Wednesday, April 29, 2015

現代日本の矛盾とねじれを解明する対談

内田樹・白井聡『日本戦後史論』(徳間書店、2015年)

『日本辺境論』の内田樹の著作は多いが、私は2~3点しか読んでいない。あまり関心がないといった感じだ。白井聡の『永続敗戦論』は感心して読んだ。両者の対談をどうしたものかと思いつつ、購読した。「この国を覆う憂鬱の正体」という宣伝文句にふさわしい内容だ。白井の『永続敗戦論』のテーゼを前提に、日本の対米従属の意味を様々な観点からあとづけ、現代日本の矛盾とねじれを解明する。おもしろい対談だ。

Monday, April 27, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(17)表現の自由を確保するためにヘイトスピーチを規制する

和田義之「いま一度ヘイトスピーチ規制について」『青年法律家』530号(2015年)
「ヘイトスピーチが社会問題となって数年以上、法律家は何らの処方箋も示さず、延々と議論のみ続けてきている。そこには、マジョリティであることからくる想像力の限界、もしくは余裕のようなものがあるのではないだろうか」と指摘する著者は「マイノリティはこの状況に疲れ果てている。加害者らに対して疲れ果てているのではなく、むしろ味方だと思っていた人権派の人々を説得するのに疲れ果てているということだ。『加害と被害の非対称性』について語られるとき、その『加害』には我々法律家も含まれている」と言う。実に重要な指摘である。
もう一つ引用するべき重要な指摘がある。
「表現の自由を確保するためにヘイトスピーチを規制するという考え方がありうる。集団に対する侮辱によって自己評価を貶められたマイノリティは、社会に対して異議申し立てを行う気力を失う。ヘイトスピーチによって、マイノリティの表現の自由が阻害される状態になるのだ。かかる状態を是正するために、つまりマイノリティの表現の自由を回復させるために、集団に対する侮辱表現を規制するという考え方は可能である。」

著者は、ヘイト・スピーチの現場での調査や被害者からの聞き取り体験をもとにこのような結論に到達したようである。これは私の主張と全く同じである。私は、人種差別撤廃委員会の議論に学んで、同じ結論に達した。今後、この議論をさらに進めていく必要がある。

Saturday, April 25, 2015

権力も構造も抜きにした差別と文化論

朝日新聞4月25日付の「インタヴュー 『文化』にひそむ危うさ」は「仏社会学者ミシェル・ウィエビオルカ」のインタヴューだ。パリ社会科学高等研究院上級研究員だそうだ。聞き手は大野博人・論説主幹。いかにも朝日新聞らしい、よくできた、しかし、とても残念な記事だ。はっきり言えば、水準が低すぎる。
ウィエビオルカは、人種概念が否定された現在、文化を口実にした差別がこれにとってかわったことを指摘する。文化は変わり続ける者なのに、あたかも自然であり、変化しないものであるかのごとく用いられる。不平等といった社会問題が、文化や人種による差別の問題に姿を変えるともいう。文化的同質性故に違う人たちを排除する。グローバルな分析が必要であり、歴史的な事情も働くと一応は言う。そして、多文化の共存と普遍的価値を強調する。その上で、人種差別禁止法の必要性を唱え、ヘイト・スピーチの禁止も必要と言う。
ウィエビオルカと大野の議論には深刻な疑問がある。ここでは3つだけ指摘しておこう。
第1に、彼らは文化と差別について論じる。これは一面で正当でもある。しかし、彼らはマジョリティとマイノリティの関係を無視する。換言すると、「朝鮮人が日本人を差別する」というザイトクカイの主張にも親和的なのだ。文化の差異ゆえに、アルジェリア人がフランス人を差別し、パレスチナ人がイスラエル人を差別するのだ、ということになりかねない。マジョリティが有する権力への視線が欠落した議論はきわめて危うい。
第2に、彼らは植民地と植民地主義について口を閉ざす。ごく短いコラムなら、それも仕方ないかもしれないが、新聞としてはロング・インタヴューの部類で、人種差別とヘイト・スピーチについて語りながら植民地と植民地主義について語らずに、文化を語る。文化接触理論と文化相対主義の折衷に立つ。同時に、グローバル化や経済的地政学的な立場に着目する。

第3に、多文化主義と普遍的価値をめぐる議論において、マリ系の移民の間での女子割礼を「野蛮な行為」とし、「普遍的な価値観に反する」と断定する。その論拠も文化である。そして、「ほどほどの多文化主義というのは説明する多文化主義」だという。ここには2重のねじれがある。一つは、他者の風習や信念を「野蛮な行為」とみなし、自らを「普遍的な価値」の側に置く言説の歴史性。もう一つは、女性の「人権」に触れることなく、文化や価値を語る言説の不可思議さ。この2重のねじれは、多文化主義という暴力に無自覚であることを意味するだろう。

Thursday, April 23, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(16)

「特集・レイシズムにNo.!」『IMAJU(イマージュ)』61号(2015年)
クロスオーバー談義・中村一成金満里「ヘイトの嵐を踏み越え そして、その先へ」
邊玲奈「反ヘイトスピーチ裁判傍聴記」

