Saturday, July 28, 2018

燐光群『九月、東京の路上で』


観劇を終えてザ・スズナリを出ると激しい風だった。台風12号が迫っているので、早く帰らなければいけない。井の頭線の下北沢駅まで歩いただけで膝から下はすっかり水浸しだった。


燐光群を観るのは久しぶりだった。初期の傑作『トーキョー裁判』『ブレスレス』、その後は『最後の一人までが全体である』『だるまさんがころんだ』、さらには国境紛争を扱った『黒点島』など坂手洋二と燐光群は、つねに時代に正面から向き合い、時に時代を逆なでし、演劇を内側から突き破る意欲作を次々と繰り出してきた。

多忙のためこのところ遠ざかっていたが、今回は関東大震災朝鮮人虐殺がテーマなので、とにかく観るしかない。



加藤直樹の『九月、東京の路上で』を素材に、坂手がどんな演劇を提示するのか興味津々であった。一ひねりもふたひねりもあるに違いない、いや、もっとすごいかもしれないと思っていたが、期待は、いい意味で裏切られた。

坂手は、逆に、加藤の著書を片手に東京の路上に出る道を選んだ。2020年の東京オリンピックに向けて「オリンピック対策委員会」を立ち上げた世田谷・千歳烏山の13人の市民が、95年前の虐殺現場を訪ね歩き、歴史を追体験する。1923年9月1日、2日、3日と、荒川や横浜や習志野で何がおきたのか。朝鮮人や中国人が、なぜ、どのように殺されていったのか。恐怖の体験を聞き、目撃談を読み込み、張り詰めた空気を吸い、揺れる大地を歩く。

何もないステージを歩き回る登場人物の「朗読」劇がたんたんと進行する。プロのテクニックに走らない。ストーリー展開の妙味に頼らない。意外な筋書きもなければ、どんでん返しもなければ、鮮やかな人生模様もない。小道具は小さな椅子と、1本のロープと、ラストシーンのフェンスくらいのものである。余計な演出を排除した演劇は、燐光群のお得意と言ってもよいかもしれない。


ラストシーンで13人の世田谷市民は「非国民」として、フェンスの中に囲い込まれる。ゴキブリ、ダニ、非国民として糾弾された市民は「私は日本人です」「15円50銭と言えます」「パスポートを持ってます」と自己証明に走る。

「朝鮮人じゃないから殺さないでくれ」という必死の「自己証明」。

坂手洋二と燐光群の演劇だから黙っていたが、他の劇団だったら、私は客席で立ち上がって「朝鮮人だからどうした!」と叫んでいたかもしれない。

いや、そう叫ぶ観客が現れることを坂手は期待していたかもしれない。


関東大震災朝鮮人虐殺を私は「コリアン・ジェノサイド」と呼んできた。そう呼ばなければ、国際社会に伝わらないからだ。ユダヤ人ジェノサイド、アルメニア・ジェノサイド、ルワンダ・ジェノサイド、ダルフール・ジェノサイドと同様に国際的なジェノサイドの一つとして位置づける必要がある。