
Sunday, May 25, 2008
ガダルカナル不法滞在記




ガダルカナルでオーバーステイになった。
パスポートを開いて日付を確認する。間違いない。今日が最終日だ。ヤバイ!
昼前に出国する予定だったのに、ナウル航空がダブルブッキングのため搭乗できなかった。空港の係官は「残念だね。来週またお出で」とのたまう。ナウル行きのフライトは週に一便しかないからだ。
仕方がないので、タクシー飛ばして首都ホニアラに戻った。土曜の昼だ。大急ぎで旅行代理店に飛び込んで、火曜のフィジー行きのフライトを確保してもらった。
朝チェックアウトしたばかりのホテルに戻って再びチェックイン。
フロント係は「ナウル航空ではよくあることよ」。
部屋に入って荷物を置いてホっと一息。その時、気づいた。滞在期限は今日までだ。オーバーステイになってしまう。
フロント係に相談すると、「土曜の午後だから政府もみんな閉まってるわ。月曜まで待つしかないわね」。
いったいどうすればいいのかわからない。
オーバーステイだ。不法滞在。外国人収容所。強制収容。強制送還。大村、茨木、牛久――日本政府が外国人に対してどんな仕打ちをしてきたか、頭の中を駆けめぐる。背中を冷たいものが流れた。顔は真っ青になっていたに違いない。
ソロモン諸島に入国するために事前にビザを取る必要はない。主島ガダルカナルのヘンダーソン空港で入国審査の際に滞在予定期間を聞かれる。一週間と答えると、パスポートにビザがスタンプされ、一週間後の日付が記載される。
ダブルブッキングで出国できなくなるとは予想もしていなかったから、正確に日付を記載してもらったのが失敗だ。数日の余裕を見ておくべきだった、と悔やんでも遅い。
ソロモン諸島を訪れたのは軍隊のない国家を調査するためだ。世界にはコスタリやパナマをはじめとして軍隊のない国家がたくさんある。太平洋のミクロネシアには、ミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル諸島、キリバス、ナウル。ポリネシアには、サモア、トゥヴァル、クック諸島、ニウエ。そしてメラネシアには、ソロモン諸島、ヴァヌアツ――軍隊のない国家は太平洋だけで一一カ国ある。ミクロネシア連邦やパラオは日本のお隣さんだ。
ソロモン諸島のガダルカナルでは、まず首都ホニアラの政府、国会、裁判所などを訪れた。国立博物館の中にある図書館も役に立った。
一段落してからは戦跡めぐりだ。第二次大戦時に、日本軍はガダルカナルを占領した。これに対して南のヴァヌアツ側から連合軍が迫る。ホニアラ沖では日米の海戦が激しく戦われた。数十隻の艦船が沈没したままになっている。
ホニアラ周辺のアウステン山などでの陸戦は「血まみれの丘」や「地獄の岬」という地名を残すことになった。日本軍全滅の地である。タンベアやエスペランサ岬では飢餓とマラリアのため大半の兵士が無駄死にした。各地に日本軍慰霊碑が建っている。
これらの戦跡をめぐりながら国家や戦争についてしばし考えた。そしてホニアラに戻ってみると町の真ん中に建っている像が目に入った。日本軍と戦った地元の部隊のリーダだったチャールズ・ジェイコブ・ヴーザの像だ。ソロモン諸島では戦争英雄として名高いという。日本では聞いたことのない話だ。この像はヴーザが亡くなった後に連合国が建立したものだ。
日本人は日本軍慰霊碑を太平洋各地につくってきた。その数は一六〇〇に及ぶという。ところが、日本軍占領下で被害を受けた現地の人々、戦争に巻き込まれて亡くなった人々の慰霊碑を日本人は建てない。連合国は少なくともヴーザ像を建てた。加害者なのに被害ばかりを誇大申告する日本人の病理を思わずにいられない。
病理――まさに病気としか言いようがない。日本政府の出入国管理も異常である。
政府関係者は、日本の出入国管理はしっかりしていると自慢してきた。朝鮮人管理を主たる目的として形成・展開してきた出入国政策は、一見するとよくできているように見える。誰にとってよくできているのかは言うまでもない。
朝鮮人管理は、管理のための管理ですらなく、抑圧と差別のための管理であり、同化を迫る政策であった。差別されるのが嫌なら日本人になれ。近年の来日外国人に対する管理も、犯罪者扱いを隠そうともしない差別性に満ちている。
それでは本当によくできているのだろうか。そんなことはない。
沖縄で女子中学生を強姦した米軍兵士は、どのようにして入国したのか。安保条約・地位協定ゆえに、米兵は日本政府の出入国管理とは無関係に、入国している。基地内だけではなく民間住宅地に居住している。日本政府はいったい何人の米兵が入国しているかすら正確に把握していないし、何人が民間住宅地に居住しているかも知らない。知ろうともしてこなかった。
かつては殺人や強姦の容疑者が基地に逃げ込み、アメリカに逃げ帰ってしまう例もあった。
米軍に対するフリーパス付与は植民地的と言うしかない。その反動として朝鮮人やアジア各地からの人々には徹底的に取締りを行う。この病理は根が深い。
さて、ソロモン諸島だ。
月曜の朝、政府に駆け込んで事情を説明した。
「オーバーステイ? それがどうかしたの?」
