチではない。このことを敢えて混同させることによって、論じるべき本質問題を見えなくさせるのが駒村の「言論作法」なのであろう。

2に、駒村は、ヘイト・スピーチを言論問題と決めつけている。だから「言論作法」という言葉が出てくる。現実のヘイト・スピーチ問題を知っているのだろうかと疑いたくなる。憲法学者がヘイト・スピーチと呼んできた事件の代表は京都朝鮮学校襲撃事件、新大久保ヘイト・デモ、川崎ヘイト・デモ・集会等である。これらを見て「言論だ」というのであれば、駒村は器物損壊、威力業務妨害、暴行、脅迫、迫害を「言論」と考えていることになるだろう。現実の事例の中から言葉だけを切り取って、他の事実を無視して言論について語る憲法学者が多いが、駒村もその一人である。


駒村論文は、Ⅰ憲法学的観点から、Ⅱ刑事学的関連から、Ⅲ哲学的観点から、の3つの部分からなる。憲法論は5頁に満たない。ここで駒村は威力業務妨害等の事実にも触れるが、それには現行の法的対応が可能であり、「これらの法的対応を尽くしてもなお残るもの」は「ある種の『品格』の問題が残るのみ」として「不品行としてのヘイトスピーチ」と呼ぶ。そして、集団誹謗に対する法的規制について、憲法21条を持ち出して、内容規制や見解規制になると指摘する。

「集団誹謗の法的規制は、個人の集合的アイデンティティを前提とする話になりますので、あらゆる歴史的・社会的文脈から個人を析出することを旨とする近代的前提と原理的な不整合を生む恐れがあります」と指摘する。


以下、私のコメント。

ここで注意を要するのは、「刑事規制と集団」に関連する理解のあり方である。連座のように集団的な刑罰の禁止という局面と、集団誹謗のように集団を保護する局面とは全く異なるはずだ。近代法の原理の一つに個人主義を仮設することが適切であるとしても、従来の刑法理論では、連座処罰や集団処罰の禁止が念頭に置かれていた。個人主義だから集団を保護してはならないという理屈には飛躍があるのではないだろうか。個人主義であっても、個人を保護するために諸個人の集団を保護する論理は可能であろう。

駒村は「近代的前提と原理的な不整合を生む」というが、どこの「近代」に言えることなのか不可思議な話である。近代の社会と思想を産み出したイギリス、フランスをはじめEU諸国はすべてヘイト・スピーチを処罰する。集団誹謗類型の規定も少なくない。駒村によれば、イギリスやフランスをはじめとするEU諸国は「近代的前提と原理的な不整合を生む」ということである。奇抜な思考である。

駒村は、ヘイト・スピーチを表現、言論に抽象化し、被害をすべて無視する。多くの憲法学者と同様に、駒村論文はヘイトの被害を語らない。「品格」の問題に過ぎないとし、「そのような残余の言論に明白かつ現在の危険があるのか、という問題です」という。被害が起きていることを認めないので、結果が起きているにもかかわらず、結果を否定し、さらに「危険があるのか」と語るのである。

セクシュアル・ハラスメントでも同じような議論が繰り返されてきた。セクハラ被害により通院を余儀なくされるなど、多大の被害を訴えても、「品格」の問題に過ぎないとして、被害を否定する論法がまかり通った時代があった。


以上が駒村論文の憲法論文である。その後に政治学的関連や哲学的観点と称する素人談義が続く。哲学的観点の結論は「思想の自由市場論」である。

「私が他所でよく使う言葉に“意味の秩序”というものがありますが、それに倣えば、意味の秩序の構築・解体は思想の自由市場における発話の反復に委ねよ、ということになります。」

