Friday, April 12, 2024

群馬の森裁判/藤井正希さんのインタヴュー記事(一部公開)

 『月刊マスコミ市民』663号(20244月)に掲載された藤井正希さんのインタヴューの一部を、編集部及び本人の了解を得て、以下に公開します。

最新号のため、全部ではなく一部の公開にとどめます。

このインタヴューは本年3月に行われました。聞き手は同誌編集部の石塚さとし編集委員です。雑誌が刊行されたのは本年41日です。出版記念会が開催された46日よりも前に出版されたものです。

<藤井正希/群馬の森・朝鮮人追悼碑強制撤去問題を問う

政治的中立性を過度に強調すれば、公の場での政治的発言はできなくなる>

『月刊マスコミ市民』663号(2024年4月)より

全文は4656頁に掲載。

以下に公開するのは、そのうちの5053頁の部分です。

記事全体は以下の構成です(小見出しを列挙します)。

・些細なルール違反で追悼碑を撤去した

・右翼の攻撃に屈した群馬県知事

・追悼碑の前をスピーカーズコーナーに(*公開部分です)

・敵対者が混乱させると言う理由で表現を規制してはならない

・憲法の理念をさらに発展させること


■追悼碑の前をスピーカーズコーナーに

 

――次に、パブリックフォーラム論について伺います。パブリックフォーラム論は、公共の広場における表現の自由や集会の自由に可能な限り配慮すべきとするアメリカの理論ですが、とりわけ道路や公園など伝統的パブリックフォーラムにおいての表現活動は、原則として許されなければならないと思います。これについて、少し説明をしていただけますか。

 

藤井 日本では、これまではむしろその逆だったのではないでしょうか。駅前とか公園とか広場とか、人が集まる場所ではむしろ政治的発言をしてはいけなくて、その時の理由として政治的中立性が持ち出されてきたのではないかと思います。なぜ政治的中立でなければいけないのかといったら、政治的なことをすれば混乱が生じてしまい、都市公園が市民の憩いの場ではなくなってしまうというのです。駅前のように人が通っている所で演説をすれば交通の妨げにもなるし、政治的な激論をすれば混乱が生じて公共の利益に反するといって、むしろそういう場ではやってはいけないと言われます。

 けれども、アメリカのパブリックフォーラム論でいうとそれは逆なのです。むしろ、人が集まる公園とか広場とか駅前とか公道といった場所こそ、表現の自由、特に政治的な表現を認めなければいけないのです。広場や駅前や公道において、政治的表現の自由が認められた独裁国家はありえないことを銘記すべきでしょう。

 たとえば、イギリスの国立公園のハイドパークにはスピーカーズコーナーというのがあって、そこは誰でも政治的な発言ができるのです。たとえば、むしろ群馬の森の朝鮮人追悼碑のようなところこそスピーカーズコーナーにして、慰安婦が本当にいたのか、朝鮮人の強制連行があったのか、関東大震災の時の流言飛語によるデマで朝鮮人の虐殺があったのかを、追悼碑の撤去を求める人も含めて自由に議論できるようにすればいいのです。

 しかし、日本における行政では、政治的な表現をしないことが政治的中立性だと考えられています。だから政治的な表現をしてはいけないというのです。たとえば、テレビのニュースキャスターが政権に批判的なことを言うと中立性に反すると言われますし、国立大学の授業でも、学生に対してあまり政権批判的なことを言うと政治的中立性がないと言われます。政治的中立性というのは、自分の政治的意見を言わないことではなくて、自分の政治的な意見をはっきり言う一方で、相手の反対意見を無碍に否定しないことです。発言の機会を認めて尊重するのが政治的中立だと思うのです。そういう発想から、公的な広場こそ政治的発言を認めなければいけないと思います。

 2019年の参議院選挙の時に、街頭演説で野次の取り締まりがありました。「安倍やめろ」と言った人が警察官に排除された事件です。確かに、安倍首相の訴えを聞きたい人が集まっているので、安倍首相が演説している時に大きな声で妨害するのはよくないと思います。しかし、そういう時はただただ排除するのではなく、安倍首相に対して何か言いたい人にもその場で発言の機会を可能な限り認めるべきだと思います。

