Sunday, April 09, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(96)「事前抑制」とは何か

山邨俊英「反復的に行われるヘイト・スピーチに対する将来に向けての規制は『事前抑制』か?――Clay Calvertの議論を素材として」『広島法学』40巻4号(2017年)
16年6月2日の横浜地裁川崎支部決定は、ヘイト集団によるヘイト・デモ計画に対して、デモ禁止仮処分の申立てを受けて、制定されたばかり(施行されていない)ヘイト・スピーチ解消法の趣旨も踏まえて、デモ禁止仮処分決定を下した。デモ禁止仮処分は、先に京都朝鮮学校事件で京都地裁がすでに出していたので、新しい問題ではないにもかかわらず、メディアや憲法学者はこれを大問題であるかのごとく大騒ぎした。表現の自由に対する事前規制派憲法が禁止する検閲に当たり、許されないとされるからである。川崎地裁決定は、被害を受ける者が平穏に生活する権利を侵害されることなどをもとに仮処分を認めたので、その法理をめぐって議論がなされることになった。
山邨は、「反復的に行われるヘイト・スピーチに対する将来に向けての規制は『事前抑制』か?」という表題にある通り、ヘイトが反復される場合、将来に向けての規制を単純に「事前抑制」と言ってよいのかという問題意識に出発している。「過去の表現行為に対する否定的評価を根拠に将来の表現行為を規制することが憲法上そもそも許容され得るのか」という問題である。
そこで山邨は、Clay Calvertの議論を紹介する。Calvertは、ヘイト・スピーチではなく、インフォマーシャル放送において、莫大な消費者被害を引き起こす詐欺的なテレビ放送を繰り返した者に対して、再びインフォマーシャル放送を行いたいのであれば、事前に200万ドルのパフォーマンス保証を払うよう求めた事案について検討している。そこにおいて事前抑制と事後処罰の関係が問われた。この課金は「事前抑制と事後処罰との区別を相対化し、思想の自由市場へのアクセスの不平等を促進し、そしてそのような規制手法は本質的に内容規制であるため常に厳格審査に服するべきである」という。
山邨は、Calvertの議論をヘイト・スピーチに応用しようとする。デモ禁止仮処分や、ヘイト団体の公共施設利用問題と同じ性格を有しているからである。そして、山邨は、「Calvertの議論及び本稿の主題である問題の性質を考慮すると、事前抑制と事後処罰の区別を所与の前提とする考え方には再考の余地があるのではないだろうか」という興味深い主張を提示する。
ヘイト・デモや公共施設利用問題では、私は、事前規制かどうかよりも、「政府が人種差別に加担してよいのかどうか」こそが主題であると指摘してきた。これに対して応答した憲法学者はまだいない。あくまでも「事前規制かどうか」にこだわっている。
しかし、京都地裁決定、さらには山形県や門真市の公共施設利用拒否によって、大きな前進が見られた。
ところが、大阪市審議会が、事前規制は許されないという結論を、ほとんど理由も示さずに提示し、これが猛威を振るうことになった。政府はヘイト団体に協力しなければならないという滅茶苦茶な議論である。
その後、私は、
(1)事前規制が許される場合があり、ヘイトはその例である、
(2)ヘイトの公共施設利用に関する最高裁判例はない。それがあるかのように描き出した大阪審議会の主張は不適切である、
(3)現に起きているヘイト・デモの規制は事前規制ではなく、事後規制である、
と主張してきた。私を支持する憲法学者や弁護士はまだいない。
ところが、16年12月に公表された川崎市協議会の報告書は、ここでいう事前規制についてその的確な実施を要請した。見事な報告書である。私と共通する見解だ。
山邨論文は、上記(1)と(3)に関連して、私とは異なる視点から問題解決を提示しようとしているので、とても参考になる。「事前規制」とは何かをめぐる研究が始まった。
なお、山邨は、思想の自由市場論や内容規制・内容中立規制論を前提として、その次の議論をしようとしている。この点も有益だ。
私は、思想の自由市場論や内容規制・内容中立規制論は日本国憲法と関係がなく、社会科学とも縁がなく、理論的に破綻しているから、学問的意味がないと考えているが。

Friday, April 07, 2017

仲宗根勇・仲里効編『沖縄思想のラディックス』

仲宗根勇・仲里効編『沖縄思想のラディックス』(未来社、2017年)
<「季刊 未来」にリレー連載《オキナワをめぐる思想のラディックスを問う》として掲載された沖縄の現在的諸問題をめぐる論考をベースに、米軍基地問題でますます緊迫する沖縄の政治情勢のなかで、現代沖縄の代表的論客たちが沖縄の歴史、政治、思想を縦貫する独自の沖縄論を展開する。翁長県知事体制の確立から現在の変節にいたるまで、ドラマチックなまでのリアル・ポリティクスを根底にすえ、ブレることのない沖縄の現状を思想的にえぐり出し、これからの沖縄のあるべき姿を遠望するラディカル・メッセージ。今後の沖縄を考えていくうえで避けて通ることのできない理論と実践のための画期的なオキナワン・プログラム。>
1932年生まれの川満信一から1967年生まれの宮平真弥、1968年生まれの桃原一彦まで、世代の異なる6人の論者による、沖縄発の闘うメッセージである。編者2ひとはそれぞれ未来社から著書を出してきた。桃原一彦も、知念ウシらと共著を2冊出している。
6人の論者はそれぞれ見解が異なるようだが、基本線では状況認識と闘いの課題を共有している。
八重洋一郎「南西諸島防衛構想とは何か 辺境から見た安倍政権の生態」では日本政治の欺瞞が批判の俎上に載せられる。沖縄の論者にとっては、何度言ったらわかるのか、いい加減こういう批判をしなくても良い時代にしたいとの思いが強いだろう。それでもなお力を込めて徹底批判しなくてはならない。桃原一彦「『沖縄/大和』という境界 沖縄から日本への問いかけ」も、宮平真弥「ヘイトスピーチ解消法と沖縄人差別」も、大和が連綿と行使してきた植民地主義と差別の諸相をたどり直し、解決の手掛かりを求める。仲宗根勇の3本の論考「島の政治的宴(うたげ)のあとで 沖縄・二〇一四年知事選後の新たな政治主体:「沖縄党」生成の可能性」「沖縄・辺野古 新しい民衆運動」「沖縄・全基地撤去へ渦巻く女性殺人等遺体遺棄事件の波動 辺野古新基地問題=裁判上の『和解』後の闘い」も、軍事的抑圧と政治的差別と蔑視の総体を跳ね返すべく、思想を紡ぎ続ける。
いまや日本政府だけではなく、日本社会も確信的沖縄差別と基地押しつけを恥じらうことなく推進しつつある。メディアにおける「沖縄ヘイト」はその主要な特徴と言えるだろう。植民地主義を反省したことのない「日本」がむき出しの暴力と差別に出ている。この腐敗をどのように乗り越えていくのか。植民地主義者でありたくない者は本書の提起を真剣に受け止め、応答しなくてはならない。