「この点、思想の自由市場が生み出すダイナミズムに賭けるというのが表現の自由論のレガシーであったわけです。私自身はその方向性を大事にしたいと思っております。」


以下、私のコメント。

「思想の自由市場」論については何度も批判してきた。

思想の自由市場論は、憲法原理でもなければ社会科学理論でもない。一度も検証されたことのない仮説であり、単なる比喩的表現に過ぎないのではないか。

 第1に、思想の自由市場を経済市場と類比する根拠や具体的内容が明らかでない。思想の自由市場論は比喩的表現であるが、比喩の正当性自体疑わしい。ウォルドロンは、思想の市場というイメージの支持者を批判して、「彼らはロースクールの学生に、『思想の市場』という呪文をまくしたてることを教えるだけである。経済市場においては政府による一定の規制が重要だと一般的に思われている。にもかかわらず、私たちは、『思想の市場』に関しては、そうした規制に類比されるものを何も生み出してこなかった。そうしたものがあれば、ヘイト・スピーチ規制に賛成または反対の議論をするのに役立つことだろう。思想の自由市場の支持者は、こうした事情を学生に思い出させることをしないの である」と述べる(前記『ヘイト・スピーチという危害』186頁)。経済市場には貨幣という「共通言語」があり、市場参入者は経済的合理性に従って利潤を追求する。思想の自由市場にはこうした「共通言語」が存在しない。

第2に、思想の自由市場論が成立するためには、市場参入者の同質性と平等性が保障されていなければならない。この前提を掘り崩すヘイト・スピーチに思想の自由市場論を適用することはできない。同質的で平等な市民同士の意見交換の場合であれば、少数意見が多数意見に変わることもありうるかもしれない。しかし、マジョリティとマイノリティが異なる人種・民族に属するがゆえに、構造的差別の下でヘイト・スピーチが発信されている場合、マイノリティがマジョリティに変わる可能性は最初からない。小谷順子によれば「ヘイト・スピーチの衝撃的かつ威圧的なメッセージ性ゆえに、被害者や一般市民が沈黙してしまう可能性があり、そうなると対抗言論が発信されないままになる可能性があるほか、仮に論理的な対抗言論が発信されても、威圧的かつ感情的なヘイト・スピーチによってかき消されてしまう可能性があることが指摘されている。そうなると、ヘイト・スピーチへの対抗言論が将来的に『真実』または『良い思想』として社会や市場を制覇する可能性はきわめて低くなる」。

 第3に、思想の自由市場論はタイムスパンを明示しない。仮に長期的には思想の自由市場論が当てはまる場合がありうるとしても、一般的に適用できるとは限らない。まして短期的には、大衆がナチスを支持し、マッカーシズムの熱狂がアメリカを席巻する。最終的にナチスが崩壊し、マッカーシズムが消失したとしても、渦中にあって甚大な被害を受けた人々の救済を阻む理由にはならないだろう。

 第4に、市場の論理に喩えるのであれば、思想の自由市場論を唱える前に、「悪貨は良貨を駆逐する」という常識を考慮する必要がある。経済市場だけではなく、思想の市場においてこそ悪貨が良貨を駆逐してきたことは、マスメディアを見ればたちどころに明らかである。ましてインターネット時代においては改めて証明する必要がない。

 第5に、ヘイト・スピーチ被害者が思想の自由市場に参入するつもりがない場合に、なぜ参入を強制されなければならないだろうか。ヘイト・スピーチ加害者が一方的に押し掛けてきて罵声を浴びせる事例で、被害者に対抗言論を強制することは二次被害の拡大でしかない。

 思想の自由市場論をヘイト・スピーチに適用する論者は、ヘイト・スピーチに様々の行為類型があることを考慮していないように見える。名誉毀損型や差別表明型だけではなく、迫害型やジェノサイド煽動型に至る多様なヘイト・スピーチを見るならば、その暴力性が明らかになり、人間の尊厳に対する侵害が見えてくる。これを「思想」と呼ぶことで、見えなくなるものが大きすぎることに注意する必要がある。

 結論として、①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、その内容は極めてあいまいであり、比喩的表現を超えるものではない。そもそも検証可能性のない妄想を仮説と称することは疑問である。②思想の自由市場論が仮に検証されても、それをヘイト・スピーチに適用することの相当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法がこの仮説を採用しているという論証がなされたことは一度もない。


憲法学等の動向について、前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』では、奥平康弘、内野正幸、小谷順子、奈須祐治、上村都、遠藤比呂通、芦部信喜、佐藤幸治、辻村みよ子、初宿正典、長谷部恭男、渋谷秀樹、赤坂正浩、市川正人、川口是などの見解を検討した。

