Sunday, October 21, 2018

ヘイト・スピーチ研究文献(117) ヘイト団体の公共施設利用問題


奈須祐治「ヘイト・スピーチと『公の施設』――川崎市ガイドラインを素材として」『金沢法学』61巻1号(2018年)


「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」に収められた報告である。


奈須はこれまでアメリカ及びイギリスにおけるヘイト・スピーチ対策に関する多数の論文を執筆してきた。

Ⅰ はじめに

Ⅱ 用語と概念の整理

Ⅲ 川崎市ガイドライン

Ⅳ 学説

Ⅴ 利益衡量のあり方

Ⅵ おわりに

特に注目すべき点を引用しておこう。


冒頭で「とりわけマイノリティ住民の保護のために一定の限られた条件の下で施設利用を拒否することは憲法上可能であると考える。また、川崎市ガイドラインにはいくつかの問題があるものの、十分に合憲と評価できると考える」と、立場を鮮明に打ち出したうえで、本論で詳細に議論している。


公の施設における集会の自由について、憲法学者も弁護士も、泉佐野事件及び上尾事件の最高裁判決を「先例」として引用してきた。ヘイト集会、ヘイト団体による施設利用についても、多くの学説が最高裁判決を先例として扱ってきた。

私はこれを批判してきた。泉佐野事件も上尾事件もヘイト集会とは関係なく、施設利用者(利用申請者)の行為形態も、保護法益も異なるからである。判例の読み方について初歩的知識を有すれば、泉佐野・上尾事件判決は先例ではないとわからないはずがない。しかし、私の見解に賛同する憲法学者はほとんど見られなかった。

この点につき、奈須は次のように述べる。

「これらの判例法理は集会の自由を尊重するものとして評価に値するが、本稿の課題に直接の解答を提示しない。確かに排外主義団体による公の施設利用が敵対的聴衆による秩序紊乱を招く場合にはこれらの法理が妥当するが、ここで主に問題になるのはマイノリティ住民に対する危害の防止である。この点について最高裁は何も語っていないのである。」

実に重要な指摘である。泉佐野・上尾事件最高裁判決はヘイト・スピーチ、ヘイト集会、ヘイトデモに関する先例ではないと明言している。私と同じ読み方である。上記引用以上の言及がないのが惜しまれる。

集会の自由の問題以前に、そもそも地方公共団体が差別に加担してはならず、ヘイト集会が行われる蓋然性が高い場合には、ヘイト集会のための施設利用を拒否しなければならない。もし施設を利用させれば、「地方公共団体がヘイトの共犯になってしまう」というのが私の見解である。この点につき、奈須がどう考えているかは不明である。ともあれ、最高裁判決のまともな読み方を提示してくれたことは大いなる前進である。


奈須は、施設利用を拒否できる場合があるとする川崎市ガイドラインを紹介したうえで、これを批判する否定説として榎透、長谷部恭男の見解、合憲とする肯定説として師岡康子、楠本孝、内野正幸の見解を検討する。毛利透も肯定説だが、やや慎重であり、中村英樹はさらに慎重だという。奈須自身は次のように結論付ける。

「このような否定説の議論に対しては、過度な抽象化、範疇化を行っているという批判ができる。ヘイト・スピーチ規制といっても一様ではなく、標的、害悪、媒体、態様、規制態様等の様々な要素の各々について、どのような選択をするかによって規制の合憲性は変わってくる。規制のありうるバリエーションを考えれば、内容中立性原則等の法理に依拠して一律に制約を違憲とみなすのは適切ではない。」

「一般論としては厳格な条件の下で、ある団体が特に有害で価値の低い言動を行うことを理由に利用を拒否できる。また、地域住民の集会等のために設置された施設では、より高いレベルの礼節が求められることにも留意すべきである。公の施設の利用制限を行う場合、本来法律や条例において明確な規定を置くことが望ましいが、上記のように我が国の法令はこれまで非常に曖昧な規定により集会の自由の制約を認めてきたので、川崎市のようにガイドラインを設けて制約できる場合を明確化することも許されるだろう。」

そのうえで、奈須は川崎市ガイドラインの具体的内容に即して不十分な点をいくつか指摘している。プライバシー侵害を惹起しかねない恐れなど、さらに配慮すべき論点である。閉鎖型施設と開放型施設の差異をどう見るか、マイノリティ集住地域とそれ以外の地域の区別についても論じている。

