Saturday, November 09, 2019

ヘイト・スピーチ研究文献(140)選挙ヘイト対策


瀧大知「差別団体による『選挙ヘイト』――その実態と市民の抵抗」『IMADR通信』

200号(2019年)



2019年4月の統一地方選挙における「選挙ヘイト」について、川崎市と相模原市の状況を中心に紹介し、これに対する市民のカウンターについても報告する。選挙の場合、公職選挙法による「選挙妨害罪」という壁があるためカウンター側も頭を悩ませてきたが、今回は地元市民やカウンターが集まり、身体を張ってヘイトデモを止めた。瀧は、市民による抗議でヘイトを止めた意義を強調しつつも、「そもそもとして差別を煽動するような人物が選挙に出られること、そのものが問題ではないか」として、差別禁止法の必要性に言及する。



選挙妨害罪の壁はたしかに気になった。だが、国際人権法でも、諸外国の法制でも、重大なヘイト・スピーチは犯罪だから、選挙であろうと何であろうと許されない。瀧が言うとおり、身体を張ってヘイトデモを止めたのは正当だし、やはり包括的な差別禁止法が必要だ。


Thursday, November 07, 2019

ヘイト・スピーチを許さない――東京科学シンポジウム分科会


ヘイト・スピーチを許さない

――地方自治体に何ができるか

20 回東京科学シンポジウム第5分科会



マイノリティに対する差別と排外主義が強まり、ヘイト・スピーチが社会問題として注目を集めた。2016年にはヘイト・スピーチ解消法が制定され、「ヘイト・スピーチを許さない」と明記されたが、「理念法」であって具体的な施策は示されず、地方自治体に委ねられた。国立市、京都府、京都市、神戸市、川崎市など各地の自治体では、人権条例、ヘイト・スピーチ条例、適用のためのガイドライン策定等が進められている。そこで差別とヘイトを許さないために自治体には何ができるのか、何をすべきなのか検討する。<分科会責任者:前田 朗>



12月1日(日)13時15分~16時

中央大学多摩キャンパス



「地方におけるヘイトスピーチの現状」

         明戸隆浩(東京大学大学院特任助教)

「川崎市反差別条例(素案)の到達点」

師岡康子(弁護士)

「公の施設ガイドラインを巡って」

前田 朗(東京造形大学教授)



*東京科学シンポジウム会場及び参加費など詳細は「日本科学者会議東京支部」ウエブサイトをご覧ください。             

http://jsa-tokyo.jp/

*本分科会についてのお問い合せは

070-2307-1071(前田)、E-mail:maeda@zokei.ac.jp



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20 回東京科学シンポジウム

テーマ: 理性と希望の平和な時代を拓く

実現しよう! 個人の尊厳と生活の安心

開催日時:2019 11 30 日(土)~12 1 日(日)

開催場所:中央大学多摩キャンパス

主 催:日本科学者会議東京支部

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Wednesday, October 30, 2019

「記憶の暗殺者」との闘い(五)


『救援』19年5月



刑法と表現の自由



ボローニャ大学のフロンツァは、歴史否定主義の刑事犯罪と表現の自由という基本権の間の緊張に焦点を当てる。その明確な例がドイツとスペインの憲法裁判所の判決である。合法な思想と非合法な思想の間に境界線を引くと、刑法の基本原則である合法性原則、侵害原則、最終手段原則を危うくする恐れがあるからである。

一九九四年四月、ドイツ連邦憲法裁判所は、ホロコースト否定を処罰する必要性と表現の自由の保護の間の矛盾を解決しようとした。同年一〇月、ドイツ連邦議会はホロコースト否定犯罪を新設する法改正を可決した。ホロコースト否定犯罪はドイツでは「アウシュヴィツの嘘」と呼ばれ、一九七三年に導入されたが、一九九四年に刑法一三〇条改正がなされ、人種憎悪の煽動が犯罪化された。二〇〇五年には集会法と刑法が改正され、刑法第一三〇条四項が追加された。ドイツ統合以来、排外主義プロパガンダが激しくなり、デッケルト事件が起きたことが主たる要因である。デッケルト事件とは、ドイツ国民民主党が著名な歴史否定主義者のロイヒターを招待して集会で否定主義発言をさせたため、デッケルト党首が共犯として起訴されたが、裁判所が無罪を言い渡した事件である。

刑法一三〇条は、歴史否定主義について広範な定義を採用し、公然と行われた、公共の平穏を害するような方法での、ホロコーストの否定、矮小化、称賛を犯罪とした。刑罰は五年以下の刑事施設収容である。

フランス法と異なり、ドイツ法では国際刑法典第六条に定められたナチス支配下の犯罪の否定のみが犯罪とされる。フランス法その他の事例では、ナチス時代に限定していないものが目立つ。他方、ドイツ法はナチス支配下の事案であっても、障害者の強制不妊手術の事実の否定を犯罪としていない。

フロンツァは、ドイツ憲法裁判所が刑法一三〇条の解釈に当たって「事実」と「意見」の区分、及び「事実の真実性」について検討したことを確認する。「事実」と「意見」の区分自体が相対的な評価にさらされなければならないし、この区分だけでは表現の自由の過剰な制限という危惧に応答できない。「真実性」を基準に取り込めば歴史的真実と司法的真実の区分が不可欠となる。司法的真実と異なり、歴史的真実は可変的であり常に新たな知見によって挑戦を受ける。ドイツはこの難題に向き合い試行錯誤を続けている(ドイツ法について、櫻庭総『ドイツにおける民衆煽動罪と過去の克服』福村出版参照)。



事実と価値



 元ナチス親衛隊幹部のレオン・デグレレがユダヤ人迫害を公然と正当化し、ガス室の存在を疑う発言をしたため、アウシュヴィツ生存者であるヴィオレータ・フリードマンが人間の尊厳と名誉を侵害されたと訴えた。しかしデグレレはフリードマンの名前を口にしていないという理由によって訴えは退けられた。スペインには適切な法律がないと判明し、刑法改正が求められ、激しい論争の末、一九九五年のスペイン刑法に歴史否定主義犯罪が導入された(スペイン刑法につき、前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』三一書房、六一七頁及び六七五頁)。

 二〇〇七年、スペイン憲法裁判所は刑法六〇七条二項について一部違憲との判断を下した。憲法裁判所の判断基準は否定と正当化の間の差異に着目するものであった。

 有名書店リブレリア・ヨーロッパの店主ペドロ・ヴァレラがユダヤ人コミュニティを中傷する反ユダヤ主義の書籍を販売した。一九九八年一一月、バルセロナ刑事裁判所はヴァレラにジェノサイドの否定の罪(刑法六〇七条二項)及び差別と憎悪の煽動の罪(刑法五一〇条)につき有罪を言い渡した。ホロコーストの否定はユダヤ人に対する敵意の雰囲気を醸成するので、単に歴史的事実の否定にとどまらないとした。ヴァレラは憲法二〇条一項の表現の自由を理由に上訴した。

 二〇〇七年一一月七日、憲法裁判所は上訴を一部支持し、刑法六〇七条二項はジェノサイドの「否定」を犯罪化している点で違憲であると判断した。憲法裁判所は表現の自由は民主的法システムに不可欠の重要な権利であるとし、ジェノサイドの実行を否定や正当化する意見の流布が憲法上の表現の自由に含まれるか否かを検討した。憲法による人間の尊厳の認知が憲法上の権利の行使の枠組みに影響を与える。ジェノサイドの実行を称賛し、正当化する行為は被害者の人間性にかかわるので憲法的保護を受けない。憲法裁判所は欧州人権条約一〇条に関する欧州人権裁判所判決を引用する。ここで憲法裁判所は「否定」と「正当化」の区別を強調する。否定は表現の自由の適用範囲にあるが、正当化は刑罰の適用対象となりうる。正当化は当該ジェノサイドの存在の否定ではなく、ジェノサイド実行者を明確に特定しながら合法だと主張するものである。ジェノサイドの正当化の処罰は、被害者集団に対する暴力実行の間接煽動に当たる。それゆえジェノサイドの単なる否定はヘイト・スピーチには当たらない。事実に関する発言は表現の自由に照らしても歴史研究の自由に照らしても合法的であるという。

 他方、憲法裁判所によれば、ジェノサイドの正当化は犯罪についての価値判断の表明であるため、異なる結論が導かれる。ジェノサイドを正当化する思想の流布をヘイト・スピーチとして犯罪化することは憲法にも国際人権法にも合致する。憲法裁判所はEU枠組み決定を引用する。ジェノサイドを正当化する発言を公然とすることはジェノサイド実行の間接煽動に当たる。憲法裁判所は「事実」と「価値」を区別した。

 ヴァレラ事件判決は、歴史否定主義の犯罪化に際して否定と正当化を区別した。ドイツやフランスをはじめ欧州各国ではこの区別は一般的とは言えないように思われる。事実と価値を明確に区別することが可能なのか問題は残る。ドイツの場合、「単純なアウシュヴィツの嘘」と「重大なアウシュヴィツの嘘」という類型化が前提となっているため、スペインのような議論にはならないのかもしれない。「記憶の暗殺者」に対抗するために欧州では刑法を「記憶の監視人」として活用することに共通理解が形成されてきた。

 歴史修正主義が国家権力を掌握し、社会的にも常態化している日本では歴史否定発言が横行している。露骨で過激なヘイト・スピーチを規制することにさえ、憲法学やジャーナリズムから強烈な反論が出るヘイト国家・日本では、人種主義の克服ははるかに遠い課題である。

Monday, October 28, 2019

「記憶の暗殺者」との闘い(四)


『救援』19年4月



刑法と記憶



ボローニャ大学ロースクール上級研究員のフロンツァの著書『記憶と処罰』(スプリンガー出版)は、欧州におけるジェノサイドやその他の大虐殺の否定の処罰事例を詳細に検討している。フロンツァは、歴史否定主義の犯罪化の問題を、第一に「刑法と記憶」の葛藤、第二に「刑法と表現の自由」の葛藤という二つの局面で検討する。

「刑法と記憶」の葛藤について、フロンツァは、歴史否定主義の刑事犯罪と歴史の間の葛藤に焦点を当てると三つの問題点が浮上するという。第一に歴史再構成による改竄の危険性、第二に一部の歴史的真実のみを確証する危険性、第三に歴史的記憶にヒエラルキーを導入してしまう危険性である。これらの問題を検討する素材は、まず歴史否定主義を処罰してきたフランス司法に多くの例がある。フランスの経験は歴史否定主義の犯罪化から生じる問題のパラダイムをよく示す。次に欧州人権裁判所判決である。歴史否定主義の「原型」とも言えるガロディ事件判決、及びその後のペリンチェク事件判決が重要である。

フロンツァによると、歴史否定主義の犯罪化に際して、立法においても判決においても、何が真実かをめぐる複雑な問題が生じる。もともと過去の出来事に関する裁判所の管轄権は、公判における立証を通じて裁判所が評価を行い、裁判所の最終判決に至る。裁判所の判決により真実の証明がなされたのであるから、これに異議を唱えることはできない。これが司法的真実であるが、それは歴史研究において真実と理解されているものとは異なる。歴史と法は、それぞれの課題に従って異なる方法で過去の事実を再構成する。だが歴史が裁判の俎上に載せられると、司法的真実と歴史的真実が相互に影響し合い、交錯し、葛藤を生じることになる。司法的真実の方が強力なため歴史的真実を支配してしまうこともある。

フランス司法はこの問題に長期間向き合ってきた。一九九○年のゲソ法ではホロコーストの否定が問題とされた。文字通りの「アウシュヴィツの嘘」犯罪である。その時代から「刑法と記憶」をめぐる論戦が続いてきた。二○○一年以来、フランス議会ではアルメニア・ジェノサイドを確認する作業が続いた。二○○六年にはアルメニアア・ジェノサイドの否認を犯罪化する提案がなされたが、立法化には至らなかった。二○一二年、議会はボイアー法を可決した。これにより、ホロコーストだけでなく、すべてのジェノサイドや人道に対する罪の存在を問題視したり、矮小化することが犯罪化された。フランス法については、光信一宏「フランスにおける人種差別的表現の法規制」『愛媛法学会雑誌』四〇巻一・二号~四三巻一・二号が詳しい。

フランスでホロコースト否定本を出版したロジェ・ガロディは、人種憎悪の罪で有罪とされたが、これを不服として欧州人権裁判所に提訴した。二〇〇三年六月二四日、欧州人権裁判所判決は、ホロコーストのような明確に確認された歴史的事実と、歴史家の間で議論が進行中の事実とを区別した。第二次大戦時の歴史的事実については論争を制限する正当性を認めた。ガロディ事件について、光信一宏「ホロコースト否定論の主張の禁止と表現の自由」『愛媛法学会雑誌』三五巻一・二・三・四号参照。



