Tuesday, March 08, 2016

グランサコネ通信16-06 「ジョシコーセイ・オサンポ」!!

3月7日の国連人権理事会は子どもの権利をめぐる審議が続いた。途中、外国債務と人権、食糧の権利も議題になったが、メインは子どもの権利。8日も、子どもに対する暴力、子どもと武力紛争、子ども売買・ポルノ、そして拷問が議題となった。拷問については別途報告する。
子ども売買・ポルノの議論では、まず「子ども売買・子ども買春・子どもポルノに関する特別報告者」のプレゼンテーション。
・メイン報告書
A/HRC/31/58.30 December 2015.
アルメニアと日本を訪問調査したので、その報告書も紹介。
・日本報告書(2015年10月日本訪問の記録)
A/HRC/31/58/Add.1. 3 March 2016.
特別報告者のプレゼンテーションを聴いていたところ、子ども売買や、オンライン子ども買春の実態を批判していたが、突然、「ジョシコーセイ・オサンポ」と言うのでびっくり。国際連盟以来のパレ・デ・ナシオンの大会議場で、「ジョシコーセイ・ビジネス」「JKオサンポ」「JKリフレ」「エンジョコーサイ」!!!
何とも恥ずかしかった。
特別報告者のプレゼンテーションに続いて、日本政府代表が発言した。「日本政府は特別報告者の活動に感謝する。日本政府は子ども売買・子どもポルノに全面的に反対し、その根絶を目指して努力している」とのたまっていた。嘘つけ。
朝鮮の少女たちを「慰安婦」=性奴隷にして連日強姦した歴史を一切反省せず、日本の名誉などと嘯いているのがハレンチ・アベシンゾー的思考である。子ども買春こそ「美しい日本」の象徴ではないのか。

フジヤマ、ゲイシャはいざしらず、カローシ、ダイヨウカンゴクに続いて、イアンフ、そしてついにジョシコーセイ・オサンポだ。国連でこんな言葉が飛び交うとは、情けないにもほどがある。

Monday, March 07, 2016

ヘイト・クライム禁止法(104)スイス

スイス政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/CHE/7-9.14 May 2013)によると、まず、人種差別撤廃条約第4条(a)に関して、人種的に動機づけられた行為は、刑法261条bis及び軍刑法171条(c)により犯罪とされている。連邦・反レイシズム委員会が、この刑罰規定の適用を監視している。刑法261条bisについえは、1995年以後の裁判所判決をインターネット上に公開している。警察犯罪統計は全カントンと都市を対象とし、2010年以後、公開されている。警察統計によると刑法261条bis事案は、2009年には230件の申し立てがあり、捜査を行い、159件が立件された。30件の有罪判決が言い渡され、執行された。2010年には、204件が申し立てられ、156件が立件された。2011年には、182件が申し立てられ128件が立件された。2010年以後の有罪判決数はまだ報告がない。申立の内、ほとんどが文書や口頭での人種主義発言である。電磁的方法での人種主義見解の流布も多い。連邦・反レイシズム委員会は、人種主義に関する文書システムを作り、2008年以来人種主義事件を報告している。事件の多くは、皮膚の色に関係する事案と、ムスリムに関係する事案である。反レイシズム財団、スイス連邦ユダヤ人コミュニティなども統計を発表している。
人種差別撤廃条約第4条(b)に関して、2005年、連邦委員会は、暴力と人種差別を説く過激運動を助長するシンボルを公然と使うことを処罰する法案を議会に提出した。しかし、法案審議に際して、処罰される行為と処罰されない行為の間の区別が不明確であること、人種主義のシンボルの定義が不明確であることに議論が集まり、議会は法案採択を控えた。人種主義シンボルが人種、民族、宗教に対して侮辱する目的などで使われた場合は処罰できる。2007年、スイス民主党は表現の自由を唱えて、法261条bisを廃止または弱体化させる法案を提出するための国民投票運動を行い、期日(2009年2月7日)までに8万の署名を集めたが、必要な10万に届かなかった。他方、議会は、2012年、人種差別と闘う法案の採択を否決した。
スイスは、人種差別撤廃条約第4条の適用を留保しているため、前回審査の結果、人種差別撤廃委員会は、留保の撤回を勧告していた。スイス政府は2012年の人権理事会普遍的定期審査の際に、キューバ政府から同様の勧告を受けて、政府見解を表明した。スイス政府はあ、現行刑法261条bisが個人も団体も対象としていると説明している。不法な目的を有する団体については民法第78条に従って、裁判官が解散を命じることができる。スイス政府の留保は、個人が人種差別団体に単に参加するだけなら処罰しないという範囲の留保である。スイス政府は表現の自由や結社の自由に照らして、スイス憲法第23条に照らして、この留保が正当であると考える。