奈須は、従来の憲法学の立論を踏まえて、集会の自由に即して論じつつ、そこにマイノリティ住民の保護という観点を導入することによって、一定の場合に施設利用を拒否できるという結論を引き出している。基本的に賛同できる。


ただ、私の見解は奈須と異なる点がある。集会の自由を根拠に据えることによって、「施設利用を拒否できる場合があるか」と問うのがこれまでの憲法学であり、奈須もこの点では同じである。

しかし、それ以前に論じておくべきことがあるはずだ。それは、地方自治体が差別やヘイトを行ってよいかという問題である。日本国憲法13条及び14条の趣旨からいって、地方自治体が差別やヘイトを行うことは許されない。従って、施設利用を許可すると差別やヘイトが行われる蓋然性が高い場合、地方自治体は当該集団に施設を利用させてはならない。そうでなければ、地方自治体が「ヘイトの共犯」になってしまう。また、公の施設は税金によって運営されているから、ヘイト団体に利用させることはヘイト団体に資金援助を行ったことと同様である。地方自治体がヘイト団体に資金援助することは、地方自治体が「ヘイトの共犯」になることである。この二重の意味で、地方自治体は公の施設においてヘイト集会が行われないようにする責任を有する。だから、施設利用を拒否しなければならない場合があるのだ。これは「集会の自由以前の問題」である。この点を奈須はどう考えるのだろうか。

問題を連人機構に提起するための

際人の視点からヤスクニをみるⅢ



-日時: 20181026()13:00-17:00



-場所: 民族問題研究所



-主催: ヤスクニ反共同行動韓委員



-主管: 民族問題究所、太平洋戦争被害者補償推進協議



-後援: 東北アジア歴史財団、植民地歴史博物館



司会        - 金敏喆(民族問題研究所責任研究員)



開会の挨拶 ⁻ 李熙子(ヤスクニ反対共同行動韓国委員会共同代表)



発表1: 自民党総裁選3選とアベ改憲

      ‐ 矢野秀喜(「植民地歴史博物館」と日本をつなぐ会事務局長)



2: 日本植民地主義批判序説-500年、150年、70年の時代を畳み直す

            - 前田朗(東京造形大学)



3: 朝鮮出身軍人・軍属のヤスクニ合祀問題と国際法

            - 趙時顯(チョウ・シヒョン、民族問題研究所研究委員)



4: 戦後日本と靖国神社問題ー首相の靖国神社参拝違憲訴訟を中心に

            -木村庸五(アベ靖国参拝違憲訴訟弁護団)



5: ヤスクニ合祀取り消し訴訟の意義

- 大口昭彦(靖国合祀取り消し訴訟弁護団)



6: ノー!ハプサ第2次訴訟について

- 浅野史生(靖国合祀取り消し訴訟弁護団)



7: 国連国際機構への対応を通じて過去事問題を解決するための韓国市民社会の動き

            - 白佳倫(ペク・ガユン、済州ダークツアー共同代表、元参与連帯国際連帯委員会活動家)



合討論

Friday, October 19, 2018

歴史、責任、主体――東アジアにおける知識人の対話


徐京植・高橋哲哉『責任について――日本を問う20年の対話』(高文研)


「戦後73年、明治維新150年。

この国は白昼公然とヘイトスピーチが飛び交い、嫌韓・嫌中、

さらには沖縄まで刃が向けられる排外主義が蔓延する社会が出現した。

戦後民主主義という「メッキ」が剥がれ、この国の〝地金〟がむき出しになった。

戦後責任を問い植民地主義を批判し続けてきた哲学者と、

この国の植民地主義に対峙して来た作家が、

日本マジョリティの「責任」について語り合う。」


『私の西洋美術巡礼』『半難民の位置から』『植民地主義の暴力』『日本リベラル派の頽落』の徐京植。

『記憶のエチカ』『戦後責任論『靖国問題』『犠牲のシステム 福島・沖縄』の高橋哲哉。

日本軍性奴隷制(「慰安婦」問題)をはじめとする戦後補償問題、「戦後50周年」をめぐる政治、9・11と9・17後の世界と日本の激動、沖縄米軍基地をめぐる民衆の抵抗、フクシマ原発事故被災。四半世紀の東アジアにおける日本問題を、正面から問い続けてきた2人の対話である。

