Thursday, October 29, 2015

「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(8)

五野井郁夫「日本の保守主義――その思想と系譜」山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』

五野井は『「デモ」とは何か――変貌する直接民主主義』の著者であり、ヘイト・デモに対するカウンターの現場にも立った研究者である。
本論文ではうって変って、日本の保守主義思想の歴史的分析を行っている。40ページほどの論文であるにも関わらず、明治から現在までの保守主義の特質を描き、保守主義の論じられ方を追跡している。その意味では「奇妙なナショナリズム」研究ではなく、「奇妙なナショナリズムの時代」の保守主義研究である。1980年代以後の「保守主義なき保守」の暴走の分析が優れている。
「本物の保守主義」がないことが日本の限界であり、排外主義とヘイト・スピーチを推進力とする極右が政権をのっとる笑えない悲劇が現実化していることが良く見えてくる。

Tuesday, October 27, 2015

「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(7)

明戸隆浩「ナショナリズム批判と立場性――『マジョリティとして』と『日本人として』の狭間で」山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』
明戸はエリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』(明石書店)の翻訳者であり、この間、ヘイト・スピーチについて積極的に発言している社会学者である。理論研究もやっているが、ヘイト・スピーチに対するカウンター行動の現場で実態調査も続けている。私たちのヘイト・クライム研究会でも活躍している。
本論文で、明戸は、1995年以後の加藤典洋と高橋哲哉の間の論争を取り上げて分析している。その問題意識は<「エスニック・ネーション」日本におけるナショナリズム批判>である。当時の、歴史認識や戦争責任論、国民国家論、ナショナリズム批判、ポストコロニアリズム、カルチュラル・スタディーズにおける議論の方法が、「エスニック・ネーション」としての日本を念頭に置いたものであったがゆえに、「シビック・ネーション/エスニック・ネーション」の区分が前提とされていなかったと言う。このため、「日本人であること」と「マジョリティであること」の区分けのないままに議論が進められたと見る。日本では、「マジョリティ/マイノリティ」と「日本人/外国人」が重なり、混同されてしまうのだ。

明戸は、加藤と高橋の議論のすれ違いに踏みこむ。さらに、高橋と徐京植の議論や、上野千鶴子の議論も射程に入れて、90年代のナショナリズム批判の文脈自体を問い返す。この問題を、在特会的ナショナリズムが跋扈する現在の文脈との差異をどのように測定し直すのかと言う課題を提起する。ザイトクの排外主義とヘイト・スピーチ状況に対して、「日本人として」向き合うことと、「マジョリティとして」向き合うこと、の必要性と困難性の間に身を置くことでもある。

Sunday, October 25, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(40)インタヴュー記事

前田 朗「ヘイト・スピーチは『憎悪犯罪』である」『社会運動』420号(2015年10月)
社会運動編集部によるインタヴュー記事24頁。サブは「差別、暴力、迫害、そして戦争への道を断つために」。以下、小見出し。
1989年、朝鮮学校の生徒たちへの暴力を機に、ヘイト・スピーチの研究へ
何度も何度もくり返されてきた、在日朝鮮人への暴力
2000年代に日常化したヘイト・クライム
「韓流ブーム」と「嫌韓」の背景に何があるのか
ヘイトデモを止めたカウンター行動の重要性と行政の役割
心的外傷を負い、声を出せずにいる被害者たち
ヘイト・スピーチとはヘイト・クライムである
「表現の自由」を守るためにヘイト・スピーチを規制すべき
ヘイト・スピーチ=差別の煽動の先には社会の破壊がある
今こそ植民地主義を清算すべき時

世界では当たり前のヘイト・スピーチ処罰
最近の文献の中には、「ヘイト・スピーチは2007年に始まった」とか、「ヘイト・スピーチのターゲットは韓国である」ということを前提としている例が見られる。
しかし、ヘイト・クライム/ヘイト・スピーチは2007年に始まったのではなく、それ以前、長期にわたってずっと続いてきた。そして、その主たるターゲットは、朝鮮、及び朝鮮学校であった(少なくとも、そうした時期がかなり続いた)。2007年以前の現象と、2007年以後の現象を比較検討していくことが課題ではないだろうか。

Wednesday, October 14, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(39)