ペリンチェク事件



二○○五年、トルコ労働者党党首のドグ・ペリンチェクは、スイスで開催された会議に出席して、トルコによるアルメニア・ジェノサイドは「嘘である」という発言を繰り返し、戦時における犠牲はあったが、ジェノサイドの意図はなかったと主張した。二○○七年三月九日、ローザンヌ地裁はペリンチェクに有罪を言渡し、一二月一二日、スイス連邦裁判所は控訴を棄却した。

そこでペリンチェクは欧州人権裁判所に提訴した。二○一三年一二月一七日、欧州人権裁判所は、スイスが欧州人権条約第一○条に違反したと結論づけた。スイス政府が控訴したが、欧州人権裁判所大法廷はこれを棄却した。

フロンツァによると、本件では、ペリンチェクの発言内容をどう見るか、スイス刑法第二六一条四項(ヘイト・スピーチ)の成立要件をどう見るか、国際刑法におけるジェノサイドの成立要件をどう見るか等複雑な論点が介在しているため、本判決をどう読むかは研究者の間で現在も論争が続いている。例えば、アルメニア・ジェノサイドを公式に認めた国は世界一九○カ国のうち二○カ国にとどまるといった情報を取り上げたり、ジェノサイドの特別の意図の立証をめぐる論争がなされた。

欧州人権裁判所判決は、ホロコーストの否定とアルメニア・ジェノサイドの否定の社会的意味が異なると判断した。フロンツァはここに「記憶のヒエラルキー」が生じているという。ホロコーストを他のジェノサイドや人道に対する罪と区別するために、国連憲章や戦後各国の憲法などに提示された価値の比較をすることになる。果たしてそれは可能なのか。

フロンツァによると、歴史否定主義の犯罪化によって「記憶の法廷」が余儀なくされるが、国内レベルか国際レベルか、記憶の多様性、当事者と世界の間の葛藤といった問題が生じる。いずれにせよ刑事裁判を通じて、過去の出来事が「立証」され、公式の「真実」が提示されることになる。戦争犯罪法廷(国際的法廷、個別国家の刑事法廷、国際刑事裁判所)のどの事例でも同じことが問われてきた。国際的に承認された重大人権侵害の裁きにおいては常に起きる問題である。とはいえ歴史的再構成と司法的再構成とでは方法も理論も目的も異なるが、刑事法廷の帰結は歴史に多大の影響を及ぼし、集合的歴史記憶の基礎となる。刑事裁判の目的は過去を「支配」することではないが、支配する効果を持つ。

フロンツァは、歴史否定主義の犯罪化の重要性と困難性を確認しつつ、「記憶を大切にする」ことと「記憶をつくる」ことに言及する。

刑法と記憶をめぐる論争は法的論争、歴史的論争、社会心理学的論争に及び、これらを巻き込んで進展する。ここで少なくとも言えることは、単一の視点ではなく多様な視点が登記され、「事実」に多面的な光を当てることの重要性と、同時に被害当事者の人間の尊厳を置き去りにしないことである。フロンツァはその間で思考を積み重ねている。日本の議論との決定的な違いである。教科書検定訴訟、一九九○年代からの戦後補償訴訟(在留資格、BC級戦犯、恩給、被爆者、「慰安婦」、強制労働等々)、南京事件訴訟、さらには沖縄戦岩波訴訟など数々の民事訴訟の蓄積にも拘わらず、歴史と記憶に関する最近の議論はあまりに粗雑である。

Friday, October 25, 2019

「記憶の暗殺者」との闘い(三)


『救援』19年3月



刑罰法規の例



 フロンツァの著書『記憶と処罰――歴史否定主義、自由な言論、刑法の限界』の紹介を続ける。日本ではドイツだけが紹介され、あたかも例外であるかのように言われてきたが、欧州には「アウシュヴィツの嘘」のような歴史否定発言を処罰する立法例が多数ある。前回はオーストリア、ベルギー、ブルガリア、クロアチア、キプロス、チェコ共和国、フランス、ドイツ、ギリシア、ハンガリー、イタリア、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルクを紹介した。

 マルタ:刑法第八二条b項(二〇〇九年一一月三日)。処罰される行為は否定、矮小化、称賛。対象は人種、皮膚の色、宗教又は民族的国民的出身に基づいて人々の集団に行われたジェノサイド、戦争犯罪、人道に対する罪。追加要件は言説の公然性、暴力及び憎悪の煽動であること、公共の秩序を乱す方法で行われたこと。制裁は八月以上二年以下の刑事施設収容。

 ポーランド:ポーランド国民に対する犯罪に関する国民的記憶施設及び訴追委員会法第五五条(一九九八年一二月一八日)。処罰される行為は否定。対象は一九三九年九月一日から一九八九年一二月三一日の間にポーランド市民その他の国籍者に行われたナチス犯罪、共産主義犯罪、その他の戦争犯罪、人道に対する罪、平和に対する罪等。追加要件は言説の公然性。制裁は三年以下の刑事施設収容。

 ポルトガル:刑法第二四〇条(一九九八年九月二日、二〇〇七年九月四日改正)。処罰される行為は否定。対象は戦争犯罪、平和に対する罪、人道に対する罪。追加要件は言説の公然性、憎悪及び差別を煽動・助長するような方法で行われたこと。制裁は六月以上五年以下の刑事施設収容。

 ルーマニア:二〇一五年七月二二日の法律第六条(二〇〇二年三月一四日の緊急命令によって導入)。処罰される行為は否定、論争、称賛、正当化及び矮小化。対象はジェノサイド及び人道に対する罪。追加要件は言説の公然性。制裁は六月以上六年以下の刑事施設収容。

 スロヴァキア:刑法第四二四a条(二〇〇五年五月二〇日)。処罰される行為は否定及び矮小化。対象は、国際刑事裁判所規程に定められたジェノサイド、戦争犯罪及び人道に対する罪。ニュルンベルク裁判所憲章に定められた戦争犯罪、平和に対する罪、人道に対する罪。追加要件は言説の公然性、人種、宗教、民族、国民を理由に行われたこと。制裁は一年以上三年以下の刑事施設収容。

 スロヴェニア:刑法第二九七条(二〇一一年一一月二日)。処罰される行為は否定、正当化、是認、愚弄、弁護。対象はジェノサイド、ホロコースト、戦争犯罪、人道に対する罪及び侵略の罪。追加要件は言説の公然性、人種、宗教、民族、国民を理由に行われたこと。制裁は二年以下の刑事施設収容。

 スペイン:刑法第五一〇条一項c、一九九五年一一月二三日の基本法。処罰される行為は否定、賛美、矮小化。対象はジェノサイド、人道に対する罪及び戦争犯罪。追加要件は言説の公然性、ジェノサイド実行を間接的に煽動する方法で行われたこと。制裁は一年以上二年以下の刑事施設収容。

 フロンツァは以上の二一カ国の具体例を示す。他にもデンマーク、エストニア、フィンランド、オランダ、スウェーデン、イギリスの名前を挙げているが、具体的記述はない。またロシアその他にも同様の法律がある。欧州では戦争犯罪や人道に対する罪の事実を否定する歴史否定発言を犯罪とするのが常識である。



否定犯罪規制の潮流



 フロンツァは、歴史否定主義を犯罪とする傾向が欧州各国の国内法に始まり、やがて国際的潮流となり、ついにはEU枠組み決定に取り入れられ、刑事規制がEU加盟国の義務となった過程を追跡する。EU枠組み決定はホロコースト否定だけではなく、その他の国際犯罪の否定にも及んでいる。同時に言論の自由を保障するための制約も導入されている。

 フロンツァは、国際レベル、EUレベル、EU枠組み決定、欧州人権条約の四段階を考察する。

 国際レベルでは、もともと表現の自由を保障する規定と差別を禁止する規定、特に人種主義宣伝を禁止する規定が存在していた。歴史否定発言の規制に向けた動きは一九四八年の世界人権宣言に始まる。宣言第一九条は意見・表現の自由を保障するが、同時に「すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当っては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する」とした(第二九条)。

一九六六年の市民的政治的権利に関する国際規約(国際自由権規約)第一九条一項も表現の自由を掲げるが、同時に「権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課すことができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。(a) 他の者の権利又は信用の尊重、(b) 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」とする(第一九条三項)。さらに同規約第二〇条一項は戦争宣伝を禁止し、同条二項は「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」と定める。

さらに一九六五年の人種差別撤廃条約は人種差別の禁止と撤廃のための措置を列挙したうえで、条約第四条は人種的優越性や憎悪の煽動を規制し、ヘイト目的団体参加や財政支援も犯罪とすることを明示した。人種差別撤廃委員会の一般的勧告第三五号が続いた。

国際自由権委員会はこのテーマに関するガイダンスを提供してきたが、特に歴史否定発言についてはフォリソン対フランス事件に関する通報について、一九九三年一月二日、国際犯罪の事実を否定する公開発言は、暴力及び人種憎悪を煽動する場合にのみ刑事訴追に服すべきであると判断した。

リヨン大学の文学教授フォリソンは著名なホロコースト否定論者であった。フォリソンは一九七八年以後、ナチス・ドイツのガス室はなかったと主張した。これを擁護するノーム・チョムスキー、批判するピエール・ヴィダル・ナケらの間で論争となった。これが一因となって一九九〇年、フランスに否定発言犯罪が導入された。フォリソンは自説を唱え続けたため一九九一年に有罪判決を受け、一九九二年に確定した。そこでフォリソンは国際自由権委員会に提訴していた。フロンツァは、フォリソン事件決定が国際レベルの水準を示すと見る。

Thursday, October 24, 2019

「記憶の暗殺者」との闘い(二)


『救援』2019年2月



刑罰法規の例



 ボローニャ大学ロースクール上級研究員のエマヌエラ・フロンツァの著書『記憶と処罰――歴史否定主義、自由な言論、刑法の限界』(スプリンガー出版、二〇一八年)は、刑事法を活用した「記憶の暗殺者」との闘いを詳細に研究する。歴史否定主義という犯罪の形成から、各国刑事裁判における法適用の実際、自由な言論との関係を分析する。分析対象とされた刑事立法例を紹介しておこう。従来、日本ではドイツやフランスの例だけが紹介され、あたかも例外であるかの如く扱われてきた。しかし、この種の法律は欧州二十数カ国に存在し、欧州においては常識の部類に属する。

 オーストリア:国家社会主義禁止法第三条h項(一九四七年二月一九日、一九九二年三月一九日改正)。処罰される行為は否定、重大な矮小化、是認、正当化。対象は国家社会主義によって行われたジェノサイド及び人道に対する罪。追加要件は言説の公然性。制裁は一〇年以下の刑事施設収容。諸個人を特に危殆化すると刑罰は二倍に加重。



 ベルギー:第二次大戦期におけるドイツ国家社会主義によって行われたジェノサイドの否定、矮小化、正当化又は称賛を抑止する法律第一条(一九九五年三月二三日、一九九九年に刑罰改正)。処罰される行為は否定、重大な矮小化、称賛、正当化。対象は国家社会主義によって行われたジェノサイド(定義はジェノサイド条約第二条に基づく)。追加要件は言説の公然性。制裁は八日以上一年以下の刑事施設収容及び〇・六四ユーロ以上一二三・五ユーロ以上の罰金。判決の新聞掲載。

 ブルガリア:刑法第四一九a条(二〇一一年四月一三日)。処罰される行為は否定、とるにたりないと矮小化、正当化。対象は刑法第四〇七条によって定義された平和に対する罪及び人道に対する罪。追加要件は行為が差別的暴力や憎悪を惹起する危険性。制裁は一年以上五年以下の刑事施設収容。

 クロアチア:刑法第三二五条(二〇一一年一〇月二六日)。処罰される行為は否定、とるにたりないと矮小化、称賛。対象は刑法第八八条によって定義されたジェノサイド、侵略の罪、人道に対する罪及び戦争犯罪。追加要件は言説の公然性、及び暴力や憎悪を煽動しうる行為であること。制裁は三年以下の刑事施設収容。

 キプロス:一定の形態の人種主義及び排外主義と闘う法律第一三四条()。処罰される行為は否定、重大な矮小化、称賛。対象は国際刑事裁判所規程第六条~第八条によって定義されたジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪。国際法廷で出された終局判決。追加要件は言説の公然性。制裁は五年以下の刑事施設収容、又は一万ユーロ以下の罰金。

