Wednesday, March 22, 2017

グルベンキアン美術館散歩

 リスボンはほとんど初夏の暖かさだ。街中を歩く若者たちはTシャツとパンツだ。坂の多い町なので上り下りで歩くと汗をかく。なるべく歩かずに路面電車とバスを利用する。24時間有効の地下鉄等チケットを買ったので便利だ。
グルベンキアン美術館は、リスボンの中心部、地下鉄サンセバスチャン駅からすぐだ。グルベンキアン財団の敷地にグルベンキアン美術館と現代美術館があるが、今回はグルベンキアン美術館だけにした。ベルナ通りから美術館の玄関に向かう。10時開館の15分前に、すでに10数人の客が待っていた。
グルベンキアンはアルメニア人の富豪だそうで、晩年はリスボンに住んだ。古代エジプト、ギリシア、ローマからアラビア、東アジアの古物、装飾品、貨幣、絨毯、家具、工芸品などを収集し、近代絵画や彫刻も集めた。亡くなった後に財団が作られ、そして2つの美術館が作られた。
常設展は、エジプトの食器、人物像、猫の像、レリーフ、マスク。同様に、ギリシア、メソポタミア、イスラム、アルメニア、極東、近世西欧、近代西欧と続く。極東では中国の陶器と、日本の漆器が中心。近世・近代西欧の家具、調度品、銀器もなかなか。よくこんなものまでと思うくらい、膨大な品々だ。雑多に見えるし、次から次へと買い漁ったのかと思ったが、古物専門家の助言をえながら蒐集したのだという。
近代絵画・彫刻では、ルーベンス、レンブラントなどフランドル派、マネ、モネなど印象派、そしてロダン。ターナーもあった。ルーベンスのヘレナ・フォーメント像、フラゴナールの愛の島、マネのシャボン玉、モネの氷解、ルノアールのモネ夫人、ドガの自画像、ロダンのカレー市民、ウードンのダイアナ、バーン・ジョーンズのヴィーナスが見どころ。
売店には立派なカタログが置いてあったが高価だし重いので、小さなガイドブックだけ買った。時間がなかったので2時間ほどでざっと見ただけだが、次回は現代美術館の方にも行ってみたいものだ。
FAVI, Assenblage de Cepages Rouges, AOC Valais Sion, 2015.

大江健三郎を読み直す(78)敵意を滅ぼし、和解をもたらすために

大江健三郎『「新しい人」の方へ』(朝日文庫、2007年[朝日新聞社、2003年]
前著『自分の木の下で』と同様に若い人々向けに書かれたエッセイ。大江ゆかりのイラスト付きも同じ。前著は中学生くらいが対象に想定されていたが、本書は高校生やその母親を想定するようになっている。
自分の子ども時代の思い出、自分の子どもたちの言葉や振る舞いなどをもとに、手がかりに、家族の在り方、人生の習慣、読書の方法などを様々に語る。
「意地悪のエネルギー」では、ヴァルネラブルという言葉の使い方を間違えると、いじめられる側に原因があるかのごとく考えられてしまうことを指摘している。
「ウソをつかない方法」では、ウソをつかない人という承認を得る価値を確認しつつ、ウソつきと言われた子ども時代を振り返り、ウソをつかない力について考える。当然のことながら、作家はウソつきの天才でなければならないが、政治家のようにウソをついてはならない立場の人間こそウソをつく問題をどう考えるか。
「本をゆっくり読む法」では、速読術のたぐいに疑問を呈しつつ、「ゆっくり読むこと、それが本当に本を読む方法です」という。そのためにゆっくり読むことのできる力を鍛えなくてはならない。なるほど、ゆっくり読むことは大切だ。重要な本ほどゆっくり読むべきだ。読み飛ばしてよい本はどんどん読み進めばいい。
タイトルにもなっている「新しい人」について、子どもたち、若い人たちに「新しい人」になってもらいたい、という。パウロの手紙における「新しい人」、本当の和解をもたらす人――一例としてエドワード・サイードがあげられる。この危機の時代に、敵意を滅ぼし、和解をもたらす「新しい人」をめざすこと、「新しい人」として生きること、大江自身にはできなかった希望を若い人に託すという形になっている。

