Sunday, September 03, 2017

『「慰安婦」問題の境界を越えて』

テッサ・モーリス-スズキ、玄武岩、植村隆著『「慰安婦」問題の境界を越えて――連合国軍兵士が見た戦時性暴力、各地にできた〈少女像〉、朝日新聞と植村元記者へのバッシング』(寿郎社ブックレット)
テッサ・モーリス-スズキ「アジア太平洋戦争における日本軍と連合国軍の『慰安婦』」は、「慰安婦」の新たな側面に光を当てるとして、イギリス帝国戦争博物館、オーストラリア戦争記念館にある文書史料や証言史料から、連合国軍兵士の証言を多数紹介する。多くは戦争末期のインド、中国、ビルマなど東南アジアにおける「慰安婦」と冴えた女性に関連する証言である。当時の兵士(証言者)やインタヴュアーには女性の権利への問題意識がないため、十分な史料と言えない面もあるが、戦時性暴力研究の資料として重要である。
玄武岩「『想起の空間』としての『慰安婦』少女像」は、「平和の碑(少女像)」をめぐる記憶と表彰をめぐる研究である。記憶と歴史、想起と忘却のメカニズムに即して、誰の記憶か、少女像のリアリティをどこに見るかを検討する。
朴裕河『帝国の慰安婦』について、(1)多くの事実誤認があること、(2)朴裕河が「記憶」を論じながら歴史学において重視されている記憶論を踏まえていないこと、(3)朴裕河の方法が構築主義的でないこと、等を指摘する。
植村隆「歴史修正主義と闘うジャーナリストの報告」は、メディアに受けたバッシング、「北星大学事件」の当事者としての闘いの状況を報告している。
なお、9月1日、植村は、産経新聞の誤報訂正申し入れの調停を東京簡易裁判所に申し立てた。
最後に3人によるディスカッションが行われている。記録の抜粋のようで、話があちこち飛んでいる印象があるが、本文の補充と言う意味で有益な記録である。
玄武岩はここでも朴裕河『帝国の慰安婦』の評価について言及し、「私は、基本的には朴裕河の試みは意味はあるものだと考えています」として、抵抗ナショナリズムとは異なる局面をみようとする点で評価している。
ただ、朴裕河が森崎和江を安易に引用していることについて批判している。朴裕河の思想と森崎和江の思想は「相容れない」からである。国家を前提にする朴裕河の「和解」と、民衆次元における独自の出会いを求めた森崎和江とは、決定的に異なる。
玄武岩の議論は理解できる面もあるが、重要な点でやや疑問が残る。第1に、テッサ・モーリス-スズキの報告の後であるにもかかわらず、玄武岩は「慰安婦」問題を日韓の問題に閉ざし、その他のアジアを切り捨てる。それゆえ、第2に、玄武岩は「慰安婦」問題を記憶や抵抗ナショナリズムのレベルで論じる。国際社会において女性に対する暴力の議論が行われていることを的確に見ようとしていない印象が強い。テッサ・モーリス-スズキとの役割分担をしているので、あえてあまり言及しなかったのかもしれないが。

100頁、800円のブックレットだが、重要な史料、重要な視点を提供しているので、関心のある人には必読書である。