刑法イデオロギーの解体と溶解(「救援」490・491号、2010年2月・3月)
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啓蒙の啓蒙
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「啓蒙主義的刑事法改革は、審問手続を解体し、刑事裁判から拷問を放逐した。無制約な裁量権を行使する『万能の裁判官』はいまや法律による厳格な拘束を受け、無論のこと、身体的な責苦の暴力はもはや不法の歴史となるべきものとされたのである。旧来の法制度とそれによる裁判方式が否定され、カルプツォフもまた、偉大な法学者としての名声と(いわれなき)汚名を歴史に残しつつ、その影響力を失うことになった。」
著者が長年にわたって書き継いできた論考を集大成した宮本弘典『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房朔、二〇〇九年)は、刑事法の歴史と論理への接近方法に転回をもたらし、国家刑罰権に貫通する正統化イデオロギーを自壊させながら、刑事法批判の可能性に沃野を拓こうとする。風早八十二、櫻木澄和、足立昌勝、内田博史等々の名に代表される刑法史研究や法史学に学びつつも、それらとは一線を画して、颯爽と叛旗を翻す。理由は明快だ。
刑法史の展開過程を追跡して歴史の弁証法を探求しようとする刑法史研究は、対象の歴史の中から刑法の論理を探り当て、再構築して、近代法原則を描き出そうと試みてきた。経済史的研究であれ文化史的研究であれ、刑法とそれを支える構造(経済構造、社会構造、または文化意識構造)の総体の分析を通じて、歴史の発展段階に即した刑法理論を打ち出し、あるいはそれを批判してきた。他方、法学的世界観の枠内に踏みとどまる歴史研究の場合も、たとえば法概念史という形で、それぞれの時代における概念の論理的展開を諸学説の対抗と影響関係の中から浮上させる方法をとってきた。宮本は、これらの方法を否定も肯定もしないが、そのままの流儀ではなく、解きほぐし、結び合わせ、時には強引に捩り、捻るようにして独自の手法のそこここに編み込んで見せる。刑法学のためにではなく、<反-刑法学>をめざして。
啓蒙主義的刑事法改革の研究には長い歴史があり、蓄積がある。階級史観的研究、もろもろの構造論的研究、概念史研究、学者人物研究といった多彩なそれは、宮本によって解体され、分類され、別異に彩色され、新しいラベルを貼られる。拷問の廃止や死刑の制限や各種の異端犯罪の除外や、さまざまな啓蒙主義による近代化や人間化や人道化は、確認されつつも実は括弧に括られる。
そのために宮本が用意した舞台は、フリードリヒのプロイセンでもフォイエルバハのバイエルンでもない。カロリーナ刑事法典、カルプツォフ、魔女狩り、シュペー、ソンネンフェルスといった名前を与えられた役者たちが宮本の舞台で演じるのは、前期啓蒙から後期啓蒙に至るドイツ、特にオーストリアにおける憤怒と悔恨の悲喜劇である。啓蒙から啓蒙に至る精神の決して鮮やかならざる軌跡である。
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交響する公共
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「啓蒙主義的刑事法改革による審問手続の克服が『真の進歩』であるとすると、果たして『この進歩の意義』をどう解するべきだろうか。審問手続は、『正義の愛好よりして、かつ、公共の利益のため』(カロリーナ第一〇四条)の、『法(正義)と衡平にもっとも適合したる審理』(同序文)であった。アウトサイダーたる『ラントに害なす者共』であれ、カルプツォフのいう人類=キリスト信仰者の敵としての『魔女』であれ、刑事裁判はこれらの敵のもたらす災厄の真相を解明し、これら敵に『正当な裁き』を与える場であった。現在我われの眼前にある刑事裁判は、果たしてこれと異なる論理と心理によって営まれているだろうか。」
宮本のカルプツォフは、カロリーナと魔女狩りの時代を啓蒙の精神に貫かれて前進しながら後退する。蛇行し、脱線し、応急修理の繰り返しに悩まされながら、それでも確かに前進する意欲を失うことはない。隅から隅まで時代に刻印された刑法ではなく、己の固有名詞を冠した刑法を樹立する営みは、進歩の反映であるとともに反逆の痕跡を残しかねない。狭間で引き裂かれるようにカルプツォフは魔女狩りの歴史に参戦させられる。藤本幸二『ドイツ刑事法の啓蒙主義的改革とPoena Extraordinaria』(国際書院、二〇〇六年)のカルプツォフが啓蒙の使徒を演じるのに対して、宮本のカルプツォフは啓蒙に自己否定を埋め込む役割を演じる。