大江健三郎を読み直す(79)まだ生まれて来ない者たちに

大江健三郎『取り替え子 (チェンジリング)』(講談社文庫、2004年[講談社、2000年])
若干の中断の後に久しぶりに公刊された長編小説『宙返り』の翌年に、つまり大江にしては珍しく立て続けに公刊されたのが本書である。しかも、義兄にあたる俳優・映画監督伊丹十三の自殺を契機に書かれた作品であることから、「モデル小説」として大きな話題になった。長年にわたって息子・光を中心に、家族をモチーフにした作品を送り出してきた大江だが、伝統的な意味での私小説や「モデル小説」ではない。本書も「モデル小説」というわけではない。伊丹十三の自殺の真相や深層、それ以前の人生のあれこれを描いた作品ではない。大江流のデフォルメ、換骨奪胎、想像力により、映画監督の吾良と作家の古義人の青春を舞台に、戦後の四国の森の中でおきた事件を描き出し、それによって戦後日本史を問う作品である。
もっとも、前半は、吾良の死にうつ状態となった古義人の暗鬱な精神状態、吾良が残したカセットテープを聞く日々、妻(吾良の妹)との対話が描かれ、そしてドイツに出かけてからの様子が続き、読者はかなり待ちぼうけをくらわされることになる。古くからの大江の読者にはこれで良いだろうが、新しい読者には冗長な作品と映るだろう。
文芸評論家の高原英理は、第六章までと終章の趣の違いに触れ、「この終章こそが独立した短編であって、序章から第六章までの七章分はいずれもこの短編を成立させるための長い参照部あるいは注釈ではなかったかということだ。語ろうとして語れない、いや、しようとするならいくらでも他者の興味に応え満足ゆくように語れそうなのに、実際に語りだせば『了解』という帰結からどこまでも遠ざかってしまう感触をどうにか伝えるべき必要が、センダックの絵物語によって呼び起こされた、これはそうした小説ではないか。」という(『早稲田文学』6号)。
取り替え子というタイトルは、死者に対する思いから再生へと向かうに至る大江の主題に即して、まだ生まれて来ない者たちへの新生の希望を表している。

Wednesday, March 22, 2017

グルベンキアン美術館散歩

 リスボンはほとんど初夏の暖かさだ。街中を歩く若者たちはTシャツとパンツだ。坂の多い町なので上り下りで歩くと汗をかく。なるべく歩かずに路面電車とバスを利用する。24時間有効の地下鉄等チケットを買ったので便利だ。
グルベンキアン美術館は、リスボンの中心部、地下鉄サンセバスチャン駅からすぐだ。グルベンキアン財団の敷地にグルベンキアン美術館と現代美術館があるが、今回はグルベンキアン美術館だけにした。ベルナ通りから美術館の玄関に向かう。10時開館の15分前に、すでに10数人の客が待っていた。
グルベンキアンはアルメニア人の富豪だそうで、晩年はリスボンに住んだ。古代エジプト、ギリシア、ローマからアラビア、東アジアの古物、装飾品、貨幣、絨毯、家具、工芸品などを収集し、近代絵画や彫刻も集めた。亡くなった後に財団が作られ、そして2つの美術館が作られた。
常設展は、エジプトの食器、人物像、猫の像、レリーフ、マスク。同様に、ギリシア、メソポタミア、イスラム、アルメニア、極東、近世西欧、近代西欧と続く。極東では中国の陶器と、日本の漆器が中心。近世・近代西欧の家具、調度品、銀器もなかなか。よくこんなものまでと思うくらい、膨大な品々だ。雑多に見えるし、次から次へと買い漁ったのかと思ったが、古物専門家の助言をえながら蒐集したのだという。
近代絵画・彫刻では、ルーベンス、レンブラントなどフランドル派、マネ、モネなど印象派、そしてロダン。ターナーもあった。ルーベンスのヘレナ・フォーメント像、フラゴナールの愛の島、マネのシャボン玉、モネの氷解、ルノアールのモネ夫人、ドガの自画像、ロダンのカレー市民、ウードンのダイアナ、バーン・ジョーンズのヴィーナスが見どころ。
売店には立派なカタログが置いてあったが高価だし重いので、小さなガイドブックだけ買った。時間がなかったので2時間ほどでざっと見ただけだが、次回は現代美術館の方にも行ってみたいものだ。
FAVI, Assenblage de Cepages Rouges, AOC Valais Sion, 2015.