前田 朗「差別と闘う教育(四)東欧における反差別教育・文化政策」『解放新聞東京版』866号(2015年9月)
北欧、西欧、南欧に続いて、東欧諸国が人種差別撤廃条約第7条の「差別との闘い」をいか下に実践しているかの紹介である。チェコ、スロヴァキア、ポーランド、アルバニア、リトアニアを紹介した。
「実に多彩な反差別の取り組みがなされている。パレ・ウィルソンの国連人権高等弁務官事務所には世界各国の実例が報告・集積されている。学ぶべき情報が大量にあるのに、日本ではあまり研究されていない。
    校前から初等、中等、高等及び社会人教育の全分野が対象である。②教員研修に特に力を入れている。③法執行官(警察、検察、裁判所)への人権教育が重視される。④軍隊における反差別教育の例もある。⑤差別的出版や放送の規制がなされる。⑥寛容と反差別のための出版・放送に力を注いでいる。⑦イベント、美術展、コンサートも重要である。⑧マスメディアやインターネットにおける差別抑止が重要課題である。⑨差別実態調査、統計処理、対策強化が図られる。⑩欧州評議会など国際的連携が図られている。」

上に「あまり」と書いたのは不正確だ。「ほとんど」と言った方が正しい。人種差別撤廃条約の履行の実体を見ることなく、虚偽の情報を並べ立てる憲法学者が多い。

Tuesday, October 13, 2015

朝日新聞社説「辺野古移設沖縄の苦悩に向き合え」について


今朝(10月14日)の朝日新聞社説「辺野古移設 沖縄の苦悩に向き合え」は、沖縄に対する差別と、沖縄の自己決定権に言及している。これは積極面。
ただし、不可解な主張をしている面もある。
  差別について
朝日社説は次のように述べている。
「日米安保条約を支持する政府も国民も、そうした沖縄の現実に無関心でいることによって、結果として『差別』に加担してこなかったか――」
差別と書かずに、「差別」とカギカッコつきにしている点はともかくとして、問題は誰が差別をしているのかを見えなくしていることだ。「政府も国民も結果として『差別』に加担」という。ひょっとしてアメリカが差別しているのかと思うと、社説はアメリカには言及していない。「結果として」というのはごまかしと言わざるを得ないだろう。それでも「差別」と指摘しているだけマシかも。
  自己決定権について
朝日社説は、翁長知事がジュネーブの国連人権理事会で「沖縄の人々は自己決定権や人権がないがしろにされている」と訴えたことを引用し、次のように主張する。
「政府に求められるのは、沖縄の苦悩を理解し、人権や自己決定権に十分配慮する姿勢だ。まず計画を白紙に戻すことが、そのための第一歩になる。」
この点は評価できる。沖縄の自己決定権をどのように理解しているのかは、よく見えないが、社説は限られた字数の中で、沖縄の歴史と現状に言及している。



「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(6)

 塩原良和「制度化されたナショナリズム」山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』

塩原は、オーストラリアの多文化主義の歴史的変遷を追跡する。公定の多文化主義に対する批判的多文化主義、その後のリベラルな多文化主義、福祉多文化主義、ネオリベラル多文化主義の論理を分析する。「公定多文化主義における新自由主義の影響力が増大スルニツレテ、エスニック・マイノリティの社会的包摂・社会的結束を進めようとするリベラルな福祉多文化主義は後退を余儀なくされていった」という。仮構された「国益」が貫徹されることになる。塩原はさらに時代錯誤の「ゾンビ・ナショナリズム」と言うユニークな表現を紹介している。文脈は異なるが、日本にもゾンビ・ナショナリズムがあると、勝手に流用したくなる。

「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(5)

古賀光生「欧州における右翼ポピュリスト政党の台頭」山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』

古賀は、欧州において右翼ポピュリスト政党が台頭した原因を検討し、排外的ナショナリズムの国際比較を行っている。フランスの国民戦線やオーストリアの自由党はよく知られるが、こうした「極右」とは別に、デンマーク国民党、オランダ自由党など右翼ポピュリスト政党の議会進出が目立つと言う。その前提条件として社会・経済的な構造の変化があり、移民排斥の主張など、人々の認識への働きかけがなされている。既成政党との差別化による動員戦略を分析し、ポピュリズムの政治争点化が起きているとする。古賀は、グローバル化に伴う経済構造の転換は欧州と日本に共通だが、西欧では排外主義が政党として公的空間で一定の存在を示している点で日本とは異なると言い、排外主義の高まりを市民社会と政治の関係性からも検討するべきと言う。