スイスの状況については、私の『ヘイト・スピーチ法研究序説』第8章第5節で、2007年のCERD/C/CHE/6. 16 April 2007.を紹介した。ただ、そこでは関連条文の内容が紹介されていなかった。2007年報告では判決内容が紹介されていたが、2013年報告には判決内容の紹介がない。また、スイスの反差別法については、『部落解放』連載稿の中で紹介した。

Sunday, March 06, 2016

記憶されない記憶を刻み付ける闘い

辺見庸『17』(金曜日)
問題の書をようやく読んだ。暮れに買って読み始めたが多忙のため中途で止まっていたのを、今回ようやく読むことができた。ふつうなら辺見庸の「遺言」とでも言って宣伝するような力作だが、そうしていないのは、辺見庸、まだまだ言葉の矢を放ち続けると見込まれているから。それにしても太く重い矢である。中身のない軽薄な政治家は3本の矢とかいうが、辺見の矢はどしん、ドシンと落ちてくる。刺さるというより、ぶち当たって破壊する。なにしろ「記憶の墓をあばけ!」である。捕鯨の銛に喩えたほうがいいかもしれない。
1937年という年に象徴される日本軍国主義の侵略戦争の実態に迫る辺見は、歴史家や政治家の論法ではなく、作家らしい論法を繰り出す。ポツダム中尉となった父は中国で何をしたのか。生前の父に問いただすことが出来なかった自分を批判しつつ、改めて父の記憶と所業を整理し、推理する。父が残した新聞記事、手紙類を基に、いかなる状況で、誰を殺したのか、拷問したのかを問い続ける。確たる証拠が出たわけではないが、間違いなく殺したであろうし、拷問したであろう。それでは、同じ立場になった時、自分は、辺見庸は、同じことをしないと確言できるか。このことを執拗に問い続ける。1937年だけではない。明治から昭和にかけての天皇制日本国家、大日本帝国、そして軍国主義の日本が辿った道を追跡しながら、その思想、その行動様式、そのメンタリティを洗い出し、いつから、なぜ、あのような戦争にのめり込んでいき、悲惨な結果を引き起こしながら、およそ責任観念がなく、当事者性の意識すら薄いという、極めてインチキな「日本」を記録にとどめようとする。その手法は、辺見庸の独特の文体にもかかわらず、正面突破の手法である。直前からまっすぐ銛を次々と撃ち込む。必殺の銛だ。辺見はなぜ必殺の銛を次から次と休みなく撃ち続けるのか。理由は明らかだ。必殺の銛が10本撃ちこまれても、びくともしない怪物がそこに佇んでいるからだ。びくともしない。揺らぎもしない。汗もかかない。赤面さえしない。反省という言葉を知らないこの国の「無神経」はまさに「妖気」と言うしかない。
時を食いつぶすように屹立した日本軍国主義は蝗の如くアジアを食いつぶした。同じ過去が未来に待っていないと自信を持って言えない現在のこの国で、辺見は懸命になって記憶や反省や学習や責任の途を探る。その過程をさらけ出す。読者はこれでもか、これでもかという辺見の奮闘に、悲鳴、叫び、呻きに襲われながら頁をめくる。その先に待っている不安にあらかじめ目いっぱい不安を噴きつのらせながら。絶体絶命。

せっかくの本だが、いや、せっかくの本だからこそ、なんだか別の理由でもめているようだ。無責任な赤旗と無頓着な金曜日のごまかし戦術は、辺見庸に通じるはずがない。そんなことならなぜ本書を書いたのか。なぜ金曜日に連載したのか。なぜ単行本を出版したのか。なぜ辺見にインタヴューを申し込んだりしたのか。己をわきまえない、ということだろう。いいかげんにしろ。

MUSCAT, Les Celliers de Sion SA, Sion, Valais, 2015.