大江健三郎を読み直す(78)敵意を滅ぼし、和解をもたらすために

大江健三郎『「新しい人」の方へ』(朝日文庫、2007年[朝日新聞社、2003年]
前著『自分の木の下で』と同様に若い人々向けに書かれたエッセイ。大江ゆかりのイラスト付きも同じ。前著は中学生くらいが対象に想定されていたが、本書は高校生やその母親を想定するようになっている。
自分の子ども時代の思い出、自分の子どもたちの言葉や振る舞いなどをもとに、手がかりに、家族の在り方、人生の習慣、読書の方法などを様々に語る。
「意地悪のエネルギー」では、ヴァルネラブルという言葉の使い方を間違えると、いじめられる側に原因があるかのごとく考えられてしまうことを指摘している。
「ウソをつかない方法」では、ウソをつかない人という承認を得る価値を確認しつつ、ウソつきと言われた子ども時代を振り返り、ウソをつかない力について考える。当然のことながら、作家はウソつきの天才でなければならないが、政治家のようにウソをついてはならない立場の人間こそウソをつく問題をどう考えるか。
「本をゆっくり読む法」では、速読術のたぐいに疑問を呈しつつ、「ゆっくり読むこと、それが本当に本を読む方法です」という。そのためにゆっくり読むことのできる力を鍛えなくてはならない。なるほど、ゆっくり読むことは大切だ。重要な本ほどゆっくり読むべきだ。読み飛ばしてよい本はどんどん読み進めばいい。
タイトルにもなっている「新しい人」について、子どもたち、若い人たちに「新しい人」になってもらいたい、という。パウロの手紙における「新しい人」、本当の和解をもたらす人――一例としてエドワード・サイードがあげられる。この危機の時代に、敵意を滅ぼし、和解をもたらす「新しい人」をめざすこと、「新しい人」として生きること、大江自身にはできなかった希望を若い人に託すという形になっている。

縮小か縮充か、それが問題だ

山崎亮『縮充する日本――「参加」が創りだす人口減少社会の希望』(PHP新書)
日本の人口は減り始めた。2050年には3分の2の8000万人、2100年には3000~4000万人と予測されている。普通に考えて、放っておけばこの社会は崩壊するしかない。日本だけが勝手に崩壊するのなら、まだしも、この国の自爆テロ国家の歴史から言って、周辺諸国にあらん限りの迷惑行為を重ねて自爆する恐れがあるので、放置しておくわけにはいかない。この期に及んで、なお経済成長をめざすおバカな政権と国民の自爆路線ではやっていけない。
著者は、人口減少に手をこまねいているのではなく、コミュニティデザインの知見から、さまざまな工夫を凝らして、社会の安定した縮充をはかり、ソフトランディングさせるための英知を結集することを呼びかける。人口や税収が減少しながらも地域の営みや住民の生活が充実したものになるようなしくみをつくり出すことである。それを「縮充」と呼ぶ。
本書が取り上げるのは「まちづくり」「政治・行政」「環境」「情報」「商業」「芸術」「医療・福祉」「教育」の8分野。それぞれの分野ですでに行われている「参加」の試みを紹介し、なぜ参加が重要なのか、どのような成果を生み出せるのか、を考える。
「まちづくり」では、1960年代の名古屋市栄東の再開発問題への市民の取り組みに始まり、山形県飯豊町椿地区、世田谷のまちづくりセンター、徳島県神山町、阪神淡路大震災時のボランティアなどを紹介しながら、上からのまちづくりではなく、住民の参加、協働によるまちづくりの意義がますます大きくなるという。
8分野それぞれで起きている参加の意味、形態、成果はまったく違うが、共通しているのは、今や、そして今後、上からの行政ではなく、下からの参加、楽しい参加、やりがいのある参加こそが中軸になって、社会の在り方も活性化し、地域の暮らしや意識を大きく変えていかないと、将来展望は開けないことだ。
本書に疑問を指摘することは容易である。取り上げられている事例は成功例にすぎず、多くの失敗例があるのではないか。成功例にしても、ごく小規模の短期限定の成功ではないか。こうした批判は、著者は織り込み済みである。たしかに小さな限定的な意味を持った事例を挙げているが、そうした事例の一つが素晴らしいとか、それがどこにでも当てはまるというのではない。著者は、コミュニティデザインの思考を掲げ、あらゆる分野で多彩な取り組みを行い、参加の文化をつくり出すことに重点を置いている。
気になるのは、2050年の8000万人という場合、その年齢別人口構成はどうなっているのだろうか。団塊の世代が去った後に、どのような社会が出来上がっているのか。人口、税収、エネルギー、食糧等の基本情報の分析は必要ないのだろうか。

Tuesday, March 21, 2017

最新の総合的な科学史入門

松井孝典『文明は〈見えない世界〉がつくる』(岩波新書)
上のサイトには「われわれは何者になるのか?」と書かれているが、「に」と「る」は余計だ。本書はしがきでも本文でも結びにかえてでも「われわれは何者なのか?」という問いを何度も何度も繰り返しているのに。自社の本の紹介で、どうしてこんな間違いをするのか。粗忽な出版社だ。
科学史入門書はたくさん読んだ。科学が発展するにつれ、入門は何度も書き直されていく。本書前半、アインシュタインの登場までは、どの入門書でも同じ歴史をたどるが、本書後半の現代科学の部分は、現在史でもあり、多様な書かれ方になるだろう。
本書の特徴は、第1に、総合性だろう。天文学、物理学、磁気学、熱力学、生物学をはじめ、地球環境、宇宙論、素粒子論のいたるところに筆を伸ばして、見事に総合的に記述している。
第2に、数式を用いないことである。優れた科学史入門は、どうしても数式で説明することが多くなる。本書は数式に頼らず、文章でていねいに説明している。
第3に、内容面では、<見えない世界>と<見える世界>の関係という視座から全体を見渡す手法に特徴がある。見えない世界が見える世界をどのように規定しているのか。古代ギリシア、ローマ時代、あるいはアラビア、そして近代西欧における科学の発展を見えない世界への挑戦として把握し、読者をたくみに引き込んでいく。
最後の宇宙原理と人間原理の部分は、わかったようで、わからないところもある。素人にはついていけないところもある。しかし、現代科学史をこれだけコンパクトに個性的に描き出しているのは、さすが、と思う。



