Saturday, April 29, 2017

平和への権利宣言解説

飯島滋明「『平和への権利宣言』国連総会採択と『市民』」『月刊社会民主』744号(2017年)
前田 朗「平和への権利が国際法になった――国連総会で平和への権利宣言採択(上)」『法と民主主義』517号(2017年)
前田 朗「平和への権利国連宣言を活用するために」『友和』704号(2017年)
昨年12月に国連総会で採択された平和への権利宣言は、スペイン、スイス、イタリア、日本などのNGOが協力し、政府ではキューバやコスタリカを中心に第三世界諸国が推進してできた。日本からは、平和への権利国際キャンペーン・日本実行委員会が内外で宣伝活動を行ってきた。上記2本は国連人権理事会でのロビー活動を行ってきた法学者による報告である。
飯島論文は5ページにわたって、経過や宣言の意義を解説している。特に日本における安保法制違憲訴訟において平和への権利宣言をいかに活用するかという観点で書かれている。
前田論文はいずれも2ぺージと短いが、『法と民主主義』では宣言案作成段階までを扱っている。『友和』では宣言採択後の本年3月の国連人権理事会におけるNGOの動きも紹介している。

「テロ等準備罪」にだまされないために

足立昌勝『「テロ等準備罪」にだまされるな!』(三一書房)
国民的批判を浴びて廃案となった共謀罪法案が「計画罪」「テロ等準備罪」とレッテル詐欺で再登場し、国会審議がヤマ場を迎えている。レッテル詐欺は安倍首相の十八番だが、法務官僚も負けない。背後の警察官僚は高笑いしている。共謀罪の思想との闘いのために必読書である。
著者は刑事法学者で、関東学院大学名誉教授。近代刑法史研究の第一人者であるとともに、治安法批判の先頭に立ってきた。現在は救援連絡センター代表でもある。
目  次
第一部 「共謀罪」から「計画罪」・「準備罪」へ
1 「計画罪」の登場
(1) 国会での答弁
(2) 唐突的な新聞記事
(3)パリ連続爆破事件を受けた新聞の反応
(4)国連の名による抵抗の抑圧
2 「共謀罪」の本質~刑法を変質させる共謀罪~
3 2006年法務委員会での攻防
(1) 趣旨説明の強行
(2) 与党修正案批判
(3) 与党再修正案批判
(4) 与党再々修正案批判
(5)与党最終修正案批判
(6) 国会での審議
(7)今一度考えよう。「共謀罪の本質」を!
(8) 民主党修正案批判
4 テロ等謀議罪批判
(1)はじめに
(2)「修正案要綱骨子(素案)」の内容と批判的検討
(3)むすび
5 「共謀罪」改め「計画罪」
(1)「計画罪」の登場
(2)「計画罪」の登場
(3)「計画罪」の概要
(4)共謀罪に対する批判への対応
(5)「計画罪」と盗聴法の改悪
(6)テロ等準備罪と共謀罪
(7)テロ等準備罪の新設
(8) 計画罪の登場した背景
第二部 跨国組織犯罪防止条約と共謀罪
1 跨国組織犯罪防止条約と共謀罪
(1)跨国組織犯罪条約と日本政府
(2) 共謀罪法案の本質
(2)ガイドラインとの関連
3 一国主義と世界法主義
4 むすび
資料編 「共謀罪」をめぐって国会・委員会に提出された組織的犯罪処罰法の改
正法

Friday, April 28, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(98) 『国際人権ひろば』133号