 チェコ共和国:刑法第四〇五条(二〇〇九年二月九日、二〇〇一年の人権と自由を抑圧する運動の支援・流布法が元になった)。処罰される行為は否定、問題視、称賛、及び正当化。対象は刑法第四〇〇条に定義されたナチス及び共産主義によるジェノサイド及び人道に対する罪。追加要件は言説の公然性。制裁は六月以上三年以下の刑事施設収容。

 フランス:人種主義・反ユダヤ主義・排外主義抑止法(ゲソ法)第九条(一九九〇年七月一三日)によって導入されたプレスの自由法第二四条(一八八一年七月二九日)。処罰される行為は論争、否定、矮小化、とるにたりないものとすること。対象はニュルンベルク裁判憲章第六条に定義された人道に対する罪、フランスの裁判所の終局判決、国際刑事裁判所規程第六条~第八条に定義された国際犯罪、フランス又は国際裁判所による終局判決。追加要件は言説の公然性。制裁は一年以下の刑事施設収容、又は四五〇〇〇ユーロ以下の罰金。

 ドイツ:刑法第一三〇条三項(一九九四年七月一三日、二〇〇五年三月二四日改正)。処罰される行為は否定、矮小化、称賛。対象は国際刑法典第六条に定義された国家社会主義によって行われたジェノサイド。追加要件は言説の公然性、及び公共の秩序をかき乱す方法で行われたこと。制裁は五年以下の刑事施設収容又は罰金。

 ギリシア:二〇一四年九月四日の法律第二条(二〇一三年の法律により刑法第二六九条改正)。処罰される行為は否定、議論の呼びかけ、矮小化、正当化。対象はホロコースト及びナチス犯罪、国際裁判所又はギリシア国家によって定義されたジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪。追加要件は言説の公然性、及び暴力や憎悪を煽動しうる行為。制裁は三月以上三年以下の刑事施設収容、及び五〇〇〇以上二万ユーロ以下の罰金。加重事由があれば二倍に加重。

 ハンガリー:刑法第三三三条(一九四七年二月一九日、一九九二年三月一九日改正)。処罰される行為は否定、重大な矮小化、是認、正当化。対象は刑法第一四二条に定義するナチス及び共産主義によるジェノサイド及び人道に対する罪。追加要件は言説の公然性。制裁は三年以下の刑事施設収容。

 イタリア:一九七五年一〇月一三日の法律第三条(二〇一六年六月一六日改正)。処罰される行為は否定、弁明、重大な矮小化。対象はショア、国際刑事裁判所規程第六条~第八条に定義されたジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪。追加要件は否定が宣伝や煽動を目的とすること、拡散の現実的危険性。制裁は二年以上六年以下の刑事施設収容。

 ラトヴィア:刑法第七四条一項(二〇〇九年五月二一日、二〇一二年に刑罰改正)。処罰される行為は否定、称揚、正当化。対象は刑法第七一条に定義されたジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪、平和に対する罪。追加要件は言説の公然性。制裁は五年以下の刑事施設収容、又は罰金、又は社会奉仕命令。

 リトアニア:二〇一〇年の刑法第一七〇条二項。処罰される行為は否定、とるにたりないものと矮小化、称賛。対象は国内法、EU法、国内裁判所、国際裁判所によるジェノサイド、戦争犯罪、人道に対する罪。ナチス又はソ連邦による侵略。一九九〇~九一年の独立戦争時に行われた重大犯罪。追加要件は言説の公然性、公共の秩序をかき乱す方法で行われたこと。制裁は二年以下の刑事施設収容、拘留、又は罰金。

 ルクセンブルク:刑法第八二条b項(二〇一一年二月一三日、二〇一二年二月二七日改正)。処罰される行為は否定、矮小化、論争、正当化。対象はニュルンベルク裁判憲章第六条に定義された戦争犯罪、人道に対する罪。国内裁判所又は国際裁判所によって認定されたもの。刑法第一三六条に定義されたジェノサイド、戦争犯罪、人道に対する罪。追加要件は言説の公然性。制裁は八日以上二年以下の刑事施設収容、及び/又は二五一以上二五〇〇〇ユーロ以下の罰金。

Tuesday, October 22, 2019

「記憶の暗殺者」との闘い(一)



『救援』2019年1月

記憶の暗殺者



ドイツでは、公然と「アウシュヴィツのガス室はなかった」「ユダヤ人虐殺は良かった」などと発言すれば、刑法第一三〇条の民衆煽動罪に該当する犯罪である。「アウシュヴィツの嘘」として知られる。イギリスでは、発言は犯罪とはならないが、映画『否定と肯定』で鮮やかに描かれたように名誉毀損等の民事不法行為となることがある。

日本では「南京大虐殺の嘘」「従軍慰安婦の嘘」をはじめとして、かつて日本がアジア各地で犯した歴史的野蛮行為を否定し、戦争や植民地支配を美化する開き直りが横行している。差別表現やヘイト・スピーチの議論になると、一部の憲法学者やジャーナリストが「表現の自由」を持ち出して差別発言の正当化に躍起になる。マジョリティの日本人がマイノリティを差別し迫害することを表現の自由と錯覚した「リベラリズムの墓堀人」である。

「アウシュヴィッツの嘘」処罰は多くの国の刑法に規定され、欧州では常識化しつつある。ドイツ、フランス、スイス、リヒテンシュタイン、スペイン、ポルトガル、スロヴァキア、マケドニア、ルーマニア、アルバニアである(前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』第10章第5節参照)。欧州以外にイスラエルやロシアにもある。

 エマヌエラ・フロンツァによると、同様に歴史否定(歴史否定主義)を規制する法律は、オーストリア、ベルギー、ブルガリア、クロアチア、キプロス、チェコ、ギリシア、ハンガリー、イタリア、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルク、マルタ、ポーランド、スロヴェニアにもあるという。これほど多くの刑事立法があり法実践が続いているのに、日本ではせいぜいドイツとフランスの情報が紹介されてきたにとどまる。

 そこでフロンツァ『記憶と処罰――歴史否定主義、自由な言論、刑法の限界』(スプリンガー出版、二〇一八年)を簡潔に紹介したい。本書は、欧州におけるジェノサイドやその他の大虐殺の否定の処罰を検討し、刑法による公的な歴史記憶の保護について議論を展開する。フロンツァはボローニャ大学ロースクール上級研究員であり、EUによる「欧州と比較法のパースペクティブにおける記憶法」調査研究の主任調査員である。

ピエール・ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者たち』(人文書院、一九九五年)に代表されるように欧州では記憶の暗殺者との闘いが続くが、最近の日本では「歴史・記憶・証言・表象・物語」をめぐって「新版・記憶の暗殺者」が跋扈している。記憶をめぐる心理学研究の成果を踏まえるように装い、「学問的中立性」を唱えながら、被害者の証言を相対化し、加害者の記憶や語りと相殺する。あからさまな歴史否定とは一線を画すようにふるまうが、エージェンシーを根拠に被害者性を消去し、議論をすり替えて歴史社会の構造的把握を無化する。「学問の特権」の上に胡坐をかいた「冷静な研究」「精緻な理論」が横行する。フロンツァの研究に学ぶべき由縁である。



歴史否定犯罪



 フロンツァは著書第一部「刑事犯罪としての歴史否定――起源と発展」において、歴史否定犯罪の誕生を確認する。フロンツァによると、「否定主義」はアンリ・ルッソの著書『ヴィシー・シンドローム』(一九四四年、フランスで出版[英訳は一九八七年、ハーヴァード出版])がナチス絶滅収容所のガス室の存在を否定する言説に対して用いた言葉である。確認された歴史的事実を修正する傾向としての修正主義と歴史否定を区別する必要がある。いかなる歴史研究も先行研究に対する見直しを含む点では修正主義とならざるを得ないが、歴史否定は確立された歴史事実や方法論的パラダイムとの対話を拒絶する。歴史否定は当初はホロコーストの否定であったが、今日ではジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪の否定として、ネットを通じて世界中に拡散している。気候変動の否定、月面着陸の否定、HIVウィルスの起源、9.11攻撃の謀略論、オバマ元米大統領の出生地など、あらゆる事項について否定主義が猛威を振るっている。

 フロンツァは、歴史否定を修正主義概念の退化した形態として定義する。刑事犯罪としての発展を通じて、歴史否定は記憶の法から区別される。一九九〇年代以来、両者は明確に区別されずに用いられてきたが、刑事犯罪にかかわって研究する際には区別する必要がある。歴史否定は厳密にいうと歴史修正主義の退化現象として登場した。歴史修正主義自体が多様な解釈可能性を持ち、広義では新しいデータに基づく歴史の再構成を意味する。この意味では歴史は常に再構成される。これに対して、歴史否定は、歴史研究の方法論からも結論からも許容できない特殊な歴史修正主義である。第二次大戦終了後、ホロコーストを勝者のプロパガンダであるとして否定し、極小化する言説である。ガス室の存在の否定から、より広い意味を持つようになり、トルコによるアルメニア人虐殺、ナチスによる欧州におけるジプシー殲滅、ウクライナ・ホロコースト、旧ユーゴスラヴィア、ルワンダ、カンボジアにおける犯罪に及んでいる。

 その犯罪化の前進は欧州比較法の視点から分析できる。フロンツァは歴史否定が人種主義に由来するとみる。反ユダヤ主義や重大人権侵害の被害者を貶め、被害を受けた共同体の公的な集合記憶を蝕むからである。フロンツァは欧州における先行研究として六〇を超える文献を引証しているが、その大半が日本では知られていない。多くの欧州諸国で、規定の仕方はさまざまであるが、この種の刑事犯罪が立法されている。EU二八カ国のうち二一カ国で特別犯罪又は刑罰加重事由とされている。最初の規定はフランスの一九九〇年のプレス法第二四条(二〇一七年に改正されて第一七三条)である。オーストリア、ドイツ、ベルギー、スペインが続いた。二〇〇八年のEU枠組み決定後、東欧など十数カ国が立法化に踏み切った。
歴史否定の犯罪化は、一方で刑罰による禁止の範囲の拡大として理解できる。当初はホロコーストの否定に限られたが、現在ではその他の国際犯罪の否定も含まれる。他方で歴史否定の犯罪化はスピーチ犯罪の開花とみることができる。それゆえ歴史否定の犯罪によって保障される歴史記憶の保護は、民主社会の基本的価値の保護の名における自由な言論の制限を拡大する一般的傾向に連なることになる。フロンツァは欧州諸国がこれらの問題にいかに対応したかを追跡する

Thursday, October 10, 2019

ヘイトスピーチの共犯にならないために―表現の自由とレイシズム―


ヘイトの害悪が認識され、2016年にヘイトスピーチ解消法が制定されました。しかし、 各地でヘイト団体による公共施設での集会などが繰り返されており、自治体行政はそれを 容認しています。また、愛知トリエンナーレの「表現の不自由展・その後」における嫌が らせ・脅迫の殺到とともに、市長などがそれらと同調し、追い打ちをかけるような姿勢を みせています。地方自治体が「共犯」となってヘイトを助長し、マイノリティを攻撃して いるのです。私たちに何ができるか、共に考えませんか。



■講師 前田 朗(まえだ あきら)



1019日(土)18:00開演(17:45開場)、20:30終了

札幌市民ホール(カナモトホール) 第2会議室

札幌市中央区北1西1



参加費 1,000円(当日受付)



【主催】 

札幌市に人種差別撤廃条例をつくる市民会議

茶門セミナー・ハンマダン  

TEL.090-6446-3974 FAX.011-711-1910

Tuesday, October 08, 2019

東アジアにおける歴史否定犯罪法の提唱(二) ――「アウシュヴィツの嘘」と「慰安婦の嘘」


統一評論584号(2014年6月)ヒューマン・ライツ再入門66



東アジアにおける歴史否定犯罪法の提唱(二)

――「アウシュヴィツの嘘」と「慰安婦の嘘」



前田 朗



一 はじめに

二 なぜ「アウシュヴィツの嘘」を犯罪とするべきか

三 東アジアにおける歴史否定発言犯罪の根拠

四 「慰安婦の嘘」犯罪の条文案

五 「慰安婦の嘘」犯罪法の意義





一 はじめに



 前回は西欧における「アウシュヴィツの嘘」処罰法、歴史否定発言処罰法の紹介を行った。その要点は、第一に、「アウシュヴィツの嘘」のような一定の歴史否定発言はヘイト・スピーチの一種である犯罪とされていること。第二に、ドイツだけでなく、一〇カ国もの刑法に規定されていること、である。