Monday, March 20, 2017

パウル・クレー・センター散歩


センターには10年間通い続けている。9000点を超えるクレーの作品のうち4000点以上を所蔵しているため、毎年次から次へと企画展を実施しているので、見ごたえがある。
この春の企画は2つ。
第1のホールでは「パウル・クレーとシュルレアリストたち」
宣伝パンフの表紙はキリコのアポリネール。マックス・エルンストやジョアン・ミロの活躍に加えて、ルイ・アラゴンとポール・エリュアールの登場、そしてハンス・アープ、アルベルト・ジャコメティ、アンドレ・マッソン、ルネ・マグリット、ピカソ、ダリへ。彼らとクレーの出会いや、対話を紹介しながら、それぞれの作品を展示している。シュルレアリズムの歴史に沿って、主要な作家たちとクレーの交錯を取り上げている。他にもバタイユ、ブルトン、ツラをはじめ、すごい名前がずらり。そして、彼らの言葉がふんだんに引用される。
宮下誠『パウル・クレーとシュルレアリズム』(水声社、2008年)を思い出す。シュルレアリズムとの関係と、バウハウスにおけるクレーの双方を射程に入れた研究だ。センターでは分厚いカタログ『パウル・クレーとシュルレアリストたち』を販売していたが、ドイツ語とフランス語のみ。執筆者のなかにOsamu Okuda学芸員の名前があるのは当然。クレー研究と言えば、前田富士男、宮下、奥田ということになるだろう。
第2のホールでは「パウル・クレー――詩人と思想家」
画家や教育者としてのクレーは有名だが、さらに詩人や思想家という視点でも取り上げている。まずは初期の日記における結晶論、そして目――見る者としての私、あるいはサインとシンボル論。次には読書――「私は見て、見て、読んで、読むんだ。」「ゲーテは哲学者ではなく芸術家であり、前時代を通じて最大の芸術家なのだ」。クレーの蔵書も多数展示されていた。ゲーテはもとより、西欧の著名詩人の著作が多数並ぶ。
帰りに隣の墓地のクレーのお墓に墓参り。
Noir Divin, Domaine du Paradis, Satigny Geneve, 2014.

Sunday, March 19, 2017

大江健三郎を読み直す(77)「新しい人」はいかにして可能か

大江健三郎『宙返り(下)』(講談社文庫、2002年[講談社、1999年])
上巻では、宙返りのために地獄降りをした元教組が師匠(パトロン)として「復活」し、あらたな補助者たちと四国の森の中の来るべき根拠地へ向かうところまでだった。下巻では、新たな根拠地での魂のこと、生産と生活の再開、社会へのメッセージの話が中心になる。
「新しい教会」づくりに向かうパトロン、主人公格の木津、急進派だった古賀医師と技師団、静かな女たち、そして、新たに加わった荻青年、育雄、ダンサー。さらには、四国の森の中の、かつての「燃え上がる緑の木」の登場人物たち、受け入れ側の地元の人々や、「童子の蛍」のギー少年。それぞれの登場人物の過去と現在が何度も繰り返し、交錯しながら語られ、物語が一つの大きな流れとなっていく。
大江のこれまでの作品と比較しても、登場人物の造形を綿密にしているというか、かなり横道にそれているのではないか、無駄な話に頁を費やしているのではないかという印象を否定できないまま読み進めることになる。必ずしも無駄ではないのだが、剪定は可能だろう。
焦点の「宙返り」と「新しい教会」への道行は、パトロン、技師団、静かな女たちの思惑が火花を散らしながら、思いがけない方向に伸展する。木津、育雄、荻青年、ダンサー、ギーという人格の登場により「宙返り」の意味や「新しい教会」の在り方にも変容が不可避だったからだろう。
物語のピークは、ドタバタと哄笑の果ての悲劇として提示される。『小説の方法』以来の大江文学論の実作の集大成として受け止めることができる。そして、『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『M/T』『燃え上がる緑の木』がすべて挑戦とその失敗、「根拠地」の崩壊に立ち至ったのに対して、本作品では、パトロンから次へとバトンが渡されることになる。主人公格の木津は癌で亡くなるが、荻青年、育雄、ダンサー、そしてギーたちが未来の新しい教会の可能性に向けて次の歩みを進める。破綻と転落を繰り返してきた大江の再生と救済の物語は、ここに来て、宙返りの果ての宙返りによる再生の紡ぎ直しの途を開いた。
それにしても、パトロンの説教の最後が「カラマーゾフ万歳!」だったのには、半分納得しつつ、半分違和感も残る。『カラマーゾフの兄弟』から120年目の「カラマーゾフ万歳!」。
「最後の小説」を唱えていた時期の最後に当たり、「最後の小説」ではなくなった本作品で、たしかに大江はドストエフスキーと同様に「世界文学」の一角に根拠地を築いた。「世界文学は可能か」は、大江が日本文学に課した課題でもあったから、自ら課題を乗り越えたということだったろうか。
文体の問題は、まだ残るかもしれない。初期作品は別として、大江山脈の主要作品は、いずれも「僕」等の一人称の語りで会った。これに対して、本作品は物語の外部にいる作家が三人称で語り続けている。
(四国の森の奥が舞台となったり、いつもの登場人物が見られはするが、これまでのように大江をモデルにした男性作家や、息子・光をモデルにした人物は登場しない。木津の一部には大江的な面がないではないが、明らかに異なる人物設定である。森生も、天才的な音楽の才能と障害を持つという点では、光の影響があるが、やはり別の人格として設定されている。何しろ、木津も森生も作品の中で死を与えられている。)
とはいえ、別の場所で、大江自身は、ずっとスタイルを変え続けてきたと自評している。本作品で急に転換したとは自己認識していない。たしかに、『治療塔』『治療塔惑星』『キルプの軍団』において多彩な試みをしてきたので、文体の問題として本書が急に転換を示したものとは言えないのかもしれない。

