Wednesday, February 27, 2013

国連人権理事会22会期始まる

グランサコネ通信2013-09                                                                        *                                                                                                   2月25日、国連人権理事会22会期が始まった。25日から27日まではハイ・レベル・セグメントと言って、各国の大臣クラスの演説大会だ。外務大臣、法務・司法大臣、人権大臣、あるいは副大臣、人権委員会議長などが相次いで演説をする。それぞれ10分間。初日25日の冒頭は、イラク副大統領のアル・クザイエ、続いてコロンビア副大統領ガルソン、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ外務大臣ラグンジャ、オランダ外務大臣ティマースマン、と続いた。26日午前に日本のToshiko Abe, Parliamentary Vice-Minister for Foreign Affairsが演説したようだが、聞き逃した。日本代表が女性だったのは珍しい。                                                                                              各国の演説はそれぞれ特徴があるが、大きく言えば、第1に、自国の人権政策の説明、特に最近の政策展開を報告するもの、第2に、その中でも女性や子どもに関連した人権状況と人権政策を報告するもの、第3に、他国の人権状況を非難するもの、第4に、非難に対して反論するもの、であろうか。10分間の演説の中に、これらの要素をいれている。                                                                                                           個別テーマでは圧倒的にジェンダー関連が多いのは、以前から見ると、かなりの前進だ。だが、発言者は、75か国のうち、女性は8人だ。ノルウェー国務長官グリ・ラーセン、フランスのヤミナ・ベングイギィ、モルディヴのジェンダー大臣マリアム・シャキーラ、難民高等弁務官事務所のスタッフのエリカ・フェラー、イェメン人権大臣フーリア・マショイ、セネガル司法大臣アミナタ・トーレ、セルビア外務副大臣ロクサンダ・ニンチチ。67人の男性の過半数が、女性の人権を強調していた。男が男の人権を語っていた時代からは大幅な前進だが、男が女性の人権を語る時代で、まだまだ女性はほんのわずかだ。いつか女が男の人権を語る時代が来るだろうか。                                                                                                             上記第3の他国の状況批判は、いつも同じパターンになる。27日の冒頭のアイルランド外務大臣ギルモアは、EUを代表して発言したが、シリア、マリ、朝鮮、イラン、ミャンマーを矢継ぎ早に非難した。次のベルギー副首相・外務大臣レインダースはシリアとコンゴ民主共和国を非難した。実に見事に西欧中心主義の極致なのだが、そんなことは気にもしていない。ジンバブエ司法大臣チナマサが、人権問題に関するダブル・スタンダード批判をした。事前に用意した文書を読んでいたから、EUやベルギーへの応答ではなく、いつものことだからだ。セネガル司法大臣トーレも、アフリカの歴史を配慮せよ、という趣旨のことを少し言っていた。それが人権侵害の容認につながれば誤りだが、西欧諸国による第三世界たたきには、いくつもの国がダブル・スタンダードだと反発している。西欧諸国は、アフリカにおける戦争犯罪や人道に対する罪を激しく非難する。それは正しいが、西欧諸国は、アフリカおける西欧諸国による戦争犯罪や人道に対する罪には口を閉ざす。この点はずっと変わらない。右手で殺しながら、左手で救援し、口では相手を非難する。この不正義はまだまだ続くのだろう。 

重信房子『革命の季節――パレスチナの戦場から』

重信房子『革命の季節――パレスチナの戦場から』(幻冬舎、2012年)                                                                                                                          1972年5月30日、リッダ闘争――当時はベイルート空港銃撃事件といった呼び方をしていた。パレスチナ解放人民戦線PFLPの呼び名では「アメリーエ・マタール・リッダ」(リッダ空港作戦)だという――の日のことをよく覚えていない。高校2年生の春だった。当時のぼくは、一方で太宰や安吾などの無頼派をよみふけり、他方でミステリーとSFに熱中し(東京創元社と早川書房にお世話になった)、同時にプログレッシブ・ロック・ファン(ピンク・フロイドとキング・クリムゾン)だった。もちろん、ジョン・レノンを追いかけてもいた。隣町の書店で『朝日ジャーナル』は毎号購入していたし、『空想より科学へ』『共産党宣言』『帝国主義論』の文庫本も読んではいたが、政治少年というわけではなかった。レーニンの帝国主義論よりも幸徳秋水の帝国主義論のほうが優れていると思ったことは、『非国民がやってきた!』に書いた。                                                                                                ニュースを見て、何を馬鹿なことをしてるんだろう、と思ったことは間違いない。札幌の高校生だったぼくにとっては、地元で行われていた自衛隊違憲裁判の知識があり、恵庭事件判決がすでに出ていたし、長沼訴訟の真っただ中だった。自衛隊を憲法違反と判断した長沼訴訟札幌地裁の福島判決は1973年9月7日のことだ。憲法9条の戦争放棄と軍備不保持、憲法前文の平和的生存権、そして運動を支えている平和運動の人々――恵庭や長沼の人に加ええて、高校教師やキリスト教関係者が懸命に努力していた。だから、キリスト教的な平和主義や非暴力の思想の洗礼を受けていた。後のように明確な思想ではないが、当時すでに非暴力平和主義で、ガンディやキング牧師のことを聞いていた。だから、日本人がベイルート空港銃撃事件を引き起こしたことは「馬鹿なこと」としか思えなかった。                                                                                                                                                                                       当時のぼくはパレスチナのことは全く無知だった。ナチスに追われて行き場のないユダヤ人がようやくたどり着いた安らぎの地といったプロパガンダを信じていたかもしれない。パレスチナのことを少しは知るようになったのは大学時代だ。そして、同時代の日本の若者たちの「闘い」――主に誤った闘い、というより、間違いだらけの闘いについては、よく読んだ。ブント、全共闘、連合赤軍、よど号、日本赤軍、中核派と革マル派・・・。その後も、さまざまな形で公表された当事者の手記、想い出、グラフィティなどは比較的よく読んできた。ただのノスタルジーと自己正当化の本が多かった。「68年革命」を呼号することで正当化する試みが多いように思えた。日本赤軍が、他とは違って、日本革命から世界革命へと射程を広げ、その過程でパレスチナ解放闘争に加わっていった経過も読んできた。重信房子のこれまでの本も読んだ。永田洋子の本とつい比較してしまう。おかしな比較だ。                                                                                                                                           重信房子自身が当時の闘いの誤りを認識し、反省し、方向転換しつつ、闘い続けたことが本書を読むとよくわかる。本人の言葉では「いくつもの過ちや限界や時代の制約の中で、ひたすらに前を向き闘い抜いた当時の未熟な正義と苦闘と喜びの、等身大の自分と自分をとりまく情況を記したものです」。「加えて、30年のアラブ世界で知った人たちや時々をふり返り、今アラブ世界で起こっている民衆革命についてとリッダ闘争40年目の集いのことも付章としました」。                                                                                                                          グラビアには、奥平剛武士、安田安之、丸岡修、檜森孝雄、ガッサン・カナファーニーの写真。裏表紙には若松孝二、ライラ・ハリードの写真。本文に登場するのは、岡本公三、遠山美枝子、森恒夫、足立正生、奥平純三、山田修・・・それにしても、少ない。あまりにも少ない。日本の運動からあまりに遠く、切り離されていたことがよくわかる。パレスチナ解放闘争への連帯の中でアラブ世界の人々との多くの出会いがあっただろうが、それは本書の主題ではないため、あまり語られない。1945年生まれで明治大学学生だった著者が1971年に出国したのだから、どんなに思いがあっても、どんなに努力をしても、日本の運動とは疎遠になったのはやむをえないが、あまりに疎遠で情報も持たずに日本の革命運動をやっているつもりだったことが哀れだ。                                                                                                                               付章の「アラブの民衆革命とリッダ闘争40年目に」で、チュニジア、エジプト、リビア、バーレーン、イエメン、シリアの民衆革命を取り上げている。著者はアラブ民衆革命をパレスチナのインティファーダと同じ流れに位置づけようとする。西欧メディアや日本メディアとの大きな違いだ。したがって、西欧メディアのいう「アラブの春」のレトリックを批判する。「アラブの民衆の命をかけた闘いをほめそやし、かすめ取ろうとしている」。アラブ民衆の歴史的要求を正しく理解しないと、アラブ民衆革命の意味を把握できないし、二重三重に混乱し、混乱させられている現状を理解できない。著者の視点は重要だ。                  