Saturday, October 10, 2015

マンザナ強制収容所を生きた女性たち

昨夜は、こまつ座113回公演「マンザナ、わが町」(作・井上ひさし、演出・鵜山仁、紀伊国屋ホール)だった。
日本軍の真珠湾奇襲の後、アメリカ政府は、在米日本人(1世の日本人、アメリカ国籍を取得した者、2世の日系人など)12万人を強制収容所に収容した。アメリカ憲法に違反する人権侵害であるが、戦時下の大統領命令により日系人強制収容所への収容が強行された。マンザナはその一つである。
「カリフォルニアの東に連なるシエラネヴァダ山脈。」
「その最高峰ホイットニー山。」
「高さおよそ四千五百米、アメリカ本土でもっとも高い山でもあります。」
「そのホイットニー山の東側、ひろびろとひろがる平原に、わたしたちの町マンザナが拓かれようとしています。マンザナ……、」
「ここはわたしたちのひろば。」
「マンザナ!」
収容された5人の女性たちに演劇『マンザナ、わが町』上演が課せられる。ソフィア岡崎(新聞記者)、オトメ天津(浪曲師)、サチコ斎藤(孤児の奇術助手)、リリアン竹内(歌手)、ジョイス立花(女優)――いずれも個性的な5人の女性が、ソフィア岡崎演出のもと、すれちがい、ぶつかり合い、協調しながら、演劇の練習に励む。この劇中劇の中で、アメリカによる日系人差別、白人による黒人差別、日本人による朝鮮人差別・中国人差別が盛り込まれ、差別との闘いが描かれる。
井上演劇・こまつ座を何度も率いてきた鵜山仁演出により、5人を演ずるは、土居裕子、熊谷真実、伊勢佳世、笹本玲奈、吉沢梨絵。伊勢佳世と吉沢梨絵は、こまつ座初出演だと言うが、素晴らしい演技だった。ソフィア岡崎の土居裕子は実に適役だ。昨夜は台詞が少しだけつかえたが、台詞の多さ、難しさから言ってやむをえないだろう。日本語と英語のちゃんぽんあり、中国語風になまった日本語と、日本語らしい日本語、と次々と変わる台詞が最難関のサチコ斎藤の伊勢佳世は見事だった。そして、何よりも凄かったのが熊谷真実だ。浪曲調の台詞、喧嘩腰の台詞、涙声あり、かすれ声ありのオトメ天津を演じたのが熊谷真実だ。かつての熊谷のイメージからは、まさに驚愕の演技だ。役者って、凄い!と唸るしかない。リリアン竹内の笹本玲奈も、ジョイス立花の吉沢梨絵も、鮮やかな印象を残した。
「ここはわたしたちのひろば。」
「マンザナ!」
「日本人の血を引くすべての……、」
「そして人間の血を引くすべての人びとのひろば。」

戦争と差別に抗する、笑いと涙の井上芝居。「東京裁判3部作」や「ヒロシマ3部作」と対応する井上悲喜劇は、感動を突き抜ける。

Friday, October 09, 2015

「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(4)