Friday, March 17, 2017

国連人権理事会において福島原発事故に関連して発言

ジュネーヴの国連欧州本部で開催されている国連人権理事会34会期において、17日、議題5「人権機関・メカニズム」の一般討論で、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)が福島原発事故に関連して発言しました。
発言要旨:
「人権、民主主義、法の支配に関するフォーラム第1回報告書」(A/HRC/34/46)を歓迎する。フォーラムは2016年11月にジュネーヴで「民主的空間を拡大する――公的な意思決定における青年の役割」というテーマで開催された。報告書は公共の事柄への青年の参加を強化する重要性を指摘する。青年が権利を行使し、公的な意思決定に参加するのを妨げている事情を考慮する必要がある。とりわけ災害後の青年の人権保障が重要である。この点に関して、福島における青年の人権状況について紹介したい。6年前、福島第一原発のメルトダウンのため避難した数万人の人々は、放射能の影響があるにもかかわらず、故郷に帰るように言われてきた。メルトダウンから逃げた人々の多くは母親や子どもたちである。政府には人権保障の責任があるのに、政府は放射能被曝の健康への影響を過小評価している。福島の青年たちは事故や放射能の影響に関する情報を政府から与えられていない。青年たちは将来に関する決定の機会を与えられていない。青年たちは故郷をいかに再建するかも認められていない。適切な法的枠組みを作り、青年を権利の担い手として認めることが重要である。

Chateau du Crest, Jussy-Geneve,2015.

Thursday, March 16, 2017

フリブール美術館散歩

マルセロを見にフリブールへ。昔は気づかなかったのだが、2010年頃に行ったときに、彫刻家マルセロの作品がずらりと並んでいた。地元出身の女性で、スイスを超えて欧州レベルで活躍したのに、初めて知った。代表作のPythiePithia)はパリのガルニエ宮におかれているが、レプリカがフリブールにあった。傑作だと思う。13年11月にも行ってきた。
と思っていたら、16年3月、ジュネーヴでマルセロ展が開かれたので大喜びで行ってきた。Pyhtieもジュネーヴにやってきた。傑作だと思う。資料も入手してきた。
フリブール美術館では、マルセロの大理石やブロンズの作品が全部で20ほど。油彩画も3点。ヘレンのブロンズはジュネーヴでも見たが、フリブールにあったのは気づいていなかった。逆にPythieのレプリカはフランクフルト美術館に貸し出し中のため、なかった。良かったのは、マルセロの作品や写真が絵葉書になって販売されていたことだ。4年前には一枚もなかった。
資料を整理しなおして、マルセロを日本にも紹介したいものだ。

Wednesday, March 15, 2017

国連人権理事会で日本のヘイト・スピーチについて発言

ジュネーヴの国連欧州本部で開催されている国連人権理事会34会期において、15日、リタ・イザク「マイノリティ問題特別報告者」の報告書プレゼンテーションが行われ、引き続く討論において、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)が日本におけるヘイト・スピーチ状況について発言しました。
発言要旨:
リタ・イザク特別報告者の報告書(A/HRC/34/53)及びマイノリティ・フォーラムの特別報告書(A/HRC/34/68)を歓迎する。日本では最近、ヘイト・スピーチ・デモが増えている。新大久保、鶴橋、川崎など全国各地で、右翼集団が朝鮮人を「ゴキブリ」と呼び、「韓国に帰れ」「朝鮮人を殺せ」といった看板を掲げている。ところが、日本政府は表現の自由と称して、ヘイト・クライムやヘイト・スピーチの予防措置を講じていない。2012年の人権理事会普遍的定期審査(UPR)で、多くの国が日本にヘイト・クライム法制定を勧告した。2014年の人種差別撤廃委員会は人種差別禁止法制定を勧告した。2016年の女性差別撤廃委員会は日本軍性奴隷制に関する責任を否定する政治家発言の抑止を勧告した。2016年5月、国会はヘイト・スピーチ解消法を制定したが、ヘイト・スピーチを犯罪として禁止していない。日本政府は速やかにマイノリティに対する差別予防措置を講じ、ヘイト・スピーチ禁止法を制定するべきである。

