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春に読み始めたが、序盤から違和感を抱く点がいくつかあったことと、何よりも多忙のため、挫折した。違和感は、編者と私の学問方法論がまったく異なるからであって、さほど大きな理由ではない。第1章から意欲的な論文が続き、勉強にもなる。そこで、夏休みに再読のチャレンジ。ところがふたたび挫折してしまった。
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何度か読書を断念しかけつつ、なんとか読み進んだ。しかし、第5章の茶園敏美「セックスというコンタクト・ゾーン」の途中、次の箇所で、ついに放棄せざるをえなかった。
「レイプ被害者は、レイプした相手に金を要求することで、占領兵の問答無用の暴力、そして『モデル被害者』の語りしか受け付けない社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、占領兵と占領地女性との出会いの空間であるコンタクト・ゾーンにおける、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」(本書155~156頁)
リズ・ケリーの「性暴力連続体としてのレイプ/売買春/恋愛/結婚」という認識枠組みを、上野千鶴子による「序章 戦争と性暴力の比較史の視座」に従って採用する茶園は、占領下における米兵と「パンパン」と呼ばれた日本女性の関係に、レイプだけではなく、恋愛や結婚を発見する。
茶園は、自らの方法論を「徹底的な帰納法分析」と宣言する(145頁)。茶園は帰納法がお気に入りのようで、150頁他でも「帰納法」を語る。
それでは上記引用文のどこが問題なのか。4点に分けて説明しよう。以下の4点は密接なつながりを有し、全体として茶園論文の方法論を見事に示している。
第1に、レイプ被害者が異議申し立てをしている相手として、「占領兵の問答無用の暴力」と「『モデル被害者』の語りしか受け付けない社会」を唐突に並列し、完全に同等扱いをしている。このような方法がいかにして可能となるのか、常識外というしかない。
第2に、「異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。」という、およそまともな文章とは言えない断定である。
「AはBである」
「AはBであると解釈できる」
「AはBであると解釈できるかもしれない」
ほとんど思考停止論文と言うしかない。
第3に、そこから「これこそ、・・・・・・、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」という論理破壊が続く。「解釈できるかもしれない。これこそ、生存戦略である」とはまったく呆れた話であり、論理の飛躍どころか論理的思考の否定である。茶園は次のように述べる。
「レイプ被害者は、レイプした相手に金を要求することで、~~社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」
次の一文を比較してみよう。
「縄文人は、狩猟生活をすることで、核兵器を保有する社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、縄文人の生存戦略である。」
この2つの文は論理的に等価である。検証可能性も反証可能性もない、譫言に過ぎないという意味で。
第4に、それゆえ、「徹底的な帰納法分析」などというのは真っ赤な嘘である。茶園は帰納法によってではなく、ケリー/上野の認識枠組みに合わせて、証言をあてはめただけである。そのために無理をするから、「解釈できるかもしれない。これこそ」などと力むことになる。
以上のことは、茶園論文の一部、枝葉末節を取り出しての難癖ではない。茶園論文の方法論の本質が鮮明に示された箇所である。科学論文で言えば、実験データを書き換え、捏造して、分析を施しているのに等しい。
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本書は2900円+税で販売されている。方法論を欺き、読者をだます論文で金儲けするとは、「お金を返せ!」と叫びたくなる代物だ。
と書いて、思い出した。私は本書を購入していない。編者の一人から献本していただいた。ありがたいことだ。献本いただいた本はきちんと読むのが礼儀というものだ。いつもはこの礼儀を守ってきた私だが。
前言訂正。「時間を返せ!」。
他の論文は優れた論文なのかもしれないが、申し訳ない。私にはこの本を読む能力がない。