衝撃の反応だ。
「火曜のフライト・チケット持っているんだから問題ないよ。出国時に空港で一言届ければいい」
なんだこれは? ちょっと待って、といいたくなるが、実際その通りになった。火曜の午後、無事にフィジー行きの機上からガダルカナルの紺碧の海を見下ろした。三日間の不法滞在は、日本という国の特質を改めて思い起こさせることになった。
月刊イオ142号(2008年4月)
Wednesday, May 21, 2008
Wednesday, May 14, 2008
Friday, April 04, 2008
ランディ・コタールに吹く風


ペシャワールからアフガニスタンに向けてグランド・トランク道路を走る。
パキスタン北西辺境州と呼ばれる地域はアフガニスタンの最大民族と同じパターン人(パシュトゥ人)が居住する地域だ。パキスタンの中でも特別な地域で法律も別扱いだという。カラシニコフなど改造銃や麻薬が流通する闇の世界だ。急峻な岩肌の山道を登りきったランディ・コタールから国境のカイバル峠を見晴らすことができる。
ぼくらはランディ・コタールに何度も足を運んだ。牛や材木を積んだ大型トラックが何台もゆっくりと走っていく。ここから下ると国境検問所の向こうには沙漠が続いている。帰還する難民をすし詰めにしたバスがカーブで風を切る。屋根の上に座っている子どもたちが歓声をあげる。2002年3月には戦争が「収束」したから難民の帰還が続いていた。
2003年3月にイラク戦争が始まると、アフガニスタンへの関心は急速に薄らいでいった。あれから4年――。
福田“低姿勢”康夫内閣は「新テロ特措法(補給支援特措法)」を国会に提出したが、自衛隊による米軍への洋上給油に疑惑が浮上した。法の目的外の給油が行われていたのだ。再びアフガニスタンに注目が集まった。
2007年夏の韓国人人質事件に見られるようにアフガニスタンには安全もなければ自由もない。何も外国人だけではない。11月下旬に人道NGOの「オックスファム英国」が発表した報告書によると、アフガニスタンにおける米軍やISAF(実質はNATO軍)による空爆はイラクより激しく、民間人犠牲者が増加しているという。空爆回数はイラクの4倍だという。
2002年10月以来続く戦争のため、アフガニスタン民衆は世界最低水準の暮らしを5年間も余儀なくされている。ソ連侵攻、ムジャヒディン内戦、タリバーン独裁に続く戦争であるから、アフガニスタン民衆は30年戦争の中で生きていることになる。戦争が「収束」するのはいつのことだろうか。
しかし、日本での議論はアフガニスタン民衆の命と暮らしに向けられることはない。米軍支援ではなく国連決議による自衛隊派遣ならよいなどという小沢“プッツン”一郎民主党党首の戯言に続いて、「防衛省の天皇」と呼ばれた前防衛次官が収賄容疑で逮捕され、政治家と官僚の“腐敗競争”が続いている。この国はいつも汚職の季節だ。
11月20日にはルイズ・アーバー国連人権高等弁務官が、アフガニスタンにおける民間人犠牲者の増加を指摘し、ISAFとタリバーンの双方を批判した。侵略者と抵抗者を同じレベルで批判するのは妥当とは思えないが、民間人犠牲者に焦点を当てているのは当然である。
9.11を口実にしてブッシュ政権が始めた「テロとの戦争」の嘘がすっかり暴露されても、米軍は泥沼のアフガニスタンとイラクから撤退することなく、相変わらず空爆を繰り返し民間人を殺戮している。アフガニスタン政府も、米軍やISAFと一緒に自国民を殺害している。テロと無縁の大半のアフガニスタン人が困窮にあえいでいる。
ペシャワールの難民キャンプで出会った子どもたちの大きな瞳と悲しげな表情を思い出す。見渡す限りテントが張りめぐらされたコトカイ難民キャンプでは、大勢の難民に取り囲まれた。一言も発することがない沈黙の視線が痛かった。手作りの土の家が並ぶニュー・シャムシャトゥ難民キャンプで取材した難民家族が振舞ってくれた紅茶は少しも苦くなかったが、心はどうしようもない苦味に浸されていた。ニュー・シャムシャトゥ難民キャンプは帰還が進んでいなかった。
カチャガリ難民キャンプは帰還した難民が多く、土の家が取り払われて整地が始まっていた。跡地利用の計画が動き始めた。しかし、帰還した難民はどうなったのだろうか。無事に故郷に帰ったのだろうか。暮しは成り立つのだろうか。今も生きているのだろうか。
ランディ・コタールからカイバル峠を見下ろすたびに、暖かな風に吹かれてボブ・ディランの「風に吹かれて(Blowin’ in the Wind)」を口ずさんだ。「いつになったら為政者は民衆の声を聞くのだろう。どれだけ人が死んだら気づくのだろう」。その答は吹く風の中にあるのだろうか。ディランは、そんなことを言おうとしたのだろうか。
ランディ・コタールに吹く風の中に答はない。ぼくはいつも風に吹かれて流されながら答を求めていた。でも、いくら風に吹かれても答は見つからない。
ディランが言おうとしたのは、風に逆らって答を掴み取れということだったのではないか――今はこう解釈することにした。ペシャワールで出会った難民たちとの約束を果たせていないぼくの責任を忘れないために。