Tuesday, September 18, 2018

アフガニスタン女性の闘い 清末愛砂は語る


アフガニスタン女性の闘い

清末愛砂は語る





戦禍とテロの続くアフガニスタン、女性差別の厳しいアフガニスタン。

こうした形容が当たり前のように使われてきたアフガンで30年にわたって女性の自由と権利を求めて闘ってきたアフガニスタン女性革命協会(RAWA)。

私たちRAWAと連帯する会は、RAWAに学び、RAWAとアフガンの現状を日本に紹介してきました。

今回はRAWAやアフガンの女性団体との交流を続けてきた清末愛砂さんにアフガン女性の闘いについて語ってもらいます。



日時:10月14日(日)午後1時30分開場、2時開会~5時

開場:IKE-Biz(旧豊島勤労福祉会館)第3会議室



資料代:500円           

インタヴュアー:前田朗



清末愛砂(きよすえ・あいさ)さん:室蘭工業大学大学院准教授。専門は憲法学、家族法学。主な著書に『パレスチナ 非暴力で占領に立ち向かう』(草の根出版会)『緊急事態条項で暮らし・社会はどうなるか』、『これでいいのか!日本の民主主義――失言・名言から読み解く憲法』、『自民党改憲案にどう向き合うか』(以上現代人文社)、『右派はなぜ家族に介入したがるのか』(大月書店)など多数。





            主催:平和力フォーラム

192-0992 東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学・前田研究室

042-637-8872  070-2307-1071(前田)   E-mail:maeda@zokei.ac.jp

インタヴュー講座<憲法再入門>第9回 日本国憲法と植民地主義


インタヴュー講座<憲法再入門>第9回

日本国憲法と植民地主義



平和主義と民主主義の日本国憲法のもとで、自由も人権も保障されないのはなぜ? 差別とヘイトがあふれるのはなぜ? 人間の尊厳が踏みにじられるのはなぜ?





日時:10月13日(土)午後2時(会場1時30分)

会場:新宿文化センター第1会議室

新宿区新宿6-14-1 Tel:03-3350-1141

大江戸線・東新宿駅 A3出口より徒歩5

丸の内線・新宿三丁目駅 E1出口より徒歩7

・資料代:500円

宋連玉さん(青山学院大学名誉教授)

「日本国憲法と植民地主義」

                      インタヴュアー:前田朗



★宋連玉:青山学院大学名誉教授、文化センターアリラン館長。主著に『脱帝国のフェミニズムを求めて――朝鮮女性と植民地主義』(有志舎)『軍隊と性暴力――朝鮮半島の20世紀』(現代史料出版)『歴史をひらく――女性史・ジェンダー史からみる東アジア世界』(御茶ノ水書房)など。





 主催:平和力フォーラム

東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学・前田研究室

042-637-8872  070-2307-1071

E-mail:maeda@zokei.ac.jp

Wednesday, September 12, 2018

滂沱、呻吟、そして証言を聞くこと


キム・スム『ひとり』(三一書房)


<韓国で現代文学賞、大山文学賞、李箱文学賞を受賞した作家、キム・スムの長編小説。

歴史の名のもとに破壊され、打ちのめされた、終わることのない日本軍慰安婦の痛み。

その最後の「ひとり」から小説は始まる…… 慰安婦は被害当事者にとってはもちろん、韓国女性の歴史においても最も痛ましく理不尽な、そして恥辱のトラウマだろう。

プリーモ・レーヴィは「トラウマに対する記憶はそれ自体がトラウマ」だと述べた。

1991814日、金學順ハルモニの公の場での証言を皮切りに、被害者の方々の証言は現在まで続いている。

その証言がなければ、私はこの小説を書けなかっただろう。…… (著者のことばより)


自分が完全にひとりだと感じる彼女は、自分の外から自分を見つめてみたい、と思う。外から見ると地球が全く違って見えるように、自分も違って見えるだろうか。自分の悲しい体験、自分のいとおしい記憶、自分の秘められた歩みを、もう一度、ふたたび、くりかえし、辿り直し、生き直し、必ずもう一度女に生まれたい。台無しになった人生を、自分の苦痛をどんな言葉で説明できるだろうか。「私は慰安婦じゃない」。


カササギの生きている死体。

死んだ蛾に群がる蟻。

うごめくカワニナの幻影。

玉ねぎの網に捕らわれた子猫。

鶏の砂肝ほどに縮みあがった子宮。

猫が蛙に覆いい被さる。

プンギル!