Tuesday, February 26, 2013

「ダメ出し社会」がなぜいけないのか

荻上チキ『僕らはいつまで「ダメ出し社会」をつづけるのか――絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想』(幻冬舎新書、2012年) *                                                                                                      新聞広告に出ていたので、タイトルに魅かれて、成田空港の書店で買った1冊。                                                                                                   *                                                                                                                          <ここ20年の経済停滞からくる個人の生きづらさを反映し、益のない個人叩きや、意見・提言へのバッシング合戦が横行する日本。でも、僕らには時間がない。一刻も早く、ポジティブな改善策を出し合い、社会を少しでもアップグレードさせなくては――。>                                                                                                          *                                                                                                                               著者は1981年生まれの評論家。編集者。芹沢一也、飯田泰之とともに株式会社ソノドスを設立して、ニュースサイト「シノドスジャーナル」や、メールマガジン「αシノドス」を出しているという。『検証東日本大震災の流言・デマ』(光文社新書)はわりと話題になった。                                                                                                              第1章 僕らはどうして、「ここ」に流れ着いたのか                                                                                                第2章 僕らはどうして、間違えた議論をするのか                                                                               第3章 僕らはどうして、「国民益」を満たせないのか                                                                                        第4章 僕らはどうやって、バグを取り除くのか                                                                                        第5章 僕らはどうやって、社会を変えていくのか                                                                               目次の立てかたも面白いが、「間違えた議論」の具体例の上げ方もなかなか。「間違いだらけの消費税法案」も「経済停滞宿命論の罠」も説得力がある。「脱成長の際にある地獄絵図」は、説得的とは思わないが、なるほどこういう考え方もありうる。現在の社会を足の引っ張り合いをする社会とみる点も納得。                                                                                                                              *                                                                                                                             個人的には、疑念もある。第1に、著者は「国民益」を強調するが、「国民益」という思考そのものが問題なのだ。「非国民」たる外国人住民を排除し、無視している。そもそも国民統合の論理と思想が、個人の尊重や人間の尊厳を徹底的に抑圧してきた。経済的に「国民益」に繋がれば、すべての人を潤わせるという虚偽の説明しかないだろう。第2に、著者のいう「僕ら」とは誰のことなのか。本書を通して読むと、日本社会全体の議論を指すようでもあるし、これからの日本を引き受ける世代のことのようにも見える。第3に、なぜダメ出し社会がダメなのか。現状に不満や批判があれば、どんどん指摘すればいいのだ。ダメ出しすればそこから次の一歩につながる。ダメ出しがなければ改善策など出てこない。著者は「叩いて終わりはもう終わり」という。「ダメ出しだけで終わるのは問題だ」という意味では賛成だが、これまでの議論が「叩いて終わり」というのは本当だろうか。本書で示されている具体例の中にはなるほどと思うものもあるが、それがすべてではない。ダメ出ししてポジ出しをするのは、当たり前のことだが、著者の言い方だと、結局、「代案なしに発言するな」という話になりかねない。「どんどんダメ出ししよう。そしてポジ出ししよう」と言うべきだ。    

取調拒否は憲法で保障された正当な権利です

パソコン遠隔操作事件で逮捕された被疑者が、取調べを拒否しています。                                                                                                                                                                             取調拒否は憲法で保障された正当な権利です。                                                                                                                                                                                             ヤメ検や御用学者が、「被疑者には取調べ受忍義務がある」とか、「やましいことがなければ、堂々と取調べを受けるほうがよい」とか、主張するかもしれません。                                                                                                                                                                                                                         しかし、被疑者には取調べ受忍義務はありません。憲法13条は個人の尊重、人格権を保障しています。憲法38条1項は黙秘権、自己負罪拒否権を保障しています。黙秘権行使のためには取調拒否権、出房拒否が重要です。                                                                                                                                                                                                                     詳細は以下をお読みください。                                                                                                    取調拒否権の思想                                                                                                                      http://maeda-akira.blogspot.ch/2012/12/blog-post_1549.html                                                                                                                    http://maeda-akira.blogspot.ch/2012/12/blog-post_15.html                                                                                                       http://maeda-akira.blogspot.ch/2012/12/blog-post_16.html                                                                                                         http://maeda-akira.blogspot.ch/2012/12/blog-post_18.html                                                                                         http://maeda-akira.blogspot.ch/2012/12/blog-post_7943.html                                                                                                http://maeda-akira.blogspot.ch/2012/12/blog-post_5532.html                                                                                                   http://maeda-akira.blogspot.ch/2013/01/blog-post_18.html                                                                                                                  http://maeda-akira.blogspot.ch/2013/02/blog-post_13.html                                                                                                                                                                                                                   時間のないかたは(6)(8)をまずお読みください。                                                                                            

Sunday, February 24, 2013

皮肉の間接的攻撃性――言語の社会心理学  

岡本真一郎『言語の社会心理学――伝えたいことは伝わるのか』(中公新書、2013年)                                                                                                                                                                                                                      *                                                                                                                                                           「ことばは文字どおりには伝わらない」。伝えたいことを伝えるために、どうすればいいのか。そのための言語の社会心理学研究の現状を様々に紹介した本だ。書店で手にしたときに、さまざまな事例が出ているので面白いかも、と思って購入した。勉強にはなるが、面白い本とはいいがたい。でも、関心のある人にはとても面白いのだろう。                                                                                                                       第1章 「文字どおり」には伝わらない                                                                                                                                 第2章 しゃべっていないのになぜ伝わるのか                                                                                                                     第3章 相手に気を配る                                                                                                            第4章 自分に気を配る                                                                                                                    第5章 対人関係の裏側――攻撃、皮肉                                                                                                                        第6章 伝えたいことは伝わるのか                                                                                                           終章  伝えたいことを伝えるには?                                                                                                   昔は会話術とか文章読本とかがあった。今もあるのだろうが、見ていない。就職の面接用の本もある。他方、ビジネス本では、上司がいかにすれば部下の信頼をえられるかといったテーマもよくある。                                                                                                            本書はそうしたハウツー本とは違い、言葉そのものの、社会における役割、コミュニケーションのありかたを社会的行動の実証的経験的方法で論じている。アカデミックだ。文章は平易だが、聞きなれない言葉も少なくない。非言語的チャネル、表示規則と解読規則、限定推移、拡張推移、様式推移、ポライトネス理論、セルフ・ハンディキャッピング、透明性錯覚など。ソシュール言語学の原理論どまりの読者には、なかなか苦労。                                                                                                           白かったのは、一つは自己卑下の特徴で「本心で謙遜しているのか」の記述だ。自己高揚とは逆の自己呈示の過程としての自己卑下だが、その動機は多様である。自己卑下を利用して自分に得な状況をつくりだす打算的な場合もある。実験によると、匿名状況でも自己卑下的な自己呈示がなされることがあり、必ずしも打算的ともいえないようだが、それは自己卑下をバネとしてそれを克服するように積極的に活かしていく作用だという。                                                                もう一つ、皮肉がテーマとして取り上げられていて、「間接的攻撃」と呼ばれていて驚いた。たしかに、皮肉には間接的攻撃と呼ぶべき機能がある。事実に即した皮肉、逆転型の皮肉、非逆転型の皮肉、皮肉におけるコミュニケーションの不誠実性などが語られる・間接的攻撃については、一方で皮肉はユーモアとつながる。曖昧な皮肉も活用できる。しかし、使い方によっては、ユーモアを忘れ、相手に対する攻撃が前面に出てしまうことがある。なるほど。さらに、通じない皮肉にも意味があるという記述に納得。