Saturday, March 05, 2016

極端人・熊楠の権威主義――「日本人の不可能性の極限」

唐澤太輔『南方熊楠――日本人の可能性の極限』(中公新書)
熊楠の伝記はこれまでにも何冊も出ている。読んだのは2~3冊だが。白浜の熊楠記念館には一度行って見てきた。いつ、だれがつけたのか知らないが「知の巨人」と呼ばれ、数々の逸話に彩られた多彩かつ、異色の人物だ。「彼はいったい何者なのか。民俗学者か、生物学者か、それとも粘菌研究者か、あるいは博物学者か――。どれも当てはまるようだが、どれも超え出てしまっている」という著者は、あまりにも「振幅」の大きい熊楠を「極端人」と表現する。
本書は単なる伝記ではないと宣言して始められているが、伝記である。単なる伝記でない伝記とはどういうものか知らないが、本書は伝記である。著者は、熊楠の「実像」を探るとか、実証することにではなく、様々な「伝説」が語られ、虚像がどんどんふくらんでいくことに熊楠の特色を見て、その都度、現実的意味と伝説的意味を解釈していく。和歌山・東京時代、アメリカ時代、ロンドン時代、那智隠栖時代、田辺時代に分けて、それぞれの時期のエピソード、人間関係、研究、手紙、日記を紹介していく。一般に知られていることが基本であるが、さらに踏み込んで多くのエピソードを紹介し、研究の発展状況を追いかける。キューバ独立戦争時のエピソード、大英博物館での人間模様、オカルティズム研究、南方曼荼羅、tactと「やりあて」、神社合祀反対運動、柳田國男との交流など、楽しく読める伝記だ。
ただ、「知の巨人」といい、「振幅」が大きいといい、「世間並」からはずれているといい、「極端人」といい、「日本人の可能性の極限」(柳田國男の言葉)と言い、熊楠を超人化しようとするが、いずれもこけおどしに過ぎない。著者も気づいているはずだが、気付かないふりをしているのかも。熊楠研究者としては、熊楠の偉大さを宣伝する使命を果たす必要があるのかもしれない。2点だけ指摘しておこう。
第1に、柳田の「日本人の可能性の極限」という表現に触れて、著者は熊楠の「極端な在り方」に注目し、「他者との距離が極端に遠くなることによって、逸脱した思考、他者に囚われない新しい考えを生み出すことができた」と言う。ところが、具体例は「エコロジー」と言う極めて斬新な考え方を日本に紹介したことだけが挙げられている。海外の思潮を紹介することは必要で大事なことである。しかし、紹介は紹介である。「新しい考えを生み出すことができた」などと粉飾してはいけない。
第2に、「熊楠が、その人生において最も輝いた日、それはやはり1929年6月1日の御進講の日であった」と言う。本書の各所で、熊楠は大学には関心を示さず、大学教授への招聘にも応じず、自らの努力で学問に励んだことを紹介し、権威主義から遠い人物として描き出していたのだが、何のことはない、最も輝いたのは、昭和天皇への御進講だという。熊楠自身、猛烈に感激し、興奮し、フロックコートを修理し、万全の準備をして田辺湾に停泊中の長門で御進講したという。「日本人の可能性の極限」など真っ赤な嘘である。熊楠こそ天皇に這いつくばる卑小な権威主義者だったのだ。そして、著者も天皇主義の掌で踊っているにすぎないことが分かる。ここに「日本人の不可能性の極限」を見ることができる。
著者は1978年生まれ、早稲田大学大学院、助教をへて、同大学言語文化研究所招聘研究員。著書に『南方熊楠の見た夢』があるという。


パウル・クレー・センター散歩

企画展は「動きの中の絵画」展と「中国人/伝言ゲーム」展の2つだった。
「動きの中の絵画」展は、クレーの作品における動き――歩く、走る、跳ぶ、踊るなどを中心に、動作、変化、生成、流れなどに焦点を当てる。
冒頭に「ダンスの動き」として、バウハウスでオスカー・シュレンマーを中心に役者やダンサーが踊り、カンディンスキー、モンドリアン、クレーらがそこから影響を受けて絵を描き、ダンサーたちがその絵に触発されて踊りを工夫したことが説明されている。とくにグレーテ・パルッカというダンサーが重要だったようで、彼女はバウハウスから影響を受けながらモダン・ダンスを発展させたという。パルッカの写真が数枚展示されていた。
それとは別に、もう一人のダンサーの映像を見ることができた。ジョセフィン・ベイカーというダンサーで、説明には、当時、初めて肌の黒いダンサーが舞台に立ち、話題をさらったことが書かれていた。クレーも注目して、通って観たという。バックバンドはトンプソン・ジャズ・オーケストラとあり、なんとディキシーだ。映像は2つあって、1927年と1930年だからディキシーに決まっているか。これには驚いた。トンプソン・ジャズ・オーケストラの自在な演奏に合わせてジョセフィンが激しくステップを踏む。跳ねる。回る。くねる。あおぐ。自由闊達なダンスだ。これにはまいった。思い違いしていた。
クレーの伝記や評論を読めば、若い時にバイオリンが得意で演奏会にも出ていたので、音楽家になるか画家になるか迷った末に、画家を目指すことにしてミュンヘンに出て絵を学んだことが書かれている。その後も呼ばれて演奏していたようだ。写真も残っている。ベルン市中心部のその演奏会場の前にも写真が飾られている。クレーの作品にも音楽的要素があり、音楽家を描いてもいる。当然の如く、読者の頭の中にモーツアルトやシューベルトの調べが流れ、そうしてクレーの作品を見ることになる。それが当たり前。その通りなのだが、それは1900年前後の話だ。
1920年代のクレーがバウハウスで一緒にすごしたのは、ディキシーランド・ジャズメンとダンサーたちなのだ。ディキシーを頭の中に鳴り響かせながらクレー作品を見ると、前とは違って見えるのだ。まいった。この1点だけでも収穫。

