『マイノリティの権利を保護する――包括的差別禁止法を発展させるための実務ガイド』の「第5部 差別と表現」は次の構成である。
Ⅰ 差別禁止法に直接関係する言説の局面
Ⅲ 煽動及びその他の憎悪や偏見に基づく表現に対する制裁
Ⅳ 非法的措置
*
Ⅱ ヘイト・スピーチ及び差別、敵意、暴力の煽動の禁止
実務ガイドによると、2010年代から2020年代初頭、ヘイト・スピーチ問題は国連システムの非常に強い関心事項となった。2012年には国連人権高等弁務官事務所が主宰して「ラバト行動計画」をまとめる国際会合が開かれた。2019年には国連事務総局が主導してヘイト・スピーチに対処する行動計画の戦略が練り上げられた。国連ヘイト・スピーチ戦略は、排外主義、人種主義、不寛容、暴力的な女性嫌悪、反ユダヤ主義、反ムスリムの嫌悪に対処しようとした。国連戦略によると、過去75年間、ヘイト・スピーチは、ルワンダ、ボスニア、カンボジアなどのジェノサイドのような虐殺犯罪の前触れである。
特にマイノリティに関して、2021年、マイノリティ問題特別報告者は国連人権理事会に報告書を提出し、ヘイト・スピーチやソーシャルメディアで標的とされているマイノリティを取り上げた。禁止されたヘイト・スピーチからマイノリティを保護することに国家が失敗してきたことを指摘している。ヘイト・スピーチは主にマイノリティに向けられており、人権保障にとって緊急の問題であるから、国家や市民社会の責任が大きいと指摘する。
国際自由権規約第20条2項は人種差別の唱道等を禁止することを求めている。規約第19条3項は、他人の権利や自由を保護するために表現の自由を制限することがあると明示している。ラバト行動計画が述べているように、ヘイト・スピーチは自由権規約第18条・第19条の下で制限されうる。
人種差別撤廃条約第4条は、人種的優越性の主張や、人種差別の煽動などヘイト・スピーチの規制を要請している。女性差別撤廃条約や障碍者権利条約はヘイト・スピーチに直接言及していないが、女性差別撤廃条約第5条は女性嫌悪スピーチの規制を含むと解釈されている。
*
実務ガイドによると、地域的人権システムもヘイト・スピーチに関連するアプローチを発展させている。米州人権委員会及び米州人権裁判所は、「表現の自由は絶対ではない」「問題のスピーチが政治的性質を有する場合であっても、制限が許される場合がある」としている。欧州人権裁判所は、ヘイト事件を相次いで審議してきた。
*
European
Court of Human Rights, Beizaras and Levickas v. Lithuania, Application
No.41288/15, Judgement, 14 January 2020.
2020年1月、欧州人権裁判所はリトアニア政府がオンライン・ヘイト・スピーチを捜査・制裁しなかった事案を検討した。フェイスブックにおける同性のキスの写真が公開された事案である。ピジーウス・ベイザラスとマンジーダス・レヴィッカスは数百件のオンライン憎悪書き込みを受け取った。書き込みはLGBTに対する憎悪煽動であり、2人に対する憎悪煽動でもあった。
2014年12月、LGBT協会は刑法170条(憎悪煽動)及び公共情報法第19条違反だと検事局に告発した。
リトアニア国内裁判所は本件につき捜査を開始しない決定をした。クライペダ地方裁判所は、リトアニア社会の多数は伝統的な家族の価値を尊重しているとして、LGBT協会の告発を却下した。
2020年1月14日、欧州人権裁判所は、第8条(家族生活の尊重)を考慮しつつ、リトアニア政府は欧州人権条約第14条(差別の禁止)に違反し、第13条(効果的救済を受ける権利)に違反した、と判断した。
裁判所が強調したのは、「多元主義、寛容、寛大さを含む民主社会の特質」である。「多元主義と民主主義は多様性を真に認識し、尊重することによってつくられる」とした。裁判所は「他者に暴力を煽動する憎悪表現というもっとも重大な事案に責任のある個人に刑事制裁を科すことは最終手段としてのみ認められる。重大犯罪にあたる行為が、人の身体や人格の統合に向けられた場合、実効的な刑事法メカニズムだけが保護を可能とする。」とした。
欧州人権裁判所によると、リトアニア最高裁判決は、同性愛差別の被害申立人に効果的な国内救済を提供しなかった。本件は差別禁止法に基づくヘイト・スピーチに関する最近の重要判決である。
*
実務ガイドによると、差別の禁止のプリズムを通じて、国内及び地域レベルの裁判所がしだいにヘイト・スピーチを裁くようになっている。イタリアの裁判所はハラスメント規定(貶める雰囲気を作り出すこと)を反移住者ラジオ放送に適用した。欧州司法裁判所は、イタリアのラジオ放送で著名な弁護士が、「私の法律事務所ではゲイは雇わない」と述べた事案を雇用領域における差別と判断した。
Court
of Justice of the European Union, Asociatia Accept v. Consiliul National pentru
Combatera Discriminarii, Case C-81/12, Judgement, 25 April 2013; and NH v.