富永京子「社会運動の変容と新たな『戦略』――カウンター運動の可能性」山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』
富永は、ヘイト・スピーチに対するカウンター運動を社会運動論として把握し、分析する。そのために戦後の日本の社会運動の文脈を確認し、社会運動論の先行研究をトレースする。富永は資源動員論から「新しい社会運動」研究による「経験運動」概念に着目する。分析対象として、社会運動の設営過程である「バックステージ」とする。「カウンター運動が共有する特質として、運動の『切迫性』があり、また、敵の目標・目的を阻害するために限られた時間と場所の中で行動しなくてはならないという性格があるためだ」という。もう一つの分析枠組みとして、「運動に共在する個人の葛藤と和解」を掲げる。調査研究プロジェクト「反レイシズム運動研究」(明戸隆浩ほか、2013~14年)によるインタビューデータを用いている。分析は富永自身の手による。
その上で、富永は「路上で経験を共有する――問題と自分を接続させる媒介としての『戦略』『戦術』」、「学習会・ツイッター・飲み会――拡散する経験共有の場」の2つを呈示する。
「現代の社会運動は担い手の個人化・流動化により、統一された集合的アイデンティティを担保することが難しくなっている。そのため、それぞれ異なる出自を持つ担い手たちは、運動を進める過程でコミュニケーションし、互いの問題認識やバックグラウンドといった『経験』を共有する。その経験を共有する媒介は、会議や学習会といったものだけではなく、ツイッターでの政治的議論や、動画でヘイトスピーチが行われている風景を観た人々のコミュニケーションなども含まれている。さらに言えば、路上を彩る、プラカードや横断幕といったさまざまな対抗手段もまた、彼らの生きる日常に存在し、彼らの体験や生き方によって形成される『文化』を反映すると言う点で、経験共有に一役買っているのだ。」
新しい社会運動論の枠組みを用いて、レイシズム、ヘイト・スピーチに対するカウンター行動を具体的に分析する方法は魅力的であり、有益である。もっとも、気になる点もないわけではない。新しい社会運動研究の対象は環境運動、女性運動、先住民運動、マイノリティをめぐる運動だと言う。研究対象は、中絶、市民権改正、同性愛者の権利、動物の権利、銃規制、喫煙、麻薬の使用、人種差別、レイシズム、ポルノ規制等と言う。海外の先行研究に学ぶのは、それなりに理解できる。日本では、労働運動、及び「くびくびカフェ」「スユ・ノモ」の社会運動研究があると言う。それもわかる。ところで、在日朝鮮人の人権擁護を求めるさまざまな運動と研究が除外されるのはなぜだろうか。それこそが真っ先に比較検討の対象ではないのだろうか。「広義の『反差別運動』」への言及が2~3行あるが、その内容に立ち入らないのはなぜだろうか。インタビューの対象には加えているようだが。
得られた結論について見ると、「それぞれ異なる出自を持つ担い手たちは、運動を進める過程でコミュニケーションし、互いの問題認識やバックグラウンドといった『経験』を共有する」のは、新しい社会運動に特有の現象だろうか。古い社会運動にも共通性はないだろうか。学習会や飲み会と言うのも古典的ではないだろうか。ツイッターは新しいが、それが新しい社会運動の特徴なのだろうか。社会運動であろうと、運動以外の交流であろうと、現在ツイッターが登場するのは一般的に言えることではないだろうか。プラカードや横断幕に至っては一寸言葉を失うのだが、その「新しい社会運動」性を富永はどのように見ているのだろうか。富永の「新しい社会運動」と在特会は、どこがどう違うのだろうか。


Wednesday, October 07, 2015

「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(3)

清原悠「歴史修正主義の台頭と排外主義の連接」山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』
清原は「在日特権」を糾弾するヘイトスピーチは<マジョリティ=強者=日本人/マイノリティ=弱者=在日朝鮮人>を攪乱・無効化する言説実践であったとし、歴史的文脈が無視されていることに着目する。
清原は、歴史否認論(歴史修正主義)と排外主義の関係を問いつつ、歴史修正主義の台頭/流布に果たしたメディアの役割を、歴史認識問題の「発見」とバックラッシュ(1960年代後半から90年代前半)、それ以前、ベトナム戦争を経由したアジアへの加害責任の意識化を確認して、メスメディアにおける「歴史認識」言説の量的経年変化を研究する。読売新聞と朝日新聞のデータベースをもとに、歴史認識をめぐる記事が1995年(戦後50年、村山談話)、1998年(日韓共同宣言)、2001年(小泉靖国参拝)、2005~06年(戦後60年)、2013~14年にどのように増加したかを見る。
そして、読売新聞における「歴史認識」言説の特徴・変遷をたどる。その中から<歴史認識論=反日>というレトリックの登場、排外主義が国内に向けられた経緯(慰安婦問題に関する報道がどのようにして歪んできたか)、竹島問題による歴史認識と領土との接合、について論じる。結論として、「歴史認識問題は領土問題や外国人参政権問題と連接する問題として捉えられることで、セキュリティの対象として認識されるようになってきたことを明らかにした。すでに樋口直人による『日本型排外主義』において提起されたように、「日本、韓国と北朝鮮、在日コリアンという三者関係」という捉え方による問題の整理と同じものである」とされる。

また、清原は「歴史否認論および排外主義に関するこれまでのメディア研究では、『正論』『諸君!』などの右派論壇誌の希少な研究例を除けば、主に<マスメディアvsネット言論>という議論枠組みを立ててきた。だが、本章では読売新聞を素材に分析をすることでマスメディアとネット言論の親和性(もしくは密かな共犯関係)を、間接的にではあるものの分析の俎上に載せた」という。慰安婦問題における朝日新聞攻撃のように、マスメディア間の抗争と言う一面があるからである。


