キム・スム『ひとり』(三一書房)
<韓国で現代文学賞、大山文学賞、李箱文学賞を受賞した作家、キム・スムの長編小説。
歴史の名のもとに破壊され、打ちのめされた、終わることのない日本軍慰安婦の痛み。
その最後の「ひとり」から小説は始まる…… 慰安婦は被害当事者にとってはもちろん、韓国女性の歴史においても最も痛ましく理不尽な、そして恥辱のトラウマだろう。
プリーモ・レーヴィは「トラウマに対する記憶はそれ自体がトラウマ」だと述べた。
1991年8月14日、金學順ハルモニの公の場での証言を皮切りに、被害者の方々の証言は現在まで続いている。
その証言がなければ、私はこの小説を書けなかっただろう。…… (著者のことばより)>
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自分が完全にひとりだと感じる彼女は、自分の外から自分を見つめてみたい、と思う。外から見ると地球が全く違って見えるように、自分も違って見えるだろうか。自分の悲しい体験、自分のいとおしい記憶、自分の秘められた歩みを、もう一度、ふたたび、くりかえし、辿り直し、生き直し、必ずもう一度女に生まれたい。台無しになった人生を、自分の苦痛をどんな言葉で説明できるだろうか。「私は慰安婦じゃない」。
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カササギの生きている死体。
死んだ蛾に群がる蟻。
うごめくカワニナの幻影。
玉ねぎの網に捕らわれた子猫。
鶏の砂肝ほどに縮みあがった子宮。
猫が蛙に覆いい被さる。
プンギル!
死ななかった13歳のプンギル。
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一年前、私は、歴史研究における記憶論についての若干の疑問を記したことがある。
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記憶をめぐる言説の危うさについて
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この考えは現在いっそう強くなっている。もちろん、記憶をめぐる研究は重要である。体験、出来事、記憶、証言、再構築・・・・・・歴史が積み重ねられ、刻まれ、再構成される。その作業は不可欠である。
しかし、記憶論にはいくつもの陥穽がある。記憶し、記録を残し、記憶を語る当事者の心的営みと別次元で、研究者が積み重ねる、発掘し、取材し、分析する記憶論の限界である。しかも、「慰安婦」問題で顕著なように、記憶論の実態は「ハルモニから主体性を剥奪すること」に転落している。研究者が「学問の自由」を振りかざし、あるいは「フェミニズム」と称しながら、実は「尊厳を求めて立ち上がった主体」を「客体」に封じ込める。学問化したフェイク・フェミニズムは研究者の特権を「学問の自由」とはき違える。そこでは、日本軍性奴隷制被害者の尊厳回復の闘いは、研究の客体に押しとどめられる。証言が散り散りに切り取られ、記憶が泥の海に埋め込まれる。生きられた体験が空虚な手垢のついた物語に仕上げられる。――こうした研究が跋扈していないか。
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キム・スムは小説という文学形式において、以上の問いに全面的な回答を与えてくれる。「暴力的な歴史の渦の中でひとりの人間が引き受けねばならなかった苦痛」を主題として、「その苦痛を『慈悲の心』という崇高で美しい徳に昇華させた、小さく偉大な魂」に作家自らのすべてをゆだねる。被害者の証言録を渉猟し、「私のハルモニの代わりに、あの地獄に行ってこられた」被害者の証言に耳を傾け、記憶を記憶のままに記憶し直し、小説的方法によって息を吹き込み、不安も恐怖も苦痛も、夢も願いも喜びも、すべてを保全し、編み直し、読者に手渡す。末尾に記載された313の註の一つひとつが、暗黒と絶望と恥辱と侮蔑と暴力の時代を撃ち抜く。「慰安婦」被害者が、たったひとり、最後の被害者が、この恐ろしい世界に気づきながら、13歳の自分に還る時、再び自分に出会う時・・・・・・
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証言を聞くこととは、私がキム・スムになることである。