その後、成嶋隆、塚田哲之、尾崎一郎、市川正人、齊藤愛、浅野善治、光信一宏、木村草太、齋藤民徒、藤井正希、曽我部真裕、田代亜紀、榎透、奈須祐治、山邨俊英、桧垣伸次等の見解を紹介・検討してきた(これについては次の私の本で取り上げる)。

ここでの最大の論点は、レイシズムは民主主義と両立するか、しないかである。私見では両者は両立しない。それゆえレイシズムの具体的現象形態であるヘイト・スピーチは民主主義と両立しない。ヘイト・スピーチを容認・放置すると民主主義の基礎を掘り崩すことになる。民主主義を重視し、表現の自由の保障を実現するためにはヘイト・スピーチを規制する必要がある。マイノリティの表現の自由を考慮するならば、マジョリティの差別表現の自由に優越的地位を認めることはあってはならない。マジョリティの表現の自由を一方的に尊重するのではなく、マイノリティの表現の自由こそが優越的地位を認められるべきである。民主主義と表現の自由を真に尊重するにはヘイト・スピーチ刑事規制が不可欠である。

以上が、これまで何度も繰り返してきた私見の基本命題であるが、これに対する憲法学者からの応答は見られない。駒村論文にも私見への応答はない。陳腐な「思想の自由市場論」の“反復”という“無意味の秩序”に過ぎないのではないか。

Thursday, October 11, 2018

ヘイト・スピーチ研究文献(115)金沢シンポジウムの記録


「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」『金沢法学』61巻1号(2018年)


金沢大学基礎法研究会が主催し、2017年12月16日に、『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか』の著者エリック・ブライシュ(ミドルベリー大学教授、政治学)を招いて開いたシンポジウムの記録である。


東川浩二「はじめに」

エリック・ブライシュ「基調講演『ヘイト・スピーチとは何か』」

冨増四季「ヘイトスピーチ事案における不法行為法・填補賠償法理の担う役割への再評価」

駒村圭吾「ヘイトスピーチ規制賛成論に対するいくつかの疑問」

奈須祐治「ヘイト・スピーチと『公の施設』」


エリック・ブライシュの基調講演は、ヘイト・スピーチという古くて新しい現象の総体を把握するために、この概念定義の困難さ、あいまいさの理由を追跡する。国際人権法やアメリカ法におけるこの概念及び関連する概念が、どのような状況、どのような射程で用いられてきたかを確認する。ヘイト・クライムやハラスメントも含めたアメリカの用語法をフォローし、次いでヨーロッパ法の変遷を若干見たうえで、「ヘイト・スピーチとは何か」に、「正確で簡便な答えを出すことはできない」としつつ、「しかしこの問題を探求することで、この問題をより深く理解することは可能」という。そして3点指摘する。

「第1に、ヘイト・スピーチは1つの定義に集約させることはできません」。

「第2に、ヘイト・スピーチは概念的ツールであり、また政治的ツールでもあります。」

「第3に、ヘイト・スピーチ法とその政策は、その規制主体が置かれた状況によって相当大きく異なっているということです。」

最後にブライシュは類型論の必要性を強調して講演を終えている。


ブライシュの指摘は正しい。日本の議論でも、ヘイト・スピーチ概念の定義の困難性は常に焦点とされてきた。国際人権法上の概念もあいまいと言えばあいまいである。ブライシュは政治学者で、国際人権法学者ではないためか、ラバト行動計画や人種差別撤廃委員会の一般的勧告35を十分分析していないが、これらを踏まえても、定義の困難さという論点が残ることは否めない。

ただし、即座に補足しておかなくてはならないことは、一義的に明確で争いのない法概念などほとんどないという事実である。刑法における殺人罪の「殺人」という概念は極めて多義的であり、窃盗罪の「財物」という概念はもっと幅広い。判例や学説の積み重ねの結果として、専門家の間で一定のお約束が出来上がっているが、それもしばしば現実に裏切られるのである。刑法上の基本概念が多義的であり、あいまいであるのに、ヘイト・スピーチについてだけ完全無欠の明確性を求める議論をなぜ続けているのか、不思議な話である。