関連書籍紹介

Wednesday, April 22, 2015

政治的に正しい首相官邸ドローン放射性物質事件

22日、首相官邸屋上でドローンが発見され、容器に放射性物質が入っていたと言う。いつ、何者が、何の目的で行ったのか不明だが、政治的メッセージであることは間違いないだろう。警視庁は威力業務妨害の容疑で捜査などと、刑法を拡大解釈してこじつけている。
法律的にはドローンの法規制が必要だろう。他方、放射性物質については管理法があるが、今回は毎時1.0マイクロシーベルトということ、被害には結びつかないとされているようだ。とはいえ、放射性物質をドローンに載せて飛ばす行為は止めてもらわないといけないから、何らかの法的対策が必要なことは言うまでもない。
他方、政治的にはどうだろうか。今回のパフォーマンスに日本政府の原発政策への批判的メッセージが含まれていると見るならば、政治的に正しい行為と言えないこともない。国民に向かって放射能をばらまき、危険性はないとし、あらゆる嘘を並べてごまかした挙句、原発再稼働政策を進めている異常な政府に対して、放射性物質を「返却」するのは適切なメッセージである。
いつだったか、福島の土を東電や経産省にお返しするべきとの話が出て、実際に微量の土を持ち込んだ人もいた。東電がばらまいた放射性物質は東電にお返しする。当然のことだ。首相官邸にフクシマの水を。経産省にフクシマの土を。東電に放射性物質を。これは国民の権利だろう。
同じことを私は2011年の事故直後に「原発責任者特権法案」という形で表明した。
原発責任者特権法案
http://maeda-akira.blogspot.jp/2011/09/blog-post_15.html

24日、ドローン事件に関与したとして福井県小浜市在住の男性が警察に出頭した。「原発政策への抗議」と話しているという。警察は威力業務妨害の容疑で調べるとしている。他にどの犯罪にも該当しないので、無理やりこじつけて威力業務妨害としているが、ドローンが落下したことに気づかず、数日後に発見したのだから、業務妨害などなかったと見るべきだ。むしろ、首相官邸の警備の甘さを教えてくれたのだから、感謝状を出したほうがいいのではないか。

まさに大和魂、卑劣な逃げ込み勝利

めったに見ないが、珍しくボクシング世界タイトルマッチをTVで見た。高山なんとかとタイのボクサー。前半から高山が攻め続ける。アナウンサーと解説者は高山を持ち上げて、パンチが決まってるとひたすら連呼する。しかし、ほとんどがジャブなので、実は全然効いていないことは素人にもよくわかる。高山のパンチが何十発と当たり、アナウンサーが興奮して叫んでいるのに、相手はよろめきもしない。当たり前だ、全く効いていない。そして9ラウンド、相手のアッパーが炸裂し、高山がふらつき、逃げ回る。ぶるぶる震えて必死で逃げ回る。これ以上やるとKOのピンチ。そのとたんに試合中断、終了に持ち込まれ、判定で高山が勝利、防衛となった。大笑いだ。まさに大和魂、卑劣な逃げ込み勝利だ。当然、相手は勝ったと喜んでいたが、なんと、なかったことにされた。見事な日本流だ。直後の高山は、勝利者のはずなのに、うつろな目でインタヴューに答え、笑うことすらできず、とても奇妙な表情だった。負け試合をインチキ勝利に持ち込んだ恥じらいがあったのだろう。いつだったかの亀なんとかのインチキ試合を思い出した。ダウンを喰らって、ひたすら逃げ回ったのに、なぜか勝ったのが亀なんとか長男だった。その弟はルール違反の悲惨な試合をしていた。今、どうしているのか。チャンピオンが何人もいるが、日本ボクシングは悲惨だ。リングの外で勝利が決まっているような、スポーツ精神のない世界だ。日本でやると判定ではたいてい日本選手が勝ってばかりなのはなぜか。でも、日本らしい。ボクシングだけではない。日本の政治もこの世界だ。

22日にはもう一つ世界タイトルマッチがあって、井岡なんとかとアルゼンチンのチャンピオン。こちらも判定でぎりぎり井岡が勝ち、3階級制覇に沸いている。外国選手はKOしなければ勝てず、日本選手はKOされなければ勝ってしまう、楽しい世界だ。

Tuesday, April 21, 2015

人間が侮辱される社会・国家

辺見庸・佐高信『絶望という抵抗』(金曜日、2014年)

ようやく読んだ。日本ファシズムの精神史と現在を読み解き、乗り越えを探る対談である。アベ・ファシズムの愚劣さ、幼稚さ、横暴、傍若無人を徹底批判しているが、本当に情けない現状を生み出してしまった国家・社会の一員として、情けなく、恥ずかしい思いになる。「現状はまったく絶望的ではありますが、絶望と希望の境をどこに見つけるか」という問いで終わっているように、本書は絶望の深さを確認することに向けられている。その深さを突き詰めて認識すれば、何をすべきかが見えてくるはずだが、そうはいっても展望がない、という二重三重に情けない現状でもある。それゆえ辺見も佐高もそれぞれのこれまでの闘いをさらに続けることしかできないだろう。そのことをストレートに提示した本と言えよう。安直に解決策を提案できない現状を、深く、全身で受け止めるしかないということでもある。

Sunday, April 19, 2015

大江健三郎を読み直す(44)全体を見る眼

大江健三郎『言葉によって――状況・文学*』(新潮社、1976年)
初読の時には基礎知識がなく理解していなかったが、今回読み返してみて、このあたりからだったのかと思った。1972年から1976年の11の文章が収録されているが、10番目が「風刺、哄笑の想像力」、11番目が「道化と再生への想像力」だ。ラブレー、金芝河、ポール・ラディン、山口昌男、バフーチン。トリックスター、グロテスク・リアリズム、祝祭。『同時代ゲーム』に至る、そしてここから本格化した大江文学の、文学理論がストレートに説かれている。後に『小説の方法』で本格的に展開されるが、本書ですでに主要部分が登場している。
「状況」と「文学」を交錯させた本書は、初期のエッセイ集や、『状況へ』に続く「状況への発言」と「文学理論」の拮抗した大江文学の宣言書である。時代状況への発言だけに、目につく言葉を抜き書きすると、日韓条約、沖縄返還協定、ニクソン・田中会談、椎名麟三、原民喜、三島由紀夫、絶対天皇制、おもろさうし、志賀直哉、カート・ヴォネガット・ジュニア、金大中、金芝河、ガッサン・カナファーニー、非核三原則、ソルジェニーツィン、マルクーゼ、ギンズブルグ・・・と続く。
印象的な文章が多すぎるので、一つだけ引用しておく。
「全体を見る眼というのは、われわれが生きているこの状況の全体を見通す、現代世界の全体を見通し・把握する、その仕方を考えると言うことでまずあるでしょう。同時にそれは、この状況のなかで、現代世界のなかで生きている人間の、そのひとりの人間としての全体をとらえる、その仕方でもあると思います。そして私が考えますのは、そのような状況、現代世界を眺めてその全体を把握する眼が、そのままその状況のなかで生きている人間の全体をとらえることに重なってゆくのが文学であるということなのであります。」



