Saturday, March 05, 2016

極端人・熊楠の権威主義――「日本人の不可能性の極限」

唐澤太輔『南方熊楠――日本人の可能性の極限』(中公新書)
熊楠の伝記はこれまでにも何冊も出ている。読んだのは2~3冊だが。白浜の熊楠記念館には一度行って見てきた。いつ、だれがつけたのか知らないが「知の巨人」と呼ばれ、数々の逸話に彩られた多彩かつ、異色の人物だ。「彼はいったい何者なのか。民俗学者か、生物学者か、それとも粘菌研究者か、あるいは博物学者か――。どれも当てはまるようだが、どれも超え出てしまっている」という著者は、あまりにも「振幅」の大きい熊楠を「極端人」と表現する。
本書は単なる伝記ではないと宣言して始められているが、伝記である。単なる伝記でない伝記とはどういうものか知らないが、本書は伝記である。著者は、熊楠の「実像」を探るとか、実証することにではなく、様々な「伝説」が語られ、虚像がどんどんふくらんでいくことに熊楠の特色を見て、その都度、現実的意味と伝説的意味を解釈していく。和歌山・東京時代、アメリカ時代、ロンドン時代、那智隠栖時代、田辺時代に分けて、それぞれの時期のエピソード、人間関係、研究、手紙、日記を紹介していく。一般に知られていることが基本であるが、さらに踏み込んで多くのエピソードを紹介し、研究の発展状況を追いかける。キューバ独立戦争時のエピソード、大英博物館での人間模様、オカルティズム研究、南方曼荼羅、tactと「やりあて」、神社合祀反対運動、柳田國男との交流など、楽しく読める伝記だ。
ただ、「知の巨人」といい、「振幅」が大きいといい、「世間並」からはずれているといい、「極端人」といい、「日本人の可能性の極限」(柳田國男の言葉)と言い、熊楠を超人化しようとするが、いずれもこけおどしに過ぎない。著者も気づいているはずだが、気付かないふりをしているのかも。熊楠研究者としては、熊楠の偉大さを宣伝する使命を果たす必要があるのかもしれない。2点だけ指摘しておこう。
第1に、柳田の「日本人の可能性の極限」という表現に触れて、著者は熊楠の「極端な在り方」に注目し、「他者との距離が極端に遠くなることによって、逸脱した思考、他者に囚われない新しい考えを生み出すことができた」と言う。ところが、具体例は「エコロジー」と言う極めて斬新な考え方を日本に紹介したことだけが挙げられている。海外の思潮を紹介することは必要で大事なことである。しかし、紹介は紹介である。「新しい考えを生み出すことができた」などと粉飾してはいけない。
第2に、「熊楠が、その人生において最も輝いた日、それはやはり1929年6月1日の御進講の日であった」と言う。本書の各所で、熊楠は大学には関心を示さず、大学教授への招聘にも応じず、自らの努力で学問に励んだことを紹介し、権威主義から遠い人物として描き出していたのだが、何のことはない、最も輝いたのは、昭和天皇への御進講だという。熊楠自身、猛烈に感激し、興奮し、フロックコートを修理し、万全の準備をして田辺湾に停泊中の長門で御進講したという。「日本人の可能性の極限」など真っ赤な嘘である。熊楠こそ天皇に這いつくばる卑小な権威主義者だったのだ。そして、著者も天皇主義の掌で踊っているにすぎないことが分かる。ここに「日本人の不可能性の極限」を見ることができる。
著者は1978年生まれ、早稲田大学大学院、助教をへて、同大学言語文化研究所招聘研究員。著書に『南方熊楠の見た夢』があるという。