「イスラム国」の正体を探る

川上泰徳『「イスラム国」はテロの元凶ではない――グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)
元朝日新聞記者・編集委員の中東ジャーナリストの本だ。今もエジプトを拠点に取材活動を行っているという。
タイトルの趣旨は、第1に、「イスラム国」は混乱の原因ではなく、混乱の帰結であるということ。
第2に、各地で続発したテロ事件の多くは「イスラム国」との連絡なしに行われたにもかかわらず、欧米諸国が「イスラム国」と結び付けて大騒ぎしたため、「イスラム国」が後付けで「我々のテロ」と認知し、これがさらに報道されて、「グローバル・ジハード」という幻想が生み出されたということ。
著者は以上の視点から、現代世界を総体的にとらえ返し、テロのグローバルな拡散の意味を明らかにし、これに対する対処を提言する。
従来の議論では、「イスラム国」という特殊で異常な集団がイラク北部を中心に占拠し、虐殺とテロを繰り返していることばかりが強調されてきたが、現実とイメージは違うという。著者は「イスラム国」を擁護しないが、「イスラム国」を生み出してしまった世界情勢、とりわけ中東情勢の構造的歴史的要因を探る。「イスラム国」とアルカイダ、「イスラム国」とアラブの春などの関係も見直す。
なかでも著者が強調するのは、イラクにおけるシーア派権力の樹立以後、排除され、差別され、殺されてきたスンニ派の受難である。追い詰められたスンニ派が、一方では難民となり、他方では「イスラム国」を支える結果となっている。
このことを詳細に論じて、著者は、イラク国家を立て直して、スンニ派迫害を止め、スンニ派を取り込んだ安定政権を作れば、「イスラム国」への支持や期待は雲散霧消するはずだという。にもかかわらず欧米諸国は爆撃を繰り返して、スンニ派をいっそうの苦境に追いやっている。これでは問題は解決しない。

APOLPGIA, Sion, Romand, 2015.

Tuesday, March 14, 2017

現在の世界を法学から読み解く試み

藤田潤一郎・田中綾一編著『今、私たちに差し迫る問題を考える Vol.2』(関東学院大学出版会、2017年)
関東学院大学大学院法学研究科による市民向け公開講座(2014年度)の記録である。7本の論考が収録されている。日本国内について、「社会変動と家族法規定――非嫡出子法定相続分規定意見決定を素材として」「「移民」の権利」「ニホン刑事司法の古層――刑事裁判(官)のアニムス・アニマ」「2014年改正会社法上の監査等委員会設置会社の検討」。世界の視点からとして、「WTO紛争会稀有制度の意義と課題」「GrexitBrexit――国民投票が揺るがすヨーロッパ」「教皇フランシスコトローマカトリック教会」。
「「移民」の権利」では、外国人技能実習生制度の問題点を検討し、在留外国人の現状を整理して、「外国人労働者の受け入れ」問題ではなく、「移民」を認め、人間的な取り扱いをするよう提言する。
「日本刑事司法の古層」では、戦前の治安維持法・司法官僚制・特高警察の思想が維持・温存された戦後刑事司法の問題性を解明するために、戦前の人脈と思想を掘り起こしている。池田克、田中耕太郎、小野清一郎、団藤重光、斎藤悠輔、石田和外、岡原昌男を追跡する。私も20年ほど前まで、小野清一郎と団藤重光に焦点を当てて研究したことがあったが、その後はやりきれていないので、興味深い。
GrexitBrexit」では、EUとの関係をめぐるギリシアとイギリスの国民投票の共通点と差異を分析していておもしろい。

Sunday, March 12, 2017

グローバル“後”の世界とは何か

的場昭弘『「革命」再考――資本主義後の世界を想う』(角川新書)
マルクス学の第一人者にして、このところユートピア論も展開してきた的場の最新刊。
「資本主義の危機は、勝利の美酒に酔ったときに始まった」と、グローバリゼーションに抗する世界的運動の状況を見ながら、世界史の謎に再度取り組む。
トランプとサンダースの登場・対抗の意味を抑圧された大衆の奮起に見る著者は、世界的に生じている極右と極左の対立や、難民とテロの現象や、経済的混乱も含めて、いまやグローバリゼーションを進めてきた資本主義の限界が迫っていると考え、これまでの価値観を新しい価値観が凌駕しようとしているとみる。
著者は、プルードン、マルクス、アーレント、フュレ、パリ・コミューン、アナルコ・サンディカリズム、レーニン、トロツキー、スターリン、アルチュセール、リクール、ネグリらの言説をたどり直し、ロシア革命から100年の今、欧州、アメリか、そして日本が直面している危機の性格に分け入り、「革命」の可能性を問う。
「革命という言葉が意味するのは、現に見えているものを変革するということではなく、見えないものをくみ取り、それを変えていくということです。およそこれまでの革命、そして革命家の思想というものは、まさにそうした目に見えないものをいかに理解し、変えるかであったといってもいいものでした。変化が簡単にわかるものは、実は革命でもなんでもなく、たんに現状の追認にすぎなかった場合が多かったわけです。」
帯には、マルクスの顔写真を背景に、MEGAを手にする著者の写真が配置されている。編集者のアイデアだろうが、かなり挑発的だ。