清原論文も優れた論文であり、大いに学ぶべき点があるが、気になる点がないわけではない。本書の他の論文と同様、清原論文も、ヘイト・スピーチ現象を、2007年の在特会設立以後のこととしたうえで、そこに至る歴史否認的言辞の展開を追跡する形となっている。その背景となる歴史への視線を垣間見ることはできるが、付随的な印象を与える。歴史認識問題、領土問題、外国人参政権に関連する言説の分析は魅力的だが、歴史的文脈の重要性を指摘しながら、歴史的文脈の分析はなされない。近現代日本史におけるヘイト・クライム/ヘイト・スピーチへの視線が希薄となっている。

Monday, October 05, 2015

「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(2)

伊藤昌亮「ネット右翼とは何か」山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』(岩波書店)
伊藤は「ネット右翼という存在は、量的な面でも質的な面でも昨今の排外主義運動の基盤となり、土壌となっていると捉えることができるだろう。さらに言えば、むしろネット右翼の部分こそがこの運動の本体を成し、実質を成していると捉えることもできるかもしれない」という現状認識から、ネット右翼の実体を探る。その際、「ネット右翼は誰か」と言うこれまでの議論とは一線を画して、「誰か」ではなく「何か」と問う。
伊藤はネット右翼フレームの構成要素として、「嫌韓」「在日特権」「攻撃的態度」「底辺的立場(もしくは擬態)」をあげ、これらの組み合わせによって成り立っていると見る。その言説環境として、2ちゃんねる文化と新保守論壇を検討したうえで、そこから「反マスメディアフレーム」(マスメディアという巨大な敵手に対して対抗メディアが挑む)が成立し、さらに「ネット右翼フレーム」へと展開したと言う。特に2002年の日韓共催ワールドカップサッカーを指摘する。2ちゃんらーが、自分たちとは直接関係のない嫌韓や在日特権と言うアジェンダを引き入れて行ったかを分析する。
「嫌韓というアジェンダは2ちゃんねらーにとって、朝日新聞とフジテレビとの両方を同時に困らせ、一挙にやりこめることのできるアジェンダだった。左翼知識人的な言論エリートと華やかな業界人的な娯楽エリートの両者に対して効果的なかたちで嫌がらせができ、それを通じて日本のマスメディア文化全体、さらに文化レジームそのものに対して挑発的なかたちで異議申し立てができるアジェンダだったわけである。」
こうして形成されたネット右翼フレームは、外部の世界へ流出し、ビジネス保守との交流を通じて広がったと言う。その結果、嫌韓、在日特権、攻撃的態度、底辺的立場という構成要素が出そろったと言う。
伊藤は最後に、ネット右翼の成り立ちの複雑さを指摘し、「冷戦体制後の日本社会を作っていくというプロジェクトの困難さの現れだと見ることもできるかもしれない」という。反マスメディア思想と歴史修正主義がネット右翼を形成している理由である。
伊藤の分析は、伊藤が提示する事実と理論枠組みの中で説得的であり、よく理解できるが、納得するにはなお検討を要するように思われる。伊藤の分析は、ネット右翼フレームの構成を、2ちゃんねると新保守論壇に探り、「反マスメディアフレーム」として、第1に反朝日新聞(左翼知識人)、第2に反フジテレビ(華やか業界人)という重要な特徴を有し、攻撃対象は圧倒的に韓国であり(嫌韓)、在日特権と言うアジェンダが編み出されたと見る。つまり、次のような順列が想定されている。第一に、AマスメディアB反マスメディア。第二に、Cネット右翼D嫌韓・在日特権。伊藤の分析枠組みではネット右翼や奇妙なナショナリズムは嫌韓・在日特権論に限定されることになる。