70年代――イメージの分裂と拡散

週刊金曜日編『70年代――若者が「若者」だった時代』(金曜日、2012年)                                                                  *                                                                                                       「60年代後半から70年代初めにかけ、キャンパスを中心にわき起こり、列島を覆った変革のエネルギーはどこに行ったのか? どうして失われたのか? 70年代とは何だったのか? なぜか、こうした疑問を正面からとらえた書籍を目にしたことがない。」                                                                                                   「はしがき」に示された関心から「週刊金曜日」に連載された「70年代の光と影」をまとめた1冊だ。連載当時、半分近くは読んだ。なるほど、なるほどと読んだ回もあれば、懐かしさに思わず回顧した回もあれば、読み始めてすぐにやめた回もあり、終わりのほうはあまり読まなかった。1冊になったので、全部読んでみた。                                                                                                      60年代から70年代初めにかけての「政治の季節」から、80年代の「消費の季節」への移行期としての70年代には様々な顔があり、イメージがあり、それらが分裂しているばかりか、相互に矛盾し合い、しかも矛盾が矛盾として把握されることもなく、矛盾がせめぎあうこともなく、だら~んと時代が過ぎて行ったという感じだろうか。                                                                                                 それでも、たしかに「70年代の光と影」――ありきたりの表現だが、あの時代の空気を吸った人間にはまさに「光と影」を意識せざるを得ないし、そのことを一つ一つ丁寧に見せてくれる本書はおもしろい。74年に大学に入学し、78年に卒業したぼくにとって、70年代は文字通りの青春時代だ。この本に収められた項目のほとんどを同時代に明確に意識して見ていた。やや遅れて知ったことも含めると、ほとんどすべてを「知っていた」――細部にわたって、という意味ではない。細部は知らなかったことのほうが多いのは当たり前。ただ、ぼく個人の意識としては、70年代よりも、大学院で好きな研究に熱中していた80年代前半のほうが、自分なりの青春時代という印象もあるため、「70年代」というまとまりで考えてこなかった面がある。その意味でも本書に改めて教えられることが多かった。                                                                                                                     20歳の原点、三島由紀夫と高橋和巳、べ平連、大阪万博、ニクソンショック、連合赤軍事件、三菱重工爆破事件、「沖縄復帰」、青法協攻撃、神田川、あしたのジョー、よど号、村上龍と村上春樹・・・・と続く24本の論考は、70年代の様々な局面を切り取り、さまざまな相貌を描き、時代の雰囲気を呼びおこしてくれる。もっとも、1冊通して読んでも、70年代のイメージは分裂したままだ。                                                                                                                                 それはどういうことだろうと思ったが、考えてみれば、たまたま西暦で70年代とひとくくりにされている時代のイメージが多様であるとしても不思議でもなんでもない。                                                                                                                60年代が安保闘争に始まり、学園紛争に終わると言っても、他方で高度成長、東京オリンピック、新幹線・・・といった物語もついてまわる。学園紛争にしても、60年代から70年代の雰囲気を規定しているとはいえ、当時の大学進学率から言って、学園紛争が若者全体の意識を反映していたというのは正確とは言えない。                                                                                                                               本書は様々な読み方のできる本だ。当時の出来事の思い出や解釈は、人さまざまだろう。本書に賛同できない部分もある。だが、それは、執筆者の個性、個人的体験、記憶が反映しているからであり、執筆者と読者の間に溝があることもあらかじめ配慮されている。時代の雰囲気を呼び起こすだけでも意味があるし、当時とは違った視点で光を当てている面もあるし、70年代と10年代とをつなぐ/あるいは切断するものが何かを突き止めるための文章も含まれている。                                                                                                                            賛同できないのは、帯にも書かれ、はしがきや冒頭の座談会でも強調されている「紫陽花革命」だ。脱原発運動、特に首相官邸前のデモや経産省前のテントに象徴される動きを「紫陽花革命」と呼んで、あたかも何かを成し遂げたかのようにみる精神に違和感を感じる。この言葉が最初に使われたのはいつだったろうか。だれが使い始めたのかも知らないが、2012年7月の代々木公園集会のときにはすでに使われていた。当時、ただちに違和感を表明しておいた。そもそも「紫陽花」の花言葉を思えば、この言葉を使うはずもないのだが、まあ、仕方ないか。春だったら、「潔く散る桜革命」とでも呼ぶのだろう。その場で騒ぐだけで、運動への志がないからだ。それが直ちに悪いともいえないが。                                                                                                                                                 脱原発の歩みは、はるか遠く、うねりながらの道である。安倍政権はもとより、政財界、そして一般市民も、3.11を風化させて、何事もなかったように「日常」に帰ろうとしている。あわてず、たゆまず、粘り強い運動をいかにして組み立てていくのか。

Saturday, February 23, 2013

ネット右翼の思考を理解するには

安田浩一・山本一郎・中川淳一郎『ネット右翼の矛盾――憂国が招く「亡国」』(宝島社新書、2013年)                                                                                                 *                                                                                                            ネット右翼には関心がない。関心はないが、向こうから押し寄せてくる。在特会が典型だが、今やネット右翼はネットの世界からあふれ出て、現実世界で蛮行を繰り広げている。集会妨害にやってくるし、誹謗中傷もひどい。関心がなくても、対処せざるを得ない。安田浩一『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)は、ネット右翼の特質を教えてくれる貴重な本だったが、その安田に2人の著者を加えて、ネット右翼を分析している。                                                                                        「ネット右翼のリアル」(安田)は、在特会に見られる「愛国」の実態を追いかけている。「在日特権」という主張自体がほとんど妄想でしかないのに、妄想にとらわれた人間が異常なまでに激しい憎悪をたぎらせて、差別と暴力に走るのはなぜか。「弱者のツール」(山本)は、ネットで問題を起こす人たちの属性を発言しない、知人が少ない、学識や地位が低いと述べている。当たっているのかどうかしらないが、ネット右翼の規模は最大で120万人だという。多いと見るか、少ないと見るか。「常識」や「教養」が失われた社会の問題性を教えてくれる。「メディアの反日陰謀論」(中川)は、ネット右翼が主張するメディアの反日陰謀論がまったくの誤解と虚構であることを説明する。「メディアにそんなガッツはない」。悪いことはすべて韓国、朝鮮のせいにする意識のありようが問題だが、安倍晋三がネット右翼にすり寄り、いかにネット右翼を利用しているかも具体的に示している。ここにネット右翼の怖さがあるのだろう。まさに反動政治家を利用し、利用される関係だ。3人の座談会「ネット右翼の正体」も、よく理解できる。フジテレビたたきに見られるように、ネット右翼が「成果」を挙げてしまい、それを社会が知ってしまったため、ネット右翼の暴走が続いている。                                                            もっとも、本書が分析対象とするのはネット右翼だけなので、分析の正しさは検証できない面がある。ネット右翼だけでなく、ネット左翼も、ネット**も、みな同じような傾向を持っているのではないだろうか。ネットを駆使する限り誰もがはまる陥穽ということかもしれない。

「ニュースとしての歴史」展

グランサコネ通信2013-09                                                                                                                                                                                                                                                                         *                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                風花が舞い、底冷えのするジュネーヴだ。                                                                                                                                     *                                                                                                                       (1)人種差別撤廃委員会                                                                                                22日午前は人種差別撤廃委員会CERDでニュージーランド政府報告書審査だった。NGO席に30名以上の若者が座っていた。ニュージーランドの大学生が研修を兼ねて、政府報告書審査を傍聴に来ていた。ほとんどみなヨーロッパ系白人の顔つきだった。マオリ人がいたのか、いないのか。報告書審査では、マオリ人に対する差別が主題となった。マルティネス、バスキス、クイックリー、ファン委員らが次々と質問していた。就職差別をなくす努力、インターネットにおけるヘイト・スピーチへの対処、公用語としてのマオリ語など。ファン委員が「中国では、政府がさまざまな言語の教科書を用意して、若者が自分たちの言語をマスターできるようにしているが、若者自身が漢語を学びたがり、自分の言語を学ぼうとしない。支配的な漢語のほうが社会的に上昇できるからである。ニュージーランドでマオリ語を公用語にしているというが、若者はマオリ語を学びたがるのか。英語を学びたがるのではないか」と質問していた。                                                                                                                           *                                                                                                                         ニュージーランド政府報告書(CERD/C/NZL/18-20. 14 June 2012)                                                                                                        *                                                                                                                        ニュージーランドは条約第4条の義務を実施している。2006年報告書の際にも報告し、議論されたが、特定の集団に対する敵意を煽動することを不法としている。                                                                                                                「人権法61条(人種的不調和disharmonyの違法性)」による申立には変動がある。2007年31件、2008年23件、2009年30件、2010年21件。大半は正式告発には至っていない。ニュージーランドはヘイト・スピーチを犯罪としていないが、人権法131条は「人種的不調和の煽動」を犯罪としている。2008年に立件されたのは1件である。                                                                                                                         2002年量刑法9条1項(h)は、犯罪が、人種、皮膚の色、国籍、宗教、ジェンダー・アイデンティティ、性的志向、年齢又は障害といった特徴を持つ人の集団に対する敵意の故に行われた場合、量刑の考慮に入れるとしている。被害者がそれに該当していなくても、犯行者がそのように信じていた場合にも同様である。                                                                                                        2009年の犯罪と刑事司法統計年報には、偏見犯罪(人種的に動機づけられた犯罪を含む)に関する情報が含まれている。ニュージーランドでは人種的に動機づけられた犯罪は公式統計に乗ってこないが、警察によると地方レベルでは差別やハラスメントによる犯罪がある。たとえば、2008年、クリストチャーチで、ウェブサイトに匿名で、異なる者に対する有害な書き込みが確認されている。タスマン地方では、人種主義的事件が報告された。                                                                                                                               警察は、移住者、難民、外国人労働者、旅行者、留学生に援助するための共同作業の努力をして、「民族戦略2010――民族コミュニティでともに働く」を策定・実施した。警察官に採用される(白人系以外の)民族が増えた。警察が民族的マイノリティの状況に理解を持つようになってきた。     *                                                                                                                                                                                                            (2)「ニュースとしての歴史」展                                                                                                                       パレ・デ・ナシオン旧館の大会議場前の通路で「ニュースとしての歴史」展が行われている。重大事件の新聞記事を展示している。たとえば、国際連盟設立の時の新聞記事。ナチス・ドイツの敗戦、イタリア・ファッショ党崩壊から、9.11やハイチ地震も。また、チャーチル、ドゴール、毛沢東、ガンディ、ケネディの死去報道。ニューヨークタイムズ、人民日報、イズベスチャなど世界中の新聞。マリリン・モンロー、プレスリー、ジョン・レノン、マイケル・ジャクソンの死亡記事も。日本関連の新聞は2つ。一つは、マッカーサーと昭和天皇が並んだ写真つきの記事(毎日新聞)と、3.11東日本大震災。