『国際人権ひろば』133号(2017年)
阿久澤麻理子「オンライン・ヘイトスピーチ」
ユネスコの研究をもとに、オンライン・ヘイトスピーチの特徴(「継続性」「巡回性」「一国の法律で対応が難しい」「匿名性」)を指摘し、国際人権法が法規制を求めているが、有効な対応が困難な現状を示す。ネット上の規制を企業に委ねると法的手続きを踏まずに企業が独走する危険性もあるので、国、企業、市民の役割を明確にする必要があるという。
イ・ジュヨン「韓国におけるヘイトスピーチの実態――国家人権委員会による初の実態調査より」
17年2月19日に公表された韓国国家人権委員会の「ヘイトスピーチ(嫌悪表現)の実態と規制法策の実態調査」の紹介・検討である。特に女性、性的マイノリティ、障害者、外国人または移住者集団に対する差別煽動が行われているという。規制については、差別禁止・是正する機関による規制やプロバイダー業者による規制を求める意見が多い。「ヘイトスピーチの犯罪化を支持した回答者が、最も少なかったが、それでも回答者の60%以上であった」という。著者は「ヘイトスピーチは国際人権法に沿って法律によって禁止されなければならない」とし、「第一歩として、包括的な差別禁止法を制定し、ヘイトスピーチに関する規定を入れることが考えられる」という。
佐藤潤一「ヘイトスピーチ規制の法的問題点――憲法と国際人権法の視点から」
ヘイトスピーチ解消法について歴史的視点の欠如を指摘し、「憲法21条を理由として、人種差別撤廃条約4条の適用を拒否し、そのことを、弁護士、裁判官等実務家も、憲法学者も、やむを得ないものとして受け入れてきたことが現在の状況を助長したといえよう」と厳しく批判し、4条の留保を撤回するべきだという。
「憲法21条が重要であるということは、ヘイトスピーチ被害者の人格権侵害を容認することを意味するのであろうか。ヘイトスピーチ規制が刑事罰として許されないという憲法解釈をするとすれば、むしろ現行の刑法規定にあるわいせつ物頒布罪、名誉毀損罪、侮辱罪等は全て憲法違反ということにならないであろうか。はっきりと名指しで行われる名誉毀損や侮辱罪は、むしろヘイトスピーチよりも対抗言論での問題解消が容易であろうし、わいせつ物頒布の禁止に至っては、ゾーニング規制が世界的な趨勢であることとつじつまが合わない。表現の自由を制約する刑事規制をすべて憲法21条違反とする極端にラディカルな立場に立たない限り、マイノリティの人格権侵害が認定される場合にはかかる行為をヘイトクライムとして立法化することが必須であると解される。確かに構成要件の厳格化が必要ではあるが、名誉毀損、侮辱については、すくなくともヘイトスピーチ解消法の定義に該当するマイノリティに対して拡大することなくして、問題が解消するとは思われない。」
重要な指摘である。私もほぼ同じことを主張してきたが、「はっきりと名指しで行われる名誉毀損や侮辱罪は、むしろヘイトスピーチよりも対抗言論での問題解消が容易であろう」という主張は考えていなかった。今後、採用させてもらおう。

Wednesday, April 26, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(97)部落差別解消推進法について

北川真児「『部落差別解消推進法』の意義と今後の課題」『コリアNGOセンター』45号(2017年)

著者は部落解放同盟兵庫県連合会事務長。2016年12月9日に成立し、16日に公布・施行された「部落差別の解消の推進に関する法律」の意義を解説するために、1965年の同和対策審議会答申、1969年の「同和対策事業特別措置法」、2002年の同法失効の歴史を確認し、2002年の人権擁護法案の廃案、2012年の人権委員会設置法案の廃案などを追いかける。
さらに、解消推進法の立法事実として、鳥取ループ・示現舎による新たな「部落地名総鑑」事件、大阪・兵庫での連続差別投書事件を検討する。
その上で、解消推進法が「憲政史上初めて『部落差別』という用語が使われ」、理念法として制定された意義を確認する。
障害者差別、ヘイト・スピーチ、部落差別に関する法律が相次いだが、包括的な差別禁止法となっていないなどの限界を指摘しつつ、成立した法の活用方法を検討する。






Sunday, April 09, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(96)「事前抑制」とは何か