Associazione Avvocatura per i Diritti LGBTI, Case C-507/18, Judgement, 23 April
2020.
LGBTに対するヘイト・スピーチ事案、反ユダヤ主義、反ロマ・ヘイト・スピーチの事案で、欧州人権裁判所は、差別に該当するオンライン・ヘイト・スピーチに当局が効果的に介入できなかったとした。
European
Court of Human Rights, Beizaras and Levickas v. Lithuania, Application
No.41288/15, Judgement, 14 January 2020.
*
実務ガイドは、その後、ラバト行動計画や国際自由権委員会決定を詳しく引用・紹介している。特にラバト行動計画におけるヘイト・スピーチの6つの成立要件を次のように引用している。
(a)
文脈:ある発言が、標的とされた集団に対する差別、敵意または暴力を煽
動する可能性が高いかどうかを判断するとき、文脈は非常に重要である。文脈は、意図及び/又は因果関係の両方に、直接関係しうる。文脈を分析するに際しては、その発言が行われ広められた時点で広範に成立していた社会的および政治的文脈のうちに、その言語行為を位置づけるべきである。
(b) 発言者:発言者の社会における位置や地位、とくにその発言が向けられた聴衆をとりまく状況におけるその個人ないし組織の立場が、考慮されるべきである。
(c)
意図:国際自由権規約第20条は、意図があることを予定している。この条項は、当該発言の単なる頒布や伝達ではなく、「唱道」と「煽動」に関わるので、不作為や不注意は、ある行為が同規約第20条の違反となるために十分とは言えない。このため、ある行為が違反となるには、言語行為の対象と主体およびその聴衆のあいだに成立する三者関係の作動が必要とされる。
(d) 内容と形式:発言の内容は、裁判所の審議にとって鍵となる点の一つであり、煽動の不可欠の要素である。内容分析は、発言が挑発的かつ直接的である度合い、発言によって展開された議論の形式、スタイルおよび性質、あるいは展開された様々な議論のあいだのバランスなどに関係する。
(e)
言語行為の範囲:範囲という概念は、その言語行為の届く範囲、公共的な性格、影響力、聴衆の人数といった要素を含む。考慮すべき他の要素として、発言が公共的な場でなされるかどうか、拡散のためにいかなる手段が用いられるか、例えば一つの小冊子なのか、マスメディアを通して放送されたり、インターネットによるものなのか、発言の頻度、伝達の量と範囲、聴衆がその煽動に応じて行動する手段を持っていたかどうか、その発言(あるいは作品)が限定された環境で流通するのか一般公衆にとって広く入手可能なのかといった点がある。
(f) 切迫の度合いを含む、結果の蓋然性:煽動は定義上、未完成犯罪である。その発言が犯罪に該当するうえで、煽動発言によって唱道された行為が実際に行われる必要はない。しかしながら、ある程度の危害リスクは確認されなければならない。これが意味するのは、裁判所が、発言と実際の行為の間の因果関係が相当程度直接的に成立していると認識し、当該発言が標的とされた集団に対する実際の行為を引き起こすことに成功する高い確率があると判断しなければならないということである。
*
以下は私のコメント。
2010年代から20年代初頭の国連人権機関におけるヘイト・スピーチ研究(ラバト行動計画、CERD一般的勧告35、国連ヘイト・スピーチ戦略、ベイルート宣言など)については、前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』『ヘイト・スピーチ法研究原論』『ヘイト・スピーチ法研究要綱』において詳しく紹介済みである。
実務ガイドは、以上の国連関連文書を受けて、さらに欧州人権裁判所判例等を引用して、現在の国際人権法におけるヘイト・スピーチ規制の常識を確認している。国際人権法におけるヘイト・スピーチの議論はほぼ一段落したと言ってよいだろう。
上記の(a) 文脈、(b) 発言者、(c) 意図、(d) 内容と形式、(e) 言語行為の範囲、(f) 切迫の度合いを含む、結果の蓋然性、については、さらに個別事例の判断の積み重ねが重要となるだろう。