Thursday, February 21, 2013

平和への権利作業部会終了

グランサコネ通信2013-08                                                                                                                                                                                                                   *                                                                                                                                               (1)作業部会終了 国連人権理事会平和への権利作業部会は、21日午後、最終セッションを開催した。議長が用意した報告書A/HRC/WG.13/1/2は、前日までのWGの詳しい経過説明と、それを受けての結論と勧告が含まれている。結論と勧告については、前日、アメリカとEUがWGは結論や勧告を出す必要はないとしつこく言っていたが、国連人権機関の通常のスタイルは、結論と勧告を出す形でやってきた。どういう内容になるか、半分期待、半分不安に思いながら報告書を開いた。勧告は簡単なものだった。およそ次の内容。 「WGの間になされた議論と、見解に相違が残されていることに基づいて、議長は人権理事会に次の勧告をする。 i. 第25会期前に、政府間WGの第2会期を開催する。 ii. それまでの間に、議長に、政府、地域的集団、関係者と非公式協議を行うことを許可する。 iii. 議長は、WG第1会期に行われた議論、及び上記の非公式協議に基づいて、新しい文書(宣言草案)を準備し、WG第2会期でさらに審議するためにその文書を提出すること。」 特に新しい内容があるわけではなく、当初の予定通りである。アメリカやEUがどう出るかと思ったが、iiiについて強い反対はしなかった。                                                                                                                                                          イタリアは、平和への権利を認めない、国際法は武力行使を認めていると述べた。                                                                                                                                               アメリカは、普遍的なコンセンサスを形成するためにはもっと多くの諸国が関与するべきだと述べ、基本部分での共通認識ができていない(個人の権利と人民の権利、平和の権利を基礎とすることは人権に階層を認めることになる)ので、平和への権利ではなく、「平和と人権」という議論をするべきだと述べた(「平和と人権」というのは、平和への権利を否定するという意味)。                                                                                                                                                               この程度の反対しか出なかったので、議長は採択に入り、報告書(結論と勧告を含む)はあっけなくコンセンサスで採択された。                                                                                                                                           (2)感想                                                                                                                                         アメリカの意見のうち、参加国が少なすぎるというのは、なるほどと思った。WG参加国家は全部で79か国。国連加盟国193の半分に満たない。しかも、その半分は初日だけの出席で、ふだんは20~30か国くらい。発言する政府も限られていたのが残念。平和への権利推進派は、ペルー、コスタリカ、キューバなど。総論賛成・各論一部反対は、イラン、ロシア、シンガポールなど。全面反対はアメリカとEUと韓国。完全黙秘は日本政府。                                                                                                                                       日本政府は4日間の作業部会でついに一度も発言しなかった。初日はともかく、他の日はほとんど欠席していた。世界で唯一、憲法に平和的生存権と書いてある国なのに、まったく無責任だ。                                                                                                                                                             韓国政府は初日に反対意見を述べて、以後はほとんど見かけなかった。同じ時期に、韓国政府はNGO向けの人権研究をやっているので、それで忙しいのだろう。NGO向けにわざわざジュネーヴの国連欧州本部で人権研修をしている。日本政府では考えられないことだ。                                                                                                                                  初日に呆れたお馬鹿発言をして顰蹙を買ったカナダ政府は2度と顔を出さなかった。                                                                                                                                                              NGOの参加も少なかった。事前の情報では24NGOということだったが、20に届かなかったと思う。特に大きな有名NGOが参加しなかった。たとえば、アムネスティ・インターナショナル、ヒューュマン・ライツ・ウオッチ、国際法律家協会、インターナショナル・ペン、インターナショナル・ピース・ビューローなど。発言するNGOも限られていた。                                                                                                                                                    *                                                                                                                                              閉会後、ロベルト(アメリカ法律家協会)、ミコル・サヴィア(国際民主法律家協会)、ダヴィド(スペイン国際人権法協会)、笹本(日弁連)、武藤達夫(関東学院大学准教授)などで今後の活動について協議した。まずは、資料集の出版、続いて日本での専門家会議をどうするか、平和への権利を認めた判決の資料集を作るべき(日本、コスタリカ、韓国で6つの判決がある)など。                                                                                                                                                                          *                                                                                                                                                    Cubee du President, Vin d’ALGERIE,2011.                                                                                                                                                  Domaine Toulal, Gnerrouane, Vin Du Maroc, 2011. 

キュレーターのヴィジョン・トレーニング  

長谷川祐子『キュレーション――知と感性を揺さぶる力』(集英社新書、2013年)                                                                                   他者を侮蔑する本を読んでしまったので、お口直しに本書を手にした。「あなたを変える<体験>を創る!人気キュレーターが仕掛ける、現代アートの魔術的試み!」との宣伝文句。著者は、水戸芸術館学芸員、金沢21世紀美術館学芸課長、東京都現代美術館チーフキュレーター、そして今は多摩美術大学教授だ。日本での活躍とともに、イスタンブール・ビエンナーレ、ヴェネツィア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレ、香港アートフェアなど海外でも活躍しているキュレーターだ。アーティストとキュレーターの関係を手始めに、キュレーターと社会の関係も論じ、世界の中でのアートの見え方の差異、文化や感性の変容を論じている。時代、地域、文化によって同じ作品が違う見方をされ、受け止め方をされることも踏まえて、キュレーターは何を、どのように提示して人々(観客)の感性を揺さぶり、新たな体験を共有してもらうのか。その実験の成果が説かれている。著者が実際に担当した豊富な事例をもとに論じているので、納得させられてばかりだ。                                                                                                         「現在キュレートリアルにまつわる議論として一つの焦点となっているのが、資本主義、美術市場との関係で、<生産>があまりに重要視されるがために、展覧会においても生産が批評を凌駕しているという傾向である。」                                                                                                      「私的な出来事や行為、記憶の集積を現代アートは反映する。それはカルチュラル・スタディーズや人類学的な調査、考察のもう一つの視覚化でもある。キュレーターは現地でのキュレートリアルの実践を通して観客の関心を惹きつけつつ、突き放したりずらしたりして試していく。」                                                                                                           「キュレーターは、既存の価値観からはアートとみなされないものでも、アートの視点で価値を見いだし、拾いあげ、コンテクストにのせていくことがしばしばある。」                                                                                                                  「グローバル時代におけるキュレーションに一つの方法論はない。たえざる交渉と変化と葛藤の場所に身をさらし、意見を交換し続けることで、無限の方法論、実践は生まれてくる。」                                                                                                                             ただ、8章「物議をかもした展覧会」のところだけ、ナチス・ドイツの「退廃芸術」展や、アメリカの例を紹介するにとどめている。日本の例が出てこないのは、例を出すと関係者への批判になってしまうから、避けたのかもしれない。

