Tuesday, January 10, 2012

デモの自由と規制の実態(二)

拡散する精神/萎縮する表現(10)


『マスコミ市民』516号(2012年1月)



日本国憲法第二一条一項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」としている。「集会、結社及び言論、出版」は例示であるが、「及び」の位置に注目すると、(1)集会、(2)結社、(3)言論、出版の三つの例が示されていると理解できる。



世界人権宣言は、第一九条で意見及び表現の自由、第二〇条で集会及び結社の自由を定めている。国際自由権規約は、第一九条で表現の自由、第二一条で集会の自由、第二二条で結社の自由を、区別して規定している。日本国憲法はこれらを第二一条第一項にまとめて掲げている。



次に、「その他一切の表現の自由」とあるように「一切の表現の自由」が保障されている。他人の自由や権利を侵害するものでなければ、すべての表現が同等の保障を受ける規定様式である。高い価値のある表現と低い価値しかない表現を、憲法は分けていない。国際人権法も、表現内部の価値序列を定めていない。ある者にとって意味のない表現であっても、他の者にとっては重要な表現ということがいくらでもあるからである。



ところが、実際には表現の自由の内部にさまざまな「分断線」が引かれている。集会、結社と、言論、出版とは明瞭に区別されている。日本政府は事実上「人種差別表現の自由がある」と主張し、人種差別撤廃委員会で批判されている。わいせつ表現をめぐる議論状況も錯綜している。



デモの自由は「移動する屋外集会の自由」であって、憲法第二一条の保障を受けるはずなのに、前回紹介したように、公安条例や道路交通法により厳しい制約を課せられてきた。批評家の柄谷行人は、基本的人権としてのデモの自由について語る。



 「九月一一日の東京・新宿のデモでは、一二人の参加者が逮捕されたが、二二日までに全員釈放された。同二九日、柄谷さんは抗議声明の起草者の一人として会見に臨み、『根拠のない強引な逮捕』と警察を強く批判した。『逮捕以外にも警察の嫌がらせはすごい。道路交通法をたてにしているわけですが、道路交通と基本的人権と、どっちが大事なのか。車なんて別の道を通せばいい。マラソンではそうしているんだから。人権は別の道を通れないんですよ』」(毎日新聞・東京夕刊二〇一一年一一月四日)。



 柄谷の指摘は「道路の憲法的機能を発揮させよう」という意味に読める。道路交通も一面では移動の自由を担保しているが、現代のクルマ社会では産業輸送が中心であり、資本の自由と連結している。マラソンも、スポーツであり文化的側面も有している。とはいえ、道路交通やマラソンは、柄谷が指摘するように別の道を通せばよい。マラソンのために道路交通を制限するのに、憲法で保障されたデモの自由は、マラソンや道路交通よりも下に置かれている。



規模だけではない。現場での警察規制の異常さは諸外国に類を見ないと言ってよいだろう。柄谷が「逮捕以外にも警察の嫌がらせはすごい」と述べているように、第一に、警察によるサンドイッチ規制である。デモ隊の両側を警察が封鎖するかのように密着規制する。第二に、信号規制のためのデモ隊分断である。自動車交通を優先して、一車線だけのデモとし信号ごとに待機させ、デモ隊を短く分断していく。第三に、デモ・コース規制である。届け出の段階で、警察の思いのままにデモ・コースが規制される。第四に、写真撮影である。時に警察はデモ参加者の顔写真を勝手に撮影する。この威嚇効果のためにデモに参加しない例もある。こうした執拗な規制に加えて、時々デモ隊から逮捕者を出すことによって、市民の表現の自由を徹底的に封じ込めようとしてきた。



警察、検察、裁判所だけではない。日本社会の意識としても、デモの自由を尊重する姿勢が非常に弱いと言わざるを得ない。大衆的デモと言えば六〇年安保が引き合いに出される。半世紀も前の古い話である。そのくらい大規模デモは抑え込まれてきたが、市民にもデモの自由という意識が少ない。「昔はデモをやったものだ」と語る平和運動家や人権運動家は少なくない。いまなぜデモの自由がないのか。警察に弾圧されたというだけではなく、私たち市民の側にもデモの自由を半ば放棄してきた歴史があるのではないだろうか。