Thursday, September 04, 2008

ベマル丘で仰いだ青空

 カブール郊外のベマル丘で抜けるような青空を仰ぎながら、いつしか「悲惨な戦争」を口ずさんでいた。歌詞を半分以上忘れていたが。

悲惨な戦争が起きて、ジョニーは戦いに行かなければならない。朝から晩までジョニーといたいのに。私の心は悲しみに沈む。あなたと離れたくないのに――。

愛する者を戦争に行かせたくない思いを歌い上げたピーター・ポール&マリー(PP&M)の「悲惨な戦争(Cruel War)」を、初めて聞いたのはいつのことだったろう。正確には記憶していない。

初めて歌ったのは中学2年の夏だった。ギター習いたての友人を囲んで譜面を追いかけながら。仲間内では文字通り「狂える戦争」と呼んでいた。各地で同じように呼んでいたのではないだろうか。

 「悲しみのジェットプレーン」「パフ」「花はどこへ行った」「風に吹かれて」「天使のハンマー」・・・。PP&Mの爽やかな歌声はどれも心に残るが、「悲惨な戦争」は格別だった。ヴェトナム戦争について明確な認識を持っていたわけではない。なんとなく戦争に反対していただけだが。

「悲惨な戦争」を歌わなくなったのはいつだろうか。のんきに遊んでいた大学時代にすでに歌わなくなっていたが、意識的に歌わなくなったのは大学院時代だ。理由は簡単だ。愛する者を戦争に送りたくない気持ちは大切だが、アメリカはいつも殺す側にあるのに、被害者のことが視野の中にないからだ。「悲惨な戦争」の被害者は誰なのか。

 カブールに初めて行ったのは2003年9月初旬だった。NGOの「グローバル・エクスチェンジ」の協力を得て、戦争被害者から聞き取り調査を行った。アフガニスタン戦争で集中的に空爆されたのはカンダハル周辺であり、首都カブールはそれほど多かったわけではない。それでも市内各所に空爆跡地があり、被害者遺族がひっそりと暮らしていた。タリバン政権が打倒され北部同盟軍が町を占拠し、実際には米軍が支配していたから、米軍の空爆による被害を声高に訴えることはできない。それはカルザイ政権になって以後も同じだ。

 最初の調査で取材したのは、ベマル丘の麓で爆撃被害にあった2家族であった。ベマル丘の上にタリバンの対空砲があったためにB52が爆撃したが、麓の住宅地への「誤爆」となったようだ。

 マイダン出身のハザラ人のサヒーブ・ダード(38歳、取材当時)は市場で販売員をしながら、結婚してベマルに住んでいた。カブール郊外のベマル丘の反対側で、貧しい住宅地である。誤爆によって家は崩壊し、9歳の娘と1歳の息子が亡くなった。娘はすでに家事や弟の世話をする明るい子だった。

 隣家も完全崩壊した。ハザラ人のアリファ(33歳)は、絨毯職人の夫と暮らしていた。爆弾の直撃で家の中にいた8人が全員死亡した。夫、アリファの子どもが1人、もう一人の妻とその子ども5人である。家の外にいたアリファと6人の子どもが生き残った。

 近くの墓地にお墓がつくられていた。地面に石が10個並んでいて、周囲に緑の旗が立てられていた。アフガニスタンでは殉教者や戦争犠牲者のお墓に緑の旗を立てる。

 住宅地の中心に小さなモスクと井戸がある。礼拝の時間になると人々はモスクに集まってくる。水道設備のないベマルの人々はこの井戸を利用する。しかし、井戸は放射能に汚染されている疑いがある。カナダのウラニウム医療センターの調査では、サヒーブ・ダードの長男の尿から自然界の200倍の放射能が検出されている。

 ベマル丘に登ってみる。小さな丘で頂上は少し平坦になっている。何もない。タリバンが使っていたという対空砲が3台放置されている。対空砲などというが、古くて小さい。B52に届くはずもない。むしろ、人間や戦車相手の小型射撃砲だ。

 ベマル丘からはカブールの町並みがよく見渡せる。すぐ麓はアクバル・カン町、その向こうが町の中心部のシャリナウ町、カブール川をはさんで旧市街、アサマイ山の裏側にカブール大学や三番町、四番町などの住宅街が続く。

 明日は日曜で、月曜が出征の日だ。召集がかかっているので、あなたは応じなければならない。私の心は悲しみに沈む。あなたと離れたくないのに――。

 カブールの人々は、どれだけ「悲惨な戦争」を歌ってきただろうか。ソ連による侵略、その後の内戦、タリバンの恐怖政治、そしてアメリカによる侵略。30年に及ぶ悲惨な戦争に倒れた若者たち、巻き込まれて亡くなった住民たち、生き延びても自由も食料もなく苦しんできた人々。

 現地調査に協力してくれたグローバル・エクスチェンジは、アメリカ市民とアフガニスタン市民の出会いと共感の場を設ける努力をしていた。殺す側に立たされるアメリカの若者と、殺される側のアフガニスタン市民。愛する者を戦争に行かせたくない気持ちは、どの家族にとっても同じだろう。

どこまでも青い空の下、気分は晴れないまま、4半世紀ぶりに「悲惨な戦争」を呟くように歌った。