縮小か縮充か、それが問題だ

山崎亮『縮充する日本――「参加」が創りだす人口減少社会の希望』(PHP新書)
日本の人口は減り始めた。2050年には3分の2の8000万人、2100年には3000~4000万人と予測されている。普通に考えて、放っておけばこの社会は崩壊するしかない。日本だけが勝手に崩壊するのなら、まだしも、この国の自爆テロ国家の歴史から言って、周辺諸国にあらん限りの迷惑行為を重ねて自爆する恐れがあるので、放置しておくわけにはいかない。この期に及んで、なお経済成長をめざすおバカな政権と国民の自爆路線ではやっていけない。
著者は、人口減少に手をこまねいているのではなく、コミュニティデザインの知見から、さまざまな工夫を凝らして、社会の安定した縮充をはかり、ソフトランディングさせるための英知を結集することを呼びかける。人口や税収が減少しながらも地域の営みや住民の生活が充実したものになるようなしくみをつくり出すことである。それを「縮充」と呼ぶ。
本書が取り上げるのは「まちづくり」「政治・行政」「環境」「情報」「商業」「芸術」「医療・福祉」「教育」の8分野。それぞれの分野ですでに行われている「参加」の試みを紹介し、なぜ参加が重要なのか、どのような成果を生み出せるのか、を考える。
「まちづくり」では、1960年代の名古屋市栄東の再開発問題への市民の取り組みに始まり、山形県飯豊町椿地区、世田谷のまちづくりセンター、徳島県神山町、阪神淡路大震災時のボランティアなどを紹介しながら、上からのまちづくりではなく、住民の参加、協働によるまちづくりの意義がますます大きくなるという。
8分野それぞれで起きている参加の意味、形態、成果はまったく違うが、共通しているのは、今や、そして今後、上からの行政ではなく、下からの参加、楽しい参加、やりがいのある参加こそが中軸になって、社会の在り方も活性化し、地域の暮らしや意識を大きく変えていかないと、将来展望は開けないことだ。
本書に疑問を指摘することは容易である。取り上げられている事例は成功例にすぎず、多くの失敗例があるのではないか。成功例にしても、ごく小規模の短期限定の成功ではないか。こうした批判は、著者は織り込み済みである。たしかに小さな限定的な意味を持った事例を挙げているが、そうした事例の一つが素晴らしいとか、それがどこにでも当てはまるというのではない。著者は、コミュニティデザインの思考を掲げ、あらゆる分野で多彩な取り組みを行い、参加の文化をつくり出すことに重点を置いている。
気になるのは、2050年の8000万人という場合、その年齢別人口構成はどうなっているのだろうか。団塊の世代が去った後に、どのような社会が出来上がっているのか。人口、税収、エネルギー、食糧等の基本情報の分析は必要ないのだろうか。

Tuesday, March 21, 2017

最新の総合的な科学史入門

松井孝典『文明は〈見えない世界〉がつくる』(岩波新書)
上のサイトには「われわれは何者になるのか?」と書かれているが、「に」と「る」は余計だ。本書はしがきでも本文でも結びにかえてでも「われわれは何者なのか?」という問いを何度も何度も繰り返しているのに。自社の本の紹介で、どうしてこんな間違いをするのか。粗忽な出版社だ。
科学史入門書はたくさん読んだ。科学が発展するにつれ、入門は何度も書き直されていく。本書前半、アインシュタインの登場までは、どの入門書でも同じ歴史をたどるが、本書後半の現代科学の部分は、現在史でもあり、多様な書かれ方になるだろう。
本書の特徴は、第1に、総合性だろう。天文学、物理学、磁気学、熱力学、生物学をはじめ、地球環境、宇宙論、素粒子論のいたるところに筆を伸ばして、見事に総合的に記述している。
第2に、数式を用いないことである。優れた科学史入門は、どうしても数式で説明することが多くなる。本書は数式に頼らず、文章でていねいに説明している。
第3に、内容面では、<見えない世界>と<見える世界>の関係という視座から全体を見渡す手法に特徴がある。見えない世界が見える世界をどのように規定しているのか。古代ギリシア、ローマ時代、あるいはアラビア、そして近代西欧における科学の発展を見えない世界への挑戦として把握し、読者をたくみに引き込んでいく。
最後の宇宙原理と人間原理の部分は、わかったようで、わからないところもある。素人にはついていけないところもある。しかし、現代科学史をこれだけコンパクトに個性的に描き出しているのは、さすが、と思う。