中国を蔑視して喜ぶ日本人 

西尾幹二・青木直人『第二次尖閣戦争』(祥伝社新書、2012年)                                                                         2年前に出た『尖閣戦争』の続編だ。前著は中国漁船衝突事件の時のものだが、今回は2012年の事態を受けての対談である。単に尖閣の領土問題だけを議論するのではなく、日中、日米、米中の国際関係(政治、経済、社会を含めて)の中で議論をするという基本的な組み立ては正当だと思う。国際関係全体の中で東アジア、特に中国の今後をどう読むのかという問題意識である。小さな新書であるにもかかわらず、その点では健闘している。しかし、よくもまあこれだけ中国蔑視発言を乱発できるものだと呆れてしまう。「発達段階の遅れた、独裁と非文明の前近代国家なのです」に始まり(いつから発展史観、歴史の発達段階論を採用するようになったのかと不思議)、「シナ」発言を連発し、「否応なしに目に入る最低国家」と言い、漢民族を「白アリ」と呼び、「犬がお腹を見せるように、中国が体を開いて」、「常識、良識などというものとは、まったく無縁」と言った調子で、ひたすら中国の悪口を並べ立てる。また、沖縄米軍基地へのオスプレイ配備関連して、「沖縄には相当中国人が入り込んでいるでしょう。福州系琉球人とか。広州系日本人とかいて、中国に帰属したほうがいいと思っている。メディアは彼らに占領されている。県庁や市役所も相当に怪しい」とまで言う。見事な「陰謀論」だ。日本はひたすら被害者で、とにかくすべて中国が悪いと、罵詈雑言、誹謗中傷がえんえんと続く。本書を読めば、一部の日本人が、いかに被害妄想を抱いて、ひたすら他者を貶め、攻撃し、それによって精神の安定を得ようとしているのかがよくわかる。うんざりする1冊だ。   

Wednesday, February 20, 2013

平和への権利作業部会3日目終了

グランサコネ通信2013-07                                                                                                                                                                                                                   *                                                                                                                                               (1)宣言草案13条「義務と履行」 2月20日午後、国連人権理事会平和への権利作業部会は、宣言草案13条の審議に入った。最初に、モナ・ズルフィカー諮問委員会作業部会長が、なぜ義務と履行の規定が草案に入ったのか経過説明をした。というのも、これまでつくられた国連宣言にはこの種の規定がない。宣言は「**は権利である」と宣言するだけである。権利を実現するためのメカニズムを規定するのは人権条約である。条約ではない宣言に実施メカニズムを盛り込んだのは、NGOの「ルアルカ宣言」や「サンティアゴ宣言」である。サンティアゴ宣言は、通常の人権条約に匹敵する実施メカニズムを盛り込んでいた。諮問委員会での議論では、実施メカニズム規定は難しいということで大半が削除されたが、13条だけ残された。                                                                           政府では、イラン、ペルー、エジプト、シンガポール、モロッコ、ロシア、イラン(2回目)、インドネシア、セネガル、スリランカ、キューバ、シンガポール(2回目)、アルジェリアが発言した。                                                                        アメリカやEUが発言するまでもなく、多くの国が13条は現段階では無理との感触であった。エジプトは、価値はあるが難しいと述べた。インドネシアは、平和への権利は前進的な性質をもつという言い方で、実施メカニズムも必要だが、といった言い方で結局は無理だという結論のようだった。スリランカは、13条6項(人権理事会が実施メカニズムに責任を持つ規定)の削除を要求した。                                                                             NGOでは国際平和メッセンジャー(カルロス)が実施規定の重要性を訴えた。世界女性サミット財団(エリィ・プラクレバレル)は、各国がよき実践を行う責任を強調した。                                                                                                                        (2)宣言草案14条「最終条項」                                                                                                                                                                                                   ペルー、国際平和メッセンジャー(カルロス)が発言した。                                                                                                                                                      (3)民主的国際秩序独立専門家                                                                                                                                                                                                                                                                                          ここで、アルフレド・デ・ザヤス「民主的国際秩序促進独立専門家」が来たので特別発言となった。                                                                                                                 たとえば、次のようなことを述べた。作業部会の任務は、既存の国際規範を確認することだけではなく、発展を促進し、実施メカニズムを作り、価値を追加することである。平和への権利の法的根拠は、国連憲章そのものである。国連総会の友好関係決議2625、侵略の禁止決議3314もある。世界人権宣言28条も根拠を提示している。多くの国連人権条約もある。また、憲法の中に平和条項があって、判例の出ている国もある(日本とコスタリカのことだ)。平和の文化や平和教育のことも強調し、共通のヴィジョンを持つだけではなく、平和の文化のロードマップをつくるべきだ。世界人権宣言29条に従って、各国の義務、人民と個人の義務も指摘したい。人民及び個人の権利としての平和への権利は、国連憲章と人権条約に基づいて、既に存在する。ニュルンベルク裁判と東京裁判は平和に対する罪で裁いた。国際刑事裁判所規定は侵略の罪を掲げている。                                                                                                               デ・ザヤスの発言の大半は、アメリカやEUが宣言草案を批判したのに対する総反論というべき内容であった。エリィ・プラクレバレルと私は拍手。                                                                                                             デ・ザヤスはアメリカ人だが、ジュネーヴ外交国際関係大学教授で、長年ジュネーヴに在住し、国際人権法の専門家として知られる。平和への権利の議論の過程で、NGOフォーラムや人権高等弁務官事務所主催シンポジウムでも発言してきた。

平和への権利作業部会に福島原発事故の報告

グランサコネ通信2013-06                                                                                                                                                                                                                   *                                                                                                                                               (1)宣言草案9条「発展の権利」                                                                                20日午前、国連人権理事会平和への権利作業部会は、宣言草案9条の審議に入った。                                                                               政府は、ペルー、イラン、セネガル、シンガポール、ベネズエラ、EU、アメリカ、モロッコ、ロシア、インド、キューバ、セネガル(2回目)、キューバ(2回目)が発言した。                                                                                         EUは、発展の権利と平和のつながりは認めるが、発展の権利国連宣言がすでにあるし、作業部会もあるから、平和への権利宣言で議論する必要はないと批判した。                                                                                       アメリカは、発展の権利を平和への権利に取り入れるのは不適切、他の場ですでに議論してきたし、これからも議論できる、と批判した。                                                                                                  ロシアは、9条を支持し、平和への権利の要素の一つであると述べた。                                                                                   NGOでは、アメリカ法律家協会(ロベルト・サモラ)、国際平和メッセンジャー、世界女性組織(ムトゥア・キンガ・コビア)、欧州第3世界センター(オズデン・メリク)が発言した。                                                                                                                世界女性組織のコビアは男性だが、アフリカの女性の状況、差別と貧困について述べて、発展の権利の重要性を訴えた。                                                                                               *                                                                                                                   (2)宣言草案10条「環境」                                                                                                                       続いて10条の審議に入り、政府では、コスタリカ、ペルー、シンガポール、イラン、EU、キューバ、シンガポールが発言した。                                                                                                       EUは、環境についてはすでに人権理事会も取り組んでいるし、気候変動については京都議定書もあり、条約化されているから、平和への権利宣言に入れる必要はないと批判した。                                                                                                       NGOでは、国際平和メッセンジャー(カルロス・ビヤン)、国際人権活動日本委員会JWCHR(前田朗)が発言した。                                                                                              JWCHRは、福島原発事故の被害の広がりを報告し、環境破壊によって故郷が喪失したとし、核兵器廃絶のみならず原発廃絶、「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」「チェルノブイリ・フクシマ」がスローガンだとし、コスタリカ憲法裁判所の2008年判決の重要性を指摘した(発言内容は前年の笹本潤発言を借用し、一部訂正したもの)。                                                                                                        (3)宣言草案11条「被害者と被害にさらされやすい集団の権利」                                                                                                     ペルー、イラン、アルジェリア、EU、ロシア、シンガポールが発言した。                                                                                                     EUは、被害者については各種の人権条約があるうえ、重大人権被害者の権利回復のガイドラインもできているから、この議論は不必要だと批判した。このパターンが続く。                                                                                                     (4)宣言草案12条「難民と移住者」                                                                                                              ペルー、グアテマラ、セネガル、キューバ、コスタリカ、アメリカ、ロシア、パキスタン、イラン、モロッコ、EU、シンガポール、アルジェリア、エクアドル、中国が発言した。                                                                                                                                  アメリカは、難民条約、難民高等弁務官事務所があるから、この議論は不必要だと批判した。発言の中で、「難民が生じた場合アメリカはフルサポートするが」などと言っていた。無理やり戦争を仕掛けて難民を作って、フルサポートとは。                                                                                                                               EUも、ほぼ同じ発言。                                                                                                                         NGOでは国際平和メッセンジャー(カルロス)。                                                                                                                              最後に諮問委員会作業部会のモナ・ズルフィカーが発言して午前は終わり。

