Wednesday, February 11, 2009

非武装・中立のオーランド(1)

 バルト海のオーランド諸島(フィンランド)は非武装・中立・自治の島として知られる。朝鮮半島の非武装地帯とはまったく意味が違う。国際社会の支持を受け、周辺諸国の承認のもとにある「平和の島」である。フィンランド領なのに、独自の中立政策を認められているのはなぜだろうか。

アーキペラーゴの要塞

ストックホルム(スウェーデン)からオーランド諸島の首都マリエハムン行きの大型遊覧船に乗る。小さな子どものいる家族連れの客が目立つ。一日観光に出かけて、船の中の免税店でお土産(酒、煙草、化粧品など)を大量に買って帰るのだ。オーランドにはフィンランド本国とは異なる関税制度がしかれて格安のためスウェーデン客が押し寄せる。オーランドの観光収入となる。遊覧船には子ども向けの施設もあるから遊ばせておけばいい。大人はデッキでビール片手に生バンド演奏を楽しめる。

船はストックホルム海域のアーキペラーゴ(群島)を抜けて進む。オーランドもアーキペラーゴの海/島だ。地図で見るとデンマーク北部、ノルウェー、スウェーデン南部、そしてフィンランドにかけて同じような海/島が続く。オーランドはアーキペラーゴそのものだ。陸地面積は沖縄より一回り大きい一五〇〇平方キロなのに、島の数は六五〇〇もある。日本列島の島が三三〇〇だから、その多さがよくわかる。一軒の家屋建物がポツンと建っているだけの島、小さな灯台があるだけの島、何もない吹きさらしの岩などが続く。島というよりも岩といったほうが適切なものが多い。ともあれ全体でオーランド諸島である。

一七世紀、スウェーデンは「バルト帝国」とも呼ばれる勢力を誇って近代化の道を歩んでいた。オーランドはスウェーデン領であり、スウェーデン語を話すスウェーデン人が居住していた。ところが一八世紀初頭、ロシアがスウェーデンに攻撃を仕掛け大北方戦争となり、ロシアはフィンランドとオーランドを獲得した。その後、オーランドはフィンランドの一部としてロシアの支配を受けた。

オーランドはバルト海の奥、ボスニア湾の入口にある。バルト海域諸国にとってはまさに要衝の地である。ロシアは一八五〇年代、オーランドに要塞建設を始めた。現在の首都マリエハムンから車で三〇分ほどの海峡に面した、巨大な要塞ボーマルスンである(日本では英語読みのボマースンドという表記が用いられてきた)。

一八五三年、ロシアとトルコのクリミア戦争が始まると、イギリスとフランスは、ロシア封じ込めのためにトルコ側についた。一八五四年、英仏艦隊はボーマルスンに総攻撃をかけた。建設途中のボーマルスンは徹底破壊され、廃墟となった。

ボーマルスン遺跡を訪れると、大半が崩壊した石壁を見ることができる。砲台の壁には当時の爆撃痕も残されている。無残な遺跡がアーキペラーゴの海を見つめている。近年、遺跡の調査・研究が進んでいる。

一八五六年、イギリスとスウェーデンが中心となったパリ講和時の協定は、ボーマルスンを含むオーランドの非武装化を決定した。オーランド非武装・中立化の第一段階である。

新渡戸裁定

 一九一五年、第一次大戦の渦中、ロシアは再びオーランドに軍事施設を建設しようとした。ここでも利害が錯綜する。ロシアはドイツの進出を恐れた。オーランドはストックホルムの沖合にあるので、スウェーデンにとってはロシア軍の存在が脅威となる。フィンランドから見ればスウェーデン軍が脅威となる。こうした中、オーランド島民は、当時の民族自決権の高まりの影響を受けて、フィンランドからの分離、スウェーデンへの編入を求めた。オーランド島民はスウェーデン人である、と。

ロシアの要塞建設はロシア革命のために終わったが、オーランド帰属問題が残された。スウェーデンとフィンランドの対立が激しくなる。民族自決権をたてにするスウェーデンに対抗して、フィンランドは一九二〇年、オーランド自治法を制定し、領土を確保しつつ住民自治を認めた。しかし、頭越しの法律をオーランド島民は受け入れなかった。

紛糾を見かねたイギリスが間に入り、スウェーデン=フィンランド紛争を、発足間もない国際連盟に付託して、その判断を仰ぎ、両国はその決定を受け入れるとの約束を結んだ。

こうして舞台はジュネーヴの国際連盟に移った。国際連盟理事会は、①オーランドの主権はフィンランドにある、②オーランドには自治権が認められる、③オーランドを非武装・中立とする、という裁定を下した。この提案は、国際連盟初代事務次長であった新渡戸稲造によるものだという。理事会の様子を描いた絵画が国連欧州本部に残されていて、理事会の席で立ち上がって演説をしている日本人の姿が確認できる。窓の向こうにはレマン湖とモンブランが見えるので、現在のパレ・ウィルソン(人権高等弁務官事務所)の会議室だろうか。連盟裁定は新渡戸裁定とも呼ばれる。

国際連盟理事会にオーランド島民は招請されず、再び頭越しの決定であったが、フィンランド政府は、オーランド島民のスウェーデン語や伝統・文化を尊重することにし、オーランド島民はオーランド自治法を受け入れることにした。

一九二一年、スウェーデン、フィンランド、ドイツ、フランス、エストニア、ラトヴィアなどがオーランド諸島非武装中立化の協定を締結した。これにより、①フィンランドはオーランドに軍事施設を置くことも、武器弾薬の製造・搬入・搬出も禁止された。②特別な場合に海軍が一時寄港する例外を除いて、陸海空軍の駐屯も禁止された。③オーランドは中立地帯であり、いかなる軍事利用も禁止された。フィンランドは、紛争の際にもオーランドを戦争の局外に置くことになった。ロシア革命政府はこれを認めなかったが、一九四〇年にフィンランド=ソ連邦条約で確認された。これがオーランド非武装・中立化の第二段階である。

さらに、オーランド島民は兵役を免除されている。一九二〇年の自治法がすでに島民に兵役代替制度を認めていた。兵役免除は非武装化の帰結であるとともに、自治権としての居住権と結びつき、スウェーデン語の尊重と関連すると理解されている。

スウェーデンへの帰属を求めたオーランド島民は当初は不満を持ったが、その後、非武装・中立・自治にオーランド・アイデンティティを見いだすようになり、「平和の島」を唱え、紛争予防・紛争調停の「オーランド・モデル」を語るようになった。今日でもオーランド自治政府や平和研究所が、世界に向けて平和研究のメッセージを発信し続けている。

( 「月刊社会民主」2008年11月号 )