国家・戦争・テロ・暴力・メディアをめぐって

週末は3つの講演・学習会に参加した。考えるべき課題が多すぎて消化しきれないが、少しだけメモしておこう。
18日午後は、映画『戦争は終わった』(1965年、アラン・レネ監督、フランス=スウイェーデン)上映と、立野正裕さん(明治大学教授)の解説と討論の会(HOWSホール)に参加した。『夜と霧』『去年マリエンバートで』のアラン・レネの作品だが、初めて観た。立野さんは日本公開当時から繰り返し観てきたという。第二次大戦後のフランコ政権のスペインで革命を目指す活動家の主人公(イブ・モンタン主演)の秘密活動の3日間を描いて、スペイン戦争は終わっていないこと、を明らかにした映画だ。1977年のスペインの民主化に10年先立つ映画である。討論の差異に発言する機会があったので、2つのことを発言した。1つは、国境検問所、パスポート、ビザという国家の制度に囲い込まれた国民国家の私たちの意識のあり方について。もう1つは、スペイン戦争は終わっていないだけではなく、様々な意味で「戦争は終わっていない」ことについて。近代西欧の500年、それはキリスト教とイスラム教の対立の500年でもあるし、ユダヤ人迫害の500年でもある。第一次大戦と第二次大戦。そして、その後の内戦を経て、現在の「中東戦争」状態。
18日夜は、2014年度サバティカルでパリに滞在し、シャルリーエブド事件を現地で経験した鵜飼哲さん(一橋大学教授)の講演「シャルリーエブド襲撃事件から考える――国家とテロリズム」(国分寺労政会館)に参加した。事件以前からパリは一種異様な雰囲気を持っていて事件が予感されたことに始まり、「殺したのはだれか?「殺されたのは誰か・」という2つの問いによって、フランスの「共和国の理念」と植民地主義・植民地支配・レイシズムの実情を浮き彫りにする講演だった。「戦時国家フランスのレイシズム」とう言葉に、納得しつつ、驚き、改めて考えさせられた。現代世界をどのように認識し、私たちの課題を考えていくのかについて、「テロリズム」とは何か、「新しい戦争」と「古い戦争」、「帝国主義は鎖をなす」(レーニン)をはじめさまざまなキーワードと視点が提示された。

19日午後は、永田浩三さん(武蔵野大学教授、元NHKディレクター)の講演「NHK、朝日、『イスラム国』人質事件から考えるメディアのあり方」(府中グリーンプラザ)に参加した。NHK・ETV2001事件、最近の籾井会長問題、自民党による言論介入・統制など多くの事例を基に、この国がはまり込んでいる「戦争への道」にいかに抗していくべきかを考える講演だった。レジュメには「市民とメディア」「NHKから離れて気がついたこと」「表現の不自由展・消されたものたち」などもあったが、時間の都合で省略されたのは残念。日本軍「慰安婦」問題について、朝日新聞記事訂正問題も取り上げられたので、私も少し会場から発言させてもらった。

Friday, April 17, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(15-1)用語法と類型論

成嶋隆「ヘイト・スピーチ再訪(2)」『獨協法学』93号(2014年4月)
「再訪(2)」では、第3章で国連自由権規約委員会の個人通報審査について、フォリソン対フランス事件、及びロス対カナダ事件の紹介をしたうえで、第4章で日本の状況と題して、「1 用語法」「2 行為類型」「3 法規制をめぐる諸論点」「4 刑事規制の可能性――行為類型に即して」の順で検討している。結論としてヘイト・スピーチ規制法の必要性を否定し、「現行法で対処するべきである」と主張しているので、その論理は注目される。
3の法規制をめぐる諸論点では、7つの論点について検討している。(1)立法事実、(2)保護法益、(3)対抗言論、(4)象徴的・教育的機能、(5)逆効果、(6)委縮効果、(7)在日コリアン差別問題の特異性、の7つである。ヘイト・スピーチ処罰に反対する憲法学説の多くは、ヘイト・スピーチとは何か、その行為類型や、被害についての認識を示すことなく、抽象的議論にふける例が多いのに対して、成嶋は上の7つの論点に即して具体的な検討を加えている。その意味でレベルの高い論文と言えよう。7つの論点の検討の一つひとつについては後日、再読してから私なりに検討したい。
第4章の「1 用語法」で、「ヘイト・スピーチに対する法規制のありかたを検討するに際して、この表現行為を、『差別助長』性に力点をおいて捉えるか、それとも『憎悪扇動』性に力点をおいて捉えるかが、大きなポイントとなると思われるからである」と適切に指摘している。その通り、用語法及び類型論は極めて重要である。ただし、論証抜きに、初めから「表現行為」と決めつけている点は疑問だ。「ヘイト・スピーチ」という言葉が用いられていること自体を何も疑わない姿勢である。
成嶋は、私の『増補新版ヘイト・クライム』と「ヘイト・クライム法研究の論点」『法の科学』44号の論文を引用して、前田は「ヘイト・スピーチをその内容に含む広範な概念としてヘイト・クライムを定義づけているが、その点で、やや内包・外延が不明確な定義といえる」と述べている。
「内包・外延が不明確」という成嶋の指摘は正しい。上記著書及び論文で私は「内包・外延」という観点を考慮に入れていないし、現在も考慮に入れていない。というのも、国際常識ではヘイト・スピーチは犯罪である場合があり、処罰法が100か国以上に存在している。ヘイト・スピーチは犯罪であるからヘイト・クライムに含まれるのが当然である。そして、私は「犯罪でないものをヘイト・スピーチと呼ばない」という見解を採用している(この点は必ずしも国際常識ではないが)。他方、成嶋は、ヘイト・スピーチそれ自体の刑事規制を否定し、それが犯罪であると見ていない。ヘイト・スピーチはヘイト・クライムに含まれないとする成嶋の立場から見れば、私の主張は「内包・外延が不明確」という考えが成立するのかもしれないが、このことに私は興味がない。
「2 行為類型」で、成嶋は人種差別撤廃条約第4条に従ってヘイト・スピーチの類型論を展開している。類型論抜きの議論が横行しているのに比較して、成嶋の議論は丁寧であり、評価できる。ただ、上記著書及び論文では明示していないが、現在の私の主張は、法律論以前に「ヘイト・スピーチ行為の類型論」を論じつつ、法律論として「ヘイト・スピーチ規制法の類型論」を展開するべきというものである。成嶋の「行為類型」は法律論としての類型論である。人種差別撤廃条約を根拠にしている点で説得的であるが、方法論的に見るならば、条約や法律だけを根拠とする類型論でよいのだろうかという疑念は残る。他方、私の方法に対しては、「内包・外延が不明確」という成嶋の指摘がやはり当てはまるかもしれない。

