Saturday, September 09, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(107)憲法学的規制論の提案

藤井正希「ヘイトスピーチの憲法的研究――ヘイトスピーチの規制可能性について」『群馬大学社会情報学部研究論集』23巻(2016年)
藤井は、ヘイトスピーチ規制の必要性について、まず「社会的害悪」を取りあげ、人格権の観点と民主主義の観点を提示する。
人格権の観点では次のように述べている。
「集団を傷つける言論が特定の個人を傷つける言論よりも常に侵害性が乏しいとは決して言えないであろう。この点、ヘイト・スピーチが、個人の尊厳を侵害するとともに、法の下の平等の要請に反し、犠牲者に身体的、精神的、経済的害悪を現実に与えている以上、国家がこれを放置することは、憲法13条・14条に通底する人格権の理念からして決して許されないのである。」
憲法学者の中にはヘイト・スピーチの被害に言及しない例や、言及しても被害は大きくないと断定する例がみられるが、藤井はそうではないと指摘する。金尚均をはじめとする規制積極派が唱えてきたことと同じ主張である。身体的害悪、精神的害悪のみではなく、経済的害悪にも言及しているのは、珍しい。私と同じ見解である。
民主主義の観点では次のように述べている。
「不特定多数人によるヘイト・スピーチの圧力により、それが向けられた人びとのみならず周囲の人びとも、沈黙を強いられ、あるいは功利的に沈黙を選択し、口を閉ざす。とりわけリスクの伴う政治的主張を対外的に行うことは禁忌するようになる。やがて社会の中から気楽にものが言える雰囲気が消滅し、自由な意見交換、とりわけ政治的な意見交換が行われなくなってしまう。これは、民主主義が健全に機能するために必要不可欠な“思想の自由市場”が市民社会の中から消失することを意味する。この点においても、ヘイト・スピーチは民主主義にとって脅威となるのである。」
ヘイト・スピーチを民主主義の観点で規制することを唱えてきたのは金尚均である。藤井は金の論文を引用し、自らの見解を明らかにしている。私も「民主主義とレイシズムは両立しないから、民主主義を守るためにはヘイト・スピーチを規制する必要がある」と言う見解である。
規制消極派は、思想の自由市場論を持ち出してヘイト・スピーチ規制を否定してきた。ところが、藤井は思想の自由市場論の別の側面を提示して、ヘイト・スピーチ規制の必要性につなげている。私は思想の自由市場論を採用しないので議論の仕方は異なるが、藤井説のような組み立てもあるので、再考してみよう。
藤井は、日本における立法動向として人種差別撤廃施策法案を検討し、判例を一瞥し、諸外国の立法例としてアメリカ、カナダ、ドイツ等を見たうえで、憲法学の検討に入る。
第1に、対抗言論の法理と沈黙効果論について、「新大久保等で現実に行われているヘイト・スピーチ・デモをネット動画等で観るにつけ、この場合は対抗言論の法理が機能しないケースである」とする。そして、「被害者が存在し、現実的被害が生じている以上、それを無視することは決して許されないであろう」と言う。
第2に、表現の自由論である。「表現の自由に対する法規制を“敵視”してきたのが、戦後の憲法学と言える」とし、渋谷秀樹や奥平康弘の見解を検討し、これに対する前田朗の批判を紹介したうえで、「何らかの法規制をすべきと考えざるをえない」としつつ、表現の自由に対する委縮的効果も考慮して、「さしあたり刑罰規定の導入は見送り、行政上の措置にとどめるべきである」と言う。
第3に、保護法益論である。集団の名誉は保護法益にならないとする毛利透の見解を検討し、被害を単なる不安感ととらえるのではなく、「社会参加の機会」を考慮すべきとし、保護法益を論じている。
結論として、藤井は次の3点から「早急に法的な規制を行うべきである」とまとめる。
第1に、「通常の判断能力を有する一般人が実際に日本で行われている極端なヘイト・スピーチを見れば、人間の存在自体を全否定する言動に対して、不快感や嫌悪感にとどまらず、衝撃や恐怖を感じざるを得ないと考えるからである。」
第2に、「ヘイト・スピーチ規制はもはやグローバル・スタンダードで国際常識であるからである。」
第3に、「凄惨なジェノサイドや著しい人権侵害は、ヘイト・スピーチや民族排外意識から発生することが多いからである。」
藤井論文の存在は昨年暮れには知っていたが、読むのが遅くなった。ヘイト・スピーチ規制の憲法論を展開している点で重要である。私の著書では憲法学への外在的批判をするにとどまっていたが、その後、内在的批判を始めた。藤井は憲法学への内在的批判を通じて行政規制を基礎づけている。刑事規制については「さしあたり刑罰規定の導入は見送り」としているように、刑事規制そのものを否定しているわけではない。
藤井は新大久保や川崎などのヘイト・デモを実際には見たことがないようであり、「ネット動画等で観るにつけ」と書いている。規制消極論の憲法学者の論文では、被害に言及しなかったり、現実から目をそらした議論をしている例が少なくない。現場の実態を知ることが必要だが、現場に行かなくても、ともかくネット動画を見ればそのひどさがわかり、放置できないというまともな判断ができると言えよう。
ヘイト被害の実態調査は、政府レベルでは昨年始まったばかりである。NGOによる調査はすでにいくつも公表されている。人種・民族差別の実態を総合的に明らかにする調査・研究の重要性がますます高まっている。



