国連人権高等弁務官事務所と、平等権信託(Equal Rights Trust)の『マイノリティの権利を保護する――包括的差別禁止法を発展させるための実務ガイド』の「第1部 包括的差別禁止法を制定する国家の義務」「第2部 包括的差別禁止法の内容」「第3部 マイノリティの権利を保護する」は、国際人権法における非差別の原則、法の下の平等、マイノリティの権利に関する解説である。その内容は、ほとんど、これまでに私の著書及びこのブログ上で何度も紹介してきた。
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『マイノリティの権利を保護する――包括的差別禁止法を発展させるための実務ガイド』の「第4部 差別的暴力とヘイト・クライム」を簡潔に紹介する。
冒頭に要約が掲げられている。
・国際人権法はその状況において、一つ又は複数の差別の根拠に関連する理由で暴力行為又はその他の犯罪行為が行われた偏見動機を精確に認定するよう求めている。
・刑法・非行法は、国際法の下で承認された根拠によって具体化された犯罪又は非行の偏見動機の認定に役に立つべきである。この認定は、差別的暴力やヘイト・クライムに関連する特別刑法規定を定めること、又は特定の犯罪行為に関連する刑法規定に偏見動機に関する規定を追加することによって、なされうる。後者のアプローチを採用した場合、重要なのは、偏見動機がすべての可能な関連する刑法・非行法に関連して認定されることである。
・刑法に規定される根拠のリストは、刑法における予見可能性の要請ゆえに、必ず限定的でなければならない(「又はその他の類似した状態」というカテゴリーが含まれない)。
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人種差別撤廃条約第4条(a)は、各国に、人種、皮膚の色、民族的出身に基づく人に対する「すべての暴力行為を法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること」を求めている。同様に障害者権利条約第16条1項は、家庭の内外におけるあらゆる形態の搾取、暴力及び虐待(性別に基づくものを含む。)から障害者を保護するための全ての適当な措置を取ることを求めている。女性差別撤廃条約は差別的暴力に言及していないが、女性差別撤廃委員会一般的勧告第35号は差別的暴力が条約第1条の差別の定義にあたることを確認している。
国際自由権規約第9条1項の下で、すべての者の安全についての権利が保障されており、自由権委員会一般的勧告第35号によれば、性的指向、ジェンダー・アイデンティティ、障害のような差別的理由に基づいてはならない。
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実務ガイドは、ジェンダーに基づく暴力について、女性差別撤廃委員会一般的勧告第35号の参照を求めている。
さらに、ヴェルティド対フィリピン事件(レイプ)、A.T対ハンガリー事件(DV)、A.S対ハンガリー事件(強制妊娠中絶)についての女性差別撤廃委員会の決定、及び欧州人権裁判所のオプツ対トルコ事件判決を引用している。
また、生命への権利との関連での差別について、実務ガイドは、地域的な裁判所に言及している。
人種民族に基づく差別について、米州人権裁判所のアコスタ・マルティネス対アルゼンチン事件判決、欧州人権裁判所のクリッチ等対スロヴェニア事件判決、ストイツア対ルーマニア事件判決等。
障害に基づく差別について、欧州人権裁判所のチンタ対ルーマニア事件判決、エンヴァー・サヒン対トルコ事件判決、アフリカ人権委員会のプロフィットとムーア対ガンビア事件決定。
性的指向に基づく差別について、欧州人権裁判所のサバリッチ対クロアチア事件判決、X等対オーストリア事件判決等。
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実務ガイドは、差別的暴力における偏見動機の認定の権利について論じている。
2013年11月14日、ブルキナファソ出身のサリフォウ・ベレンヴィルはチシナウで公共交通機関に乗車していたところ、何も挑発していないのに、S.Iから攻撃された。ベレンヴィルが携帯電話で話していたところ、S.Iが予告なしに殴りかかり、人種主義的悪口を投げつけた。S.Iに対して、刑法第287条1項のフーリガニズムで公訴提起がなされた。モルドヴァ法では、フーリガニズムは、敵意や動機なしに行われる行為と定義されている。
ベレンヴィルははじめ被害者として捜査及び手続きに参加した。法的代理人を通じて、検察官と裁判所に、攻撃の差別的性格から重大犯罪の一つとして扱うよう要請した。有罪判決が出たとしても、判決が人種的敵意に動機があったと認定しなければ、人種差別から実効的な救済を受ける権利が尊重されたとは言えないと主張した。地域法や国際法を引用して、暴力的人種主義行為は、社会にとって特に重要であり、攻撃の差別的性格が正確に認定されるべきだと主張した。裁判所も検察官もベレンヴィルの主張を採用しなかった。
2014年10月22日、モルドヴァ最高裁は、S.Iを有罪とし、18カ月の刑事施設収容とした下級審判決を支持した。
ベレンヴィルは人種差別撤廃委員会CERDに申し立て、モルドヴァ当局が犯罪の差別的性格を認定しなかったことにより、条約第6条の権利を侵害したと訴えた。
CERDは本件で、条約第6条の実効的な救済を受ける権利が侵害されたと判断した。CERDによると、国家当局によって行われた犯罪捜査が、被告人の差別的動機に関して検討せずに実施された。人種的動機による犯罪は社会的結合と全体としての社会を解体し、個人にも社会にもより大きな害を加える。モルドヴァが人種的動機を捜査することを拒否したことは、申立人の救済を受ける権利を侵害した。CERDはモルドヴァに、条約違反による物的及び精神的害悪の適切な補償をベレンヴィルに支払うよう勧告した。
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実務ガイドによると、「ヘイト・クライム」という用語は、偏見に基づいて、刑法で禁止された行動の形態を指す。ヘイト・クライムには、差別的暴力だけでなく、人種的又はその他の差別的根拠に基づく財産損壊行為も含まれるという見解もある。ヘイト・クライムは刑法で認定され、救済される必要がある。国際自由権委員会、CERD、女性差別撤廃委員会、障害者権利委員会は、各国の法制度において包括的なヘイト・クライム禁止がないことを批判している。
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実務ガイドによると、刑法典にヘイト・クライムや偏見動機による犯罪の独立規定を設けるべきか、それとも、暴行や殺人のような刑法規定に刑罰加重事由を付す方法が良いかについては、コンセンサスはないという。
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以下、私のコメント。
ヘイト・クライムをヘイト・クライムと認定することの重要性については、日本でも具体的な裁判において議論となった。ウトロ放火事件やコリア国際学園事件である。下記参照。
前田朗「ウトロ等放火事件刑事一審判決評釈」『部落解放』832号(2022年)
前田朗「コリア国際学園等刑事事件判決評釈」『部落解放』837号(2023年)
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日本では、ヘイト・クライム立法がなく、ヘイト・クライムの認識が極めて薄かったため、ウトロ事件等でようやく、罪名や量刑をめぐって議論された。日本刑法では量刑が刑法総論に掲げられ、極めて一般的な議論しかしてこなかった。量刑研究においてもヘイト・クライムについて議論されたことがなかった。近年のヘイト・スピーチの議論の結果、ヘイト・クライムの量刑にようやく焦点が当たるようになった。