それでは、ヘイト・スピーチという言葉を普及させることになった2009年の京都朝鮮学校襲撃事件はネット右翼や奇妙なナショナリズムとは関係ないことになる。何十年と続きてきた朝鮮学校差別、朝鮮学校生徒に対する暴行・暴言事件を、伊藤はどのように見ているのかが不明である。ネット右翼だけに焦点を当てれば、インターネットが普及した以後のことしか取り上げないのは必然だが、それでは現実を分析することは不可能ではないだろうか。日本における排外主義、ナショナリズム、ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチ、朝鮮人差別には、長い歴史がある。関東大震災朝鮮人虐殺があり、朝鮮半島における虐殺と差別があり、朝鮮学校に対する国家的差別と社会的差別は連綿と続いてきた。ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチに絞って、比較的新しい事例を見るならば、1987年の大韓航空機事件の直後の朝鮮学校生徒への暴行事件。1989年の「パチンコ疑惑」、1994年の「北朝鮮核疑惑」、1998年のテポドン騒動、2002年の日本人拉致問題の直後に、日本社会は朝鮮学校生徒に対する襲撃を繰り返してきた。なぜ伊藤はこのことを考慮に入れようとしないのだろうか。

Saturday, October 03, 2015

「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(1)

山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代――排外主義に抗して』(岩波書店)が出た。編者・山崎望は政治学・政治理論、駒澤大学准教授。他の7人の執筆者も、社会学、社会運動論、比較政治学、国際社会学、などの研究者。1960年代生まれが1人、70年代生まれが5人、80年代生まれが2人の、中堅・若手による意欲的な研究書である。
      *
巻頭の山崎望「序論 奇妙なナショナリズム?」は、本書の基本的な問題意識と構成を呈示している。
「ポスト国民国家」の配置をグローバル化と新自由主義による国民国家の揺らぎとしてとらえ、「境界線の政治」を問う形で、最近登場しているナショナリズム現象を「見慣れない」「奇妙な」ナショナリズムと位置付ける。著者は6つの類型を呈示する。
第1は、国民なき状態の国家が、国民国家形成を志向するナショナリズム。
第2は、国家なき状態の民族が国民国家形成を志向するナショナリズム。
第3は、対外的に拡張する帝国主義的なナショナリズム。
第4は、植民地からの分離・独立を目指すナショナリズム。
第5は、国民統合の機能を果たすナショナリズム。
第6は、既存の国民国家を解体し、新たな国民国家形成を求めるエスニック・ナショナリズム。
ところが、グローバル化と新自由主義と言う背景をもつナショナリズムは、これらとは異なるさまざまな奇妙さを有する。奇妙なナショナリズムの特徴を整理した著者は、そのアリーナを6次元と分類する。
第1は、日常レベル。
第2は、書籍やサイバー空間。
第3は、社会運動レベル。
第4は、政治的レベル。
第5は、公的制度として制度化されたレベル。
第6は、国際関係のレベル。
著者はこれら6つの次元で展開するナショナリズムの分析のために、奇妙なナショナリズムは「政治アリーナの配置(コンステレーション)の中に現れる現象として相対的に把握すべきであろう」という。その実践が、著者及び7人の執筆者たちの論文である。
以上の叙述は簡潔に整理されていて、わかりやすい。本書の見取り図を示すために書かれた序論としての意味がよくわかる。

もっとも、ナショナリズムの6類型はわかりやすいようでいて、わかりにくい。
(1)明治維新期の日本で機能したのは第1の類型であろうし、日清・日露戦争以後の帝国主義的膨張期に機能したのは第3の類型であろう。それでは、戦後日本国憲法体制の下ではどうだったのだろうか。戦後民主主義と象徴天皇制の下で第5の類型が機能したと見ることができるのだろうか。この時期の一番の問題は、植民地の独立という脱植民地過程が実在したにもかかわらず、そのことをほとんど隠蔽・無視したことにあるのではないだろうか。植民地の歴史の否認の裏側に日本ナショナリズムが張り付いていたのではないだろうか。また、経済成長後の大国主義意識はどうであろうか。第3の類型だが、軍事的側面ではなく経済的側面が前景化されたと見るのだろうか。
(2)6類型が掲げられているが、それらの間の重畳や、相互移行をどう見るかである。序論という性格から、立ち入った議論を展開していないのかもしれない。

(3)私見では、在日朝鮮人に対する差別とヘイトは、いくつもの歴史的段階を経て形成されてきたものである。例えば、第1に、日清・日露戦争を始めとする帝国主義的膨張のもとで朝鮮を植民地化した過程、第2に、植民地朝鮮に対する進出・収奪・搾取、第3に、植民地人民を日本本土に迎え入れた後に生じたコリアン・ジェノサイド(関東大震災朝鮮人虐殺)、第4に、植民地独立=脱植民地過程の否認、植民地支配責任論の不在、第5に、国籍剥奪された朝鮮人の「在日朝鮮人」の形成と、文部省による朝鮮学校差別に典型的な差別とヘイトの増幅、第6に、在日朝鮮人の人権運動と、国際人権法の影響による在日朝鮮人の人権の前進、第7に、1980~90年代における」「反北朝鮮キャンペーン」による反感と差別の醸成、第8に、朝鮮による日本人拉致が明らかになって以後の反発、等々。こうした歴史的経過を経て、この国に深く根付いた排外主義、レイシズム、朝鮮人差別。ナショナリズム論はこうした歴史的経過をどのように再整理するのだろうか。