死ななかった13歳のプンギル。


一年前、私は、歴史研究における記憶論についての若干の疑問を記したことがある。


記憶をめぐる言説の危うさについて



この考えは現在いっそう強くなっている。もちろん、記憶をめぐる研究は重要である。体験、出来事、記憶、証言、再構築・・・・・・歴史が積み重ねられ、刻まれ、再構成される。その作業は不可欠である。

しかし、記憶論にはいくつもの陥穽がある。記憶し、記録を残し、記憶を語る当事者の心的営みと別次元で、研究者が積み重ねる、発掘し、取材し、分析する記憶論の限界である。しかも、「慰安婦」問題で顕著なように、記憶論の実態は「ハルモニから主体性を剥奪すること」に転落している。研究者が「学問の自由」を振りかざし、あるいは「フェミニズム」と称しながら、実は「尊厳を求めて立ち上がった主体」を「客体」に封じ込める。学問化したフェイク・フェミニズムは研究者の特権を「学問の自由」とはき違える。そこでは、日本軍性奴隷制被害者の尊厳回復の闘いは、研究の客体に押しとどめられる。証言が散り散りに切り取られ、記憶が泥の海に埋め込まれる。生きられた体験が空虚な手垢のついた物語に仕上げられる。――こうした研究が跋扈していないか。


キム・スムは小説という文学形式において、以上の問いに全面的な回答を与えてくれる。「暴力的な歴史の渦の中でひとりの人間が引き受けねばならなかった苦痛」を主題として、「その苦痛を『慈悲の心』という崇高で美しい徳に昇華させた、小さく偉大な魂」に作家自らのすべてをゆだねる。被害者の証言録を渉猟し、「私のハルモニの代わりに、あの地獄に行ってこられた」被害者の証言に耳を傾け、記憶を記憶のままに記憶し直し、小説的方法によって息を吹き込み、不安も恐怖も苦痛も、夢も願いも喜びも、すべてを保全し、編み直し、読者に手渡す。末尾に記載された313の註の一つひとつが、暗黒と絶望と恥辱と侮蔑と暴力の時代を撃ち抜く。「慰安婦」被害者が、たったひとり、最後の被害者が、この恐ろしい世界に気づきながら、13歳の自分に還る時、再び自分に出会う時・・・・・・


証言を聞くこととは、私がキム・スムになることである。

Monday, September 03, 2018

私にはこの本を読む能力がない

上野千鶴子ほか編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(岩波書店)


春に読み始めたが、序盤から違和感を抱く点がいくつかあったことと、何よりも多忙のため、挫折した。違和感は、編者と私の学問方法論がまったく異なるからであって、さほど大きな理由ではない。第1章から意欲的な論文が続き、勉強にもなる。そこで、夏休みに再読のチャレンジ。ところがふたたび挫折してしまった。


何度か読書を断念しかけつつ、なんとか読み進んだ。しかし、第5章の茶園敏美「セックスというコンタクト・ゾーン」の途中、次の箇所で、ついに放棄せざるをえなかった。

「レイプ被害者は、レイプした相手に金を要求することで、占領兵の問答無用の暴力、そして『モデル被害者』の語りしか受け付けない社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、占領兵と占領地女性との出会いの空間であるコンタクト・ゾーンにおける、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」(本書155~156頁)

リズ・ケリーの「性暴力連続体としてのレイプ/売買春/恋愛/結婚」という認識枠組みを、上野千鶴子による「序章 戦争と性暴力の比較史の視座」に従って採用する茶園は、占領下における米兵と「パンパン」と呼ばれた日本女性の関係に、レイプだけではなく、恋愛や結婚を発見する。

茶園は、自らの方法論を「徹底的な帰納法分析」と宣言する(145頁)。茶園は帰納法がお気に入りのようで、150頁他でも「帰納法」を語る。

それでは上記引用文のどこが問題なのか。4点に分けて説明しよう。以下の4点は密接なつながりを有し、全体として茶園論文の方法論を見事に示している。

1に、レイプ被害者が異議申し立てをしている相手として、「占領兵の問答無用の暴力」と「『モデル被害者』の語りしか受け付けない社会」を唐突に並列し、完全に同等扱いをしている。このような方法がいかにして可能となるのか、常識外というしかない。

2に、「異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。」という、およそまともな文章とは言えない断定である。

「AはBである」

「AはBであると解釈できる」

「AはBであると解釈できるかもしれない」

ほとんど思考停止論文と言うしかない。

3に、そこから「これこそ、・・・・・・、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」という論理破壊が続く。「解釈できるかもしれない。これこそ、生存戦略である」とはまったく呆れた話であり、論理の飛躍どころか論理的思考の否定である。茶園は次のように述べる。

「レイプ被害者は、レイプした相手に金を要求することで、~~社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」

次の一文を比較してみよう。

「縄文人は、狩猟生活をすることで、核兵器を保有する社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、縄文人の生存戦略である。」