舞台は廻る。役者は変わる。章立ても変わる。観客も変わる。異なる悲喜劇を演じるのはシュペーであり、ソンネンフェルスである。――果たしてカルプツォフとシュペーとソンネンフェルスは別人なのか、同一人物なのか。その答を宮本は記していないが、「ラントに害なす者共」と「魔女」が並記されているように、「真の進歩」「正義の愛好」「公共の利益」が交響する舞台の裾で行く手を阻まれるアウトサイダーたちの視野に何が映り、彼らの耳にいかなる楽章が響いているのかを考えれば答は明らかであろう。彼らの耳にもはや届かない楽章と言い直すべきだろうか。
宮本と我われの「眼前にある刑事裁判」とは、言うまでもなく代用監獄、強制自白、長期勾留、人質司法といった名辞とともに語られてきたそれであるが、もしこれらの名辞を削除することができたとして、それでもなお、と宮本は続ける。構造論に支えられた大きな段階論だけでなく、諸現象の変化の積み重ねによる小さな段階論も含めて、その意義を認めつつも、段階論よりも、刑罰権イデオロギーの謎に迫る方法論的課題ゆえに、次のように結論付けられることになる。
「確かに刑事裁判のモードはその原風景を脱したかに見える。だが、刑事裁判が『敵』との闘争手段であり、国家/権力による正義と公共性の守護神であり続ける限り、そのアニムス・アニマとして、審問手続は刑事司法が胚胎せざるを得ない無意識であり続けるのだろう。刑事裁判の、したがってまた『正しい暴力』の根拠をなす法を批判することなく、その拘束をむしろ甘受して、カルプツォフは裁判官の裁量権限を拡大するとともに、具体的妥当性を有する判決を導くべく、審問手続の要件を整除した。(ドイツ)『刑法学の祖』のこの姿勢もまた刑事法学のアニムス・アニマであり、現在に続く刑事法学の『黙示録』なのだろうか。」
召喚されているのはヨハネだろうか、それともコッポラだろうか。いずれにせよ「刑事司法が胚胎せざるを得ない無意識」への探訪が課題とされるのだから、従来の刑法史研究も解体せずにはいられない。それでは刑事司法の法意識論と無意識論の可能性はどこに見出されるのだろうか。
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合意の強制/共生の強制
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刑事法の歴史と論理への接近方法に転回をもたらし、国家刑罰権に貫通する正統化イデオロギーを自壊させながら、刑事法批判の可能性に沃野を拓こうとする宮本弘典『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房朔、二〇〇九年)は、現代日本の国家刑罰権をめぐるイデオロギー闘争の前面に躍り出る。
「近時の国家刑罰権力の正統化戦略は、処遇イデオロギーの終焉という標語に明らかな通り、イデオロギー的正統化との訣別とともに、刑法システムが営むとされる『現実』の機能による正統化への移行が顕著になっている。その特質は、テクノクラシーに基づく政治支配の現実を反映し、経験的な批判を封殺することにあるが、理論的には啓蒙期の予防構想を越えて、むしろ前近代における刑法の道具的性格を強化する傾向をあらわにするものである。現に、一九七〇年代後半に始まった積極的特別予防(再社会化)理念の放棄と、それが益々加速化した一九九〇年代の積極的一般予防理論の台頭は、犯罪に即応する謙抑的な刑罰という啓蒙期の刑法像を放棄し、いわゆる『制圧(撲滅)立法』、更には『象徴的立法』ともいうべき刑事立法の活性化をもたらしている。刑法はいまや、予防的先制暴力の相貌を明らかにし、犯罪闘争が『国内の敵に対する戦争』と位置づけられることで、国家/権力の『友/敵原理』を貫徹する手段と化しつつある。」
宮本が「国家刑罰権の現在」として設える舞台で同時並行上演されるシナリオは、警察権力による人権侵害的捜査やそれを名目とした政治弾圧でも、検察権力による政治・公安目的捜査でも、「権力の走狗のそのまた手先」と成り果てた裁判所による近代法原則破壊実務でもない。拷問や冤罪や死刑を研究対象に捉えてきた宮本は、これらも視野に入れてはいるが、それ以上に「国家刑罰権の現在」を体現している「共謀罪」を集中的に取り上げる。二〇〇九年七月の衆院解散により、提案から一五国会を経てついに解散に追い込んだ「共謀罪」の葬送行進曲でもある。「共謀罪」との闘いの先頭に立った宮本の主著に相応しい叙述が続く。