展示は、物質の重さ、負担を示す作品、人が歩いたり走ったり跳んだりするさまを描いた作品、逆に動きを制約する様子の作品、水が流れる様や水路や魚の泳ぎの作品、色彩の変化、変容の作品などが順に展示されていた。これまで見たことのないものも結構あった。

Friday, March 04, 2016

日本問題としての沖縄現代史を学び続ける

新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』(岩波新書)
『沖縄問題20年』は沖縄戦から20年の1965年の出版だ。その後も『沖縄70年前後』、『沖縄戦後史』、『沖縄現代史』、その新版と、著者は岩波新書だけでも、半世紀にわたって沖縄現代史を、民衆史、そして闘争史の観点で書き続けてきた。凱風社から出た「沖縄同時代史」シリーズは全10巻+別巻である。
本書は、現在の安倍政権が押し付けている辺野古基地問題に象徴される「日本問題としての沖縄問題」をあらためて取り上げて、構造的沖縄差別の実態を厳しく批判している。琉球処分等の歴史を遡ることは避けて、沖縄戦、平和憲法、そして軍事要塞沖縄と言う枠組みの形成期から、60年安保、沖縄返還を経て、1995年の「民衆決起」、さらに現在の「オール沖縄」の闘いを追跡し、運動の現在とこれからを問う。

2015年の戦争法=安全保障法に対する批判的運動の盛り上がりを「一五年安保闘争」と呼ぶ著者は、「安保関連法の強行採決によって、日本にも新たな民衆運動、いわば一五年安保闘争が生まれたともいう。一五年安保闘争は、六〇年安保闘争、七〇年安保沖縄闘争を越えられるだろうか」と問いかける。それは「日本国民」に突き付けられた問いである。
だが、残念ながら、2015年の国会前闘争は「一五年安保闘争」ではない。日米安保体制そのものに疑問を呈したわけではないからだ。たしかに、そこに日米安保反対の声も響いた。だが、主流は日米安保体制下での条件闘争であったと言った方が正確であり、日米安保反対派は、警察によってではなく、運動主流派によって片隅に追いやられたのが実情であった。それでもなお、多様な声が響いた国会前闘争に大きな意義はあった。そこから「一五年安保闘争」の地平にたどり着くには、さらなる展開が必要だろう。

Wednesday, March 02, 2016

グランサコネ通信16-05

3月1日と2日、国連人権理事会はハイレベル・セグメント。
1日午前は、国際人権規約50周年記念のパネル。その後は各国政府代表の演説大会。
2日昼頃に、日本政府、午後に韓国政府が発言したが、いずれも「慰安婦」問題には触れなかった。日韓合意を報告するのだろうと予想していたが、日本と韓国、事前に相談したのだろう。「慰安婦」の「慰」の字もなく、足並みそろえて朝鮮民主主義人民共和国叩きをしていた。米日韓軍事同盟の路線に戻ったということ。
日本政府代表はMr. Masakazu Hamachi, Parliamentary Vice-Minister for Foreign Affairs。冒頭でOHCHRを言えなくて苦労し、結局読み飛ばした。OHCHRは国連人権高等弁務官事務所のことで、人権理事会参加者でこれを発音できないのはかなりの蛮勇の持ち主。偉い! 人権高等弁務官のフサインをフンセンと呼んだのも、なかなかの奮戦。単語をひとつ読んでは、ちょっと休んで、次の単語を読んでは、また休んで状態。内容は、テロリズム、難民、朝鮮、女性の活躍、障害者、ハンセン病についての日本政府の取り組みの紹介。
韓国政府代表は、Mr. Yun Byung-se, Minister for Foreign Affairs, Republic of Korea。ハマさんと違って流暢な英語だ。冒頭に持続可能な環境のことを少しふれたが、残りは全編、朝鮮民主主義人民共和国批判。
日韓そろい踏みで、制裁、制裁、制裁!!!

日本と韓国の間に発言したキューバが、制裁は人道に対する罪だ、と言っていたのを聞いていないようだ。制裁の最大の被害を受けてきたキューバは、アメリカとの関係を正常化しているが、半世紀にわたる制裁の被害を説明していた。