Sunday, June 04, 2017

いつまで続く、「戦後よ、さよなら」論

浜崎洋介『反戦後論』(文藝春秋)
<戦後よ、さよなら
~「政治と文学」の接点を問う~
郊外、大東亜戦争、象徴天皇、三島由紀夫、小林秀雄、福田恒存、柄谷行人、そして坂口安吾……。
戦後思想に新たな問題を提起する、気鋭の批評家による画期的論考!>
ということだが、「もはや戦後ではない」に始まり、「戦後民主主義は虚妄だった」を経て、「戦後体制の終焉」は何度も何度も語られてきた。戦後50年の1995年には一段落かと思われたが、実際はむしろその後も「戦後」に囚われることになったのが、自称「保守」という偽保守だった。歴史修正主義が政権を奪取し、この国の思想風土に深く根付いてしまった。戦後を超えられず、戦後を相対化することもできず、ひたすら戦後に悪罵を投げつけ、唾を吐くだけの虚妄の偽保守だ。
戦後70年も同じ茶番を繰り返したに過ぎない。無責任な首相談話は戦争への反省も、戦後への反省もなく、肥大化した自意識を恥ずかしげもなくさらけ出したに過ぎない。
それでは浜崎洋介はどうか。こういった読み方をしてしまったので、著者が書いていることよりも、書いていないことに関心を持ってしまった。あまり良い読み方ではない。ただ、次の一節に著者の思いと射程距離が見える気がする。
「では、改めて問おう。そこから自由になるべき『現実』を失い、また、そこへと自由になるべき『理想』を失っている現在、私たちは一体何を足場として『文学』を生きることができるのか。毎月量産される『小説』をよそに、それと共闘しようとする『批評』は存在しない。一見『批評』と見えるものは――私の文章も含めて――単に器用な作品解釈のパフォーマンスでしかない。『様々なる意匠』は相変わらずだが、それらのなかの一つでも、かつてプロレタリア文学が身に帯びていた程度の緊張さえ生きようとする者はいない。この十年余り、残るものの何一つない、現れては消え、消えては現れるアブクのような『自意識』ばかりを見せつけられてきた気がする。もちろん、そんな現状を嘆く私の言葉も例外ではない。」
では、初期柄谷行人に決別した著者はどこへ向かうのか。福田恒存しか指針がないのだろうか。それでは「反戦後」のお題目を年中行事のごとく繰り返すだけではないのだろうか。