「4 刑事規制の可能性――行為類型に即して」の部分は重要だが、再読してから検討したい。

Thursday, April 16, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(15)パラドクシカルな論文

成嶋隆「ヘイト・スピーチ再訪(1)」『獨協法学』92号(2013年12月)
著者は国際人権法研究者のようだが、1990年代前半にヘイト・スピーチ関連でいくつかの論文を書いている。最近の状況を前に再びこのテーマを取り扱うので「再訪」というタイトルになっている。第1章はフランスの状況、第2章はカナダの状況。続く「再訪(2)」で国連自由権規約委員会の個人通報制度、最後に第4章で日本の状況を取り上げ、「法規制をめぐる諸論点」を検討し、結論としてヘイト・スピーチ規制法の必要性を否定し、「現行法で対処するべきである」と主張している。
本論文はかなり残念な論文である。第2章のフランスの状況として、反ユダヤ主義の動向、法的対応、フォリソン事件を取り上げている。なるほど、取り上げていることはその通りであろう。だが、フランスを研究していない読者であっても、すぐに疑問に思うことがある。
この間ずっと問題になってきたイスラム教、例えば教育現場におけるスカーフ着用問題などでの議論はどうなっているのか、と。
(1)また、フォリソン事件はわかったが、ガロディ事件でも国連自由権規約委員会で判決(勧告)が出たはずだ。たしか2003年頃、<アウシュヴィツの嘘>を処罰することは国際自由権規約に違反しないという趣旨の勧告だったはずだ。
(2)フランスを研究対象としていない私の本『ヘイト・スピーチ法研究序説』で、フランスでは2005年の刑法改正でヘイト・スピーチの処罰範囲を拡張する方向での法改正がなされたことを紹介している。
(3)さらに2008年、フランス政府は<アウシュヴィツの嘘>処罰の範囲を拡張する方針を表明した。その帰結まで確認していないが、プレスの自由法改正がフランスで議論されたはずだ。
(4)2004年法改正で時効も延長されたはずだ。

以上の4つはヘイト・スピーチ処罰範囲の拡張又は維持である。フランス法研究者でなくても知っていることである。これほど重要な事実を成嶋論文はすべて無視する。そして、ヘイト・スピーチ規制法に対して、フランスでは批判があると言う。「問題点」とか「パラドクシカルな問題状況」と言う。その前提で成嶋自身、ヘイト・スピーチ規制法に反対する。自説に都合の悪い事実を隠蔽して議論しても、今時、すぐに発覚するのだから、やめた方がいい。残念な論文である。

Wednesday, April 15, 2015

「親日」こそ生きるべき道なのか?

前田朗「植民地解放闘争を矮小化する戦略――朴裕河『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』」『社会評論』180号(2015年春)
<一部抜粋>
本書の特徴は、正当な指摘が不当な帰結を生み出すアクロバティックな思考回路にある。例えば、「慰安婦」強制の直接実行者が主に民間業者であったことは、当たり前の認識であり正しい。ならば民間業者の責任を問う必要があるが、著者はそうしない。民間業者を持ち出すのはひとえに日本政府の責任を解除するためだからである。
 本書は、「慰安婦」問題を戦争犯罪から切り離して、植民地支配の問題に置き換える。植民地であれ占領地であれ交戦地であれ軍事性暴力が吹き荒れた点では同じだが、植民地であるがゆえに「慰安婦」政策を貫徹できた限りで、本書も正しい。ならば植民地支配の責任を問うべきであるが、著者はそうしない。植民地に協力した<愛国的>努力を勧奨するからである。植民地の現実を生きるのだから<愛国的>に植民地支配に協力せざるを得ないこともある。しかし、その体験と記憶を根拠に歴史を裁断すれば、カリブ海でもアルジェリアでもナミビアでも、世界は「善き植民地」に覆われることになる。

 <法>を否認する本書は「人道に対する罪としての性奴隷制」についての法的考察を棚上げし、植民地解放闘争の理論と実践や、国連国際法委員会で審議された「植民地犯罪」論や、人種差別反対ダーバン世界会議で議論された「植民地責任」論も脱色してしまう。植民地支配の責任を問う法論理が出てこない。