 それを受けて今回は次の諸点について考えたい。第一に、なぜ「アウシュヴィツの嘘」を犯罪とするべきなのか。その保護法益論である。第二に、東アジアで同様の刑事立法をするべき積極的根拠である。「慰安婦の嘘」犯罪を制定するべき国際法及び歴史上の理由である。西欧の経験と努力の成果に学びつつ、東アジアでいかなる努力をなすべきかである。第三に、東アジアで制定するべき「慰安婦の嘘」犯罪の条文案である。最後に、この種の犯罪規定を設けることの現在的意義を考えたい。






 「アウシュヴィツの嘘」を公然と主張すると犯罪とされるのはドイツだけではなく、フランス、スイス、スペイン、ポルトガルなど多くの諸国に共通である。それではその根拠はどのように説明されているか。これまでこの点についての研究は、ドイツ刑法に即したものしかないと言ってよいであろう。

 前回紹介したように、スイスでは、アルメニア・ジェノサイド否定事案について、最高裁が、当該犯罪は公共秩序犯罪であるとした。スペインでは、罪質に関連して、人間の尊厳に反するか否かが問われ、単なる伝達は人間の尊厳に反するとしても犯罪とはならないと限定している。しかし、処罰根拠や保護法益についての具体的な紹介がなされていない。

 他方、ドイツに関しては櫻庭総(山口大学専任講師)による周到な研究がある。以下では、櫻庭総『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服――人種差別表現及び「アウシュヴィッツの嘘」の刑事規制』(福村出版、二〇一二年)に依拠して、ドイツの議論状況に学ぶことにする。

 櫻庭によると、民衆扇動罪の保護法益について、ドイツでは二つの見解が唱えられている。

 第一は保護法益を「公共の平穏」と理解する。理由は、刑法第一三〇条の位置が刑法典各則第七章「公共の秩序に対する罪」の中に置かれているからである。従って、民衆扇動罪は、個人的法益を保護する侮辱罪とは性格が異なることになる。この見解に対しては、公共の平穏概念は不明確であるといった批判が差し向けられる。

 第二は保護法益を「人間の尊厳」とする見解である。民衆扇動罪は第一義的に人間の尊厳を保護するものであり、公共の平穏は間接的に保護されると見ることになる。

 実際には多くの論者が、人間の尊厳と公共の平穏の両方を保護するものと見ているようだが、両方を保護するにしてもどちらを優先して理解するかでさまざまに見解が分かれている。

 刑法第一三〇条第三項の「アウシュヴィツの嘘」罪については、一九九四年改正に際して「人間の尊厳に対する攻撃」という文言が削除されたため、人間の尊厳を保護法益とすることでは説明がつかないとされ、第三項については公共の平穏で説明する見解が多いと言う。

 他方、「歴史的事実」を保護法益とする見解も唱えられた。櫻庭によると、オステンドルフは次のように述べていると言う。

 「ナチス犯罪という歴史的事実の否定を処罰する場合、犠牲者の追憶を保護するためにそれが行われるのは、ナチス体制の犠牲者の利害のためだけでもなければ、生き延びた当事者の利害のためだけでもない。ナチス支配により何らかの形で暴力及びテロを体験したすべての生存者が、自らの受苦への真実要求、つまり歴史的アイデンティティーのなかで保護されるべきなのである。それ以上に、この事実、そしてこの事実を知ることが、[過ちを]繰り返さないための最大の防止策なのである。それゆえ、意見表明の自由の制限に対する個人の利害関心を考慮することだけではなく、ナチス専制の再発防止という一般的利益も考慮されねばならない。」(櫻庭一六二~一六三頁)

 櫻庭は「この見解はホロコースト否定表現の刑事規制の本質を言い表している点で注目に値しよう。しかしながら、それを保護法益と理解するかどうかは別問題である」とする。 その上で、櫻庭は人道に対する罪に着目する。

「民衆扇動罪における『人間の尊厳への攻撃』に『過去の克服』を読み込む別の方法としては、それをナチス犯罪の典型である『人道に対する罪』の延長上に位置づけることも考えられよう。つまり『人間の尊厳への攻撃』概念における『共同体における同等の人格としての生存権を否定され、価値の低い存在として扱われる』という部分に着目し、民衆扇動罪をナチス犯罪である『人道に対する罪』の第一段階を防止する規定として理解するのである。」(櫻庭一七一頁)

櫻庭はドイツにおける判例・学説を検討した結果、最後に次のように述べている。

「ドイツの刑法第一三〇条をめぐる議論は、マイノリティに対する差別扇動行為をナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の原因と言う構造的側面から把握し、『過去の克服』を内面化する試みに基づく刑法規範として結実した点に注目すべき意義がある。しかし、それは一九六〇年代の創設時のように、刑罰法規以外の精神的、政治的取組と一体化したものでなければ、実効性の観点からも、濫用の危険性の観点からも、批判を生むこととなるのである。」(櫻庭一七九頁)。

楠本孝(三重短期大学教授)は、ドイツにおける民衆扇動罪に関する判例を検討して、「個人の人格権として把握されるのは、人が主体的に作り上げてゆくものとしての人格であって、このような意味での人格について、人は価値尊重欲求を有しており、これを侵害するのが侮辱であり名誉毀損である。これに対して、人間の尊厳への攻撃とは、その人自身によってもどうしようもなく決定されている人格の中核部分も含めた人間存在そのものを否定し又は相対化しようとするものである。人間の尊厳は、人間それ自体に固有のものとして内在しているものであって、個人の業績を基準にして尊厳が割り当てられるといったものではない」とし、「さらに、人間の尊厳への攻撃とは、いわば人間の尊厳を破壊し尽くし、否定しさる場合だけを包含するものなのか、これを下回る攻撃は、人間の尊厳を傷つけても、『人間の尊厳への攻撃』とみなされないのか、ということも問題になる。人間の尊厳を尊重することの中に表現されているのは、人間を人格、すなわち、その素質に応じて自分自身をその特性において意識し、自由に自己決定し、自らの環境を形成し、かつ他者と交際しうる存在として認知することである。平等者が他の平等者と交際する可能性は、彼が平等者であることを否定された場合だけでなく、他者が彼に率直に、偏見なくかつ先入観なしに出会う可能性が深刻に制限されている場合も、既に侵害されている。他者を重大な犯罪的寄食者として表示することによって、他者との率直で、偏見なく、かつ留保なく交際し得る可能性は深刻に侵害される」と解説する(楠本孝「ドイツにおけるヘイト・スピーチに対する刑事規制」『法と民主主義』四八五号、二〇一四年)。

他方、金尚均(龍谷大学教授)は、「ヘイトスピーチは、単に『公共の平穏』を害するから処罰されると解するべきではない。それは、一般的に社会におけるマジョリティからマイノリティに対して向けられる。民主主義は、全ての社会構成員が自分の存在する社会におけるさまざまな決定に参加することができるというのが基本である。しかし、ヘイトスピーチは、一定の属性を有する個人又は集団に向けられることによって、当該集団に属する個々の人々を蔑むことになる。それが意味するところは、彼らを同じ社会の民主制を構築する構成員とは認めないということにあり、それにより、民主制にとって不可欠な社会参加の平等な機会を阻害することになる。ヘイトスピーチの有害性は、主として、社会のマイノリティに属する個人並び集団の社会参加の機会を阻害するところにあり、それゆえ、ヘイトスピーチを規制する際の保護法益は、社会参加の機会であり、それは社会的法益に属すると再構成すべきである」と主張する(金尚均「名誉毀損罪と侮辱罪の間隙」『立命館法学』三四五・三四六号、二〇一二年)。

 保護法益を人間の尊厳と見るか、社会参加の機会を中心に理解するべきか、さらに議論が必要と思われるが、他の可能性も検討するべきである。



三 東アジアにおける歴史否定発言犯罪の根拠



1 保護法益論



 「アウシュヴィツの嘘」罪の保護法益論に学んで、日本軍国主義による侵略と植民地支配の犠牲となった諸民族の歴史的経験をどのように考えるべきだろうか。

 ここで確認しておくべきことは、第一に、日本軍国主義による被害が、犠牲を被った人々にとって非常に重要で深刻な歴史的体験であったことである。第二に、それにもかかわらず、第二次大戦後の国際情勢の下で、被害者に対する謝罪も補償も何一つ行われることがなかった。第三に、一九九〇年代以後、被害者たちが立ちあがったことによって、ようやくこの問題が国際的に取り上げられるようになり、重大人権侵害の被害者の補償を受ける権利が議論されるようになった。第四に、それにもかかわらず、日本政府は誠実な謝罪と補償を行うことなく、さまざまな弁解をし続けている。そして今日、安倍晋三政権は村山談話の見直しや、河野談話の見直しなど、歴史修正主義の立場から、歴史の事実を否定しようと躍起になっている。このため二〇一三年には、経済的社会的文化的権利に関する国際規約に基づく社会権委員会は、日本政府に対して「慰安婦」に対するヘイト・スピーチに適切に対処するように勧告を行った。

 つまり、侵略の事実の否定、植民地支配の事実の否定、南京大虐殺の事実の否定、「慰安婦」の否定は、これらの巨大な歴史的犯罪の被害を受けた人々の「人間の尊厳に対する攻撃」となるのではないか。この点を今後きっちりと議論していく必要がある。

 その際に気をつけなければならないことは、古典的刑法理論の保護法益論に囚われる必要はないことである。刑法理論では保護法益を個人的法益、社会的法益、国家的法益に分類してきたため、ヘイト・スピーチや「アウシュヴィツの嘘」の保護法益もこれに強引に押しこんできた面がある。

 しかし、「慰安婦の嘘」処罰を検討するならば、そこではアジア各国の被害者とその子孫の法益が焦点になるはずである。もちろん在日朝鮮人をはじめとする在日・在留の外国人に対するヘイト・スピーチも規制が必要であるが、「慰安婦の嘘」に関してみると、古典的な保護法益論では説明がつかなくてもやむを得ない面があるのではないだろうか。

 「慰安婦の嘘」発言は、被害を受けた人々の歴史的アイデンティティを否定し、同時に彼ら彼女らを嘘つき呼ばわりすることで二重に傷つけている。そのことを通じて彼ら彼女らの社会参加の機会を奪い、制限する。被害者は日本という地理的空間に存在するのではなく、日本が侵略と植民地支配を行った全域に存在している。次項で見る第二次大戦の戦後処理の文書も国際文書であり、連合国、そして国連による文書が基礎になっている。その意味で、国際的法益についても検討する必要がある。

 国際的法益については、すでに一九九七年の国際刑事裁判所規程の採択、それに基づいた国際刑事裁判所の開設と運用実務によって、国際刑法が飛躍的に展開を示してきたのであり、個別国家においても刑法が国際的法益を保護する諸規定を有する例が増えている(前田朗『戦争犯罪論』、『ジェノサイド論』、『侵略と抵抗』、『人道に対する罪』いずれも青木書店)。



2 第二次大戦の戦後処理



 それでは、保護法益の中核を成す歴史的事実、被害者集団の国際的・歴史的体験をどのように把握するべきであろうか。この論点になると、侵略や「慰安婦」問題の歴史認識をめぐる議論が巻き起こりがちである。

 もちろん、歴史的事実をめぐって歴史研究を進化・深化させることは非常に重要である。侵略の事実について、安倍首相は「事実」を否定したり、「国際法」を否定したり、その議論は融通無碍に変化するが、とにかく都合の悪いことは次々と否定する姿勢である。安倍首相以外の論者も、都合の悪いところを見つけては否定してみることを繰り返している。その際に、あたかも歴史研究に基づいたかのようなポーズをとるために、あれこれの論文をつぎはぎすることになる。

 しかし、そうした議論に拘泥しても筋違いの議論を繰り返すことになりかねない。ここでは端的に、第二次大戦時に行われた侵略や、それ以前からの植民地支配、そしてそこにおける非人道的犯罪を、当時の国際的評価の中で確認することが重要である。

 第一に、カイロ宣言(一九四三年一二月一日)は「三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ」とした上で、「右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」、「日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ」とし、最後に「前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」としている。カイロ宣言は三大国による一方的な宣言であるが、次のポツダム宣言において、カイロ宣言の「条項ハ履行セラルヘク」と明示・確認されている。

 第二に、ポツダム宣言(一九四五年七月二六日)は「無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ」とした上で、「我等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」、「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」として、日本政府に無条件降伏を迫った。日本政府は八月一四日、ポツダム宣言受諾を決定し、第二次世界大戦が終結した。

