一一年秋の闘い
中東革命に続いて、金融崩壊や過剰生産恐慌とも思える資本の危機に伴い、いっそうの労働者切り捨て、社会的弱者の人間性剥奪に抗するデモが欧米諸国で沸き起こっている。一%の富裕層に九九%のわれわれを対置したニューヨークの座り込みは実力で排除されたが、スペインでもギリシアでも労働者の闘いが続く。韓国では「希望のバス」闘争が人々に大きな励みとなった。
福島第一原発事故にもかかわらず責任回避に熱中する原子力ムラ(東電、日本政府、マスメディア、御用学者)に抗して、経産省前テント村では座り込みが続く。各地の電力会社に対する要請行動も続いている。
一〇月二七日~二九日、経産省前での「原発いらない福島の女たちの座り込み」呼びかけ人である地脇美和は「今回の原発事故によって、私たちはこんなにつらく苦しく絶望的な生活を強いられているのに、まだ原発を動かし続けようとする勢力は絶対に許せないという思いで参加を決めました。報道されない原発事故の本当の恐ろしさと悲惨さを多くの人に訴えるために、目に見える行動をしなくてはいけない。それは、福島に暮らす女性たちから呼びかけ、こんな世界を変えようとの決意でした」、「現状に怒り、何か行動したいと思った女性がアクセスしやすいように気を配りました。チラシやブログの言葉づかい・表現をわかりやすく丁寧に書く、インターネットを最大限利用する、それとともに紙のチラシを配布する、口コミを広げる、などなどです。何より、最も被害を受けた当事者が苦しい中、自ら立ち上がり行動を呼びかけたことが大きく広がるきっかけになったのだと思います」と語る(『週刊MDS』一二〇八号)。
政府や東電と協力して原発安全神話をふりまいてきたマスメディアは、三・一一以後、混乱と変容を続けてきたが、相変わらず原発推進を呼号するメディアと、脱原発に一応の理解を示すメディアとに分かれてきた。同じ紙面に原発必要論と脱原発論が掲載される例も見られる。市民の声がメディアに乗ることも、以前と比べれば増えている。とはいえ、マスメディアが市民のメディアとはなりえていない現在、市民にできることは、公共空間における意思表明(デモ、座り込みなど)や、インターネットや口コミを通じたネットワークづくりである。もちろん、インターネットは市民の闘いの武器になることもあれば、権力による情報操作の手段となることもある。路上でもインターネットでも、平和と人権をめぐるせめぎ合いが続いている。
日本では、中央集権的官僚支配の度合いが非常に強いうえ、数百万部という巨大新聞に見られるように情報の独占状態も続いてきた。いびつな構造を変えるために、インターネットの活用とともに、公共空間を市民の手に取り戻す必要がある。路上や広場や公園における市民の意思表明の自由である。
パブリックな抗議
国連人権理事会第一七会期に提出されたクリストフ・ハインズ「恣意的処刑に関する特別報告書」(A/HRC/17/28)のテーマは「集会取締りの文脈での生命権の保護」である。報告書は、武器を持たない平穏なデモの原則的自由を確認し、暴力的なデモによって人々の生命権侵害が伴うような場合の取締りを論じている。報告書は、公共的(パブリック)な抗議を取り扱う問題への単一の答えはないと言う。集団の規模や、デモの起因や、課題設定によって大きく異なるからだ。しかも、バーレーン、ブルネイ、中国、キューバ、エジプトをはじめとして憲法に生命権規定のない国家が多い。ジブチ、ガボン、カタール、イェメンの憲法は平穏な集会の権利を認めていない。集会の権利があっても緊急事態には制限される。最近では、反テロ法など治安法による制限も加わった。報告書は次のような原則を掲げている。
第一に、国家には、公共空間へのアクセスを提供することによって公共的な抗議を可能とし、必要な場合には外部からの脅威から保護する義務がある。
第二に、デモの適切な運営は、抗議者(デモ参加者)、地方当局、警察の間のコミュニケーションと協力に依存する(「安全のトライアングル」という)。対話こそが鍵である。
第三に、集会が制限・禁止されないという推定が存在するべきである。集会規制は法律に明示され、他者の権利を保護するといった正当な目的のためになされる必要がある。
第四に、実際の抗議行動の間、国家機関の関心は、平穏を維持すること、人々と財産を危害から守ることに限られるべきである。
第五に、警察による実力行使に関する国際基準は、必要性と均衡性である。武器の使用は重大な傷害や死亡事件を予防するためにのみ認められる。
第六に、集会の権利と実力行使に関する基準は、法律を容易に読むことができるように、公開されていなければならない。
第七に、デモに際して実力行使や武器使用のための手続きがなければならない。
報告書は、国連人権理事会の決議一五/二一による「集会結社の自由に関する特別報告者」の活動に注意を喚起している。また、欧州安全保障協力機構(OSCE)が提示した「平穏な集会の自由に関するガイドライン」が参考になると言う。米州人権委員会にも「表現の自由特別報告者」が置かれている。
最後に報告書は、集会の自由、特に実力行使や武器の使用に関する国際基準を明確にするために、各国の実務をさらに調査するべきであり、デモの管理に関する基本原則を明確にするために、国際自由権規約第六条や第二一条に関する自由権委員会の一般的意見を参照し、国内法のためのモデルを作成する必要があるとし、そうした作業を国連が主導するように勧告している。
報告書は国際社会全体をカバーする任務をもっているため、記述はひじょうに一般的であるが、日本の現実との関係で参考になるところもある。日本では公共空間での平穏なデモが自由に行えない。警察の過剰な規制によって萎縮したデモだけが許される。警察による挑発や暴力によって混乱が生み出される。他者の生命や財産への危害など一切ないのに、デモ参加者の一部が不当に逮捕される。逮捕に伴う警察暴力は、今のところ武器使用はないものの、一人の市民を十数人で押し倒し、殴る、蹴るといった不必要な暴力を加えている。