 私はヘイトスピーチをある程度規制した方がいいと思いますが、ヘイトスピーチをしている人にも言いたいことがあるわけです。だからヘイトスピーチを規制するのであれば、別に言う機会を認めることが必要です。政治的中立性というのは、人の発言を封じることではなくて、意見の異なる発言を認めることです。その場で発言の機会を認めることがどうしてもできないのであれば、別に表現する場を与える手段があっていいと思います。

 

――パブリックフォーラムは民主主義の根幹を成すものだと思います。討論がなければ世論は形成されないわけですから、民主主義を支える根底の部分を、日本の場合はわかっていないような気がします。

 

藤井 「言論には言論で対抗する」ということですね。安倍首相の演説に対する野次でも、演説の後に反対者に主張の機会を与えることができないのであれば、自民党が何らかの手段で反対者に発言の機会を与えるとか、自民党のホームページに反対者の主張を載せてあげるとか、言論には言論で対抗させることです。それはやろうと思えばできると思いますので、政治的中立性をもって封じないことです。

 

――群馬県知事は、そういうことがわかっていないようですね。

 

藤井 知事は県民が知らない間に碑を撤去してしまいました。それは、すべてが闇に葬られてしまったということです。本来、知事がやるべきことは、朝鮮人の追悼碑があったことや撤去に関して争いがあったことを県民に知らせた上で、十分議論の場を設定することです。追悼碑の撤去を求めている市民と、追悼碑を守ろうという市民とが冷静な議論をする場を、一般の市民にも開かれた形で設けて、すべての県民をまきこんだ議論をし、県民の民意を踏まえた上で知事が政治的判断をすべきでした。

 しかし、これまでの日本の行政はそういうことをまったくやってこなかったのです。慰安婦問題にしても、本当に国が解決したいのであれば、元慰安婦の人を呼んで国会で話してもらうとか、韓国の歴史家も含めて冷静な議論をする場を作ることです。それができるのは行政しかないのです。私は、追悼碑の撤去を求める市民団体の人たちともいろんな議論をしたいと思っています。このように市民の中で意見が対立している場合、行政には市民が自由で有益な議論のできる場をぜひ設定してほしいと思います。この点、東京の小池知事は、横網町公園で行われている関東大震災朝鮮人大虐殺の追悼集会に慰霊文を送らなくなりましたが、あの問題でも、朝鮮人犠牲者の追悼碑を守ろうとする人と碑を撤去しようとしている団体とにそのような議論の場を与えることが必要だと思います。

 2014年11月に、「守る会」は更新不許可処分の取り消しを求めて群馬県を提訴しましたが、あの裁判は2011年7月22日の状況を踏まえて、県の更新不許可処分は適法であると判断できると判決しただけのものです。だから、知事は撤去を求める市民団体の人たちと「守る会」の人たちが碑文の内容をどうしたらいいのかの議論をできるようにすればいいのです。このような〝行司役〟ができるのは行政しかないのです。場合によっては外務省の人を呼んだり、また、混乱しないように警察を呼んだりして、行政法で言うところの〝調整的な行政指導〟をやればいいのです。それは法律にも根拠のある手続きです。

 私は歴史学者ではないので、強制連行や慰安婦の問題について「これが歴史の真実だ」と、何かを言うつもりはありません。しかし、強制的に連行されて鉱山などで働かされた人や強制的に性の仕事をさせられた慰安婦がいたこと、あるいは関東大震災の時に流言飛語によってそれなりの人数の朝鮮人が虐殺されたことは、歴史的な真実として教科書にも載っていたことです。私もそのように習ったし、今でも強制連行も慰安婦も朝鮮人の虐殺も歴史的事実だというのが通説でしょう。もしそれを否定するのであれば、理由と証拠をきちんと示して国民的議論を求めなければなりません。何の根拠も示さずに「嘘だ」「デタラメだ」というやり方はよくないと思うのです。

<以上>

月刊マスコミ市民

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