Tuesday, April 14, 2015

どちらが捏造なのか――「慰安婦」問題をめぐる報道・研究の検証

今田真人『緊急出版 吉田証言は生きている  慰安婦狩りを命がけで告発! 初公開の赤旗インタビュー』(共栄書房)
昨年、朝日新聞や赤旗が「吉田証言は虚偽だから記事を取り消した」のに対して、著者は1993年10月の吉田清治氏へのインタヴュー全文を公開し、解説を加える。吉田証言の一部を切り取って、その証言価値を否定する詐欺的手法を批判し、吉田証言全体を読めば、証言は虚偽とは言えず、むしろ多くのことを教えてくれることが分かるという。著者は当時、赤旗記者として吉田氏に取材した。その取材資料の中にあったワープロ用のフロッピーを保存していて、本書第1章に全文を収録している。
[目次]
第1章 吉田清治氏のインタビューの記録
第2章 〈資料解説〉吉田証言は本当に虚偽なのか
  ──初公開の赤旗インタビューで浮かび上がった新事実
第3章 朝日と赤旗の「検証記事」の検証
第4章 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』の検証
******************************
93年10月4日のインタヴューでは、「慰安婦狩り」の実態について、国家犯罪と言う点について、労務報告会とは何か、済州島の現地訪問について質問している。93年10月18日のインタヴューでは、産経新聞の攻撃への反論について、イヤガラセの卑劣な具体的内容、戦後直後の証拠焼却、かかわった慰安婦の数、著書に書いた年月日について、フィクションの所はどこか、吉田氏の本名などについて、質問している。
第2章では、インタヴュー時の時代状況を説明したうえで、吉田証言で言及されている事実を分析し、「裏付け得られず虚偽と判断」という認識論は大きな誤りと述べる。また、民間業者が戦争末期の朝鮮で慰安婦狩りをすることはできず、国家的行為でないとできなかったと言う吉田証言の合理性を指摘する。その他数々の論点を取り上げて、虚偽や捏造と言う非難に根拠がないことを明らかにしている。
第3章では、吉田証言を取り消した朝日新聞と赤旗の「検証記事」を検証している。
第4章では、吉田証言を虚偽とし、吉田氏を「詐話師」と非難した秦郁彦『慰安婦と戦場の性』を検証している。秦の手法は「自分を棚に上げ、相手の人格を貶める手法」、「ウソをつきながら、相手を『ウソつき』と断定する手法」、「裏どり証言がないだけで、証言を「ウソ」と断定する手法」、「電話取材での言質を証拠に、『ウソつき』と断定する手法」、「白を黒と言いくるめるための、引用改ざんの手法」と特徴づけている。さらに、「何人もの研究者が秦氏の著作のデタラメさを指摘」とし、3人の研究者(前田朗、南雲和夫、林博史)が秦郁彦の論著を批判していることを紹介し、秦を徹底批判している。
私の名前が出てくるのは、秦郁彦が、私が作成した図を無断引用したことを、私が批判した文章である。1999年から2000年にかけて、私は3つの文章を公表した。そのうち『マスコミ市民』と『季刊戦争責任研究』の論文が紹介されている。私はもう一つ、『Let’s』にも秦批判を書いている。秦郁彦の歴史学とは盗用、捏造、憶測の歴史学だ、と言うのが私の結論であった。これに対して秦は、弁解にならない弁解を並べた挙句、もう歳だから、などと述べていた。アホらしいのと、それ以上やると「個人攻撃」となりかねないこともあって、私はそれ以上の追撃はしなかった。そのままになっていた文章を、著者が思い出させてくれた。
吉田証言をどう見るかは、なかなか難しい問題であるが、吉田証言を批判した秦郁彦こそ憶測や捏造の歴史学者の疑いがあり、きちんと検証する必要があるのは間違いない。
秦だけではない。『週刊金曜日』1035号には、吉方べき「『朝日』捏造説は捏造だった」という重要論文を掲載している。わずか2頁だが、事実調査に基づく重要論文である。著者は「朝日新聞や日本の弁護士が騒ぎ始める前は、韓国では『従軍慰安婦』問題など出ていなかった」という渡辺昇一(渡部昇一の誤り)等が広めた話こそが捏造であることを明らかにしている。著者は1950年代から90年代の韓国メディアを調査し、50年代以後様々な時期に様々な形で韓国メディアが報道していたことを論証している。

秦郁彦、渡部昇一をはじめとする歴史修正主義者が、憶測や捏造を繰り返してきたのではないか。きちんと検証する必要がある。

Sunday, April 12, 2015

我が星は上総の空をうろつくか――一茶の生涯

12日は新宿・紀伊國屋ホールでこまつ座のお芝居『小林一茶』(作;井上ひさし、演出:鵜山仁)。役者は和田正人、石井一孝、久保酎吉、荘田由紀、石田圭祐ら12名。
時は文化7(1810)年11月8日の夜、場所は江戸蔵前元鳥越町自身番。当時、江戸の3大俳人の一人とされた夏目成美の別宅から480両の大金が盗まれた。10両盗めば死罪という時代の480両。疑われたのは貧乏俳人の小林一茶。見回り同心見習・五十嵐俊介は、事件の真相を暴くためのお吟味芝居を考案し、劇中劇で一茶の正体に迫る。信州柏原から江戸に出た少年・弥太郎が底辺の下層労働を生き抜き、俳句の世界で身を立てていく様を、一茶と竹里の友情と反発と闘いを通じて描く。女よりも俳諧を選んだ一茶と、俳諧に未練を残しつつ女を選んだ竹里。2人に人生が何度も交錯し、ぶつかりあい、クライマックスの見回り同心見習いの台詞「一人で立つんだ」により、一気に舞台は緊張に包まれ、静かに燃え上がる。俳諧、連句から、発句575のみで成り立つ俳句への進展は、ここから始まる。芭蕉や蕪村を継承しつつ、発展させる一茶の発句は同時に庶民の喜びや悲しみや願いを代弁する。
見回り同心見習・五十嵐俊介と小林一茶は、和田正人の一人二役である。つまり、井上ひさしは、一茶の無実を見抜き一茶を助けようとした五十嵐俊介に竹里に向かって「一人で立つんだ」と叫ばせるが、それは一茶自身の叫びでもあった。