山邨俊英「反復的に行われるヘイト・スピーチに対する将来に向けての規制は『事前抑制』か?――Clay Calvertの議論を素材として」『広島法学』40巻4号(2017年)
16年6月2日の横浜地裁川崎支部決定は、ヘイト集団によるヘイト・デモ計画に対して、デモ禁止仮処分の申立てを受けて、制定されたばかり(施行されていない)ヘイト・スピーチ解消法の趣旨も踏まえて、デモ禁止仮処分決定を下した。デモ禁止仮処分は、先に京都朝鮮学校事件で京都地裁がすでに出していたので、新しい問題ではないにもかかわらず、メディアや憲法学者はこれを大問題であるかのごとく大騒ぎした。表現の自由に対する事前規制派憲法が禁止する検閲に当たり、許されないとされるからである。川崎地裁決定は、被害を受ける者が平穏に生活する権利を侵害されることなどをもとに仮処分を認めたので、その法理をめぐって議論がなされることになった。
山邨は、「反復的に行われるヘイト・スピーチに対する将来に向けての規制は『事前抑制』か?」という表題にある通り、ヘイトが反復される場合、将来に向けての規制を単純に「事前抑制」と言ってよいのかという問題意識に出発している。「過去の表現行為に対する否定的評価を根拠に将来の表現行為を規制することが憲法上そもそも許容され得るのか」という問題である。
そこで山邨は、Clay Calvertの議論を紹介する。Calvertは、ヘイト・スピーチではなく、インフォマーシャル放送において、莫大な消費者被害を引き起こす詐欺的なテレビ放送を繰り返した者に対して、再びインフォマーシャル放送を行いたいのであれば、事前に200万ドルのパフォーマンス保証を払うよう求めた事案について検討している。そこにおいて事前抑制と事後処罰の関係が問われた。この課金は「事前抑制と事後処罰との区別を相対化し、思想の自由市場へのアクセスの不平等を促進し、そしてそのような規制手法は本質的に内容規制であるため常に厳格審査に服するべきである」という。
山邨は、Calvertの議論をヘイト・スピーチに応用しようとする。デモ禁止仮処分や、ヘイト団体の公共施設利用問題と同じ性格を有しているからである。そして、山邨は、「Calvertの議論及び本稿の主題である問題の性質を考慮すると、事前抑制と事後処罰の区別を所与の前提とする考え方には再考の余地があるのではないだろうか」という興味深い主張を提示する。
ヘイト・デモや公共施設利用問題では、私は、事前規制かどうかよりも、「政府が人種差別に加担してよいのかどうか」こそが主題であると指摘してきた。これに対して応答した憲法学者はまだいない。あくまでも「事前規制かどうか」にこだわっている。
しかし、京都地裁決定、さらには山形県や門真市の公共施設利用拒否によって、大きな前進が見られた。
ところが、大阪市審議会が、事前規制は許されないという結論を、ほとんど理由も示さずに提示し、これが猛威を振るうことになった。政府はヘイト団体に協力しなければならないという滅茶苦茶な議論である。
その後、私は、
(1)事前規制が許される場合があり、ヘイトはその例である、
(2)ヘイトの公共施設利用に関する最高裁判例はない。それがあるかのように描き出した大阪審議会の主張は不適切である、
(3)現に起きているヘイト・デモの規制は事前規制ではなく、事後規制である、
と主張してきた。私を支持する憲法学者や弁護士はまだいない。
ところが、16年12月に公表された川崎市協議会の報告書は、ここでいう事前規制についてその的確な実施を要請した。見事な報告書である。私と共通する見解だ。
山邨論文は、上記(1)と(3)に関連して、私とは異なる視点から問題解決を提示しようとしているので、とても参考になる。「事前規制」とは何かをめぐる研究が始まった。
なお、山邨は、思想の自由市場論や内容規制・内容中立規制論を前提として、その次の議論をしようとしている。この点も有益だ。
私は、思想の自由市場論や内容規制・内容中立規制論は日本国憲法と関係がなく、社会科学とも縁がなく、理論的に破綻しているから、学問的意味がないと考えているが。