同じ一つの廻り舞台で、まず上演されるのは「安全な社会」のパラドクスとしての、危機管理国家における統治の正統化戦略である。法務官僚らにより「外圧」を口実としてごり押し突破が図られた共謀罪の、刑事政策的合理性への批判を枚挙し、刑法理論への撹乱と矛盾が暴きだされる。第一主旋律は「合意の強制」のテクノロジーであり、「民主主義社会の安全といい、自由社会の安全といい、こうしたテクノロジーが貫徹される社会が『安全』なのだとしたら、それはまさにパラドクス以外の何ものでもない。刑法という暴力が、危機管理国家ないし予防国家の政治支配の道具としてそのイデオロギーを剥き出しにするとき、そこに現前するのは、自律と連帯・寛容と共生を根こそぎ否定する重武装国家・暴力国家・監視国家以外の何ものでもない」という。もっとも、「共生」の否定は別の形の共生の強制であるだろう。
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必然としての国家テロル
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共謀罪検証の第二主旋律は「予防刑法の病理」である。共謀罪法案の孕む諸問題の中でも、刑法理論に標的を絞った理論的検討である。ここでは当初の政府・法務省案の問題点があまりに多かったことが指摘された上で、与党「修正」案がこれらの問題点をクリアしているかが問われる。第一に、対象団体の無限定性である。形式的には制限的にみえそうな修正案だが、予防刑法の全面化・日常化の論理はその制限を軽々と飛び越えてしまう。役者が脚本家も舞台監督も勝手に兼ねているから容易な話だ。第二に、共謀概念の無限定性と共謀独立処罰のイデオロギーである。融通無碍と批判された共謀概念を、謀議の具体的要件をふすことで、制限的にする試みである。しかし、判例と学説が積み上げてきた共謀共同正犯概念を見れば直ちに底が割れてしまう。「共謀独立処罰は、国家存立ないし権力中枢の危機に際しては、法が国家/権力を拘束する緊衣ではなく、むしろ権力による暴力を正当化する道具に転化することを示している。それは予防刑法という危機管理国家の暴力装置の必然的帰結である」。
同じ主題を同じ舞台で、しかし、異なるシナリオと旋律の下に演じるために、次に配役されたのが反テロ=意思刑法である。共謀罪をめぐる動向の中から浮上してくる組織犯罪対策の問題点を追いかけ、「テロ等謀議罪」に至るクライマックスで、宮本は「ブッシュ・ドクトリン」「恐怖のグローバリゼーション」という地上の大魔王と格闘する。
「例外状態においては従って、むしろ国家によるテロリズムに対する恐怖こそが問題となる。権威主義国家と同様、市場国家としてのシステム危機管理国家もまた、安全の調達=セキュリティ保持のための暴力の所有と行使のそれへと退行し、刑法という国家テロルによる成員の忠誠と合意の強制という、刑法の原初的暴力性を顕わにせざるを得ない。そもそも(近代)国家は、暴力の独占を正統化し、同時に暴力を最も組織的に、最も効率的に行使する主体として自己形成してきたのであり、それゆえ、正しい暴力と正しからざる暴力の定義の権限をも独占するからである。国家/権力が自らの暴力を正統化し、またその暴力の所有と行使によって自らの存在を維持しようというとき、正しからざる暴力の脅威・恐怖を最大化し、自らの暴力をそれに対する予防対抗暴力と定義する。つまり、(対外的・対内的)安全保障としての国家テロルの必要性を主張するわけである。」
ここに宮本刑法学のエッセンスが表現されている。
第一に、発展段階論的な刑法把握では、近代刑法原則の成立とその変容・変質が語られるのに対して、宮本刑法学では、近代刑法そのものの本質暴露の過程が語られる。<初めに言葉ありき>と見事に交響する<初めに暴力ありき>。
第二に、近代国家の同意調達システムとしての官僚的テクノロジーの分析。それゆえ、無秩序に肥大化した腐敗独裁権力の「暴力」ではなく、法の衣をまといながら法の衣を脱ぎ捨てる現代官僚主義の刑法換質が浮上する。最初から二人羽織の刑法実践に御用学者の三人羽織が次々と参入する。「二項対立的で排他的なアイデンティティ・ポリティクスは、それ自体『自らの正義』の僭称による暴力の拡散を招来する」。
そうであれば、宮本刑法学はつねに<反-刑法学>となるべく運命付けられていたというべきだろう。
物語が終わり、主旋律が静かに終焉を迎え、幕が下りる、ぎりぎりその前に、廻り舞台のあちこちに置き去りにされ、宙吊りにされ、埋め込まれていた小道具たちが、舞台監督や役者の思惑を無視して舞台を所狭しと乱舞し始めるに違いない。監督も脚本家も役者も楽団員も立ち去って、なお煌々とした舞台にすっくと立ち上がって、「ここがロードスだ。跳んでみよ!」と<反-刑法学>が叫ぶ。