いつもの言葉遊び、俳句を道具立てにした会話の進行、そして劇中歌のシーンでの場面転換。ふんだんに盛り込んだ遊びの果てに、一茶の生き様と、一茶の俳句の世界を見事に描き出したお芝居であった。演出の鵜山仁と、12人の役者たち、そして舞台を支えたスタッフたちに感謝。

『ヘイト・スピーチ法研究序説』出版記念集会

4月11日は水道橋の在日本韓国YMCA国際ホールで、私の近著『ヘイト・スピーチ法研究序説』の出版記念集会だった。図々しく出版記念会をお願いした。また、三一書房創業70周年記念出版の会でもあった。
第1部では田原牧さん(東京新聞特報部記者、『ジャスミンの残り香』2014年 開高健ノンフィクション賞受賞作著者)による講演であった。田原さんは、いろいろと違和感があるとし、この場でなぜ自分の講演なのか、と言いながら、ヘイトが猛威を奮うようになった日本社会の変化について印象的な話をした。
第2部は「連続トーク」ということで、5人の発言者にお話をお願いした。
まず、神原元さん(弁護士、『ヘイト・スピーチに抗する人々』著者)である。神原さんとはアフガニスタン国際戦犯民衆法廷以来のお付き合いだが、最近は「朝日新聞記事訂正問題」で悪質な個人攻撃の被害を受けてきた植村隆・元朝日新聞記者に対する名誉毀損に対して行った提訴の弁護団メンバーである。
次に、清水雅彦さん(日本体育大学教授、憲法学)である。清水さんとは1992年の湾岸戦争への戦争協力に反対して東京地裁に提訴した市民平和訴訟の原告仲間である。最近は集団的自衛権や特定秘密保護法批判の先頭に立っている憲法学者だ。
次に、師岡康子さん(弁護士、『ヘイト・スピーチとは何か』著者)である。師岡さんは枝川朝鮮学校裁判の弁護団メンバーであり、ヘイト・スピーチ研究者である。ヘイト・クライム研究会でずっと一緒に議論してきた。『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』に執筆していただいた。
次に、山田健太さん(専修大学教授、言論法)である。山田さんとは、1980年代のスパイ防止法制定策動との闘いでご一緒させていただいた。山田さんは人種差別禁止法制定を提案しているが、他方でヘイト・スピーチ処罰には強い反対意見を述べてきた。人種差別禁止法制定では共闘しつつ、ヘイト・スピーチについて議論を戦わせていくべき議論仲間である。
次に、安田浩一さん(ジャーナリスト、『ネットと愛国』著者)である。『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』に執筆していただいた。昨年は、ジュネーヴで人種差別撤廃委員会における日本政府報告書審査に参加され、現地で一緒にロビー活動をさせていただいた。
最後に、金東鶴さん(在日本朝鮮人人権協会事務局長)である。金さんとも20年来のお付き合いである。社会におけるヘイト・スピーチだけが問題ではなく、高校無償化からの朝鮮学校の除外を始めとして、国家によるヘイト煽動こそが深刻な問題であることが指摘された。

以上、ヘイト・スピーチとの闘いの先頭に立ってきた7人の方にお話ししていただいた。実に贅沢な出版記念会であった。他にも、人種差別に反対し、ヘイト・スピーチに対抗し、人権擁護の闘いを続けてこられた先輩や仲間たちが約100名集まってくれた。有意義な出版記念会になったと思う。

Monday, April 06, 2015

差別の日本通史への挑戦

黒川みどり・藤野豊『差別の日本近現代史――包摂と排除のはざまで』(岩波書店、2015年)
「被差別部落,女性,ハンセン病回復者,障害者,アイヌ民族,在日韓国・朝鮮人,沖縄……なぜ日本には今なおさまざまな差別が存在するのだろうか.差別の根源に,多種多様な人びとを近代的な価値観へ囲い込み,そこからはみ出す者を排除する社会の枠組みが存在することを,具体的な差別のあり方の変遷を辿りながら描きだす.」
部落研究に始まり、差別論の研究を続けてきた2人の著者が協力して、近現代日本における差別の通史に挑戦した。キーワードは排除、包摂、国民国家、天皇制、帝国、植民地、アジア太平洋戦争、動員、非国民、優生思想、棄民、格差、「単一民族論」、ジェンダー・・・
近現代日本の差別の総体を270頁ほどの本に詰め込むという離れ業に本書は挑み、おおむね成功している。さまざまな動機による差別があり、差別の現象形態も実に多様であり、差別を克服する闘いも多種多様であるから、1冊の本にまとめるのはとても大変だ。著者の力量は凄いと思う。本書は、大学における近代日本史の授業でも使えるし、人権論の授業でも使えるテキストだ。学生にはレベルが高すぎるかもしれないが、大学院生なら本書を手掛かりに研究テーマを絞れば、次々と楽しめることになるだろう。
現象形態は実に多様でありながら、差別には共通性があり、排除と包摂という観点で整理するとこの様になると言うことがよく理解できる。
ここから次の課題は、多様な差別の類型化だろうか。人種・民族差別、先住民族差別、部落差別、ジェンダー差別、障害者差別をはじめとする差別の全てに共通性を見ることも重要な観点ではあるが、差異を見失う訳にもいかない。本書では共通性に着目して、全体の通史を描き出すことに力がそそがれているので、類型的な差異を浮立たせることにはなっていない。著者がさまざまな差別の差異を無視しているということではないが。
はじめに
第1章 国民国家の成立と差別の再編
1 開化と復古――身分制の解体/再編
2 「国民」の境界
3 近代天皇制と「家」の桎梏
第2章 帝国のなかの差別と「平等」
1 植民地の領有
2 新しい女/農村の女性
3 隔離と囲い込み
4 立ち上がるマイノリティ
第3章 アジア・太平洋戦争と動員される差別――「国民」と「非国民」
1 アジア・太平洋戦争の開始と棄民
2 優生思想による排除
3 「皇民」をつくる
4 戦場への動員
5 棄民と「捨て石」
第4章 引き直される境界――帝国の解体
1 日本国憲法と平等権
2 境界の引き直しと人流
3 残存する封建制
4 売られゆく子どもと女性
5 基地と女性――占領下の沖縄
6 存続する優生思想
第5章 「市民」への包摂と排除
1 引かれる境界――格差の告発
2 高度経済成長下の女性
3 「被爆者」という問題
4 「発見」された公害
第6章 「人権」の時代
1 復帰か独立か――沖縄差別論
2 差別の徴表と「誇り」――被差別部落
3 ウーマン・リブとフェミニズム
4 命を見つめて
5 「単一民族論」という幻想
第7章 冷戦後――国民国家の問い直しのなかで
1 裁かれた隔離
2 ジェンダーからの問い
3 「誇り」と「身の素性」