「Ⅰ 戦後民主主義という「メッキ」」において、応答責任から逃避した日本の20年を振り返り、高橋と加藤典洋との論争におけるナショナリズムと日本リベラル派の基本構制を抉りだす。女性国際戦犯法廷/NHK番組改ざん事件、教育基本法改正、靖国問題──感情の錬金術を論じることで、戦後民主主義の限界を的確に浮き彫りにする。

「Ⅱ 日本の「地金」」において、1989年の昭和天皇の死、天皇の戦争責任をめぐる軽薄な語りの意味を探り、「言論弾圧」と「空虚な主体」の実相をあぶりだす。他方、小泉訪朝/日朝平壌宣言/日本人拉致問題、『前夜』創刊、朴裕河『和解のために』を振り返り、「共感的不安定」のレトリックに頽落の一因を見る。リベラル派の頽落は、『帝国の慰安婦』現象において絶頂(どん底)に達する。

「Ⅲ「犠牲のシステム」と植民地主義」において、この国の「犠牲のシステム」とは何かを、「フクシマ」と「福島」や、米軍基地引き取り論を通じて解き明かす。広島・長崎の経験にもかかわらず、核を否定できない二重基準の国の問題を指弾する。

「Ⅳ「普遍主義」の暴力」では、逆に植民地主義的思考が普遍主義的形態をとって現象することを、「日本的普遍主義とは何か」「象徴天皇制という地金」「虚構の平和主義」として論じる。

最後に、高橋哲哉は、「日毒」の消去という課題を提示し、徐京植は、日本型全体主義の完成に言及する。「明治維新150年」を騒ぎ立てる日本植民地主義との精神の闘いが続く。
徹底して思想の徒でありながら、行動する知識人でもある2人の交流は東アジアにおける知識人の歴史的社会的責任に関する比類のないモデルとなるであろう。

Monday, October 15, 2018

ヘイト・スピーチ研究文献(116)近代を誤解する前近代の憲法学


駒村圭吾「ヘイトスピーチ規制賛成論に対するいくつかの疑問」『金沢法学』61巻1号(2018年)


「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」に収められた報告である。


駒村論文は次のように始まる。

「まず、はじめに申し上げておきたいことは、私は憎悪表現を憎悪している、という点です。日本社会において憎悪表現と指称される発話のいくつかはまったく私の言論作法の埒外にありますし、二度と耳にしたくないものです。したがって、私は、時に誤解されるのですが、“ヘイトスピーチ容認派”ではありません。」

そして、駒村は。自分はヘイト・スピーチ規制消極派ではなく、「むしろ積極派に分類していただきたいところです」という。違いは、駒村は既存の法的手段でヘイト・スピーチ規制は可能かつ十分と考えるのに対して、いわゆる“積極派”はそれでは不十分として新たな規制を提案している点だという。


以下、私のコメント。

第1に、駒村は、自分の個人的感情ないし心情と、ヘイト・スピーチの法的規制の可否という問題を混同している。おそらく故意に混同しているのだろう。駒村が憎悪表現を憎悪しているか否かは、憎悪表現の刑事規制の可否をめぐる憲法論とは関係ない。関係ない話題を持ち出して議論を始めるところに駒村憲法学の特徴がある。これは、ヘイト・スピーチ問題をめぐる議論が始まった時期に、一部の評論家が「ヘイト・スピーチは汚い言葉だから聞きたくないが、表現の自由だ」と述べたのと同じレベルの話である。ヘイト・スピーチは汚い言葉であるが、汚い言葉がヘイト・スピーチではない。このことを敢えて混同させることによって、論じるべき本質問題を見えなくさせるのが駒村の「言論作法」なのであろう。

2に、駒村は、ヘイト・スピーチを言論問題と決めつけている。だから「言論作法」という言葉が出てくる。現実のヘイト・スピーチ問題を知っているのだろうかと疑いたくなる。憲法学者がヘイト・スピーチと呼んできた事件の代表は京都朝鮮学校襲撃事件、新大久保ヘイト・デモ、川崎ヘイト・デモ・集会等である。これらを見て「言論だ」というのであれば、駒村は器物損壊、威力業務妨害、暴行、脅迫、迫害を「言論」と考えていることになるだろう。現実の事例の中から言葉だけを切り取って、他の事実を無視して言論について語る憲法学者が多いが、駒村もその一人である。