 第三に、日本国の降伏文書(一九四五年九月二日)は「『ポツダム』宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト」と明記している。

 第四に、極東国際軍事裁判所憲章(一九四六年一月一九日)は「極東ニ於ケル重大戦争犯罪人ノ公正且ツ迅速ナル審理及ビ処罰ノ為メ茲ニ極東国際軍事裁判所ヲ設置ス」(第一条)とし、次の三つの犯罪について裁くことを明示した。

(イ)平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。

(ロ)通例ノ戦争犯罪 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。

(ハ)人道ニ対スル罪 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。

 これに基づいて極東国際軍事裁判所が設置され、東条英機ら被告人らの犯罪を裁く「東京裁判」が行われた。これとは別に横浜裁判や、アジア各地での「BC級戦犯裁判」も行われた。なお、東京裁判では人道に対する罪は明示的に適用されていないが、横浜裁判などでは人道に対する罪も適用された。

 第五に、サンフランシスコ講和条約(一九五一年九月八日)は「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」として、東京裁判を受諾することを定めている。

 なお、国連憲章の敵国条項(第五三条、第一〇七条)も確認しておこう。安保理事会による強制行動を定めた国連憲章第五三条は、その第二項で本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される」としている。さらに、第一〇七条は「この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない」としている。これは経過規定の一種であるが、東京裁判もこれに含まれるであろう。

 日本政府は敵国条項の削除を最優先課題と唱えてきたが、国連憲章は改正されることなく、今も敵国条項が残っている。

 以上をまとめると、日本が東アジア各地で行った戦争と植民地支配、その期間における戦争犯罪や人道に対する罪は、無責任な軍国主義による侵略であり、世界征服を狙った過誤であり、朝鮮人民は奴隷状態に置かれたのである。それゆえ、責任者は厳重に処罰される必要があった。

 これらの事実を否定する発言は、悲惨で過酷な歴史的体験を余儀なくされた東アジアの被害者とその子孫の歴史的アイデンティティを否定し、彼ら彼女らを、侵略されても仕方のない人、奴隷状態に置かれてもやむを得ない人として位置づけることになる。それは被害者の人間の尊厳に対する攻撃であり、被害者の社会参加の機会を奪うことにもつながる。

 とりわけ、責任ある地位にあ政治家や影響力のある人物がこれらの発言を繰り返すことは、被害者の人間の尊厳への攻撃となるばかりでなく、カイロ宣言、ポツダム宣言、東京裁判憲章及び判決などによって形成された戦後国際秩序の基礎に対する攻撃になる。このようなことを許していると、国際社会はカイロ宣言、ポツダム宣言などを何度も繰り返さなければならなくなるだろう。

 現に、一九八九年、北方領土返還交渉に際して、ソ連が北方領土領有の根拠として国連憲章の敵国条項を援用したことがある。二〇一二年、尖閣諸島問題に関連して、中国が国連総会で「日本が盗んだ」と繰り返し発言したのは、明らかにカイロ宣言を念頭に置いている。

ソ連や中国の発言の当否はともかくとして、日本が、第二次大戦後の国際秩序に挑戦的な姿勢を示すならば、国際社会は必然的にカイロ宣言、ポツダム宣言、東京裁判、あるいは敵国条項を想起することになるであろう。



四 「慰安婦の嘘」犯罪の条文案



 それでは「慰安婦の嘘」犯罪を具体的に考えてみよう。



1 制定するべき諸国

 

 まず「慰安婦の嘘」犯罪を処罰する刑法を制定するべき国はどこかである。

 言うまでもなく、無責任な「慰安婦の嘘」発言を繰り返してきたのは日本の政治家や評論家たちである。インターネット上でも無責任な放言が氾濫している。「慰安婦の嘘」発言の主体は日本人であることが圧倒的に多い。そして被害者はアジア各国の被害女性(サバイバー)たちであり、その家族であり、彼女らと同じ民族に属する人々である。犯罪を抑止する観点からも、歴史的な責任からも、日本刑法に「慰安婦の嘘」犯罪を盛り込むべきである。ドイツが「アウシュヴィツの嘘」犯罪を制定したように、日本には「慰安婦の嘘」犯罪を制定する責任がある。

 もっとも、「慰安婦の嘘」犯罪を加害国である日本にだけ制定するべきということにはならない。欧州でも、ナチス・ドイツによる被害を受けたフランス刑法に「アウシュヴィツの嘘」規定が採用されている。中立国だったスイスにも、フランコ政権だったスペインにも同様の法律がある。

 それゆえ、日本以外の東アジア各国においても「慰安婦の嘘」犯罪を制定するべきである。朝鮮、韓国、中国、台湾、フィリピン、そして東南アジア諸国においても、「慰安婦の嘘」犯罪を制定することが必要である。

 被害国側から「慰安婦の嘘」発言が出て来ることはないから立法する必要がない、と考えるべきではない。

 第一に、欧州における「アウシュヴィツの嘘」立法と同様に、日本軍国主義による侵略と植民地支配の事実を否定することを許さない国際社会の意思を東アジア各国は明確に示すべきである。「アウシュヴィツの嘘」と「慰安婦の嘘」をともに伸展させることによって、ファシズムと闘い、民主主義を擁護する国際秩序の発展に寄与することができる。

 第二に、日本において「慰安婦の嘘」発言を行った人物が東アジア各国を訪問したならば身柄拘束し、それぞれの国において裁判を行うことができるように、領域的管轄権を明示しておくべきである。普遍主義に立った管轄権である。そうすることによって、「慰安婦の嘘」発言をした人物は東アジア各国を訪問できなくなる。つまり、安倍晋三首相が東アジア各国を訪問できなくさせることができる。現職の首相である間は、一九六一年の外交関係に関するウィーン条約の趣旨から言って安倍晋三を身柄拘束することも裁判にかけることもできないが、将来、首相を辞めた後に東アジア各国を訪問すれば逮捕されるかもしれないという状況をつくることである。「慰安婦の嘘」犯罪法の政治的意義である。

 以上の理由から、日本をはじめとする東アジア各国において「慰安婦の嘘」犯罪を立法するべきである。



2 条文案



 それでは具体的な条文はどのように書かれるべきであろうか。十分な検討はできていないが、欧州における立法例に倣って、案文をつくってみよう。



A案:刑法第**条 公開集会、文書配布により、その他の形態のメディア・コミュニケーションにより、又は公開されるべく設定されたコンピュータ・システムによって、人種、民族的又は国民的出身、宗教、性別又は性的志向に基づいて、特に戦争犯罪又は平和に対する罪及び人道に対する罪の否定を通じて、人又は集団を中傷又は侮辱した者は、六月以上五年以下の刑事施設収容とする。



 A案はポルトガル刑法第二四〇条に倣った記述である。

第一に「公開集会、文書配布により、その他の形態のメディア・コミュニケーションにより、又は公開されるべく設定されたコンピュータ・システムによって」という形で、行為態様・手段を明示している。日本刑法の名誉毀損罪や侮辱罪の規定は、行為態様・手段をほとんど示していない。名誉毀損罪は、公然性と事実の摘示を掲げているが、手段を問わない。侮辱罪は公然性を掲げるだけである。それに比較して、A案は主要な行為態様を列挙している。

第二に「人種、民族的又は国民的出身、宗教、性別又は性的志向に基づいて」として、差別的動機を示す。日本国憲法第一四条は「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」としているので、この表現に合わせることも考えられる。

第三に「特に戦争犯罪又は平和に対する罪及び人道に対する罪の否定を通じて」として、歴史否定発言を視野に入れている。ドイツ刑法は「行為を是認し、その存在を否定し又は矮小化する」、フランス刑法は「疑いを挟む」、リヒテンシュタイン刑法は「否定、ひどい矮小化又は正当化」、スペイン刑法は「正当化」、スロヴァキア刑法は「疑問視、否定、容認又は正当化」、マケドニア刑法は「公然と否定、ひどく矮小化、容認又は正当化」、ルーマニア法は「美化すること」としている。これらに倣って検討する必要がある。

第四に「人又は集団を中傷又は侮辱」として、被害結果を示している。集団を対象とする点が、日本刑法の名誉毀損罪や侮辱罪との相違である。いかなる集団を対象とするかは、右の差別的動機の記述に判断することになる。



B案:刑法**条 いかなる手段であれ、公の場で、ホロコースト、ジェノサイドあるいは人道に対する罪、又はその帰結を、疑問視し、否定し、容認し又は正当化することは、六月以上五年以下の刑事施設収容又は罰金に処する。



 B案はルーマニアのファシスト・シンボル法に倣った記述である。

第一に手段は特定せず、「公の場で」という形で公然性の要件を示している。日本刑法の名誉毀損罪と類似しているが、事実の摘示が掲げられていないので、事実を摘示しない意見表明もこれに含まれる。その点に疑問が生じるようであれば、事実の摘示要件ないし類似の文言を加えるべきか否かを検討することになるだろう。

第二に「ホロコースト、ジェノサイドあるいは人道に対する罪、又はその帰結」として、否定の対象を明示している。これだけだと、人類史上のあらゆるホロコースト、ジェノサイド、人道に対する罪が含まれるとの異論が提起されるかもしれない。東アジアにおける歴史を踏まえれば、このような異論に根拠がないことは明らかである。ただ、異論が強いようであれば、後述の定義規定を挿入する方法も考えられる。

第三に「疑問視し、否定し、容認し又は正当化すること」という行為態様を掲げている。B案では、差別的動機への言及がない。

 A案、B案いずれも、東アジアや日本軍国主義という特定をしていないため、幅広く解釈される危険性が指摘されるかもしれない。しかし、欧州諸国における立法がそうであるように、東アジア各国においてこの種の立法を行えば、その意味内容は直ちに明らかになるのであって、曖昧であるとか、不明確であるということはない。曖昧であるとか、不明確であるなどと主張するのは、加害側の日本人であろう。被害側にとっては、これほど明確な条文はない。

 とはいえ、刑法規定はできうる限り明確である必要がある。被告人となるかもしれない市民の立場から言って明確な犯罪規定が望ましい。東アジアでは第二次大戦後にも朝鮮戦争やベトナム戦争が闘われたので、それらとの区別も必要となる。そうであれば、条文の中に定義規定を設けることが考えられる。例えば、次のような限定である。



C案:刑法**条第二項 前項における「戦争犯罪又は平和に対する罪及び人道に対する罪」とは、一九四六年一月一九日の極東国際軍事裁判所憲章に基づいて設置された極東国際軍事裁判所の管轄権に含まれる犯罪を指す。



 先に触れたように、東京裁判では人道に対する罪が適用されていないが、極東国際軍事裁判所憲章は「極東ニ於ケル重大戦争犯罪人」による人道に対する罪を管轄対象に含めている。

 なお、極東国際軍事裁判所憲章はカイロ宣言やポツダム宣言を前提としているから、日本軍国主義による犯罪を扱っている。それゆえ、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下や東京大空襲などの無差別爆撃の犯罪は対象外とされている。






 最後に、「慰安婦の嘘」犯罪法の意義について考えてみよう。その政治的意義については先に示した通り、第一に、人道に対する罪のような巨大な犯罪の被害をこうむった東アジア各国において、これらの犯罪を許さないことを明確に意思表示し、これらの犯罪被害者を改めて傷つけるヘイト・スピーチに厳しく対処することを意思表示することである。反ファシズムと民主主義の課題は今もなお失われていない。むしろ、現代世界の現実を見るならば、グローバル・ファシズムが席巻しつつある(木村朗・前田朗編『21世紀のグローバル・ファシズム』耕文社、二〇一三年)。

 第二に、具体的には日本で無責任な「慰安婦の嘘」発言を繰り返す人物は東アジア各国を訪問できない状況をつくることである。

 運動論的意義も考えておく必要がある。日本による被害の補償を求める被害者(サバイバー)たち、その要求を支持し、支援してきた戦後補償運動は二〇年以上の歴史を有するが、一部を除いて、要求実現を果たしていない。無念の思いを胸に他界した多くの被害者たち、多くの支援者たちがいる。こうした現状を前に、戦後補償運動は何をするべきなのか。補償と謝罪の要求運動を従来通り粘り強く続けるべきことは当然であるが、それに加えて、さまざまなアイデアを持ち寄り、真相解明、謝罪、補償、再発防止、教育の実現に挑んでいく必要がある。その一環として「慰安婦の嘘」犯罪法の制定運動を加えるべきである。