この2つの文は論理的に等価である。検証可能性も反証可能性もない、譫言に過ぎないという意味で。

4に、それゆえ、「徹底的な帰納法分析」などというのは真っ赤な嘘である。茶園は帰納法によってではなく、ケリー/上野の認識枠組みに合わせて、証言をあてはめただけである。そのために無理をするから、「解釈できるかもしれない。これこそ」などと力むことになる。

以上のことは、茶園論文の一部、枝葉末節を取り出しての難癖ではない。茶園論文の方法論の本質が鮮明に示された箇所である。科学論文で言えば、実験データを書き換え、捏造して、分析を施しているのに等しい。


本書は2900円+税で販売されている。方法論を欺き、読者をだます論文で金儲けするとは、「お金を返せ!」と叫びたくなる代物だ。

と書いて、思い出した。私は本書を購入していない。編者の一人から献本していただいた。ありがたいことだ。献本いただいた本はきちんと読むのが礼儀というものだ。いつもはこの礼儀を守ってきた私だが。

前言訂正。「時間を返せ!」。

他の論文は優れた論文なのかもしれないが、申し訳ない。私にはこの本を読む能力がない。

Friday, August 24, 2018

陰謀論を批判する陰謀論にならないか


福田直子『デジタル・ポピュリズム――操作される世論と民主主義』(集英社新書)




2016年のアメリカ大統領選挙におけるトランプ勝利の背景として、あるいはトランプ大統領のツイッターによって、ポスト・トルース、フェイク・ニュースなどが流行語とのなり、偽情報、攪乱情報、世論操作の問題が指摘された。すでに多くの著作が出されているが、いずれも一面を明らかにしたに過ぎない。オンラインでのプロパガンダという現象の裏側を読み解くには、多角的多面的な兆さっと分析を要する。というか、真相は「闇」に包まれたまま、ということになるだろう。

それでも、インターネット時代の猛烈に飛び交う情報、急速に進展する技術、それらの間を疾駆しながら解析する研究をどんどん増やしていかないといけない。本書もその一つだ。

「アメリカの大統領選挙やイギリスEU離脱の国民投票では、私たちが無意識のうちに提供している多くの個人情報が選挙キャンペーンや世論形成に利用された。嘘を混ぜたプロパガンダや個人の不安に直接訴える「マイクロ宣伝」といった、巧妙なサイバー戦略は、近い将来行われるであろう日本の国民投票でも使われるのは間違いない。これらによって醸成されたポピュリズムに私たちはどう抗うのか。欧米での徹底的な取材からデジタル時代の民主主義を考える。」

「捏造され誘導され分断される現代」という帯の文句にあるように、ポピュリズムの蔓延によって民主主義がゆがめられる現状を、いかに克服するのか、課題はつきない。

類書の中には、中国や朝鮮を非難する例が多いが、著者は欧米での取材が中心で、素材も欧米に限定される。

ただ、アメリカ大統領選挙もフランス大統領選挙もスコットランド独立・住民投票もスペイン・カタロニア問題も、すべて背後にロシアの影・・・というストーリー。欧米が常に被害者側という「視点」にはいささか困った感。ロシアの陰謀を語る前に米軍とFBICIAの現実を語ることが必要だろう。

フェミニズムはどこへ行ったのか


河野貴代美(対談:岡野八代)『わたしを生きる知恵――80歳のフェミニストカウンセラーからあなたへ』(三一書房)


フェミニズムが輝いていた時代があった(ような気がする)。日本ではおおざっぱに言えば1970~80年代だろうか。本書では「残念なことに1960年代後半から80年にかけて世界中を席巻したフェミニズムは、多くの誤解を受け、その内容やメッセージが後の世代の女性たちに性格に届いていないように思います」とある。

フェミニズムについてほとんど発言したことのない私だが、それぞれの時期に重要な著作は読んできたし、運動の一端も横から見てきた。フェミニストではないが、日本のフェミニズムの動向、あるいは国連人権機関におけるフェミニズムの動向については多少知っているつもりだ。それ以外の世界の大半のフェミニズムについては無知だ。

本書は、1968年にアメリカでフェミニズム、フェミニズムカウンセリングに出会い、その後、日本にフェミニズムカウンセリングを広めた実践家にして理論家の河野と、ちょうどその頃、1967年に生まれた政治学者の岡野の共著と言ってよい本である。半分は河野と岡野の対談。残りの半分が河野のエッセイから成る。


「対談・個人史を語る」は、河野と岡野がそれぞれ母親との関係の中で育ち、学び、悩んだことから始まる。そこからフェミニズムとの出会いがあり、フェミニストカウンセリングや政治思想研究につながっていく過程が語られる。母と娘の間の愛情と葛藤について本書は繰り返し立ち戻ることになる。