Friday, April 07, 2017

仲宗根勇・仲里効編『沖縄思想のラディックス』

仲宗根勇・仲里効編『沖縄思想のラディックス』(未来社、2017年)
<「季刊 未来」にリレー連載《オキナワをめぐる思想のラディックスを問う》として掲載された沖縄の現在的諸問題をめぐる論考をベースに、米軍基地問題でますます緊迫する沖縄の政治情勢のなかで、現代沖縄の代表的論客たちが沖縄の歴史、政治、思想を縦貫する独自の沖縄論を展開する。翁長県知事体制の確立から現在の変節にいたるまで、ドラマチックなまでのリアル・ポリティクスを根底にすえ、ブレることのない沖縄の現状を思想的にえぐり出し、これからの沖縄のあるべき姿を遠望するラディカル・メッセージ。今後の沖縄を考えていくうえで避けて通ることのできない理論と実践のための画期的なオキナワン・プログラム。>
1932年生まれの川満信一から1967年生まれの宮平真弥、1968年生まれの桃原一彦まで、世代の異なる6人の論者による、沖縄発の闘うメッセージである。編者2ひとはそれぞれ未来社から著書を出してきた。桃原一彦も、知念ウシらと共著を2冊出している。
6人の論者はそれぞれ見解が異なるようだが、基本線では状況認識と闘いの課題を共有している。
八重洋一郎「南西諸島防衛構想とは何か 辺境から見た安倍政権の生態」では日本政治の欺瞞が批判の俎上に載せられる。沖縄の論者にとっては、何度言ったらわかるのか、いい加減こういう批判をしなくても良い時代にしたいとの思いが強いだろう。それでもなお力を込めて徹底批判しなくてはならない。桃原一彦「『沖縄/大和』という境界 沖縄から日本への問いかけ」も、宮平真弥「ヘイトスピーチ解消法と沖縄人差別」も、大和が連綿と行使してきた植民地主義と差別の諸相をたどり直し、解決の手掛かりを求める。仲宗根勇の3本の論考「島の政治的宴(うたげ)のあとで 沖縄・二〇一四年知事選後の新たな政治主体:「沖縄党」生成の可能性」「沖縄・辺野古 新しい民衆運動」「沖縄・全基地撤去へ渦巻く女性殺人等遺体遺棄事件の波動 辺野古新基地問題=裁判上の『和解』後の闘い」も、軍事的抑圧と政治的差別と蔑視の総体を跳ね返すべく、思想を紡ぎ続ける。
いまや日本政府だけではなく、日本社会も確信的沖縄差別と基地押しつけを恥じらうことなく推進しつつある。メディアにおける「沖縄ヘイト」はその主要な特徴と言えるだろう。植民地主義を反省したことのない「日本」がむき出しの暴力と差別に出ている。この腐敗をどのように乗り越えていくのか。植民地主義者でありたくない者は本書の提起を真剣に受け止め、応答しなくてはならない。




大江健三郎を読み直す(79)まだ生まれて来ない者たちに

大江健三郎『取り替え子 (チェンジリング)』(講談社文庫、2004年[講談社、2000年])
若干の中断の後に久しぶりに公刊された長編小説『宙返り』の翌年に、つまり大江にしては珍しく立て続けに公刊されたのが本書である。しかも、義兄にあたる俳優・映画監督伊丹十三の自殺を契機に書かれた作品であることから、「モデル小説」として大きな話題になった。長年にわたって息子・光を中心に、家族をモチーフにした作品を送り出してきた大江だが、伝統的な意味での私小説や「モデル小説」ではない。本書も「モデル小説」というわけではない。伊丹十三の自殺の真相や深層、それ以前の人生のあれこれを描いた作品ではない。大江流のデフォルメ、換骨奪胎、想像力により、映画監督の吾良と作家の古義人の青春を舞台に、戦後の四国の森の中でおきた事件を描き出し、それによって戦後日本史を問う作品である。
もっとも、前半は、吾良の死にうつ状態となった古義人の暗鬱な精神状態、吾良が残したカセットテープを聞く日々、妻(吾良の妹)との対話が描かれ、そしてドイツに出かけてからの様子が続き、読者はかなり待ちぼうけをくらわされることになる。古くからの大江の読者にはこれで良いだろうが、新しい読者には冗長な作品と映るだろう。
文芸評論家の高原英理は、第六章までと終章の趣の違いに触れ、「この終章こそが独立した短編であって、序章から第六章までの七章分はいずれもこの短編を成立させるための長い参照部あるいは注釈ではなかったかということだ。語ろうとして語れない、いや、しようとするならいくらでも他者の興味に応え満足ゆくように語れそうなのに、実際に語りだせば『了解』という帰結からどこまでも遠ざかってしまう感触をどうにか伝えるべき必要が、センダックの絵物語によって呼び起こされた、これはそうした小説ではないか。」という(『早稲田文学』6号)。
取り替え子というタイトルは、死者に対する思いから再生へと向かうに至る大江の主題に即して、まだ生まれて来ない者たちへの新生の希望を表している。