おわりに――〈今〉を見つめて

ヘイト・スピーチ研究文献 (14)人種差別撤廃委員会の記録

『レイシズム ヘイト・スピーチと闘う』(反差別国際運動日本委員会、2015年)
http://imadr.net/jcbook_25/
副題に「2014年人種差別撤廃委員会の日本審査とNGOの取り組み」とあるように、2014年8月20・21日に、ジュネーヴの国連人権高等弁務官事務所ビルの会議 室で開催された日本政府報告書審査(3回目)の全記録である。日本政府報告書、NGO報告書、NGO報告書、委員会審査の全質疑応答、そして審査結果としての委員会による総括所見(日本政府に対する勧告)、さらに総括所見に対するNGO側からの評価・分析などが収録されている。
2010年の審査の際に、日本 におけるヘイト・スピーチの実情が報告され、質疑が行われたが、今回は新大久保や鶴橋を初めとする各地で激化しているヘイト・スピーチの 全貌を委員会に報告した。日本政府は一切報告せず、知らぬ顔を通そうとしてきたが、NGOの報告により委員会は次々と日本政府に質問することになった。人種差別撤廃NGOネットワークに結集した多くのNGOの協働により充実した審査が実現した。その様子が詳しく報告されている。私も一緒に活動したので随所で当時のことを思いおこし、日本政府の答弁を読んでは、その人権無視の姿勢に改めて腹を立てている。
目次

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■審査に向けて 日本政府報告書/NGO報告書

1 人種差別撤廃条約第7・第8・第9回日本政府報告
2 人種差別撤廃NGOネットワーク提出のNGOレポート
3 第7・第8 9回日本政府報告に関する人種差別撤廃委員会テーマリスト

■審査会場にて ジュネーブでの4日間

4 第85会期人種差別撤廃委員会関連 審査の日程とERDネットのプログラム
5 NGOブリーフィング
・人種差別撤廃委員会日本審査NGO・非政府系組織関係参加者リス
6 人種差別撤廃委員会日本政府報告審査審議録
・人種差別撤廃委員会委員プロフィール
・日本政府代表団リスト
・審査に関する各紙のニュース報道

■審査の結果 総括所見が示すこと

7 第7・第8 9回日本政府報告に関する総括所見
8 総括所見を読む
・総括所見が示す日本政府の姿勢( 小森恵)
・国連人種差別撤廃委員会のヘイト・スピーチに関する勧告の内容と意義
(師岡康子)
・日本政府の朝鮮学校「無償化」除外、地方自治体の補助金停止は「人種差別」
(金優綺)
・移住者に関する勧告を読み解く(藤本伸樹)
・部落問題を条約の対象にしない政府見解の間違い(和田献一)
・人種差別撤廃委員会日本の定期報告に関する審査に参加して(阿部ユポ)
・ムスリムに対する監視・プロファイリング活動(金昌浩)
9 日本における人種差別問題 今すべきこと
・日本の外国人学校をめぐる問題状況(田中宏)
・先住民族(上村英明)
・多民族・多文化共生社会実現のための国際基準(大曲由起子)
・-最後の砦か、最初の基準か-「包括的差別禁止法」の実現に向けて(佐藤信行)
10.特別寄稿 総括所見に関するコメント(パトリック・ソーンベリー)

■資料編

人種差別撤廃委員会一般的勧告35 人種主義的ヘイト・スピーチと闘う
あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約

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編集・発行: 反差別国際運動日本委員会


発売: 解放出版社発行  定価:2,000円

Saturday, April 04, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(13)二者択一思考への批判

前田朗「ヘイト・スピーチと闘うために――二者択一思考を止めて、総合的対策
を」『子どもと教科書全国ネット 21NEWS』100号(2015年)

<一部抜粋>

3 「処罰か教育か」説

 次に登場したのが「処罰してもヘイト・スピーチはなくならない。教育こそが重要である」という主張である。2015年1月15日に放映されたNHK・クローズアップ現代のヘイト・スピーチ特集は国内外でていねいに取材をした良い番組であるが、結論は「教育が大切だ」であった。憲法学者の多くも教育論を唱える。しかし、この主張には疑問がある。