Tuesday, February 19, 2013

革命的顎鬚

グランサコネ通信2013-05                                                                                                                                                                     *                                                                         (1)人種差別撤廃委員会CERD                                                                                 19日午後の初めは、パレ・ウィルソン(人権高等弁務官事務所)で開催されているCERDに行ってきた。スロヴァキア政府の9・10回報告書の審査が行われていた。スロヴァキア政府が15名近く参加していた。NGOの傍聴は6名。うち1名は反差別国際運動IMADRメンバーでこのところずっとCERDを撮影してインターネット放送している。                                                                                  今回のCERDに提出された各国政府報告書を入手するために行ってきたが、いつもは印刷しておいてあるのに、なぜかまったく置いてなかった。経費節減だろうか。ウェブサイトからとる必要がある。スロヴァキア審査では、主にロマの権利と言語マイノリティのことが取り上げられていた。担当のケマル委員の発言で、スキンヘッドによるロマ、非EUの人間に対するヘイトクライムのことも取り上げられていた。政府報告書を見ていないのでよくわからなかった。後日、報告書を確認する必要がある。                                                                          *                                                                                           (2)平和への権利宣言草案6~8条の審議                                                                                        途中で抜けて、パレ・デ・ナシオンの国連人権理事会・平和への権利作業部会に戻ってみたら、4条と5条の審議が終わって、6条に入るところだった。                                                                                        6条「民間軍事・警備記者」では、政府はペルー、アメリカ、ロシア、キューバ、EU、コスタリカ、コロンビア、アルジェリア、イラン、セネガルが発言した。                                                                                                  アメリカは、宣言草案には驚いた、定義がきちんとできていない、民間軍事会社と民間警備会社が区別されていない、と批判した。                                                                                                    NGOでは、アメリカ法律家協会(ロベルト・サモラ)、国際平和メッセンジャー(カルロス・ビヤン)が発言した。                                                                               7条「抑圧への抵抗・反対」では、EU、イラン、アルジェリア、コスタリカ、セネガルが発言した。                                                                                                 NGOでは、国際平和メッセンジャー(カルロス・ビヤン)、青年平和構築ネットワークが発言した。青年平和構築ネットワークは、ガンディー、キング牧師のことを話していた。                                                                                        8条「平和維持」では、ペルー、パキスタン、EU、ロシアが発言した。                                                                     パキスタンも、これはニューヨークで議論するべきだと言っていた。                                                                  EUも、政治問題であって、人権理事会の議題にはならない、と批判した。                                                             ロシアは、平和維持は安保理事会や総会の議題だが、国際法に違反して人権侵害がなされた場合は、人権理事会マターでもあると述べた。                                                                                                NGOでは、国際平和メッセンジャー(カルロス・ビヤン)、非暴力平和隊(ロルフ・カリエレ)が発言した。                                                                                                非暴力平和隊は、国連ブルーヘルメットと8条の関係を問い直すべきと述べ、市民の保護をもっと強調するべきだと述べた。 (3)革命的顎鬚                                                                   何度も発言しているロベルト・サモラは日本の平和運動ではおなじみの人物である。かつて、コスタリカがアメリカのイラク侵略に協力した時に、学生だったロベルトは、軍隊を持たず、積極的平和主義を唱えてきたコスタリカが戦争協力することに疑問を感じて、憲法裁判所に提訴した。憲法裁判所はこれを受けて、政府による戦争協力は憲法違反だと判決を下し、戦争協力国家のリストからコスタリカの名前が削除された。その後、ロベルトはピースボートの招きで日本にしばらく滞在したが、現在は弁護士としてコスタリカで活躍している。平和への権利宣言づくりには昨年から加わって、ジュネーヴにやってきてロビー活動を展開してきた。国連人権理事会で、私が発言する時にはコスタリカ憲法のことや、コスタリカが軍隊を持たない国家であることに触れるが、ロベルトは、日本の9条キャンペーンの重要性を訴えてくれた。                                                                      17日夜、スペイン国際人権法協会のダヴィド、非暴力平和隊のロルフ、日弁連の笹本潤などが人権理事会作業部会に向けてミーティングを行った。その際、ロベルトが私の髭を「革命的顎鬚」と命名した。正月休みから無精髭を伸ばしているのだが、ロベルトに言わせると、なぜか「革命的顎鬚」だそうだ。ゲバラでも想起するのだろうか。「平和的顎鬚」にしてもらいたい。

平和への権利作業部会に無防備地域運動を報告

グランサコネ通信2013-04                                                                                                                                                                     *                                                                                                                                                                             (1)宣言草案2条「人間の安全保障」の審議                                                                                          国連人権理事会・平和への権利作業部会2日目、2月19日午前は、2条の審議から始まった。政府は、ペルー、キューバ、イラン、シンガポール、パキスタン、チリ、エジプト、ロシア、ベネズエラ、EU、コスタリカ、スリランカ、アルジェリア、キューバ(2回目)、コロンビア、モロッコ、中国が発言。                                                                                      EUは、人間の安全保障は国連総会で決議しているので人権理事会で取り上げる必要はない、このWGで議論する必要もない、と発言。                                                                                                     スリランカはジェンダー原則という言葉でジェンダー問題への注目を強調した。                                                                                                         NGOは、アメリカ法律家協会(ロベルト・サモラ)、国際平和メッセンジャー(ダヴィド・フェルナンデス)、Bangwe et Dialogue、日弁連(笹本潤)、人権擁護アフリカ(バルデット・ウマール)、地域イニシアティヴ連合(パトリック・ニキッシェ)、欧州第3世界センター(オズデン・メリク)、青年平和構築ネットワーク(リジ・カールソン)が発言した。                                                                                                                                 アメリカ法律家協会は、2条3項の「責任」条項は「保護する責任」を意味し、「抑圧されている人々を保護する責任があるので軍隊を派遣する」という戦争の口実にされてきたから、反対であり、2条3項を削除すべきと発言した。                                                                                            日弁連は、2条に「平和に生きる権利」という言葉があり、これは日本国憲法前文の平和的生存権と同じ表現であり、平和への権利と平和的生存権は重なることを確認したうえで、長沼訴訟札幌地裁判決とイラク自衛隊派遣違憲訴訟名古屋高裁判決があると紹介した。                                                                                                                (2)宣言草案3条「軍縮」の審議                                                                                                       政府は、パキスタン、エジプト、アメリカ、エクアドル、ペルー、キューバ、イラン、チリ、中国、EU、ロシア、コロンビア、アルジェリア、コスタリカ、ベネズエラ、セネガル、シンガポール、EU(2回目)、中国(2回目)が発言した。                                                                                                           アメリカは、平和維持は安保理事会が担うのであり、人権理事会で議論するテーマではない、3条に「大量破壊兵器は国際人道法に違反する」と書いてあるが、そんなことはない、国際人道法は大量破壊兵器全体を否定していない、と発言した。                                                                                                               EUは、軍縮は重要だが、人権理事会で議論するテーマではないと発言した。                                                                                                                             ベネズエラの発言の最後に、わずか10秒だけだが、ピースゾーンは重要だと言及した。初めてのことだ。これまでピースゾーンのことは国際人権活動日本委員会しか発言してこなかった。                                                                                                                      NGOは、国際平和メッセンジャー(ダヴィド・フェルナンデス)、アメリカ法律家協会+国際民主法律家協会(ロベルト・サモラ)、国際人権活動日本委員会JWCHR(前田朗)、欧州第3世界センター(オズデン・メリク)が発言した。                                                                                                                アメリカ法律家協会は、日本における9条キャンペーンに触れたのち、3条4項に「外国軍事基地の撤去」を追加するべきと修正案を述べた。                                                                                                     JWCHRは、無防備地域宣言運動の経過を紹介してピースゾーンの重要性を指摘し、世界には27の軍隊のない国家があり、国家レベルのピースゾーンであること、フィンランドのオーランド諸島は1921年以来ピースゾーンであることを述べて、戦時にも平時にも、地方でも国家でも国際レベルでもピースゾーンを作ろうと発言した。                                                                                                 平和への権利宣言作りの過程で、これまで人権理事会や諮問員会でピースゾーンのことを発言してきたのはJWCHRただ1つであり、しつこく言っておかないと簡単に削除されてしまうので、今回も発言した。しかし、ベネズエラが言及したのには驚いた。                                                                                                  欧州第3世界センターは、大量破壊兵器の禁止だけでなく、新しい兵器の禁止を入れるべきだと述べた。  