沖縄差別に徹底的に向き合う写真家

初沢亜利『沖縄のことを教えてください』(赤々舎)

大判の写真集である。176頁に約150枚の写真。表紙には沖縄の夜空――渡嘉敷島から沖縄本島を臨む一枚だが、一部オレンジ色に染まる空は米軍基地内の低圧ナトリウムランプの灯である。沖縄に対する意識的差別や構造的差別を考え直し、問い返し、こだわりながらも、本土側からの写真家として、初沢は一年間、沖縄に滞在し、各地を回りながら撮影を続けた。
北谷町の回転寿司屋、アラハビーチ、名護市の豊年祭、高校野球決勝戦、辺野古漁港の休日から、辺野古新基地建設反対の県民大会の「屈しない」に至る写真は、沖縄を映し出しつつ、初沢自身を写している。ファインダーの向こうとこちら側の距離を一枚一枚確かめながら、手さぐりしながら、沖縄からの視線に貫かれる写真家。そのことを自覚しながら、押し続けたであろうシャッター。
「日本にとって沖縄とはなにか?沖縄にとって日本とはなにか?」。最初から明らかであるにもかかわらず、答えを出せないこの問いを、問い続けることの中で自らを鍛え直す写真家が、ここにいる。

Friday, October 02, 2015

植民地支配を問う主体形成を

梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』(平凡社ラブラリー、2014年)
<戦後日本の朝鮮史研究のパイオニアであった梶村秀樹が、日本人が知るべき朝鮮近現代史を平明に情熱的に説いた3回の連続講演の記録。
1971年の2回の講演、1976年の1回の講演の記録であるが、いま読んでも学ぶべきことが多い。小さい本だが、歴史認識の方法論を反省する著作のため、読むのに時間がかかった。「朝鮮史の主人公としての朝鮮人民」という視座の正当性と限界は当時も今も明らかであるのかもしれないが、植民地支配を行った側の日本人の意識や方法論は常に日本人中心主義であり、植民地主義であり、植民地主義の開き直りであった。そこから抜け出そうとしていたはずの歴史学者にも、必ずしも自明のことではなかったようだ。かつての植民地支配の歴史を前に、日本人(研究者)がいかなる立ち位置で、いかなる方法論で、朝鮮史にいどむのか。歴史修正主義が跋扈して以来の日本歴史学が直面している課題でもあるだろう。

事柄は歴史学だけに関わるわけではない。現在の朝鮮人に対するヘイト・クライム/ヘイト・スピーチについて論じる多くの憲法学者の手つきは、まさに植民地主義の開き直りであって、加害者性を脱色してしまう。多数者である日本人の表現の自由を根拠に、いかなる差別をも自由としてしまう帰結を、実にあっさり無頓着に提示する。日本国憲法が掲げた基本的価値を無視して、差別とヘイトに開き直る憲法学である。
山本興正による「解説」は、1980年代以後の論争を通じて、梶村の問題提起とは逆に、「『脱政治性』『第三者性』を求める主体の緊張なき朝鮮史研究」が幅を利かせることになり、在日特権、ヘイトスピーチ、歴史修正主義、朝鮮人の民族教育への弾圧が起きていることを指摘している。いま、本書が読まれなければならない理由である。

Thursday, October 01, 2015

教育を滅ぼすブラック化の現在

大内裕和『ブラック化する教育』(青土社、2015年)

雑誌『現代思想』に掲載された現代の教育を巡る対談(斎藤貴男、佐々木賢、児美川孝一郎、今野晴貴)である。なぜ格差は生まれ、教育はこんなに貧しくなったのか。生徒も先生もこんなにタイヘンになったのか。就活はなぜこんなにタイヘンになったのか。なぜ学生はブラックバイトをしなければならないのか。新自由主義が経済、社会の全体に浸透し、教育をも変質させてしまった現状を撃つ。