駒村論文は、Ⅰ憲法学的観点から、Ⅱ刑事学的関連から、Ⅲ哲学的観点から、の3つの部分からなる。憲法論は5頁に満たない。ここで駒村は威力業務妨害等の事実にも触れるが、それには現行の法的対応が可能であり、「これらの法的対応を尽くしてもなお残るもの」は「ある種の『品格』の問題が残るのみ」として「不品行としてのヘイトスピーチ」と呼ぶ。そして、集団誹謗に対する法的規制について、憲法21条を持ち出して、内容規制や見解規制になると指摘する。

「集団誹謗の法的規制は、個人の集合的アイデンティティを前提とする話になりますので、あらゆる歴史的・社会的文脈から個人を析出することを旨とする近代的前提と原理的な不整合を生む恐れがあります」と指摘する。


以下、私のコメント。

ここで注意を要するのは、「刑事規制と集団」に関連する理解のあり方である。連座のように集団的な刑罰の禁止という局面と、集団誹謗のように集団を保護する局面とは全く異なるはずだ。近代法の原理の一つに個人主義を仮設することが適切であるとしても、従来の刑法理論では、連座処罰や集団処罰の禁止が念頭に置かれていた。個人主義だから集団を保護してはならないという理屈には飛躍があるのではないだろうか。個人主義であっても、個人を保護するために諸個人の集団を保護する論理は可能であろう。

駒村は「近代的前提と原理的な不整合を生む」というが、どこの「近代」に言えることなのか不可思議な話である。近代の社会と思想を産み出したイギリス、フランスをはじめEU諸国はすべてヘイト・スピーチを処罰する。集団誹謗類型の規定も少なくない。駒村によれば、イギリスやフランスをはじめとするEU諸国は「近代的前提と原理的な不整合を生む」ということである。奇抜な思考である。

駒村は、ヘイト・スピーチを表現、言論に抽象化し、被害をすべて無視する。多くの憲法学者と同様に、駒村論文はヘイトの被害を語らない。「品格」の問題に過ぎないとし、「そのような残余の言論に明白かつ現在の危険があるのか、という問題です」という。被害が起きていることを認めないので、結果が起きているにもかかわらず、結果を否定し、さらに「危険があるのか」と語るのである。

セクシュアル・ハラスメントでも同じような議論が繰り返されてきた。セクハラ被害により通院を余儀なくされるなど、多大の被害を訴えても、「品格」の問題に過ぎないとして、被害を否定する論法がまかり通った時代があった。


以上が駒村論文の憲法論文である。その後に政治学的関連や哲学的観点と称する素人談義が続く。哲学的観点の結論は「思想の自由市場論」である。

「私が他所でよく使う言葉に“意味の秩序”というものがありますが、それに倣えば、意味の秩序の構築・解体は思想の自由市場における発話の反復に委ねよ、ということになります。」

「この点、思想の自由市場が生み出すダイナミズムに賭けるというのが表現の自由論のレガシーであったわけです。私自身はその方向性を大事にしたいと思っております。」


以下、私のコメント。

「思想の自由市場」論については何度も批判してきた。

思想の自由市場論は、憲法原理でもなければ社会科学理論でもない。一度も検証されたことのない仮説であり、単なる比喩的表現に過ぎないのではないか。

 第1に、思想の自由市場を経済市場と類比する根拠や具体的内容が明らかでない。思想の自由市場論は比喩的表現であるが、比喩の正当性自体疑わしい。ウォルドロンは、思想の市場というイメージの支持者を批判して、「彼らはロースクールの学生に、『思想の市場』という呪文をまくしたてることを教えるだけである。経済市場においては政府による一定の規制が重要だと一般的に思われている。にもかかわらず、私たちは、『思想の市場』に関しては、そうした規制に類比されるものを何も生み出してこなかった。そうしたものがあれば、ヘイト・スピーチ規制に賛成または反対の議論をするのに役立つことだろう。思想の自由市場の支持者は、こうした事情を学生に思い出させることをしないの である」と述べる(前記『ヘイト・スピーチという危害』186頁)。経済市場には貨幣という「共通言語」があり、市場参入者は経済的合理性に従って利潤を追求する。思想の自由市場にはこうした「共通言語」が存在しない。