Wednesday, September 06, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(106)ドイツにおけるヘイトスピーチ対策

金尚均「ドイツにおけるヘイトスピーチ対策」『国際人権ひろば』135号(2017年)
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ドイツ刑法における民衆扇動罪については金尚均や桜庭総らの研究が詳しいが、加えて、最近の、欧州評議会サイバー犯罪条約追加議定書への対応や、2017年6月30日の法改正(フェイスブックやツイッターにおける人種差別表現の削除)について解説している。





インタヴュー講座:人はなぜ旅に出るのか第3回 野平晋作さん

インタヴュー講座:人はなぜ旅に出るのか第3回

野平晋作さん
「勉強になりました」では済まされないことを学んだピースボートの船旅

野平晋作:1964年鹿児島生まれ。1992年よりNGOピースボートの専従スタッフとなる。現在、共同代表。国際交流の船旅の企画、コーディネートをする傍ら、歴史認識問題、在沖縄米軍基地問題、原発問題等について、他の市民団体とともに活動を続けている。

9月30日(土):開場午後5時30分、開会6時~8時30分
スペースたんぽぽ           
東京都千代田区三崎町2-6-2 ダイナミックビル4階 /電話:03-3238-9035
    JR総武線・水道橋駅より徒歩5
参加費(資料代含む):500円

 あなたはどんな旅をしてきましたか。旅先で、何を考えてきましたか。
 あなたは一人旅派ですか、それとも団体旅行派ですか――ひとり思索に集中する旅と、仲間とワイワイ楽しむ旅。目的地を決めた旅、探し物をする旅、あてどなく彷徨う旅。
 旅は地理的移動の旅だけではありません。人生そのものが旅のようなものです。
 今回は、ピースボートで、文字通り平和を希求し、学び、友好と連帯を築きながら世界を旅してきた野平晋作さんにお話を伺います。

主催:平和力フォーラム 
東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学内・前田研究室
042-637-8872    
E-mail:maeda@zokei.ac.jp


ヘイト・スピーチ研究文献(105)百田尚樹講演中止問題

前田朗「一橋大学祭・百田尚樹講演中止問題」『マスコミ市民』582号(2017年7月)
梁英聖「一橋大学KODAIRA祭への差別禁止ルール提案の意義」『マスコミ市民』583号(2017年8月)
小川宏美「百田尚樹講演会が中止になったわけ」『週刊金曜日』1150号(2017年9月)



Monday, September 04, 2017

記憶をめぐる言説の危うさについて

玄武岩は、朴裕河『帝国の慰安婦』が「記憶」を論じながら歴史学において重視されている記憶論を踏まえていないことを指摘している。正当な指摘だと思う。
ただ、私自身は「歴史学において重視されている記憶論」そのものに危うさを感じているので、その点を補足しておきたい。
歴史学に限らず、ナチスのユダヤ人虐殺をはじめ世界各地のジェノサイドや人道に対する罪の歴史に関して「記憶」の重要性が浮上し、さまざまに「記憶」をめぐる研究が深められ、焦点となってきた。たしかに「記憶」をめぐる研究は重要であるし、近年の発展は歓迎すべきことである。
しかし、記憶をめぐる言説の中には、おいそれと容認し得ないものが目立つのも事実である。主な論点に絞って書き留めておきたい。
第1に、「慰安婦」問題を1990年代に議論し始めた時、私たちはそれを「歴史」「過去」「記憶」のこととして取り組んだのではない。「50年の沈黙を破って」被害者=サバイバーたちが体験を、記憶を語り出した時、その文脈は、現在も続く戦時性暴力、女性に対する暴力をいかに止めるかという現在の実践のフィールドで受け止めたのだ。「被害当事者の体験と記憶の現在性」こそが「不処罰を終わらせる」ための起爆剤だった。だからこそ国連人権委員会で、同時代の女性に対する暴力や戦時性奴隷制の問題として、1990年代前半の旧ユーゴスラヴィアやルワンダの事態とともに議論の対象となったのである。このことを軽視して、歴史、過去、記憶のただ中で議論する傾向が強まっているのではないだろうか。「歴史主義的記憶論」とでも名付けられるような議論には疑問を付すしかない。事柄を「記憶をめぐる争い」に矮小化してはならない。
まして、「慰安婦」問題は日韓問題ではない。日本人女性も含めたアジアの女性に対する人権侵害問題であり、世界の女性の人権問題である。これまでにも何十回と指摘してきたことだが、このことを意図的に無視して、何が何でも日韓問題にしたがる一部の論者がいる。日韓問題にすることで、他の諸国・諸地域への視線を閉ざすと同時に、日韓の政治対立問題にすることによって「国家間の政治問題」だけに限定しようとする。記憶をめぐる言説にもこうした傾向が見られると言ってよいだろう。
第2に、誰の記憶か、という問題がある。玄武岩もこの点は正当に指摘しているが、「慰安婦」問題で言えば、被害者=サバイバーの記憶の他に、当時の関与者たちの記憶があり、日本軍兵士の記憶があり、現在の韓国の社会・政治意識における記憶があり、といった具合に、記憶についてはさまざまなアクターが登場しうる。当たり前のことである。ところが、さまざまな記憶の主体を登場させることによって、「記憶の相対化」が図られる。そこから果てしない「記憶をめぐる争い」が始まる。記憶する者と、記憶される者の落差が利用される。挙句の果てに、研究する主体の介入により、いくらでも追加登記の可能な局面では、当事者の体験に基づく記憶は、記憶の山の中で操作可能な情報の一つに転化されてしまう。
第3に、記憶に限定した議論は、責任の排除につながりうる。現にそうした議論が登場し、歴史や記憶を明らかにするには責任という倫理的要素を導入するべきではないとの主張がなされる。「もっとも形式的な実証主義」に閉ざされた議論が厳密な学問を装うことにならないだろうか。ドイツの「記憶・責任・未来」基金が重要な役割を果たしたにもかかわらず、研究者の記憶論は責任不在、それどころ責任排除の記憶論になりがちである。
歴史的事態に関する記憶をめぐる研究には、心理学、社会学、政治学、歴史学等々諸分野を横断した優れた研究が出ているようだ。その重要性は言うまでもない。
ただ、上記は私自身のための自戒としてメモしておいた。