ついでに書いておくと、ブライシュの頭の中では、世界はアメリカとヨーロッパだけでできている。ブライシュに限らず、日本の議論でも、世界にはアメリカとヨーロッパと日本だけしか存在しないという大前提を疑うことが許されない。不思議な話である。


東川浩二「はじめに」は、シンポジウム主催者としての経過説明だが、冒頭に「我が国では、2013年ごろから在特会を中心として、主として在日韓国・朝鮮人を対象としたヘイト・スピーチが問題化した」として、京都朝鮮学校事件判決や大阪市条例、ヘイト・スピーチ解消法に言及している。こうした認識は、東川に限らない。ジャーナリストや評論家の多くは「2007年頃からヘイト・スピーチ問題」と語る。法学者の東川は、判決の出始めた2013年からと語る。
しかし、日本におけるヘイト・クライム/スピーチは2007年や2013年の問題ではない。朝鮮人に対する差別とヘイトは長い間、この社会の重大問題であり続けた。私自身は1988年の世界人権宣言40周年の記念集会を契機に在日朝鮮人の人権擁護を掲げる市民運動にかかわってきた。1989年のパチンコ疑惑騒動、1994年の核疑惑騒動、98年のテポドン騒動、2002年のピョンヤン会談、その都度、日本社会は在日朝鮮人に対する差別と憎悪を振りまいてきた。襲撃事件も何度も起きた。私は1994年以来、被害調査を踏まえて、国連人権機関に訴えてきた。日本の法律家にいくら言っても聞こうとしないからだ。さかのぼれば、阪神教育闘争があり、戦前には関東大震災朝鮮人虐殺がある。こうした歴史をすべて抹消して、2007年や2013年のヘイト・スピーチを語る姿勢では、問題の本質を隠蔽することにしかならない。

Tuesday, September 18, 2018

アフガニスタン女性の闘い 清末愛砂は語る


アフガニスタン女性の闘い

清末愛砂は語る





戦禍とテロの続くアフガニスタン、女性差別の厳しいアフガニスタン。

こうした形容が当たり前のように使われてきたアフガンで30年にわたって女性の自由と権利を求めて闘ってきたアフガニスタン女性革命協会(RAWA)。

私たちRAWAと連帯する会は、RAWAに学び、RAWAとアフガンの現状を日本に紹介してきました。

今回はRAWAやアフガンの女性団体との交流を続けてきた清末愛砂さんにアフガン女性の闘いについて語ってもらいます。



日時:10月14日(日)午後1時30分開場、2時開会~5時

開場:IKE-Biz(旧豊島勤労福祉会館)第3会議室



資料代:500円           

インタヴュアー:前田朗



清末愛砂(きよすえ・あいさ)さん:室蘭工業大学大学院准教授。専門は憲法学、家族法学。主な著書に『パレスチナ 非暴力で占領に立ち向かう』(草の根出版会)『緊急事態条項で暮らし・社会はどうなるか』、『これでいいのか!日本の民主主義――失言・名言から読み解く憲法』、『自民党改憲案にどう向き合うか』(以上現代人文社)、『右派はなぜ家族に介入したがるのか』(大月書店)など多数。





            主催:平和力フォーラム

192-0992 東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学・前田研究室

042-637-8872  070-2307-1071(前田)   E-mail:maeda@zokei.ac.jp

インタヴュー講座<憲法再入門>第9回 日本国憲法と植民地主義


インタヴュー講座<憲法再入門>第9回

日本国憲法と植民地主義



平和主義と民主主義の日本国憲法のもとで、自由も人権も保障されないのはなぜ? 差別とヘイトがあふれるのはなぜ? 人間の尊厳が踏みにじられるのはなぜ?