 憲法的意義も補足しておこう。日本ではヘイト・スピーチ法に反対する勢力が極めて強い。憲法学者の多くが「ヘイト・スピーチといえども表現の自由である」という無責任な主張に固執している。「民主主義国家ではヘイト・スピーチの処罰はできない」などと虚偽を並べたてる。しかし、EU諸国はすべてヘイト・スピーチ法を持っているし、一〇カ国以上に「アウシュヴィツの嘘」法がある。東アジアでは中国にヘイト・スピーチ法があるが、韓国にはヘイト・スピーチ法がないようである。民族紛争や宗教対立を始め世界的にヘイト・スピーチが増加し、その対策が求められている現在、各国において国際人権法に従って個人の尊重や法の下の平等や基本的人権の尊重を考えるならば、ヘイト・スピーチ法の制定が重要となって来るはずだ。その議論を巻き起こすために「慰安婦の嘘」法制定は重要な触媒となるであろう。世界の現実に目をふさいでいる憲法学も、少しは勉強し始めるかもしれない。

 最後に国際人権法的意義である。二〇一二年、国連人権高等弁務官事務所主催の一連のセミナーにより国際法専門家作成の「ラバト行動計画」がまとめられ、国連人権高等弁務官はヘイト・スピーチ処罰法を広く制定することを推奨した(前田朗「差別煽動禁止に関する国連ラバト行動計画(一)~(六)」本誌五七一号~五七六号、二〇一三年)。

 二〇一三年、人種差別撤廃条約に基づく人種差別撤廃委員会は一般的勧告三五を公表して、ヘイト・スピーチ法の制定を呼びかけた(前田朗「『人種主義的ヘイト・スピーチと闘う』勧告」本誌五八〇号、二〇一四年)。

 それゆえ、東アジア各国は、ヘイト・スピーチ法の一種である「慰安婦の嘘」犯罪法を制定するべきである。「慰安婦の嘘」犯罪法を制定した諸国は、それを人種差別撤廃委員会に報告するべきである。また、国連人権理事会で行われている普遍的定期審査(UPR)においても、各国は互いにヘイト・スピーチ法の制定を促すことができるし、現に行われてきた。「慰安婦の嘘」犯罪を立法した諸国はUPRの際に、日本政府に対して「慰安婦の嘘」犯罪法の制定を勧告するべきである。

 また、東アジアにおける人権状況に関心を有するNGO、及び戦後補償運動は協力して、人種差別撤廃委員会におけるロビー活動を展開し、日本政府にヘイト・スピーチ法、「慰安婦の嘘」法の制定を要求するべきである。国連人権理事会におけるロビー活動を通じて、各国政府に、日本政府に対してヘイト・スピーチ法、「慰安婦の嘘」法を制定するよう勧告することを求めていくべきである。

 以上を通じて、東アジア諸国及び諸人民は国際人権法の発展を強力に推進することができる。

東アジアにおける歴史否定犯罪法の提唱(一) ――「アウシュヴィツの嘘」と「慰安婦の嘘」


統一評論583号(2014年5月)ヒューマン・ライツ再入門65



東アジアにおける歴史否定犯罪法の提唱(一)

――「アウシュヴィツの嘘」と「慰安婦の嘘」



前田 朗





一 はじめに

二 欧州における歴史否定犯罪法の紹介

三 欧州における歴史否定犯罪法の特徴







一 はじめに



 ここ数年、日本では非常に悪質なヘイト・スピーチが蔓延している。

 ヘイト・スピーチに対して、京都朝鮮学校襲撃事件裁判に加えて、新大久保におけるヘイトデモへのカウンター行動、マスメディアにおけるヘイト批判、弁護士による法的手段での対抗、ヘイト集団に関する社会学的研究、被害実態の解明が続いている。

 また、ヘイト・スピーチ規制法の必要も唱えられ、諸外国の法制度の紹介や、国際人権法における差別の禁止とヘイト・スピーチ処罰の要請も繰り返し確認されている。ヘイト・スピーチを許さないための国会内の集会や研究会が開催され、人種差別禁止法に関連する議員連盟も立ち上がった。

 ヘイト・スピーチ周辺で、おびただしい類似の差別発言があふれている。ヘイト・スピーチとまでは言えないものであっても、相手を傷つけ、排除につながる心無い差別発言があふれている。ヘイト・スピーチにも様々な行為類型があり、ヘイト・スピーチ法を持つ欧州諸国でも法律上の犯罪ではないレベルの差別発言、不適切発言、問題発言が目立つ。日本でもまさにヘイト・スピーチに当たるような悪質な発言から、ヘイト・スピーチとまでは言えないとしても差別的な発言が数多くみられる。

 四月には四国八十八カ所お遍路道に差別張り紙が貼られたことが報道された。お遍路のための道案内シールは以前からさまざまなものが貼られてきた。ところが、お遍路の魅力を伝える「先達」に選ばれた韓国人女性が後進のための道案内シールを貼ったのに対して、「最近、礼儀知らずな朝鮮人達が、気持ち悪いシールを、四国中に貼り回っています。」と非難し、「見つけ次第、はがしましょう」と呼びかける差別張り紙が、四月九日から二三日まで、徳島県で一七枚、香川県で一四枚、愛媛県で七枚、発見された。『朝日新聞(徳島版)』四月二四日記事「貼紙問題、遍路道どこへ」は、その詳細を報道している。

 他方、これらの報道の後、韓国人向けに遍路の勧めをしてきた韓国籍住職のいる寺に嫌がらせ電話が殺到した。韓国人に対して「臭い」「日本から出ていけ」「韓国人は嘘つき」という悪質な差別電話である。

 ヘイト・スピーチの中には、「歴史修正主義」と呼ばれる、歴史的な加害と被害を否定したり、隠蔽したり、正当化する発言も目立つ。「慰安婦の嘘」や「南京大虐殺の嘘」が典型である。

 本稿では、「慰安婦の嘘」や「南京大虐殺の嘘」のような、かつての日本の侵略戦争や植民地支配における人道に対する罪の歴史的事実を否定することによって、被害者とその子孫に対する中傷、侮辱を繰り広げ、被害者の人格と人間の尊厳を二重三重に傷つける行為を犯罪とするための刑事立法の可能性を検討したい。

 その種の立法は、日本だけではなく、東アジアの各国において制定されるべきである。すなわち、日本、韓国、朝鮮、中国、台湾、フィリピンなどにおいて、日本による侵略戦争と植民地支配における人道に対する罪の歴史的事実を否定し、矮小化し、正当化する行為は、ヘイト・スピーチの一種であり、被害者とその子孫に対する侵害行為であるから、これを犯罪とする刑事立法を行う必要がある。

そのための第一歩として、次節で欧州における歴史否定犯罪法に関する情報を紹介し、次にその特徴を整理したい。次号では、東アジアにおける歴史否定犯罪法に関するスケッチを提示したい。



二 欧州における歴史否定犯罪法の紹介



 「アウシュヴィツのガス室はなかった」「ユダヤ人虐殺はなかった」と公然と発言することはドイツでは犯罪とされていることはかなりよく知られるようになった。「アウシュヴィツの嘘」犯罪、「ホロコースト否定」犯罪である。

カナダやオーストラリアでは犯罪とはされないが、民事の不法行為とされ、損害賠償命令が出ることもあるが、ドイツでは刑法典に規定された犯罪である。

 しかし、「アウシュヴィツの嘘」犯罪はドイツの専売特許ではない。他の欧州諸国にも同様の刑法があるが、これまでほとんど研究されてこなかったため、あたかもドイツだけの特殊例のごとく誤解を受けてきた。

 そこで以下では欧州を中心に「アウシュヴィツの嘘」犯罪、「ホロコースト否定」犯罪の状況を紹介することにする。ドイツについては既に詳細な研究があるので、その一端を確認する。その他の国については、人種差別撤廃委員会に提出された政府報告書をもとに、関連情報を紹介する。断片的な情報の紹介にとどまるが、ドイツに固有の刑法であるかのごとき従来のイメージが誤りであることを明らかにし、欧州諸国においてなぜこのような刑罰規定が広まり、どのように考えられているのかを検討したい。



1 ドイツ



 ドイツ刑法は民衆煽動罪と呼ばれる犯罪類型を掲げている。「アウシュヴィッツの嘘」犯罪とも呼ばれる。従来いくつかの研究が公表されてきたが、中でも楠本孝『刑法解釈の方法と実践』(現代人文社、二〇〇三年)が、民衆煽動罪に関する基本的情報を紹介しつつ、問題点を剔出していた。

 最近、桜庭総『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服――人種差別表現及び「アウシュヴィッツの嘘」の刑事規制』(福村出版、二〇一二年)が出版された。著者は、近時の「被害者保護」論、厳罰化論や、「刑法学の任務」論、「市民刑法」の内実など幅広い問題圏に視線を送りながら、ドイツにおける民衆煽動罪に関する研究の全体像を本書においてまとめて提示した。

 本書第一章では、日本における差別煽動行為規制をめぐる議論状況を整理し、特に「表現の自由」や刑罰論上の問題に関する議論の日本的特徴を確認して、研究課題を析出している。第二章から第六章では、ドイツにおける民衆扇動罪の全貌を研究対象に据える。第二章では、西ドイツにおける民衆扇動罪の誕生に至る経緯を明らかにし、第三章では、刑法一三〇条の拡張とホロコースト否定表現の処罰に関する議論を見渡し、第四章では、刑法解釈論上の諸問題として、行為態様、保護法益、「人間の尊厳への攻撃」要件について検討する。さらに、第五章では、民衆扇動罪の合憲性をめぐる議論に踏み込み、意見表明の自由との関係を整理し、第六章では、民衆扇動罪規定の刑罰論上の位置づけに関して、民衆扇動罪の象徴的機能、積極的一般予防論に言及する。最後に、第七章では、欧州人権裁判所に目を転じて、欧州人権裁判所判例における表現の自由の基本的位置づけを検討している。「アウシュヴィツの嘘」に限らず、ヘイト・スピーチ研究全体にとっても重要な研究である。

 刑法第一三〇条は数回の改正を経ているが、一九九四年改正により、第一項が憎悪煽動、第二項が憎悪扇動による人間の尊厳への攻撃であり、第三項が「アウシュヴィツの嘘(ホロコースト否定)」である。第三項は次のように述べる。

 「公共の平穏を乱すのに適した態様で、公然と又は集会で、第二二〇条a第一項に掲げる態様でのナチスの支配下で行われた行為を是認し、その存在を否定し又は矮小化する者は、五年以下の自由刑(刑事施設収容)又は罰金刑に処される。」

 第二二〇条a第一項とは民族謀殺のことを意味する。欧州において多くのユダヤ人が殺され、迫害された事実から、このような周知の事実を否定し、矮小化することが、ユダヤ人の人間の尊厳への攻撃となるので、公共の平穏又は人間の尊厳を保護するために当該行為を犯罪としている(重大なアウシュヴィツの嘘)。

 ドイツではこのような考え方で「アウシュヴィツの嘘」犯罪が制定され、適用されてきた。ドイツ法の経験に学ぶべきことは多いし、重要な研究がなされている。「アウシュヴィツにガス室はなかった」という発言がなぜ犯罪とされるのかは、刑法学では保護法益論として議論されるが、その点についてもドイツの研究はかなり進んでいるので参照に値する。保護法益については次回、検討する。

  ただし、次に見るように、ドイツ以外の欧州諸国にいくつもの類似刑罰規定が存在する。「アウシュヴィツの嘘」犯罪はドイツだけの特殊例ではない。「アウシュヴィツの嘘」犯罪がドイツだけの特殊例であるとの誤解は、ドイツ刑法だけを研究し、その他の諸国を無視してきた日本人研究者の問題意識の閉鎖性、特殊性に由来する。



2 フランス



   フランス政府が二〇一〇年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/FRA/17-19. 22 July 2010.)によると、フランスにはいくつもの人種差別行為処罰規定があり、差別煽動罪がある。ドイツと異なって、フランスでは必ずしも公然性の要件が必要とされず、公然ではない中傷、侮辱、差別的性質の教唆も犯罪とされるようになってきた。

 加えて、二〇〇四年三月九日の法律によって、一八八一年七月二九日の法律に第六五-三条が挿入された。「人道に対する罪に疑いを挟む」というタイトル(「アウシュヴィツの嘘」を含む規定)であり、差別、憎悪又は人種主義、又は宗教的暴力の教唆、人道に対する罪に疑いを挟むこと、人種主義的性質の中傷、及び人種主義的性質の侮辱は、他のプレス犯罪に設けられている時効三ヶ月に代えて、一年の時効とするというものである。時効はインターネットその他いかなるメディアによるものであれ、犯罪が行なわれた時から開始するとされた。

