『無罪!』65号(2010年9月)/法の廃墟35
「ライフワークの集大成」
*
花崎皋平『田中正造と民衆思想の継承』(七つ森書館、二〇一〇年)は、現代日本を代表する民衆思想家にして民衆思想研究者である著者の「四〇年以上にわたるライフワークの集大成」との宣伝文句のついた最新の著作である。全体としては田中正造を論じているが、その「継承」では、前田俊彦、安里清信、貝澤正をとりあげ、自らの人生を織り込んでいる。つまり、田中、前田、安里、貝澤、花崎とつづく民衆思想家の流れを唱え、その観点から田中正造に学ぶべきことを再発掘する試みである。正造の生涯、活動、主張の全体をカバーするのではなく、前半の人生についてはよく知られているので簡潔に抑えて、天皇直訴事件以後の正造の思想の発展を中心に検討している。天皇直訴事件だけで正造を代表させると「義人伝説」にはまってしまうが、その後の発展こそ重要だという。
本書には学ぶべきことも多いが、それ以上に、本書は日本の民衆思想なるものの致命的欠陥を見事に露呈しているので、検討しておきたい。まず著者自身によるプロフィルを見ておこう。
<一九三一年、東京に生まれる。哲学者。北海道小樽市在住。北海道大学教員を経て、ベトナム反戦運動、成田空港や伊達火力、泊原発などの地域住民運動、アイヌ民族の復権運動への支援連帯運動に参加する。一九八九年ピープルズ・プラン21世紀・国際民衆行事で世界先住民会議の運営事務局に参加。現在「さっぽろ自由学校<遊>」、ピープルズ・プラン研究所の会員。著書『生きる場の哲学--共感からの出発』(岩波書店、一九八一)『あきらめから希望へ--生きる場からの運動』(高木仁三郎との対論、七つ森書館、一九八七)『静かな大地--松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波書店、一九八八/二〇〇八)『民衆主体への転生の思想--弱さをもって強さに挑む』(七つ森書館、一九八九)『アイデンティティと共生の哲学』(筑摩書房、一九九三/平凡社ライブラリー、二〇〇一)『個人/個人を超える者』(岩波書店、一九九六)『<共生>への触発--脱植民地・多文化・倫理をめぐって』(みすず書房、二〇〇二)『<じゃなかしゃば>の哲学--ジェンダー・エスニシティ・エコロジー』(インパクト出版会、二〇〇二)『ピープルの思想を紡ぐ』(七つ森書館、二〇〇六)『風の吹き分ける道を歩いて--現代社会運動私史』(同、二〇〇九)>
以上が著者のプロフィルである。民衆思想家にして「哲学者」である。ならば、いかなる「哲学者」であるのか。それが、以下の本題である。本書に学ぶべき点については省略して、疑問点だけを取り上げる。本書の最大の疑問点は、戦争認識である。
*
侵略容認の民衆思想
*
第一に、日清戦争認識である。田中正造の「日清戦争認識」をみると、「日清戦争に勝ったのも人民の正直のゆえである。無学で正直なことを軽蔑すべきではない」という趣旨のことを書いている。花崎は、これについて「日清戦争によって国民の正直を発見したとして『戦争、国民万歳』と日清戦争を肯定している」とだけ書いて、それ以上のコメントを付していない(五三頁)。これは一八九四年のことで、正造は議員時代である。一九〇一年の銅山事件の直訴より七年前で、正造五三歳。後の思想の深まりよりは前のものだが、五三歳にしてこの認識であるということは、正造は「朝鮮植民地化戦争」を心底評価し、支持していたということだ。そのことを今になってあげつらう必要はないが、このような正造の思想を二〇一〇年の現在、花崎がどのように扱うかは別の問題である。「日清戦争を肯定している」とだけ書いてコメントをせず、しかも本書ではその後まったく取り上げられない。正造の自己批判の有無も問題とされない。にもかかわらず、朝鮮植民地化戦争を支持した正造の思想が「アジアに知られていけば、深い浸透力や広い影響力を持ちうる」と結論付けている。ここに正造ではなく、花崎の思想への決定的な疑問がある。
第二に、アジア太平洋侵略認識である。「アイヌの思想家貝澤正」の経歴中に次の一文がある。
「一九四一年、二八歳のとき、満蒙開拓移民団の団員となり、中国東北部佳木斯に入植するが民族差別事件に遭遇して幻滅し退団する」(二〇九頁)。
「貧乏から抜け出し、広い天地で農業をしようという願いを満州開拓に託し、開拓団に入って渡満した。しかし、開拓団の実体は中国人、朝鮮人の農民を働かせて、自分たちはごろごろしているだけ。その差別はひどいものだった。団員の一人が朝鮮人と結婚し、その妻が子供を早産した。その子を開拓団の墓地予定地に埋葬したところ、それを責める団員がいた。正さんがその団員に『民族を差別するとは何事だ』と抗議したところ、『なにを生意気なこのアイヌ、ぶっ殺してやる』と銃を向けられた。正さんはこんな連中の中にいたのでは殺されるかもしれないと思い、退団した。民族差別を許さない倫理観は、若い頃からの思想信条の背骨であった」(二一二頁)。
このエピソードは貝澤自身による回想であろうが、大きな疑問がある。明治初期に「屯田兵」という名の開拓移民によってアイヌモシリを奪われ、差別されてきたアイヌの貝澤は、一九三一年の論文で北海道旧土人保護法を批判し、アイヌ差別に抗議した。その貝澤が満蒙開拓移民団の団員となり、「広い天地で農業をしようという願い」で満州開拓移民となった。ならば、「広い天地で農業をしようという願い」でアイヌモシリに移民し、アイヌの土地を奪った屯田兵も正当化されることにならざるをえない。貝澤は自分のことを棚に上げて、アイヌ差別を批判し続けたことになる。このことについて貝澤がどのように認識していたのか、本書からはわからない。ここで重要なのは貝澤を批判することではない。花崎は、貝澤のエピソードを紹介しながら、「民族差別を許さない倫理観は、若い頃からの思想信条の背骨であった」と評価する。満州の人々の土地を奪い、旧「満州国」を捏造し、中国人、朝鮮人を差別していた日本の侵略と植民地支配の尖兵となった貝澤に、果たして「民族差別を許さない倫理観」を見ることができるであろうか。貝澤は、開拓団を抜けたあとも満州に居座り続け、一九四三年に「肺結核治療のため帰国」している。民族差別を批判して帰国したのではない。そのことを花崎はどう見ているのか不明である。
以上、まずは二点を取り上げた。暫定的な結論を示すならば、花崎民衆思想とは侵略容認の民衆思想にほかならない。花崎の他の著作には、日本の戦争責任を問う記述を見ることができるが、「ライフワークの集大成」たる著作においてその限界を露呈したと言うしかない。次回、さらに検討を続けたい。