日時:10月13日(土)午後2時(会場1時30分)

会場:新宿文化センター第1会議室

新宿区新宿6-14-1 Tel:03-3350-1141

大江戸線・東新宿駅 A3出口より徒歩5

丸の内線・新宿三丁目駅 E1出口より徒歩7

・資料代:500円

宋連玉さん(青山学院大学名誉教授)

「日本国憲法と植民地主義」

                      インタヴュアー:前田朗



★宋連玉:青山学院大学名誉教授、文化センターアリラン館長。主著に『脱帝国のフェミニズムを求めて――朝鮮女性と植民地主義』(有志舎)『軍隊と性暴力――朝鮮半島の20世紀』(現代史料出版)『歴史をひらく――女性史・ジェンダー史からみる東アジア世界』(御茶ノ水書房)など。





 主催:平和力フォーラム

東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学・前田研究室

042-637-8872  070-2307-1071

E-mail:maeda@zokei.ac.jp

Wednesday, September 12, 2018

滂沱、呻吟、そして証言を聞くこと


キム・スム『ひとり』(三一書房)


<韓国で現代文学賞、大山文学賞、李箱文学賞を受賞した作家、キム・スムの長編小説。

歴史の名のもとに破壊され、打ちのめされた、終わることのない日本軍慰安婦の痛み。

その最後の「ひとり」から小説は始まる…… 慰安婦は被害当事者にとってはもちろん、韓国女性の歴史においても最も痛ましく理不尽な、そして恥辱のトラウマだろう。

プリーモ・レーヴィは「トラウマに対する記憶はそれ自体がトラウマ」だと述べた。

1991814日、金學順ハルモニの公の場での証言を皮切りに、被害者の方々の証言は現在まで続いている。

その証言がなければ、私はこの小説を書けなかっただろう。…… (著者のことばより)


自分が完全にひとりだと感じる彼女は、自分の外から自分を見つめてみたい、と思う。外から見ると地球が全く違って見えるように、自分も違って見えるだろうか。自分の悲しい体験、自分のいとおしい記憶、自分の秘められた歩みを、もう一度、ふたたび、くりかえし、辿り直し、生き直し、必ずもう一度女に生まれたい。台無しになった人生を、自分の苦痛をどんな言葉で説明できるだろうか。「私は慰安婦じゃない」。


カササギの生きている死体。

死んだ蛾に群がる蟻。

うごめくカワニナの幻影。

玉ねぎの網に捕らわれた子猫。

鶏の砂肝ほどに縮みあがった子宮。

猫が蛙に覆いい被さる。

プンギル!

死ななかった13歳のプンギル。


一年前、私は、歴史研究における記憶論についての若干の疑問を記したことがある。


記憶をめぐる言説の危うさについて



この考えは現在いっそう強くなっている。もちろん、記憶をめぐる研究は重要である。体験、出来事、記憶、証言、再構築・・・・・・歴史が積み重ねられ、刻まれ、再構成される。その作業は不可欠である。

しかし、記憶論にはいくつもの陥穽がある。記憶し、記録を残し、記憶を語る当事者の心的営みと別次元で、研究者が積み重ねる、発掘し、取材し、分析する記憶論の限界である。しかも、「慰安婦」問題で顕著なように、記憶論の実態は「ハルモニから主体性を剥奪すること」に転落している。研究者が「学問の自由」を振りかざし、あるいは「フェミニズム」と称しながら、実は「尊厳を求めて立ち上がった主体」を「客体」に封じ込める。学問化したフェイク・フェミニズムは研究者の特権を「学問の自由」とはき違える。そこでは、日本軍性奴隷制被害者の尊厳回復の闘いは、研究の客体に押しとどめられる。証言が散り散りに切り取られ、記憶が泥の海に埋め込まれる。生きられた体験が空虚な手垢のついた物語に仕上げられる。――こうした研究が跋扈していないか。


キム・スムは小説という文学形式において、以上の問いに全面的な回答を与えてくれる。「暴力的な歴史の渦の中でひとりの人間が引き受けねばならなかった苦痛」を主題として、「その苦痛を『慈悲の心』という崇高で美しい徳に昇華させた、小さく偉大な魂」に作家自らのすべてをゆだねる。被害者の証言録を渉猟し、「私のハルモニの代わりに、あの地獄に行ってこられた」被害者の証言に耳を傾け、記憶を記憶のままに記憶し直し、小説的方法によって息を吹き込み、不安も恐怖も苦痛も、夢も願いも喜びも、すべてを保全し、編み直し、読者に手渡す。末尾に記載された313の註の一つひとつが、暗黒と絶望と恥辱と侮蔑と暴力の時代を撃ち抜く。「慰安婦」被害者が、たったひとり、最後の被害者が、この恐ろしい世界に気づきながら、13歳の自分に還る時、再び自分に出会う時・・・・・・