第2に、思想の自由市場論が成立するためには、市場参入者の同質性と平等性が保障されていなければならない。この前提を掘り崩すヘイト・スピーチに思想の自由市場論を適用することはできない。同質的で平等な市民同士の意見交換の場合であれば、少数意見が多数意見に変わることもありうるかもしれない。しかし、マジョリティとマイノリティが異なる人種・民族に属するがゆえに、構造的差別の下でヘイト・スピーチが発信されている場合、マイノリティがマジョリティに変わる可能性は最初からない。小谷順子によれば「ヘイト・スピーチの衝撃的かつ威圧的なメッセージ性ゆえに、被害者や一般市民が沈黙してしまう可能性があり、そうなると対抗言論が発信されないままになる可能性があるほか、仮に論理的な対抗言論が発信されても、威圧的かつ感情的なヘイト・スピーチによってかき消されてしまう可能性があることが指摘されている。そうなると、ヘイト・スピーチへの対抗言論が将来的に『真実』または『良い思想』として社会や市場を制覇する可能性はきわめて低くなる」。

 第3に、思想の自由市場論はタイムスパンを明示しない。仮に長期的には思想の自由市場論が当てはまる場合がありうるとしても、一般的に適用できるとは限らない。まして短期的には、大衆がナチスを支持し、マッカーシズムの熱狂がアメリカを席巻する。最終的にナチスが崩壊し、マッカーシズムが消失したとしても、渦中にあって甚大な被害を受けた人々の救済を阻む理由にはならないだろう。

 第4に、市場の論理に喩えるのであれば、思想の自由市場論を唱える前に、「悪貨は良貨を駆逐する」という常識を考慮する必要がある。経済市場だけではなく、思想の市場においてこそ悪貨が良貨を駆逐してきたことは、マスメディアを見ればたちどころに明らかである。ましてインターネット時代においては改めて証明する必要がない。

 第5に、ヘイト・スピーチ被害者が思想の自由市場に参入するつもりがない場合に、なぜ参入を強制されなければならないだろうか。ヘイト・スピーチ加害者が一方的に押し掛けてきて罵声を浴びせる事例で、被害者に対抗言論を強制することは二次被害の拡大でしかない。

 思想の自由市場論をヘイト・スピーチに適用する論者は、ヘイト・スピーチに様々の行為類型があることを考慮していないように見える。名誉毀損型や差別表明型だけではなく、迫害型やジェノサイド煽動型に至る多様なヘイト・スピーチを見るならば、その暴力性が明らかになり、人間の尊厳に対する侵害が見えてくる。これを「思想」と呼ぶことで、見えなくなるものが大きすぎることに注意する必要がある。

 結論として、①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、その内容は極めてあいまいであり、比喩的表現を超えるものではない。そもそも検証可能性のない妄想を仮説と称することは疑問である。②思想の自由市場論が仮に検証されても、それをヘイト・スピーチに適用することの相当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法がこの仮説を採用しているという論証がなされたことは一度もない。


憲法学等の動向について、前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』では、奥平康弘、内野正幸、小谷順子、奈須祐治、上村都、遠藤比呂通、芦部信喜、佐藤幸治、辻村みよ子、初宿正典、長谷部恭男、渋谷秀樹、赤坂正浩、市川正人、川口是などの見解を検討した。

その後、成嶋隆、塚田哲之、尾崎一郎、市川正人、齊藤愛、浅野善治、光信一宏、木村草太、齋藤民徒、藤井正希、曽我部真裕、田代亜紀、榎透、奈須祐治、山邨俊英、桧垣伸次等の見解を紹介・検討してきた(これについては次の私の本で取り上げる)。

ここでの最大の論点は、レイシズムは民主主義と両立するか、しないかである。私見では両者は両立しない。それゆえレイシズムの具体的現象形態であるヘイト・スピーチは民主主義と両立しない。ヘイト・スピーチを容認・放置すると民主主義の基礎を掘り崩すことになる。民主主義を重視し、表現の自由の保障を実現するためにはヘイト・スピーチを規制する必要がある。マイノリティの表現の自由を考慮するならば、マジョリティの差別表現の自由に優越的地位を認めることはあってはならない。マジョリティの表現の自由を一方的に尊重するのではなく、マイノリティの表現の自由こそが優越的地位を認められるべきである。民主主義と表現の自由を真に尊重するにはヘイト・スピーチ刑事規制が不可欠である。

以上が、これまで何度も繰り返してきた私見の基本命題であるが、これに対する憲法学者からの応答は見られない。駒村論文にも私見への応答はない。陳腐な「思想の自由市場論」の“反復”という“無意味の秩序”に過ぎないのではないか。

Thursday, October 11, 2018

ヘイト・スピーチ研究文献(115)金沢シンポジウムの記録


「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」『金沢法学』61巻1号(2018年)