 政府報告書から判明するのは、第一に、「人道に対する罪に疑いを挟む」犯罪が以前から存在することである。いつ規定されたのかは要調査である。第二に、「人道に対する罪に疑いを挟む」犯罪が、差別、憎悪又は人種主義、又は宗教的暴力の教唆や、人種主義的性質の中傷、及び人種主義的性質の侮辱と並べて規定されている。つまり、ヘイト・スピーチの一種であることである。第三に、二〇〇四年改正によって時効が三ヶ月から一年に延長された。



3 スイス



 スイス政府が二〇〇七年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/CHE/6. 16 April 2007.)によると、連邦最高裁は、ナチス・ドイツが人間殲滅にガス室を使用したことに疑いを挟むことは、ホロコーストの重大な過小評価であると判断した。一九九八年にアールガウ地裁が下した有罪判決を維持し、歴史修正主義者に一五か月の刑事施設収容と八〇〇〇フランの罰金が確定した。

また、アルメニア・ジェノサイドを否定した事案で、最高裁は当該犯罪は公共秩序犯罪であるとした。それゆえ個人の法的権利は間接的に保護されるに過ぎない。個人被害者は当事者として現在した必要がない。

 報告書から判明することは、第一に、ドイツと同様に「アウシュヴィツの嘘」犯罪が規定され、適用されていることであるが、具体的な条文は引用されていない。他のヘイト・スピーチ規定との関連も不明である。第二に、アルメニア・ジェノサイドの否定も犯罪とされている。すなわち、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に限らず、アルメニア・ジェノサイドなどのホロコースト否定に及ぶ。第三に、罪質・保護法益が公共秩序犯罪とされている。第四に、適用された刑罰が一五か月の刑事施設収容と八〇〇〇フランの罰金である。法定刑は不明であるが、少なくとも一五か月の刑事施設収容を言い渡せるだけの刑罰が予定されている。



4 リヒテンシュタイン



 リヒテンシュタイン政府が二〇〇一年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/394/Add.1. 6 November 2001.)によると、刑法第二八三条はヘイト・スピーチを犯罪とし、二年以下の刑事施設収容としている。その中でジェノサイド又はその他の犯罪の否定、ひどい矮小化又は正当化、並びにその目的で象徴、仕草又暴力行為を電磁的手段で公然伝達を、犯罪としている。「ジェノサイド又はその他の犯罪」が何を意味するのか条文から直ちに明らかにはならないが、ナチス・ドイツに隣接した小国の刑法であるから、ナチス・ドイツによるジェノサイド、ユダヤ人迫害を意味することは間違いないだろう。

 なお、刑法第三二一条はジェノサイドの規定であり、ジェノサイド条約や国際刑事裁判所規程と同様の定義を採用している。



5 スペイン



スペイン政府が二〇〇九年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/ESP/18-20. 2 November 2009.)によると、「アウシュヴィツの嘘」規定に関連して、二〇〇七年一一月七日、憲法裁判所は刑法第六〇七条二項の合憲性について判断した。

第二次大戦専門書店の店主が、ユダヤ人コミュニティに対する迫害とジェノサイドを繰り返し否定するドキュメンタリー・写真出版物を販売・頒布した事案である。二〇〇〇年のバルセロナ高等裁判所判決は、刑法第六〇七条二項を適用して、ジェノサイド犯罪を否定・正当化した観念を流布したことで書店主を有罪としたが、同条項の違憲性問題が提起されたため、憲法裁判所に持ち込まれた。憲法裁判所は、ジェノサイドの否定は意見や観念の単なる伝達であれば、その観念が忌わしく人間の尊厳に反するものであっても、犯罪に分類されることはないとした。従って、憲法裁判所は刑法第六〇七条二項第一文の「否定」条項は違憲であるとした。しかし、憲法裁判所は「正当化」とは犯罪実行を間接的に煽動し、皮膚の色、人種、国民的民族的出身によって定義される集団の憎悪を誘発する観念の公然たる流布であり、ジェノサイドの「正当化」はまさに犯罪であるとし、「正当化」条項は合憲であると判断した。

 報告書から判明することは、第一に、「アウシュヴィツの嘘」規定が、ドイツやフランスと同様に刑法典に規定されていることである。第二に、憲法裁判所は「否定」を犯罪として処罰することは違憲であるとし、「正当化」を犯罪として処罰することは合憲であるとした。第三に、その理由が、意見や観念の単なる伝達であるか、それとも犯罪実行を間接的に煽動し、皮膚の色、人種、国民的民族的出身によって定義される集団の憎悪を誘発する観念の公然たる流布であるかの差異に求められている。第四に、罪質・保護法益に関連して、人間の尊厳に反するか否かが問われ、単なる伝達は人間の尊厳に反するとしても犯罪とはならないと限定している。



6 ポルトガル



 ポルトガル政府が二〇一一年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/PRT/12-14.13 September 2011)によると、刑法第二四〇条が人種差別の禁止を定めているが、第二項に「アウシュヴィツの嘘」規定が含まれる。二〇〇七年九月四日に改正された刑法第二四〇条は、人種差別に動機を有する犯罪に、皮膚の色、民族、国民的出身、性別、性的志向などの形態の犯罪を追加した。



刑法第二四〇条「人種、宗教又は性的差別」第二項 公開集会、文書配布により、その他の形態のメディア・コミュニケーションにより、又は公開されるべく設定されたコンピュータ・システムによって、

a)人種、皮膚の色、民族的又は国民的出身、宗教、性別又は性的志向に基づいて、人又は集団に対して、暴力行為を促進した者、

b)人種、民族的又は国民的出身、宗教、性別又は性的志向に基づいて、特に戦争犯罪又は平和に対する罪及び人道に対する罪の否定を通じて、人又は集団を中傷又は侮辱した者、乃至は

c)人種的、宗教的又は性的差別を煽動又は鼓舞する意図をもって、人種、皮膚の色、民族的又は国民的出身、宗教、性別又は性的志向に基づいて、人又は集団を脅迫した者は、六月以上五年以下の刑事施設収容とする。



 刑法第二四〇条二項(b)が「アウシュヴィツの嘘」規定である。報告書から判明することは、第一に、ドイツやフランスなどと同様に、ポルトガルでも刑法典に規定されていることである。第二に、否定の対象が「特に戦争犯罪又は平和に対する罪及び人道に対する罪」とされていて、人道に対する罪に限定されず、他方、ジェノサイドには言及がない。第三に、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に限定されず、その他の戦争犯罪や人道に対する罪も含まれると読める。第四に、罪質・保護法益は明示されていないが、「人種、民族的又は国民的出身、宗教、性別又は性的志向に基づいて」及び「人又は集団を中傷又は侮辱した者」の語句から通常のヘイト・スピーチ規定と同様に考えられている。第五に、スペインでは「否定」処罰は違憲とされたが、ポルトガルでは「否定」が犯罪とされ、逆に「正当化」の語句がない。



7 スロヴァキア



 スロヴァキア政府が二〇〇九年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/SVK/6-8. 18 September 2009.)によると、刑法にはさまざまのヘイト・スピーチ規定がある。スロヴァキア新刑法は、人種的動機に基づく行為を犯罪化し、人種差別を宣伝・煽動する組織、又はその組織への参加を不法としている。刑法は、インターネットによって、人種、国民、民族集団への憎悪を煽動したり、中傷する情報を流布することを犯罪化している。ネオナチその他の運動への共感を公然と表明することだけではなく、ホロコーストを疑問視、否定、容認又は正当化することも犯罪化している。

 報告書から判明することは、第一に、ドイツ等と同様に刑法典に規定され、ヘイト・スピーチの一種とされていることである。第二に、ホロコーストを疑問視、否定、容認又は正当化することとされている。ホロコーストとあるので、ユダヤ人迫害に限られるのであろうか。「疑問視」に「歪曲」や「矮小化」が含まれるかどうかは判然としない。否定、容認等も犯罪とされている。



8 マケドニア



マケドニア政府が二〇〇六年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/MKD/7. 23 October 2006.)によると、刑法第四〇七(a)条「ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪の容認又は正当化」は、刑法第四〇三条~第四〇七条に規定された犯罪を、情報システムを通じて、公然と否定、ひどく矮小化、容認又は正当化した者は一年以上五年以下の刑事施設収容とされる。否定、矮小化、容認、正当化が、その国民、民族、人種的出身又は宗教ゆえに、人又は人の集団に対して憎悪、差別又は暴力を煽動する意図をもってなされた場合は、四年以上の刑事施設収容とされる。 

報告書から判明することは、第一に、各国と同様に刑法典に規定され、ヘイト・スピーチの一種とされていることであるが、刑法第四〇三条~第四〇七条に続いて規定されているので、戦争犯罪関連条項とのつながりも意識されている。第二に、否定の対象はジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪とされ、ユダヤ人迫害に限定されていない。社会主義政権時代の歴史はどのように位置づけられているのだろうか。第三に、実行行為は否定、矮小化、容認、正当化とされている。第四に、憎悪、差別又は暴力を煽動する意図をもってなされた場合は刑罰加重事由とされている。すなわち、否定、ひどく矮小化、容認又は正当化した者は一年以上五年以下の刑事施設収容であるのに対して、煽動する意図をもってなされた場合は、四年以上の刑事施設収容とされる。



9 ルーマニア



ルーマニア政府が二〇〇九年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/ROU/16-19. 22 June 2009.)によると、第一に差別の教唆がある。第二に、ファシズム・シンボル法として、二〇〇二年の緊急法律三一号は、ファシスト、人種主義者、外国人嫌悪の性質を持った組織とシンボル、平和に対する罪や人道に対する罪を犯した犯罪者を美化することを禁止した。二〇〇六年法律一〇七号と同年法律二七八号によって一部修正されている。この法律第二条(a)によると、ファシスト、人種主義者、外国人嫌悪の組織とは、三人以上によって形成された集団で、一時的であれ恒常的であれ、ファシスト、人種主義者、外国人嫌悪のイデオロギー、思想又は主義、民族的、人種的、宗教的に動機付けられた憎悪と暴力、ある人種の優越性や他の人種の劣等性、反セミティズム、外国人嫌悪の教唆、憲法秩序又は民主的制度を変更するための暴力の使用、過激なナショナリズムを促進するものである。

「アウシュヴィツの嘘」法として、ファシスト・シンボル法第六条によると、いかなる手段であれ、公の場で、ホロコースト、ジェノサイドあるいは人道に対する罪、又はその帰結を、疑問視し、否定し、容認し又は正当化することは、六月以上五年以下の刑事施設収容及び一定の権利停止又は罰金を課される。さらに、二〇〇六年法律一〇七号は、一九三三~四五年の時期のホロコーストの定義にロマ住民を含むことにした。それゆえホロコーストとは、国家によって支持された組織的迫害、ナチス・ドイツとその同盟者及び協力者によるヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅であり、第二次大戦時に国内に居住するロマ住民の一部が強制移動や絶滅の対象とされたことを含む。

二〇〇二年の緊急法律三一号第一二条と第一三条によると、平和に対する罪及び人道に対する罪を犯した犯罪者の像、彫像、記憶板(刻銘)を公共の場所に建てたり維持することを禁止している。同時に、平和に対する罪及び人道に対する罪を犯した犯罪者の名前を、通り、大通り、広場、市場、公園又はその他の公共の場所の名称につけることが禁止される。

 報告書から判明することは、第一に、刑法典ではなく、特別法に規定されていることである。第二に、対象は一九三三~四五年の時期のホロコーストを取り上げて、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅、及びロマ住民の強制移動や絶滅である。第三に、疑問視、否定、是認又は正当化である。第四に、刑罰は六月以上五年以下の刑事施設収容及び一定の権利停止又は罰金とされている。第五に、公共の場所に戦争犯罪者の名前を冠することが禁止されている。



10 アルバニア



 アルバニア政府が二〇一〇年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/ALB/5-8. 6 December 2010.)によると、二〇〇八年一一月二七日、刑法(一九九九年)改正が行われた。刑法第七四条はジェノサイドや人道に対する罪に好意的な文書をコンピュータ上で配布し、ジェノサイドや人道に対する罪にあたる行為(事実)を否定し、矮小化し、容認し又は正当化する文書をコンピュータ・システムを用いて、公然と提示し、又は配布した者は、三年以上六年以下の刑事施設収容とする。つまり、「アウシュヴィツの嘘」規定である。