Monday, March 20, 2017

パウル・クレー・センター散歩


センターには10年間通い続けている。9000点を超えるクレーの作品のうち4000点以上を所蔵しているため、毎年次から次へと企画展を実施しているので、見ごたえがある。
この春の企画は2つ。
第1のホールでは「パウル・クレーとシュルレアリストたち」
宣伝パンフの表紙はキリコのアポリネール。マックス・エルンストやジョアン・ミロの活躍に加えて、ルイ・アラゴンとポール・エリュアールの登場、そしてハンス・アープ、アルベルト・ジャコメティ、アンドレ・マッソン、ルネ・マグリット、ピカソ、ダリへ。彼らとクレーの出会いや、対話を紹介しながら、それぞれの作品を展示している。シュルレアリズムの歴史に沿って、主要な作家たちとクレーの交錯を取り上げている。他にもバタイユ、ブルトン、ツラをはじめ、すごい名前がずらり。そして、彼らの言葉がふんだんに引用される。
宮下誠『パウル・クレーとシュルレアリズム』(水声社、2008年)を思い出す。シュルレアリズムとの関係と、バウハウスにおけるクレーの双方を射程に入れた研究だ。センターでは分厚いカタログ『パウル・クレーとシュルレアリストたち』を販売していたが、ドイツ語とフランス語のみ。執筆者のなかにOsamu Okuda学芸員の名前があるのは当然。クレー研究と言えば、前田富士男、宮下、奥田ということになるだろう。
第2のホールでは「パウル・クレー――詩人と思想家」
画家や教育者としてのクレーは有名だが、さらに詩人や思想家という視点でも取り上げている。まずは初期の日記における結晶論、そして目――見る者としての私、あるいはサインとシンボル論。次には読書――「私は見て、見て、読んで、読むんだ。」「ゲーテは哲学者ではなく芸術家であり、前時代を通じて最大の芸術家なのだ」。クレーの蔵書も多数展示されていた。ゲーテはもとより、西欧の著名詩人の著作が多数並ぶ。
帰りに隣の墓地のクレーのお墓に墓参り。
Noir Divin, Domaine du Paradis, Satigny Geneve, 2014.