Monday, February 18, 2013

国連人権理事会・平和への権利作業部会で発言

グランサコネ通信2013-03                                                                                     *                                                                                            (1)平和への権利作業部会で発言                                               2月18日午後、国連人権理事会・平和への権利作業部会は、午前に引き続き、平和への権利宣言草案の審議を行った。総論では、まずボリビア、ロシア、モロッコが総論賛成の発言を行った。NGOは、国際民主法律家協会IADL、非暴力平和隊(ロルフ・カリエレ)、ノース・サウス21、青年平和構築ネットワークが発言した。                                                                                                                         次に、条文ごとの審議に入った。各論である。                                                                                                政府では、ペルー、イラン、エジプト、キューバ、シンガポール、スリランカ、アルジェリア、エジプト(2回目)、EU、イラン(2回目)、中国、シンガポール(2回目)、エクアドル、ペルー(2回目)。                                                                                                EUは、午前に引き続き、平和への権利には国際法の根拠がない、他の場所で議論するべきだ、国連憲章に合致しないと批判した。                                                                                                       NGOでは、国際ピースメッセンジャー(カルロス・ビヤン)、国際民主法律家協会IADL(ロベルト・サモラ)、国際人権活動日本委員会JWCHR(前田朗)が発言した。                                                                                                            JWCHRは、2008年4月17日のイラク自衛隊派遣違憲訴訟・名古屋高裁判決が平和に生きる権利を認めたこと、1973年9月7日の長沼訴訟・札幌地裁判決以来であること(札幌地裁判決の時に札幌の高校生だったこと)、2009年2月24日の岡山地裁判決を含めて、平和的生存権を認めた判決が3つあることを紹介した。                                                                                *                                                                             (2)iPS細胞入門                                                                                    朝日新聞大阪本社科学医療グループ『iPS細胞とは何か』(ブルーバックス、2011年)                                                                                                                  山中伸弥がノーベル賞を受賞する前に新聞記者たちが取材して出版した本で、ノーベル賞受賞後に2刷が出た。ノーベル賞受賞前には一般にはあまり関心を持たれていなかったが、ノーベル賞受賞によりTVでもあらゆる解説・紹介がなされ、山中伸弥の経歴やエピソードもすっかり有名になった。本書はブルーバックスの入門編らしく、とてもわかりやすい。ES細胞からiPS細胞へ進化・発展の意味がよく理解できる。科学研究、ビジネス、特許権などの関連、それゆえ激しい国際競争の様子もわかりやすい。言い換えれば、特許申請やプレゼンテーションのうまさで、天と地の差が生じる。山中チームは、日本の科学者のなかでは珍しく宣伝上手だったのでノーベル賞にたどり着いた。今や文部科学省や京都大学の全面的支援でさらなる競争に乗り入れている。読む分にはおもしろいが、科学研究のおもしろさではなく、巧みな宣伝合戦(逆に言えば、ハッタリや捏造が生まれやすい分野であること)のおもしろさである。   

国連人権理事会・平和への権利作業部会始まる

グランサコネ通信2013-02                                                                                                    *                                                                                         (1)平和への権利作業部会                                                                18日、ジュネーヴの国連欧州本部において国連人権理事会平和への権利作業部会が始まった(~20日)。国連人権理事会は通常3月、6月、9月に会期をもっているが、それとは別に平和への権利だけを議題とした作業部会が設定された。平和への権利については、人権委員会の時代から議論が始まっていたが、2008年ころからNGOのロビー活動が盛んになり、特にスペイン国際人権法協会の活躍で徐々に審議が本格化してきた。2011~2012年には人権理事会の専門家機関である諮問委員会で審議がなされ、「国連平和への権利宣言」草案が作成された。その報告が人権理事会にあげられて議論した結果として、3日間の作業部会設置となった。従来の経過については笹本潤・前田朗『平和への権利を世界に』(かもがわ出版)参照。                                                                                                                                                      18日午前は、人権理事会議長のあいさつに続いて、作業部会議長にコスタリカを選出。仮議題を採択して、審議に入った。最初にモナ・ズルフィカー諮問委員会作業部会議長が経過報告をした。                                                                                      続いて、平和への権利に関する総論的議論から始め、各国の発言。コトジボアール、キューバ、アメリカ、スリランカ、オーストラリア、ベネズエラ、シンガポール、カナダ、エジプト、韓国、インドネシア、EU、コスタリカ、ウルグアイ、シリア、イラン、セネガル、パキスタン、中国、マレーシア、OIC。                                                                                  アメリカは、従来と同様に平和への権利という概念を否定し、非生産的な議論であると批判し、人民の権利は認めない、国連憲章に合致しないと述べた。カナダは「平和などは人権ではない」と言い切り、作業部会の手続きそのものを認めないと述べた(さすがに議長が、この手続きは人権理事会決議に基づいてやっていると反論した)。韓国は、平和への権利の定義があいましであり、集団の権利は認めない、国連メカニズムのほかの場所でやるべき議論だ(平和に関する問題は安保理のテーマ)と述べた。EUは、平和と人権に結びつきがあることは認めるが、平和への権利は国際法に根拠がない、他の場所で議論するべきだと述べた。日本も人権理事会理事国だが発言しなかった。                                                                        NGOとして、アメリカ法律家協会(ロベルト・サモラ)が平和への権利を認めたコスタリカ憲法裁判所判決を紹介し、国際平和メッセンジャー(カルロス・ビヤン)が1618のNGOを代表して平和への権利の重要性を訴えた。                                                                    *                                                                                                         (2)世界史に貫かれた家族                                                                            長坂道子『「モザイク一家」の国境なき人生』(光文社新書、2013年)                                                                   長い副題「パパはイラク系ユダヤ人、ママはモルモン教アメリカ人、妻は日本人、そして子どもは・・・・・・」に明らかなように「国際結婚」の一族の物語が描かれている。著者は雑誌編集者を経てパリにわたり、そこで結婚した相手がアメリカ人だがユダヤ系で実はスイス在住という人物。その家族の波乱万丈の物語を中心に、友人知人ンおさまざまな「国際結婚」の例を紹介して、世界には実に多様な人々、多様な家族がいることを教えてくれる。家族の中に世界史と世界地図が組み込まれているとでもいうべきだろうか。二重国籍あり、無国籍あり、難民状態あり。アメリカ、イラク、イスラエル、日本が一つの家族の中に影を落とす。ペンシルヴァニア、ロンドン、チューリヒ、ジュネーヴと転居を繰り返し、現在はチューリヒ在住。宗教、言語、国籍、子どもの教育、食事と、さまざまなことが時に悩みの種になり、凄い発見に驚かされる。おもしろい本だ。

Sunday, February 17, 2013

疾風怒濤の日本ジャズ草創期の記録

グランサコネ通信2013-01                                                                                                                                                                                                                   相倉久人『至高の日本ジャズ全史』(集英社新書、2012)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          1931年生まれの音楽評論家による日本ジャズ草創期の体験史である。「全史」とあるが、1970年ごろまでしか扱っていない。その後は飛躍期ということのようだ。ニューオリンズでジャズが発祥してすぐに日本にも伝わっていたというが、やはり本格的な導入は1950年代からになる。次々と来日したジャズ・ミュージシャンのエピソード、そしてこれに学びながら育った日本ジャズ初期の人々。秋吉敏子、渡辺貞夫、守安祥太郎、日野晧正、そして山下洋輔を軸に、多彩なミュージシャンたちが織り成した60年代ジャズ・シーン。コンボ、新世紀音楽研究所、草月、銀巴里、ピットイン、ジハンナ。才能とエネルギーのぶつかりあい、裏切り、そしてテイクオフ。著者は楽器を持たず、「言葉によるジャズ」を標榜していたが、日本ジャズ確立とともに、ジャズだけではなく幅広い音楽評論家になっていく。当時のことは知らないが、70年代後半の学生時代、ピットインに数回出入りしたので、わずかだけ匂いがわかる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                ***                                                                                                                                                                                                                                                                                                              16日にジュネーヴに来た。少し前に結構な雪が降ったので、一面の銀世界だ。18日から国連人権理事会平和への権利作業部会が始まる。