金沢大学基礎法研究会が主催し、2017年12月16日に、『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか』の著者エリック・ブライシュ(ミドルベリー大学教授、政治学)を招いて開いたシンポジウムの記録である。


東川浩二「はじめに」

エリック・ブライシュ「基調講演『ヘイト・スピーチとは何か』」

冨増四季「ヘイトスピーチ事案における不法行為法・填補賠償法理の担う役割への再評価」

駒村圭吾「ヘイトスピーチ規制賛成論に対するいくつかの疑問」

奈須祐治「ヘイト・スピーチと『公の施設』」


エリック・ブライシュの基調講演は、ヘイト・スピーチという古くて新しい現象の総体を把握するために、この概念定義の困難さ、あいまいさの理由を追跡する。国際人権法やアメリカ法におけるこの概念及び関連する概念が、どのような状況、どのような射程で用いられてきたかを確認する。ヘイト・クライムやハラスメントも含めたアメリカの用語法をフォローし、次いでヨーロッパ法の変遷を若干見たうえで、「ヘイト・スピーチとは何か」に、「正確で簡便な答えを出すことはできない」としつつ、「しかしこの問題を探求することで、この問題をより深く理解することは可能」という。そして3点指摘する。

「第1に、ヘイト・スピーチは1つの定義に集約させることはできません」。

「第2に、ヘイト・スピーチは概念的ツールであり、また政治的ツールでもあります。」

「第3に、ヘイト・スピーチ法とその政策は、その規制主体が置かれた状況によって相当大きく異なっているということです。」

最後にブライシュは類型論の必要性を強調して講演を終えている。


ブライシュの指摘は正しい。日本の議論でも、ヘイト・スピーチ概念の定義の困難性は常に焦点とされてきた。国際人権法上の概念もあいまいと言えばあいまいである。ブライシュは政治学者で、国際人権法学者ではないためか、ラバト行動計画や人種差別撤廃委員会の一般的勧告35を十分分析していないが、これらを踏まえても、定義の困難さという論点が残ることは否めない。

ただし、即座に補足しておかなくてはならないことは、一義的に明確で争いのない法概念などほとんどないという事実である。刑法における殺人罪の「殺人」という概念は極めて多義的であり、窃盗罪の「財物」という概念はもっと幅広い。判例や学説の積み重ねの結果として、専門家の間で一定のお約束が出来上がっているが、それもしばしば現実に裏切られるのである。刑法上の基本概念が多義的であり、あいまいであるのに、ヘイト・スピーチについてだけ完全無欠の明確性を求める議論をなぜ続けているのか、不思議な話である。

ついでに書いておくと、ブライシュの頭の中では、世界はアメリカとヨーロッパだけでできている。ブライシュに限らず、日本の議論でも、世界にはアメリカとヨーロッパと日本だけしか存在しないという大前提を疑うことが許されない。不思議な話である。


東川浩二「はじめに」は、シンポジウム主催者としての経過説明だが、冒頭に「我が国では、2013年ごろから在特会を中心として、主として在日韓国・朝鮮人を対象としたヘイト・スピーチが問題化した」として、京都朝鮮学校事件判決や大阪市条例、ヘイト・スピーチ解消法に言及している。こうした認識は、東川に限らない。ジャーナリストや評論家の多くは「2007年頃からヘイト・スピーチ問題」と語る。法学者の東川は、判決の出始めた2013年からと語る。
しかし、日本におけるヘイト・クライム/スピーチは2007年や2013年の問題ではない。朝鮮人に対する差別とヘイトは長い間、この社会の重大問題であり続けた。私自身は1988年の世界人権宣言40周年の記念集会を契機に在日朝鮮人の人権擁護を掲げる市民運動にかかわってきた。1989年のパチンコ疑惑騒動、1994年の核疑惑騒動、98年のテポドン騒動、2002年のピョンヤン会談、その都度、日本社会は在日朝鮮人に対する差別と憎悪を振りまいてきた。襲撃事件も何度も起きた。私は1994年以来、被害調査を踏まえて、国連人権機関に訴えてきた。日本の法律家にいくら言っても聞こうとしないからだ。さかのぼれば、阪神教育闘争があり、戦前には関東大震災朝鮮人虐殺がある。こうした歴史をすべて抹消して、2007年や2013年のヘイト・スピーチを語る姿勢では、問題の本質を隠蔽することにしかならない。