「あなたはあなたであってよい」「個人的なことは政治的なこと」「自分に正直であること」――フェミニズムの主張として有名なスローガンの意味と意義が、あの時代を生きた河野によって平明に語られる。ここから浮き上がるのは、なぜこれらのスローガンが、当時フェミニズムの核心として打ち出されなければならなかったのか、である。逆に言えば、男達はなぜこうした当たり前のことを掲げなかったのか。掲げる必要がなかったのか。


二人は「フェミニズムの衰退・断絶をめぐって」について語る。70~80年代に活動した団体の解散、「女性学」「ジェンダー学」という「学問」になってしまったこと(フェミニストカウンセリングも学会になっていった)、社会構造を問う思想と運動として展開しきれなかったこと、1985年の男女雇用機会均等法による「女性貧困元年」、「自己責任」論へのすり替えなど、さまざまな理由が検討される。

フェミニズムに対するバックラッシュは世界でも日本でもおきた。日本では90年代後半以後のフェミニズム叩きや、男女共同参画に対する反発である。フェミニズムやジェンダーという言葉への猛烈な反発も記憶に新しい。

女性の権利という観点では、男女共同参画社会基本法(1999年)、児童買春・ポルノ禁止法(2000年)、ストーカー規制法(2000年)、DV防止法(2001年)、子ども・子育て支援法(2012年)、職業生活の女性活躍推進法(2015年)、政治分野の男女共同参画推進法(2018年)のように前進を続けているが、各論の議論はできてもフェミニズムそのものが脚光を浴びることがない。セクハラ問題に対する反応を見ても、男性支配と男性中心主義の壁の高さには驚くべきものがある。

そこでフェミニズムの「個人主義」の問い直しが図られる。男性中心主義の「個人主義」への批判と、もう一つの「個人主義」に着目する。日本国憲法24条にも個人主義は含まれているが、そこでは「一人一人が全体である」。

「私を育ててくれた人、その人の記憶や経験もまた、私の一部を形づくっている、その記憶を含め私は私だ、誰にもそれを奪われない、という主張です」。「社会関係の中に自分を沖か直してみることで、新しい自分と出会い直す」。

「自分とは違う人との出会いは人を豊かにしてくれます。その体験を受け止めて味わい、あるいは乗り越えて、さらに多様な人々との関係に向けて自分を開いていくような考え方や手法が、いま、とくに必要とされているのではないでしょうか。そこからしか社会全体の変化もありえない、そう思います。」


河野貴代美、岡野八代、そして編集の杉村和美という3人の女性がそっと差し出した本書は、「行方不明」のフェミニズムがこの世界の至る所に根づき、息づき、世界を変えつつあることを教えてくれる。その道はなお遠く、曲がりくねり、いくつもの山を越え、幾度も壁にぶつからなくてはならないだろうが、女性たちの暮らしの現場から常に立ち上がる思想としてのフェミニズムが無数に飛躍の時を待っている。

Thursday, August 23, 2018

エテル・アドナンのタペストリ


パウル・クレー・センターで「Etel Adnan」展を見た。


1925年にフランス占領下のベイルートで生まれた詩人でアーティスト、哲学者のエテル・アドナン(1925-)は、2012年に参加したドクメンタ(13)で突然世界中に知られるようになりました。パウル・クレーが書いた1960年代の日記を通してクレーを知り、作品とテキストに影響を受けました。叙情的でカラフルな絵画、大判のタペストリー、映像の作品でそのことが見て取れます。多文化環境で育った経歴や中東の歴史の影響は、特に文学作品のなかに投影されています。本展では、パウル・クレーとエテル・アドナンの作品の対話をご覧いただけます。」


名前だけは聞いたことがあるが、作家で絵本が有名らしいということしか知らなかった。上記では2012年に知られるようになったとあるがこれは絵画作品に限った話で、作家としては1970年代から有名だったそうだ。

エテル・アドナンで検索すると


Etel Adnan



展示は、第1にエテルの絵画作品、第2にクレーの絵画作品、第3にエテルのタペストリ、第4にエテルの制作映像、第5にエテルへのインタヴュー映像。

絵画作品はカリフォルニア教師時代からずっと描いていて、カンディンスキー、マレヴィチ、クレーに影響を受けたそうだが、2012年に突如有名になった。多数展示されていたが、クレーの影響はあからさま。普通なら、この作品はオリジナル作品として出展できないだろう。有名作家であることと、高齢であることで、許されたのではないか、という印象だ。

むしろ注目するべきはタペストリのほうだ。12点展示されていた。いずれも2メートル四方の大きなサイズ。というのも、絵画はクレーと同様にいずれも小さく、50センチ四方レベルなのに、タペストリは大きい。そして、模様も絵画よりずっと複雑で、手が込んでいて、クレーに影響を受けながらも独自に発展をしている。Sunsetという作品はなんと2018年の制作だ。93歳!? いやはや凄い。