Sunday, September 03, 2017

『「慰安婦」問題の境界を越えて』

テッサ・モーリス-スズキ、玄武岩、植村隆著『「慰安婦」問題の境界を越えて――連合国軍兵士が見た戦時性暴力、各地にできた〈少女像〉、朝日新聞と植村元記者へのバッシング』(寿郎社ブックレット)
テッサ・モーリス-スズキ「アジア太平洋戦争における日本軍と連合国軍の『慰安婦』」は、「慰安婦」の新たな側面に光を当てるとして、イギリス帝国戦争博物館、オーストラリア戦争記念館にある文書史料や証言史料から、連合国軍兵士の証言を多数紹介する。多くは戦争末期のインド、中国、ビルマなど東南アジアにおける「慰安婦」と冴えた女性に関連する証言である。当時の兵士(証言者)やインタヴュアーには女性の権利への問題意識がないため、十分な史料と言えない面もあるが、戦時性暴力研究の資料として重要である。
玄武岩「『想起の空間』としての『慰安婦』少女像」は、「平和の碑(少女像)」をめぐる記憶と表彰をめぐる研究である。記憶と歴史、想起と忘却のメカニズムに即して、誰の記憶か、少女像のリアリティをどこに見るかを検討する。
朴裕河『帝国の慰安婦』について、(1)多くの事実誤認があること、(2)朴裕河が「記憶」を論じながら歴史学において重視されている記憶論を踏まえていないこと、(3)朴裕河の方法が構築主義的でないこと、等を指摘する。
植村隆「歴史修正主義と闘うジャーナリストの報告」は、メディアに受けたバッシング、「北星大学事件」の当事者としての闘いの状況を報告している。
なお、9月1日、植村は、産経新聞の誤報訂正申し入れの調停を東京簡易裁判所に申し立てた。
最後に3人によるディスカッションが行われている。記録の抜粋のようで、話があちこち飛んでいる印象があるが、本文の補充と言う意味で有益な記録である。
玄武岩はここでも朴裕河『帝国の慰安婦』の評価について言及し、「私は、基本的には朴裕河の試みは意味はあるものだと考えています」として、抵抗ナショナリズムとは異なる局面をみようとする点で評価している。
ただ、朴裕河が森崎和江を安易に引用していることについて批判している。朴裕河の思想と森崎和江の思想は「相容れない」からである。国家を前提にする朴裕河の「和解」と、民衆次元における独自の出会いを求めた森崎和江とは、決定的に異なる。
玄武岩の議論は理解できる面もあるが、重要な点でやや疑問が残る。第1に、テッサ・モーリス-スズキの報告の後であるにもかかわらず、玄武岩は「慰安婦」問題を日韓の問題に閉ざし、その他のアジアを切り捨てる。それゆえ、第2に、玄武岩は「慰安婦」問題を記憶や抵抗ナショナリズムのレベルで論じる。国際社会において女性に対する暴力の議論が行われていることを的確に見ようとしていない印象が強い。テッサ・モーリス-スズキとの役割分担をしているので、あえてあまり言及しなかったのかもしれないが。

100頁、800円のブックレットだが、重要な史料、重要な視点を提供しているので、関心のある人には必読書である。







Saturday, September 02, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(104)

ヘイト・スピーチ研究文献(104)

金朋央「ヘイトスピーチ解消法施行から一年」『コリアNGOセンターNews Letter』46号
6月3日に開催された集会「ヘイトスピーチ解消法施行一年~その現状と課題、人種差別撤廃基本法の実現へ」の概要が紹介されている。