『無罪!』2009年11月号
法の廃墟(31)
ヘイトクライムの現在
インターネット上の人種差別が溢れ出してきた。ネット上の掲示板やMLには人種差別が蔓延していると指摘されて久しい。国連人権委員会でもネット上の人種差別問題と、ネット上での人種差別を克服する教育の普及を課題として掲げてきた。日本でも同様のことが唱えられてきたが、差別が現実世界に躍り出てきた。ネット上で差別と排除の共同行動が呼びかけられ、集った「市民」が少数者に暴力的に襲いかかり始めた。
差別と暴力
最近話題になった事例を確認しておこう。
①日本政府が、在留期限のすぎた外国人を子どもから引き離し家族を破壊して退去強制する暴挙に出た際、退去強制を支持するデモ行進を行い、これに抗議した市民と暴力沙汰を惹き起こした事例。②在日朝鮮人が長年にわたる努力で建設・維持してきた朝鮮大学校に押しかけて差別的言辞を吐いて侮辱し嫌がらせをした事例。③東京・三鷹市における日本軍性奴隷制(「慰安婦」)問題の報告集会に対して横槍をいれ、会場前に押しかけて出入りを妨害し、集会を妨害した事例。④東京・秋葉原において外国人排除をアピールするデモ行進を行い、反対意見のプラカードをもった市民に襲いかかり激しい暴行を加えた事例。
これらはいずれも「在日特権を許さない市民の会(「在特会」)」と称するグループの呼びかけ行動である。ネット上での言論活動や、講演会、街頭宣伝など多彩な取組みをしているが、時に集団で暴力行動に出る。しかも、自分たちの暴力行為を収めた映像を堂々とネット上に掲載している。
在特会とは、「在日韓国人・朝鮮人(以下、在日)問題を 広く一般に提起し、在日を特権的に扱う、いわゆる在日特権を無くすことを目的とする」団体である(会則四条)。事業は、講演会・勉強会の開催や調査・研究となっているが、「その他、当会の目的達成に必要なことを行う」(会則五条四)とあり、暴力活動もこれに含まれるのかもしれない。会員は七〇八〇人である(同会ウェブサイト、一一月二日現在)。もっとも、これはネット上でアクセスした数であり、実際の行動メンバーがこれだけいるわけではない。在特会は次のような主張をしている。
「在日特権を許さないこと…極めて単純ですが、これが会の設立目的です。では在日特権とは何か?と問われれば、何より『特別永住資格』が挙げられます。これは一九九九年に施行された『入管特例法』を根拠に、旧日本国民であった韓国人や朝鮮人などを対象に与えられた特権です。在日特権の根幹である入管特例法を廃止し、在日をほかの外国人と平等に扱うことを目指すことが在特会の究極的な目標です。しかしながら、過去の誤った歴史認識に基づき『日帝の被害者』『かわいそうな在日』という妄想がいまだに払拭されていない日本社会では、在日韓国人・朝鮮人を特別に扱う社会的暗黙の了解が存在しているのも事実です」(同会ウェブサイトより)。
歴史の全体像を見ずに、都合のよい部分だけを切り取り、ご都合主義的に恣意的な「解釈」を加えて「在日特権」なる言葉を作り出し、この立場から、在日朝鮮人をはじめとする人々に襲いかかり、差別と暴力を撒き散らしている。
市民の両義性
在特会をめぐる最近の動向を見ていて気づく点を確認しておこう。
第一に、秋葉原の事例が典型だが、他の場合にも、在特会の暴力行為を、警察が漫然と見逃していることである。伝聞情報であるが、行き過ぎた暴力のないように間に割ってはいることもあるが、暴力行為の瞬間にはニヤニヤ笑って見ている警官が複数いたという話を聞いた。在特会は自分たちの暴力活動映像をネット上に掲載している。しかし、警察が捜査に動いたという話は聞いたことがない。在特会と警察の間に連携があるとは言わないまでも、警察が彼らの暴力を黙認してきたのは事実だろう。
第二に、マスメディアである。ネット上では、在特会の暴力が速報され、抗議声明なども出されてきたが、マスメディアの姿勢には不可解な例が散見される。三鷹の事例では比較的よく報道されたが、他の事例ではそうとはいえない。朝日新聞などは在特会会長の発言を一面で紹介しているほどである。「両論併記」の形をとれば、ヘイトクライム集団を持ち上げても平気という編集姿勢だ。
このように在特会はすでに警察とマスメディアによって暴力活動の自由を半ば保障されている。
思い起こす必要があるのは、日本には人種差別禁止法がないことだ。「ヘイトクライムは日本では犯罪ではない」のだ。二〇〇一年、人種差別撤廃委員会は、日本政府に対して人種差別禁止法の制定を勧告した。二〇〇五年、国連人権委員会の人種差別に関する特別報告者は、「日本政府は、自ら批准した人種差別撤廃条約第四条に従って、人種差別や外国人排斥を容認したり助長するような公務員の発言に対しては、断固として非難し、反対するべきである」と、人種差別禁止法を制定すること、国内人権委員会を設立することなど多くの勧告を行なった。二〇〇八年、国連人権理事会は日本政府に対して人種差別等の撤廃のために措置を講じるよう勧告した。
ところが、日本政府は「日本には深刻な人種差別はないから禁止法は必要ない」とか、「表現の自由があるから人種差別の処罰は困難である」と述べて世界を驚かせた。「人種差別表現の自由」を主張したのである。この姿勢に基本的な変化はなく、二〇一〇年春に予定されている人種差別撤廃委員会への日本政府報告書は、やはり人種差別禁止法の制定に否定的である。マスメディアも人種差別禁止法のキャンペーンどころか、ヘイトクライム団体を持ち上げている有様である。
それでは自由・平等・連帯の担い手たるべき市民はどうか。異分子や外国人を差別し排除してきたのは、実は警察やマスメディアだけではないし、政府主導とばかりいえないかもしれない。市民こそが自分たちの安全・安心を求めて、朝鮮人を差別することに自分たちの利益を見出してきたからである。市民は差別の防波堤になる場合もあるが、時に差別と迫害の主犯となることもある。傍観者となることもある。そこに在特会の忍び寄る隙間がある。
植民地支配によって利益を得た(と思った)のが支配層だけではなかったように、グローバリゼーションに便乗して利益を得るのも支配層だけではない。まして国際競争から脱落する危険と不安に苛まれている日本の市民が、国家主義と排外主義に転じるのは容易なことである。「守られるべき主体」に自らを加工=仮構する市民の安逸こそが差別の現実的根拠であるかもしれない。