  ①処罰積極派は「処罰でヘイトがなくなる」と主張していない。総合的対策を唱えてきた。教育が重要なのは当たり前である。②「教育論者」はいかなる教育をするのか具体的な提案をしない。どのような教育によって、いつまでにヘイト・スピーチをなくすことができるのか、責任ある提案をするべきである。③日本の教育が残念ながらヘイト・スピーチを予防・抑止できなかった事実をどう考えるのか。

 憲法学者の奥平康弘(東京大学名誉教授)は「処罰ではなく文化力の形成を」と唱える(奥平康弘「法規制はできるだけ慎重に むしろ市民の『文化力』で対抗すべきだろう」『ジャーナリズム』282号、2013年)。なるほど、ヘイト・スピーチを許さない文化力を形成することは必要不可欠だ。問題はどのような方法で、いつまでに文化力の形成が可能なのかであるが、奥平は言及しない。具体的方法論抜きに文化力の形成を待つということは、現に生じているヘイト・スピーチとその被害を放置することしか意味しない。


 「処罰か教育か」説は不適切である。処罰も教育も必要不可欠なのだ。本当に教育について考えるのならば、処罰を否定するためにご都合主義的に教育論を持ち出すのではなく、教育の理念と具体的内容を明晰に語るべきである。人種差別撤廃条約第7条は教育の重要性を指摘し、これに基づいて各国で実践の追求が続いている。

Friday, April 03, 2015

大江健三郎を読み直す(43)「国家論小説」の先蹤

大江健三郎『同時代ゲーム』(新潮社、1979年[新潮文庫、1984年])

大学院2年目に出た本で出版直後に入手したが、読んだのは正月休みだった。博士前期課程の頃は授業の報告準備に追われていたので、ふだんはゆっくり読書に専念できなかった。気合を入れて読むべき小説は、長期休暇に読むしかなかった。

本書は大江の大胆な挑戦、意欲作であり、まさに画期的な作品だったが、絶賛する声と同時に、全否定するかのようなダメだし批評も多かった。毀誉褒貶の嵐に包まれた作品と言える。私にとっても、その前に出た『小説の方法』を読んでいたが、そこからこの作品が出てくることを予想はしていないし、よく理解していなかったため、本書を一読して驚き、どう受け止めたらいいのか途方に暮れたような気がする。繰り返し読んで、『万延元年のフットボール』と並ぶ傑作だと思うようになった。中学時代から創元文庫や早川文庫でSF小説を読み漁っていたため入口は入りやすかったとはいえ、大江の言う「想像力」の意味を図りかねていたかもしれない。

四国の山奥の<村=国家=小宇宙>を生きた一族の神話と歴史が、父=神主の息子である僕が双子の妹にあてた手紙の形式で書かれる。留学先のメキシコから書いた第一の手紙に始まり、帰国して東京から書いた第二から第六の手紙まで、日本国家に抗して展開された<村=国家=小宇宙>の物語が綴られる。長い<自由時代>の後、近代を迎えた国家確立期に大日本帝国に編入されるが、一揆を闘い、後には戦時の大日本帝国軍と直接闘うという意想外の飛躍をする。明治維新、大逆事件、太平洋戦争、そして戦後に至る激動の近代史を、日本国家と並走した<村=国家=小宇宙>の始原の壊す人とは何者か。アポ爺、ペリ爺、オシコメ、シリメ、木から降りん人、亀井銘助等々の多彩な人物像は、物語をどこからどこへ運んで行くのか。

大江はこの頃から文化人類学の影響を受けながら文学方法論を鍛えていくが、特にこの時期に熱中して読んだのが山口昌男『文化と両義性』だ。私も出版時に読んだが、文化人類学的発想にはなじめないところもあった。そもそもの文化人類学が植民地主義の産物と言う歴史の一面にこだわっていたためだ。山口昌男の文化人類学をそれとしてしっかり読み続ければ違ったのかもしれない。バシュラール、そして他方でガルシア・マルケスバルガス=リョサの影響もあったようだ。

後に大江は次のように述べている。

「大きい風景、大きい出来事の流れを書きたいと思ったんですね。それも、自分が生きてきた同時代というとまだ四十年だけれども、その自分が生まれる前の六十年過去に遡って、百年間の日本の近代化ということが、どのように日本人に経験されたか――それをある限られた一つの舞台で行われる芝居のように、あるいは大がかりなゲームのように書きたい。それが『同時代ゲーム』というタイトルを作った理由です。」(『大江健三郎 作家自身を語る』141頁)。


日本文学史においては「全体小説」という呼称が知られるが、本書はその一つでもある。全体小説とは何か、あるいはどの作品が全体小説かについては議論が分かれる。一般的には、野間宏『青年の輪』、埴谷雄高『死霊』、大西巨人『神聖喜劇』が代表とされる。サルトルの『自由への道』も全体小説だ。サルトルに影響を受けて出発し、戦後文学の継承者となった大江だけに、まさに全体小説への希求がつねにエネルギーとなっていただろう。もっとも、後に大江は丸谷才一の市民小説に全体小説を見出しているので、言葉の意味には変遷があるかもしれない。


本書は「国家論小説」であり、<村=国家=小宇宙>というミニ国家を起点に、日本国家とは何かを問う仕掛けになっている。「国家論小説」としては、井上ひさし『吉里吉里人』(1981年)、筒井康隆『虚航船団』(1984年)などが続く。「国家論小説」というジャンルがあるわけではないし、3人の作風、スタイルは全く異なるが、大江、井上、筒井の座談会記録『ユートピア探し 物語探し』(1988年)が一種の総括と言えよう。『同時代ゲーム』が出た時にそこまでは予想していなかったが、後智恵で言えば、80年代「国家論小説」の先陣を切ったのが大江だったと言えよう。