証言を聞くこととは、私がキム・スムになることである。

Monday, September 03, 2018

私にはこの本を読む能力がない

上野千鶴子ほか編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(岩波書店)


春に読み始めたが、序盤から違和感を抱く点がいくつかあったことと、何よりも多忙のため、挫折した。違和感は、編者と私の学問方法論がまったく異なるからであって、さほど大きな理由ではない。第1章から意欲的な論文が続き、勉強にもなる。そこで、夏休みに再読のチャレンジ。ところがふたたび挫折してしまった。


何度か読書を断念しかけつつ、なんとか読み進んだ。しかし、第5章の茶園敏美「セックスというコンタクト・ゾーン」の途中、次の箇所で、ついに放棄せざるをえなかった。

「レイプ被害者は、レイプした相手に金を要求することで、占領兵の問答無用の暴力、そして『モデル被害者』の語りしか受け付けない社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、占領兵と占領地女性との出会いの空間であるコンタクト・ゾーンにおける、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」(本書155~156頁)

リズ・ケリーの「性暴力連続体としてのレイプ/売買春/恋愛/結婚」という認識枠組みを、上野千鶴子による「序章 戦争と性暴力の比較史の視座」に従って採用する茶園は、占領下における米兵と「パンパン」と呼ばれた日本女性の関係に、レイプだけではなく、恋愛や結婚を発見する。

茶園は、自らの方法論を「徹底的な帰納法分析」と宣言する(145頁)。茶園は帰納法がお気に入りのようで、150頁他でも「帰納法」を語る。

それでは上記引用文のどこが問題なのか。4点に分けて説明しよう。以下の4点は密接なつながりを有し、全体として茶園論文の方法論を見事に示している。

1に、レイプ被害者が異議申し立てをしている相手として、「占領兵の問答無用の暴力」と「『モデル被害者』の語りしか受け付けない社会」を唐突に並列し、完全に同等扱いをしている。このような方法がいかにして可能となるのか、常識外というしかない。

2に、「異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。」という、およそまともな文章とは言えない断定である。

「AはBである」

「AはBであると解釈できる」

「AはBであると解釈できるかもしれない」

ほとんど思考停止論文と言うしかない。

3に、そこから「これこそ、・・・・・・、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」という論理破壊が続く。「解釈できるかもしれない。これこそ、生存戦略である」とはまったく呆れた話であり、論理の飛躍どころか論理的思考の否定である。茶園は次のように述べる。

「レイプ被害者は、レイプした相手に金を要求することで、~~社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」

次の一文を比較してみよう。

「縄文人は、狩猟生活をすることで、核兵器を保有する社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、縄文人の生存戦略である。」

この2つの文は論理的に等価である。検証可能性も反証可能性もない、譫言に過ぎないという意味で。

4に、それゆえ、「徹底的な帰納法分析」などというのは真っ赤な嘘である。茶園は帰納法によってではなく、ケリー/上野の認識枠組みに合わせて、証言をあてはめただけである。そのために無理をするから、「解釈できるかもしれない。これこそ」などと力むことになる。

以上のことは、茶園論文の一部、枝葉末節を取り出しての難癖ではない。茶園論文の方法論の本質が鮮明に示された箇所である。科学論文で言えば、実験データを書き換え、捏造して、分析を施しているのに等しい。


本書は2900円+税で販売されている。方法論を欺き、読者をだます論文で金儲けするとは、「お金を返せ!」と叫びたくなる代物だ。

と書いて、思い出した。私は本書を購入していない。編者の一人から献本していただいた。ありがたいことだ。献本いただいた本はきちんと読むのが礼儀というものだ。いつもはこの礼儀を守ってきた私だが。

前言訂正。「時間を返せ!」。

他の論文は優れた論文なのかもしれないが、申し訳ない。私にはこの本を読む能力がない。