<琉球/沖縄シンポジウム第5弾> STOP! 沖縄ヘイト ~メディアの目線を問う~

<琉球/沖縄シンポジウム第5弾>
STOP! 沖縄ヘイト ~メディアの目線を問う~
<パネラー>
 香山リカ(精神科医)
 木村 朗(鹿児島大学教授)
前田 朗(東京造形大学教授)
 安田浩一(ジャーナリスト)
<発言>
 新垣毅(琉球新報)
 宮城栄作(沖縄タイムス)
日時:4月23日(日)14時~16時半(開場13時半)
場所:東京しごとセンター地下講堂
 東京都千代田区飯田橋3丁目103
 TEL. 03-5211-1571
 http://www.tokyoshigoto.jp/shisetsu.php?page_id=150
 飯田橋駅から
 JR中央・総武線「東口」より徒歩7分
 都営地下鉄大江戸線・東京メトロ有楽町線・南北線「A2出口」より徒歩7分
 東京メトロ東西線「A5出口」より徒歩3分
 水道橋駅から
 JR中央・総武線「西口」より徒歩5分
 九段下駅から
 東京メトロ東西線「7番出口」より徒歩8分
 東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄新宿線「3番出口」より徒歩10分
 参加無料
 沖縄の声を暴力で封じ込めて米軍基地建設が強行され、沖縄差別と弾圧がいっそう激化しています。日本政府は沖縄を人の住む島ではなく、本土の利益のための道具として扱っています。米兵による犯罪、大阪府警機動隊員による「土人」発言、オスプレイ墜落事件と、沖縄に対する侮蔑が激しくなっています。
 メディアも沖縄差別に加担していないでしょうか。沖縄の現実と本土メディアの報道の間の極端な落差は「温度差」の範囲ではありません。「沖縄の2紙をつぶせ」発言、TOKYO MX「ニュース女子」問題をはじめ、メディアや社会における沖縄ヘイトが常態化しつつあるように見えます。
 今回の琉球/沖縄シンポジウムでは、沖縄ヘイトに焦点を当て、メディアの役割を考えます。
 メディアにもっと自由を! メディアにもっと責任を!
香山リカ(かやま・りか)――精神科医、立教大学教授。著書に『リベラルですが、何か?』(イーストプレス)、『半知性主義でいこう戦争ができる国の新しい生き方』(朝日新書)、『ヒューマンライツ:人権をめぐる旅へ』(ころから)、『がちナショナリズム: 「愛国者」たちの不安の正体』(筑摩書房)など。
木村朗(きむら・あきら)――鹿児島大学教授(平和学、政治学)。著書に『危機の時代の平和学』『終わらない<占領>―対米自立と日米安保見直しを提言する!』(以上法律文化社)、『沖縄自立と東アジア共同体』(花伝社)、『誰がこの国を動かしているのか』(詩想社)など。
前田朗(まえだ・あきら)――東京造形大学教授(刑事人権論)。著書に『ヘイト・スピーチ法研究序説』『「慰安婦」問題の現在』『黙秘権と取調拒否権』(以上三一書房)、『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(耕文社)、『東アジアに平和の海を』(彩流社)など。
安田浩一(やすだ・こういち)――ジャーナリスト。著書に『外国人研修生殺人事件』(七つ森書館)、『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)、『ヘイトスピーチ――愛国者たちの憎悪と暴力』(文春新書)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)など。
主催:沖縄シンポジウム実行委員会
東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学・前田研究室
042-637-8872、0902466-5184(矢野)
E-mail:maeda@zokei.ac.jp





Saturday, March 11, 2017

チューリヒ美術館散歩

ダダイズム発祥101年目のチューリヒで拠点となったキャバレー・ヴォルテールを眺めてからチューリヒ美術館へまわった。玄関わきのロダンの「地獄の門」を撮影してから、会場へ。常設展と「ベルリン時代のキリヒナー」展をやっていた。
常設展は15世紀から現代アートまで。15~17世紀の宗教画や神話画、フュスリの神秘的空想画をへて、近代へ。地元スイスのホドラー、ジャコメティが充実。ミロ、カンディンスキー、クレー、ピカソ、レジェ、エルンスト。
「ベルリン時代のキルヒナー」展は、ダヴォス以前のキルヒナーの主要作品だ。ダヴォスに移住してからの作品はダヴォスのキルヒナー美術館で見た。それ以前、ドレスデン、ベルリン、そしてイェナのキルヒナーだ。独特のタッチの表現主義は初期から一貫している。人物も都市の風景も。もちろん油彩が中心だが、水彩、パステル、ペン、木版、リトグラフもあった。習作、下絵も展示されていた。1910年から15~16年頃のキルヒナーだ。通してみて一目瞭然なのは、ベルリン、イェナ、ダヴォスと移動しても、画風に変化がないことだ。ダヴォスでは、ダヴォスの町や周囲の山々を描いた作品がぐっと増えるが、タッチはそれ以前と変わらない。どこで何を描いたかで時期区分をしていたが、作風での区分とはかかわりがないのがわかる。
キルヒナーはダダと同じ時代だ。ともに第一次大戦の影響をもろに受けたのに、ダダはチューリヒからミュンヘンやパリ。キルヒナーはベルリンからダヴォス。移動する方向が異なり、交錯していないようだ。

Friday, March 10, 2017

国連人権理事会で沖縄の山城博治釈放要求発言

3月10日、ジュネーヴの国連欧州本部で開催されている国連人権理事会34会期において、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)が、沖縄で長期身柄拘束されている山城博治さんの釈放を求めて発言しました。
発言要旨
「64人の日本の刑事法研究者が山城博治の即時釈放を求めている。山城(64歳)は沖縄でもっとも有名な平和活動家であり、軽微な犯罪で140日間も身柄拘束されている。昨年10月17日に平和への権利を求めて米軍基地反対行動したために逮捕された。弁護団は保釈を要求しているが却下された。家族との面会もできない。この身柄拘束は国際自由権規約に違反する。われわれは山城の釈放を求める。」
山城さん長期身柄拘束の不当性、人権侵害性については下記を参照願います。
国連人権理事会は、安保理事会及び経済社会理事会と並ぶ、国連の主要機関です。47か国の政府が理事国となっていますが、人権問題を扱うことから、国連と協議資格を有するNGOにも発言のチャンスが与えられています。
2015年9月に翁長雄志・沖縄県知事が米軍基地問題について発言したのも、同じ人権理事会30会期でした。
国連人権理事会34会期

