本日午後開催予定の日本民主法律家協会・第62回定時総会に出席できないため、『議案書』に「紙上発言」という形で掲載してもらった私の文章を紹介します。
ずっと以前から主張してきたことですが、あまりストレートには打ち出してきませんでした。今回はずばり「レイシズム憲法」と銘打って、日本国憲法には平和主義とレイシズムが同居していること、この矛盾をどう解消するかの議論が十分なされてこなかったことを指摘しています。
平和憲法学・民主主義憲法学と言いながら、同時にレイシズム憲法学です。だからこそ多くのリベラル派の憲法学者が懸命になってヘイト・スピーチを擁護してきたのです。
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日本民主法律家協会・第62回定時総会議案書
2023年8月5日
総会・紙上発言
レイシズム憲法を超えて
前田 朗(朝鮮大学校非常勤講師)
もはや年中行事と化してしまったので誰も驚かないが、日本のジェンダーギャップ指数が世界一四六カ国中一二五位となった(世界経済フォーラム)。過去最低の数字で、ほぼ定位置(低位置)となった。しかし、日本政府にも社会にもこの状況を変えようとする意思がまったく見られない。誰もが安穏としているようだ。
ジェンダーギャップだけではない。副首相が「セクハラは犯罪でない」と公言し、職場における女性差別は温存・再生産され、インターネット上の差別が女性に深刻な被害を与えている。この国では性差別は所与の前提である。家父長制は根深く、小手先の措置を繰り返しても現実は容易に変わらない。
あらゆる差別が容認され、政府によって組織化され、マイノリティを圧し潰す。二〇二三年の入管法改悪とLGBT理解増進法により、難民・移住者差別と性的マイノリティ差別が改めて念入りに法制化された。ヘイト・クライムとヘイト・スピーチがどれだけ激化しても、マイノリティ権利保護の主張は猛烈に非難され、マジョリティの専制が固定化される。
性差別とレイシズムと家父長制の日本社会を担保するのが憲法政治であり、日本国憲法だ。自覚なきレイシズム憲法学がこれを後押しする。レイシズムと男性中心主義は近代国民国家の憲法に共通だが、この国ではさらに後ろ向きの憲法解釈が実践される。何しろ「人として認められる権利」(世界人権宣言)さえ認めないのが日本憲法学だ。
平和的生存権、戦争放棄、軍隊不保持の日本国憲法だが、残念ながら同時に象徴天皇制と外国人排除の憲法でもある。過去の戦争を反省したことになっているが、被害の反省であって加害の反省ではない。植民地支配への反省は見られない。戦争推進の要の天皇制を残存させた。家父長制の基軸としての天皇制には性差別が内包されている。平和主義とレイシズムが矛盾したまま同居しているのが日本国憲法だ。法の下の平等と女性差別が同居しているが、矛盾の解析がなされない。
憲法制定議会のための衆議院議員選挙(一九四五年一二月)は、沖縄県民と旧植民地出身者の選挙権を停止して実施された(古関彰一)。沖縄県民を排除して憲法第九条が制定され、在日朝鮮人を排除して「国民の基本的人権」が語られた。憲法学は異議を申し立てない。身分制と外国人排除の日本国憲法の下でジェンダーギャップが拡大し続けるのは自然なことである。
せっかくの平和憲法が日米安保軍事同盟によってズタズタにされている。平和主義は足蹴にされ、今や集団的自衛権の行使、敵基地攻撃論、戦時国家への武器供与と、何でもありの軍事国家が現出している。
民主主義法学は日本国憲法の平和主義と民主主義を発展させ、具体化するために努力を重ね、膨大な理論的成果を生んできた。しかし、現実は理論から遥か彼方に遠のいてしまった。理論が現実を拘束できていない。現実把握すらできていない疑いがある。まさに崖っぷちである。
それゆえ民主主義法学の課題は山のようにある。現実の中に胎生する日本的特殊性を切開し、近代の歪みそのものに遡及し、人として認められる権利と人間の尊厳という出発点に立つために、私たちは出直す必要がある。
憲法第九条を取り戻し平和憲法を活性化させることと、憲法第二四条を守りジェンダーギャップを埋めることが、ミリタリズムを押しとどめる民主主義法学の喫緊の課題となっている。