 報告書から判明することは、第一に、刑法典に規定されていることである。第二に、否定対象はジェノサイドや人道に対する罪である。ユダヤ人迫害に限定されるのか、それともより一般的な規定なのかは不明である。第三に、コンピュータ上の犯罪を追加したことである。第四に、実行行為は、好意的な文書の配布、否定、矮小化、容認又は正当化である。第五に、刑罰は三年以上六年以下の刑事施設収容である。



11 イスラエル



 欧州ではないが、イスラエルも見ておこう。イスラエル政府が二〇〇五年に人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/471/Add.2. 1 September 2005.)によると、インターネットに関する事案として、検事局特別部は、人種的表現、暴力の煽動、人種的侮辱、ホロコーストの否定を掲載したネオナチ・ウェブサイトを開設した被告人を刑法第一四四条D二項及び第一四四条Bの暴力の煽動と人種主義の煽動で訴追し、二〇〇五年一月に有罪認定がなされたが、判決(量刑言渡し)はまだなされていなかった。

 刑法第一四四条Aは人種主義を煽動する意図を持った出版を行った者を五年以下の刑事施設収容としている。刑法第一四四条A~Eは人種主義を煽動する意図を持った出版や物の配布を、それが結果をもたらさなかった場合も、禁止している。刑法第一四四条D一項は、人種主義的動機なしに、人、人の自由や財産に対して犯罪を行った者を処罰するとしている。それには脅迫、強要、フーリガニズム、公共秩序犯などが含まれる。

 報告書から判明することは、「アウシュヴィツの嘘」の特別の定めがあるわけではなく、暴力の煽動と人種主義の煽動を定めた規定の解釈として「アウシュヴィツの嘘」処罰が可能と考えられている。「アウシュヴィツの嘘」が通常のヘイト・スピーチ処罰規定に含まれるということである。



三 欧州における歴史否定犯罪法の特徴



 網羅的に調査したわけではないので、同様の立法例や適用事例は他にもあると考えられる。オーストリアにも同様の規定があるとの情報もある。今後も調査を続けるが、ここでは以上の情報をまとめておこう。条文そのものが引用されている場合もあれば、その概要しか紹介されていないものもあるので、正確な比較は困難であるが、今後の研究のための手掛かりを提示しておきたい。

 以下では、加害と被害の関係、法形式、否定の対象、実行行為、刑罰について見て行こう。保護法益については次回に検討したい。



1 加害国側と被害国側



 まず加害国側に位置するか、被害国側に位置するかを見ておこう。というのも、これまでの研究ではドイツ法だけが紹介されてきた。このため、ユダヤ人迫害を行ったドイツが、反省と謝罪を示すことによって周辺国と和解し、欧州で生き残りをはかるために民衆煽動罪を制定したかのような誤解が語られてきた。そのことは同時にドイツの特殊性を想定させてきた。

 しかし、すでにみたように「アウシュヴィツの嘘」犯罪法は、ドイツに特殊な規定ではない。西欧、中欧、南欧、東欧に同種の法律を見ることができる。

 加害側に立ったドイツ、オーストリア、あるいはフランコ政権のスペインにこの種の法律がある。他方、被害側のフランスにも、さらには中立国だったスイスとリヒテンシュタインにも、加害と被害の双方を同時に経験した東欧諸国にも、同種の法律がある。ドイツが特殊な例であるとか、ドイツが欧州での生き残りのために選択したという説明にはまったく根拠がない。



2 法形式



 刑法典に規定しているのはドイツ、スペイン、ポルトガル、スロヴァキア、マケドニア、アルバニア、リヒテンシュタインである。他方、フランスとルーマニアは特別法である。なお、オーストリア、スイスは条文を確認できていないが、刑法典のようである。

 「アウシュヴィツの嘘」犯罪が刑法典に規定されているのは、それが殺人罪、傷害罪、窃盗罪、強盗罪、詐欺罪、放火罪、強姦罪などと同様に、基本犯罪だという認識があるからである。

 このことは「アウシュヴィツの嘘」犯罪だけでなく、ヘイト・スピーチ処罰法についてもいえることである。EU加盟国のすべてが何らかのヘイト・スピーチ処罰法を有しているが、その多数が刑法典に規定されている。ヘイト・スピーチ犯罪が基本犯罪であることが明瞭である。

日本での議論にはこうした基本認識が欠落しているために、本筋を見落した奇妙な議論に転落してしまう。ヘイト・スピーチ規制は特定の集団の保護のために特別法をつくるのではなく、特定の集団の保護になる場合もそれが当該社会にとって基本的な条件だから、基本法である刑法典に定めている。



3 否定の対象



 何を否定、正当化する発言が処罰対象とされているか。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害などを念頭に置いているのはドイツ、ルーマニアである。スロヴァキアもおそらく同様であろう。他方、ユダヤ人迫害に限らない人道に対する罪を対象とするのがフランス、スイス、ポルトガル、マケドニアである。アルメニアは不明である。

 もともとは、第二次大戦時における戦争犯罪や人道に対する罪、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害などが想定されていたであろう。

 しかし、東欧諸国の場合には、旧社会主義政権時代の犯罪を考慮する可能性もある。フランス法も、ユダヤ人迫害に限らず、国際刑事裁判の判決を否定することが対象とされており、例えば旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷が裁いた人道に対する罪も含まれる。スイス法では過去にさかのぼりアルメニア・ジェノサイドの否定も犯罪とされる。

 そのことが法律の条文にどのように明示されているのか。条文の解釈を支える社会意識、歴史意識などがどのように共有されているか。今後の研究課題である。



4 実行行為



 第一に、疑いを挟むこと、疑問視を犯罪とするのはフランス、スロヴァキア、ルーマニアである。第二に、否定がドイツ、スイス、リヒテンシュタイン、ポルトガル、スロヴァキア、マケドニア、ルーマニア、アルバニア。第三に、(ひどく)矮小化がドイツ、リヒテンシュタイン、マケドニア、アルバニア。第四に、容認(是認)がドイツ、スロヴァキア、マケドニア、ルーマニア、アルバニア。第五に、正当化がリヒテンシュタイン、スペイン、スロヴァキア、マケドニア、ルーマニア、アルバニア。第六に、好意的な文書の配布がアルバニア等である。

 スペインでは、否定を処罰することは違憲とされ、正当化の処罰だけが残った。しかし、否定を処罰する国は少なくない。この点は、それぞれの国家の憲法における表現の自由の規定様式や、解釈例によって左右されるかもしれない。

 日本におけるヘイト・スピーチ論議では、条文の具体的な検討を抜きに、ヘイト・スピーチの処罰自体が表現の自由に違反するとか、明確性の原則に違反すると断定する非常に乱暴な見解が見られるが、欧州諸国における憲法と刑罰規定の連関についてより詳細な研究を行った上での慎重な比較検討が必要である。



5 刑罰



 法定刑が判明しているのは、ドイツが五年以下の刑事施設収容、リヒテンシュタインが二年以下の刑事施設収容、ポルトガルが六月以上五年以下の刑事施設収容、マケドニアが一年以上五年以下の刑事施設収容(煽動する意図をもってなされた場合は、四年以上の刑事施設収容)、ルーマニアが六月以上五年以下の刑事施設収容及び一定の権利停止又は罰金、アルバニアが三年以上六年以下の刑事施設収容である。スイスの法定刑は不明だが、一五か月の刑事施設収容と八〇〇〇フランの罰金とした事案がある。

 ヘイト・スピーチも「アウシュヴィツの嘘」も基本犯罪であり、刑罰もそれなりに重いことがわかる。被害の程度、深刻性を検討し、保護法益を的確に判断すれば、法定刑の上限が五年以下の刑事施設収容とされている例が多いことの意味がよくわかるであろう。

Saturday, October 05, 2019

ヘイト・スピーチ研究文献(139)


山邨俊英「政党関係者によるヘイト・スピーチと表現の自由――Matteo Bonottiの議論を参考にして」『広島法学』第43巻1号(2019年)

目次

一 はじめに

二 政党関係者によるヘイト・スピーチは特別な保護に値するか

(一)   Bonottiの問題意識と基本的主張

(二)   Matteo Bonottiのヘイト・スピーチ規制論

三 日本の議論への示唆

(一)   主体の明確化の必要性

(二)   ヘイト・スピーチの特別な寄与への着目

(三)   責任追及の方法と対抗原論の有効性

四 結びに代えて


 ヘイト・スピ―カーが選挙に立候補し、選挙運動であることを口実にヘイトをまき散らす問題が生じてきた。東京都知事選から今年の総選挙まで、悪質なヘイト演説が行われてきた。選挙運動といえどもヘイトはヘイトであると法務省も認めているが、選挙運動におけるヘイトに対するカウンター行動は選挙妨害とされてしまう危険性がある。

こうした状況を前に、山邨は、モナシュ大学のBonottiの議論を紹介する。Bonottiは政治理論家で、政党関係者、特に当選した政党関係者と出馬中の政党関係者に限定したヘイト・スピーチを考察している。「彼の議論は特定の主体に限定したヘイト・スピーチ規制の問題を検討する世界でも数少ない研究」であるという。

論文の「二 政党関係者によるヘイト・スピーチは特別な保護に値するか」は、55ページにわたってBonottiの見解を詳細に紹介している。

「三 日本の議論への示唆」において、山邨は、Bonottiを参考にしながら日本の議論を一瞥する。

(一)      主体の明確化の必要性

 Bonottiは公人すべてではなく、当選した政党関係者等に絞って議論している。日本では論者によって公人、公務員、公職者、政治家など用語がさまざまである。議論が不明確になりがちだ。長谷部恭男は政治家の職にある人、国会議員、首相、首長をあげているという。師岡康子は憲法99条の憲法尊重擁護義務に関連して公務員を指しているという。

山邨は「主体を限定するならば、『公人』のような抽象的な類型に留まるのではなく、より具体的な職務に着目し、その役割や職責を検討していく必要がある」という。

(二)      ヘイト・スピーチの特別な寄与への着目

 Bonottiは、特別な義務だけでなく特別な寄与に着目している。政党の拡声器機能のために害悪が増幅する面があるが、他方、政党関係者による言論が政治的正当性に特別の寄与をするという。

山邨は、日本の議論は公人のヘイト・スピーチの規制の正当化に向けられているため、言論の要保護性を高める側面への注目が薄いという。日本では、ヘイト・スピーチがそもそも犯罪とされていないため、影響力の大きい公人のヘイト・スピーチを犯罪化できないかという文脈で議論がなされるためだ。 

(三)      責任追及の方法と対抗原論の有効性

 Bonottiは、主体を限定することによって責任追及のルートが確保される議論をしている。政党関係者の発言は、大きい影響力を有するが、より大きな社会的審査を受けている。

山邨は、公人のヘイトには対抗原論が働きやすいと見ているようだ。


以上のように山邨論文は非常に興味深い内容である。Bonottiの議論の紹介部分は再度読み直してみようと思う。

都知事選から総選挙に至る過程で、私たちも選挙運動とヘイト、政治キャンペーンとヘイトについて議論してきた。人種差別撤廃委員会に提出された各国政府の報告書においても、政治家の発言や政治キャンペーンの発言がヘイトとして処罰された事例が数は少ないが紹介されている。私の『序説』『原論』でも紹介した。

もっとも、私は、山邨のように主体の類型化をあまり考えてこなかった。私は「ヘイト・スピーチ法の類型論」を唱えて、実行行為については、行為類型、手段・方法、犯罪動機(保護の対象)、④特殊な「アウシュビツの嘘」、⑤刑罰について検討してきた。行為類型に焦点を当て、行為者類型には焦点を当てていない。ヘイト・スピーチを身分犯として構成することも考えてこなかった。

ヘイト・スピーチ処罰のための要件論を初めて提示した国連人権高等弁務官事務所等による「ラバト行動計画」(2013年)は、文脈、発言者、意図、内容と形式、言語行為の範囲、結果の蓋然性を掲げている。

の発言者では、「発言者の社会における位置や地位、とくにその発言が向けられた聴衆をとりまく状況におけるその個人ないし組織の立場が、考慮されるべきである」とされている。

ただし、主体の類型化という問題関心ではない。というのも、の文脈も、④内容と形式、⑤言語行為の範囲、⑥結果の蓋然性も、すべて主体の立場や位置に関連するからだ。

川崎市条例素案における罰則規定も、公人・私人の区別はしていない。

日本では、ヘイト・スピーチがそもそも犯罪とされていないため、影響力の大きい公人のヘイト・スピーチに限って犯罪化できないかという問題関心はよく理解できる。人種差別撤廃条約第4条(c)をもとに、公人によるヘイト・スピーチの規制を理論的に検討する必要があるかもしれない。山邨論文はこのテーマを理論的にリードする論文であり、大いに参考になる。