Wednesday, February 13, 2013

取調拒否権の思想(8)   

被疑者は法主体                                                                            *                                                                                                           七回にわたって黙秘権と取調拒否権について検討してきた。黙秘権を実践するためには取調拒否権が不可欠である。取調拒否権を実践するためには出房拒否が効果的である。留置場(代用監獄)に収容された被疑者には留置場に滞留義務があり、取調室に行く自由はないから、当然、被疑者は出房してはならず、取調室に行く必要もなく、行ってはいけない。この実践によって被疑者の黙秘権行使ができるし、自白強要を防止することができる。                                                                                これまで弁護実務も刑事訴訟法学も、留置場収容された被疑者が取調室に行って取調べを受けることを疑わずにきた。前回紹介した学説が大方の賛同を得ることができなかったのは、なぜか。弁護実務も学説も、法的根拠なしに、被疑者は取調室で取調べを受けるものと考えてきたからであろう。取調受忍義務を否定する学説でさえ、取調室から退去することができるとする程度であって、被疑者が取調室に行くことを当然の前提としてきた。刑事訴訟法第一九八条一項但書の反対解釈に囚われてきたと言ってよい。                                                                                                               なぜなのか。弁護実務も学説も、被疑者の法主体性を積極的に認めてこなかったのではないだろうか。学説は一般に、訴訟の主体として、裁判所、検察官、被告人及び弁護人を掲げてきた。被告人はいちおう法主体として位置づけられている。                                                                                                   ところが、起訴前手続、捜査段階については、捜査の端緒、任意捜査の原則、逮捕と勾留、証拠の収集・保全、被疑者の取調べなどを論じた後に、防御(黙秘権、弁護人選任権、外部交通権、証拠保全請求など)が論じられるにとどまってきた。明らかに捜査機関の活動に主に焦点が当てられている。捜査の主体は警察等の捜査機関とされる。弾劾的捜査観に立つ論者であっても、捜査段階の議論の仕方は変わらない。被疑者は捜査の客体として登場する。捜査の客体として位置づけられた被疑者に一定程度の「主体性」を仮構するために黙秘権や弁護人選任権が追加的・補助的に論じられる。あくまでも仮の主体としか見ないため、黙秘権の実践が論じられることはなく、弁護人の活動に焦点が当てられる。捜査の客体から「弁護の客体」への変化にすぎない。                                                                                                 近代市民法は、自由・平等・博愛といったスローガンに代表される主体としての市民の法体系である。私的所有、契約自由の原則、国民主権、個人の尊重、内心の自由、表現の自由などの市民法原理は、刑事法の領域では、人身の自由、無罪推定、適正手続の保障、黙秘権、拷問の禁止、罪刑法定原則、行為原則などの諸原則に集約される。                                                                                                              しかし、刑事訴訟法学は、裁判段階の被告人の主体性を確立することに力を注いだが、起訴前の被疑者については仮の主体性しか認めてこなかったのではないだろうか。                                                                        なるほど被疑者は自らの意思に反して捜査の客体として引き出されるのが実態である。そうであっても、否、逆にそうだからこそ、被疑者を法主体として位置づける理論が不可欠であるはずだ。被疑者に黙秘権を認めるのであれば、単に黙秘権があることや、黙秘権行使の帰結・効果だけを論じるのではなく、黙秘権を行使できる客観的状況をつくり出すことこそが弁護実務と学説の任務だったはずである。黙秘権を有する被疑者を取調室において捜査官による執拗な取調べに晒してきた現状は、被疑者の主体性を結果的に剥奪する実務を容認したものと言わざるを得ない。                                                                                                                          *                                                                                                                                                             権利の要諦                                                                                                                                                         *                                                                                                                                                           近時、取調可視化や弁護人立会いが強調されている。可視化も立会いも重要であるが、本筋ではない。本筋はまず取調受忍義務という名の供述強要を否定することであり、黙秘権行使の実践である。法原則を棚上げした弁護戦術論だけでは事態の改善は望めないだろう。                                                                                                                            憲法第一三条はすべての市民に個人の尊重を認めている。憲法第三一条は適正手続きを保障し、憲法第三七条三項は被告人に弁護権を保障しているが、被疑者にも当然保障するべきである。憲法第三八条一項は不利益供述の強要を禁じ、二項は強制等による自白の証拠能力を否定している。刑事訴訟法第一九八条二項は被疑者の供述拒否権を定め、訴訟主体である被告人にも黙秘権が認められている。それでは身柄拘束された被疑者は、どうするべきか。                                                                                                                                                     第一に、弁護人を選任することは言うまでもない。以下の判断の際も基本的に弁護人と相談のうえ判断するべきである。弁護人と相談できない段階では、つねに取調拒否権行使が正しい。                                                                                                                              第二に、たとえ一部でも被疑事実を否認する場合、弁護人と相談の上で黙秘権行使を検討し、黙秘権行使を決めた場合は、その旨を留置担当官に告げて、取調室行きを拒否するべきである。留置場の房から出ず、弁解録取署の作成や取調べと称する取調室への連行を拒否するのである。                                                                                                                                                               第三に、被疑事実を認める場合であっても、必要のない過剰な取調べを拒否することである。捜査官は余罪追及と称して、被疑者が認めた被疑事実以外の事実について取調べを強行することがあるが、その際は取調拒否権行使であり、取調室から房に戻るべきである。                                                                                                                                     第四に、取調室に行って取調べを受ける場合、まずは弁護人立会いを要求するべきである。                                                                                                                                                              第五に、取調べを受ける場合、全面可視化(録画録音)を要求するべきである。つまみぐいの一部可視化の場合は、取調拒否権に戻るべきである。                                                                                                                                                                 次に弁護人は、どうするべきか。最低限、次のことを検討するべきである。                                                                                                                                                               第一に、被疑者が身柄拘束された場合、初回接見時に黙秘権があることを告げ、黙秘権を行使する場合と行使しない場合について説明する。被疑者が黙秘権行使を選択した場合には、取調拒否権と出房拒否権を説明するべきである。被疑者には取調受忍義務はなく、出房する必要はなく、留置場に滞留するようにと、助言するべきである。                                                                                                                                                                 第二に、被疑者が黙秘権不行使を選択した場合は、取調室に行かせることになる。そこで弁護人は立会いを要求するべきである。立会いがやむを得ない理由から実現できない場合であっても、取調べ直前及び直後に接見を要求するべきである。                                                                                                                                               第三に、被疑者が取調べを受ける場合は、その条件として全面可視化を要求するべきである。全面可視化が容れられない場合は取調べを拒否させるべきである。                                                                                                                                                  このテーマは今回でいったん終わりとするが、論じ残した点を後日、再論したい。    

Tuesday, February 12, 2013

Saturday, February 02, 2013

アジカン「NO.9」が朝日新聞に

朝日新聞2月2日夕刊に連載された「核なき世界へ--被曝国から2013」は、タイトルのわりに力が入らず、よくわからない企画だった。                                                      とはいえ、第5回(最終回)は、ロック・バンドのアジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文を取り上げている。「優しさで世の中回そう」が、それだ。                                                  冒頭に、アジカンの「No.9」の歌詞が紹介されている。2008年の作品で、もちろん憲法9条の意味だ。         「広島で感じたことも歌にしています」という。韓国の資料館で「日本の加害の展示に肩身が狭い思いをした。・・・自分の国がした戦争は、まだ終わっていないと感じます」。                                      「僕は世界平和に貢献するために歌ってるわけじゃありません」と言いつつ、「核兵器を人間に使ったらどれほど悲惨かを味わった国。忘れちゃいけないと思います」。                                            昨年出版した、前田朗『9条を生きる』(曽木書店)で、9条の歌として、アジカン、沢田研二、いなむら一志、あきもとゆみこなどを紹介した。                                                           授業ではCDを使って曲を流すが、アジカンはDVDで映像も流す。もちろん、「NO.9」だけではなく、3~4曲は流さないと学生から不満が出るが。                                                      というわけで、アジカンはオススメだ。