Thursday, March 09, 2017

衰退する国の混迷する学校問題

前屋毅『ブラック化する学校』(青春新書)
<世界の教員の中でも格段に長い労働時間、
一日の平均読書時間はたったの13分、
増える精神疾患による休職…
なぜ先生はそんなに“忙しくなった”のか?
子どもが学ぶ場であり、社会の縮図でもある学校。
そんな学校で、いま何が起きているのか?
子どもを持つすべての親、教育関係者必読の一冊!>
「先生はなぜ忙しくなったのか」「公立小中学校で非正規教員が増えている理由」「心を病む先生たち」「先生に、子どもに、競争を強いているのは誰か」。
いずれもこれまでに知られていることだが、改めて整理されると、なるほど深刻な事態だということがより痛感させられる。もともと政府の教育予算が貧しいにもかかわらず、なんとかなっていたのは高度成長の右肩上がりの時代くらいで、あとは学校現場は貧困、紛糾、混迷の途をたどってきた。その中で、教師も子どもも押しつぶされないように自己防衛するしかない。
官僚と産業界は、使い勝手の良い子どもを育てることしか考えていない。一部のエリートと、大半の従順な子どもたちさえいれば良いという、従来から指摘されてきた官僚と産業界の亡国路線は今なお健在だ。本書もその弊害を厳しく指摘する。
著者はフリージャーナリスト。立花隆や田原総一朗のスタッフや週刊ポスト記者の経験。教育問題に関する著書が数冊ある。

Wednesday, March 08, 2017

ローザンヌ美術館散歩

地下鉄「リポンヌ/モーリス・ベジャール駅」を出てリポンヌ広場に出ると、すぐ前にリュミーヌ・パレスがあり、美術館、歴史博物館、貨幣博物館などが入っている。
「美術家の仕事――習作とスケッチ」展が開かれていた。1780年から1950年にかけての主にスイス領域の美術家たちの日常の仕事を示す、習作やスケッチを展示している。
Albert Anker, Rene Auberjonois, Alice Baily, Balthus, Ernest Bieler, Francois Bocion, Gustave Buchet, Paul Cezannne, Emily Chapalay, Jean Clerc, Luois Ducuros Alberto Giacometti, Giovanni Giacometti, Charles Gleyre, Ferdinad Hodler, Giuseppe Mazzola, August de Niederhausern (Rodo) , Leo-Paul Robert, Luuis Soutter, Theophile- Alexandre Steinlen, Felix Valloton.
それぞれの画家・彫刻家の作品が少しずつで、全体は決して多くはないが、楽しめる展示だ。特にビーラーの「神秘の水」の完成品と、そのための習作が数点並べられていた。これだけでも見る価値がある。
ポール・ロベールはヌシャテル美術館で初めて見た地元の画家だが、ローザンヌの連邦裁判所の装飾を手掛けたという。
ホドラーはハノーバー市役所のフレスコ画。とにかく多作なホドラーだが、いくつ見ても飽きない。
オベルジョノワは、孤高の画家で、第二次大戦による破壊を引きずり、人間と動物の暴力的な戦いを描き続けたという。
美術館を出た後、横手の階段を上って大聖堂に出た。テラスからローザンヌの街並みとレマン湖を展望しているうちに、小雨が降って来たので早々に退散。

Tuesday, March 07, 2017

大江健三郎を読み直す(76)棄教・転向・「人間宣言」の後に

大江健三郎『宙返り(上)』(講談社文庫、2002年[講談社、1999年])
本書出版時、3つのことで話題になったのを覚えている。1つは、ノーベル賞受賞後初の長編小説だ。2つは、「最後の小説」(大江自身の言葉)と目された『燃え上がる緑の木』以後の最初の小説であり、それゆえ本作こそが「最後の小説」か(これも裏切られたが)。3つは、オウム真理教事件以後の小説において、反社会的宗教団体を取り上げたこと。関心はあったが、ノーベル賞受賞後、大江作品を読まなくなったので、本書も今回初めて読んだ。
10年前に宗教団体の一部の急進派が原発を占拠・破壊することにより社会に世界の終わりを意識させようとしたが、これを阻止するために教組が、自ら「すべては冗談でした」と棄教を宣言した。
それから10年、地獄に降りて苦悩の歳月を過ごした教組が、新しい補助者たちとともに、教会を設立しようとする。上巻の舞台は東京およびその近郊である。主人公格の木津はアメリカ東部の大学芸術学の教授だったが、癌の予感と、若い青年・恋人との新しい生活のために、蘇生する教組の新しい教会づくりに協力する。
その場は、大江の故郷・四国の森の中であり、『燃え上がる緑の木』の教団が根拠地とした、あの建造物である。前の教団崩壊の後、全く別の教団が10年の歳月を経て同じ場所に着地する。
上巻では、教組、木津、若い恋人、その他、新しい教団を支えていく人々が登場し、お互いに支え合い、東京を発って、四国の森に到着するまでを描く。
テーマは、大江年来の「魂のこと」であり、「根拠地」である。『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『M/T』『燃え上がる緑の木』と書き継ぎ、書き直してきたテーマを、今回は、「宙返り」――棄教後の再興、転向後の再転向がいかになされうるか、そのなかで人間はいかに人生に向き合うのかを描く。
「宙返り」に匹敵する事態を、大江は、教団初期の財政を支えた女性の言葉で、昭和天皇の「人間宣言」に類比させる。
「神様なんて嘘でした。これからは人間です」という「宙返り」の歴史をこの国は持っている。これほど破廉恥なことを平気で宣う鈍感極まりない精神こそ、この国のエスタブリッシュメントである。一民間教団の教組の「転向」などさしたる重大事ではない、とも言えることになる。とはいえ、大江は逆にこの「転向」が「人間宣言」に匹敵し、さらにはそれ以上にスケールの大きい人類史的意義を有するものと考えているのであろう。
本作によって、いよいよ大江はフォークナーやドストエフスキーの水準に到達したのかもしれない。
「宙返り」の先、大江はどこへ向かうのか。それは下巻を待たなくてはならない。