Sunday, March 19, 2017

大江健三郎を読み直す(77)「新しい人」はいかにして可能か

大江健三郎『宙返り(下)』(講談社文庫、2002年[講談社、1999年])
上巻では、宙返りのために地獄降りをした元教組が師匠(パトロン)として「復活」し、あらたな補助者たちと四国の森の中の来るべき根拠地へ向かうところまでだった。下巻では、新たな根拠地での魂のこと、生産と生活の再開、社会へのメッセージの話が中心になる。
「新しい教会」づくりに向かうパトロン、主人公格の木津、急進派だった古賀医師と技師団、静かな女たち、そして、新たに加わった荻青年、育雄、ダンサー。さらには、四国の森の中の、かつての「燃え上がる緑の木」の登場人物たち、受け入れ側の地元の人々や、「童子の蛍」のギー少年。それぞれの登場人物の過去と現在が何度も繰り返し、交錯しながら語られ、物語が一つの大きな流れとなっていく。
大江のこれまでの作品と比較しても、登場人物の造形を綿密にしているというか、かなり横道にそれているのではないか、無駄な話に頁を費やしているのではないかという印象を否定できないまま読み進めることになる。必ずしも無駄ではないのだが、剪定は可能だろう。
焦点の「宙返り」と「新しい教会」への道行は、パトロン、技師団、静かな女たちの思惑が火花を散らしながら、思いがけない方向に伸展する。木津、育雄、荻青年、ダンサー、ギーという人格の登場により「宙返り」の意味や「新しい教会」の在り方にも変容が不可避だったからだろう。
物語のピークは、ドタバタと哄笑の果ての悲劇として提示される。『小説の方法』以来の大江文学論の実作の集大成として受け止めることができる。そして、『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『M/T』『燃え上がる緑の木』がすべて挑戦とその失敗、「根拠地」の崩壊に立ち至ったのに対して、本作品では、パトロンから次へとバトンが渡されることになる。主人公格の木津は癌で亡くなるが、荻青年、育雄、ダンサー、そしてギーたちが未来の新しい教会の可能性に向けて次の歩みを進める。破綻と転落を繰り返してきた大江の再生と救済の物語は、ここに来て、宙返りの果ての宙返りによる再生の紡ぎ直しの途を開いた。
それにしても、パトロンの説教の最後が「カラマーゾフ万歳!」だったのには、半分納得しつつ、半分違和感も残る。『カラマーゾフの兄弟』から120年目の「カラマーゾフ万歳!」。
「最後の小説」を唱えていた時期の最後に当たり、「最後の小説」ではなくなった本作品で、たしかに大江はドストエフスキーと同様に「世界文学」の一角に根拠地を築いた。「世界文学は可能か」は、大江が日本文学に課した課題でもあったから、自ら課題を乗り越えたということだったろうか。
文体の問題は、まだ残るかもしれない。初期作品は別として、大江山脈の主要作品は、いずれも「僕」等の一人称の語りで会った。これに対して、本作品は物語の外部にいる作家が三人称で語り続けている。
(四国の森の奥が舞台となったり、いつもの登場人物が見られはするが、これまでのように大江をモデルにした男性作家や、息子・光をモデルにした人物は登場しない。木津の一部には大江的な面がないではないが、明らかに異なる人物設定である。森生も、天才的な音楽の才能と障害を持つという点では、光の影響があるが、やはり別の人格として設定されている。何しろ、木津も森生も作品の中で死を与えられている。)
とはいえ、別の場所で、大江自身は、ずっとスタイルを変え続けてきたと自評している。本作品で急に転換したとは自己認識していない。たしかに、『治療塔』『治療塔惑星』『キルプの軍団』において多彩な試みをしてきたので、文体の問題として本書が急に転換を示したものとは言えないのかもしれない。

Friday, March 17, 2017

国連人権理事会において福島原発事故に関連して発言

ジュネーヴの国連欧州本部で開催されている国連人権理事会34会期において、17日、議題5「人権機関・メカニズム」の一般討論で、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)が福島原発事故に関連して発言しました。
発言要旨:
「人権、民主主義、法の支配に関するフォーラム第1回報告書」(A/HRC/34/46)を歓迎する。フォーラムは2016年11月にジュネーヴで「民主的空間を拡大する――公的な意思決定における青年の役割」というテーマで開催された。報告書は公共の事柄への青年の参加を強化する重要性を指摘する。青年が権利を行使し、公的な意思決定に参加するのを妨げている事情を考慮する必要がある。とりわけ災害後の青年の人権保障が重要である。この点に関して、福島における青年の人権状況について紹介したい。6年前、福島第一原発のメルトダウンのため避難した数万人の人々は、放射能の影響があるにもかかわらず、故郷に帰るように言われてきた。メルトダウンから逃げた人々の多くは母親や子どもたちである。政府には人権保障の責任があるのに、政府は放射能被曝の健康への影響を過小評価している。福島の青年たちは事故や放射能の影響に関する情報を政府から与えられていない。青年たちは将来に関する決定の機会を与えられていない。青年たちは故郷をいかに再建するかも認められていない。適切な法的枠組みを作り、青年を権利の担い手として認めることが重要である。

Chateau du Crest, Jussy-Geneve,2015.