Saturday, November 01, 2008

すいす・しんどろ~む(8)アヴァンシュ


































ローマの円形闘技場――アヴァンシュ













駅に降り立ったときは一瞬、降車駅を間違えたのかと思ってしまった。







駅の周辺には、何もないのだ。







小さなレストランが一つと、民家が並んでいるだけだ。線路の向こう側にはひまわりの花と麦畑が広がっている。







これがローマ時代の古都アヴァンシュだろうか。スイス中世史に繰り返しその名を刻んできた町だろうか。思わず駅の表示を見直してアヴァンシュ駅に間違いないことを確認した。それほど予想していたイメージとは違った景色だった。







駅の周辺をぐるりと歩いて見渡すと、少し先の道路中央に小さな標識が見えた。標識には「ローマの闘技場」と印されている。間違いない。ここがアヴァンシュだ。田舎町の坂道をゆっくり登っていくと、前方にかわいらしいお城が見えてきた。







現在のアヴァンシュの町並みは、ローマ時代のそれから見ると、郊外の丘の上に位置する。17世紀から18世紀のルネッサンス様式の町並みだ。台地状の丘の上にメインストリートが走り、両サイドに家々が連なる小さな町である。一角にお城が建っているが、その隣にローマ時代の円形闘技場が口を開けている。







こんなところに、なぜローマの遺跡なのか。







スイス中部の平野、ヌシャテル湖に隣接したムルテン湖南部のさびれた町である。ムルテン湖に面した港でもないし、格別の地理的要因があるとも思えない。







ローザンヌからリス行きのローカル鉄道で1時間半ほどの距離。南はパイエルヌ、北はムルテンの町である。ムルテンならば、ベルンのツェーリンゲン家が造った中世の城砦都市や、ムルテン湖の遊覧などのめぼしい観光資源もある。







ローマ時代には2万人が住んでいたというアヴァンシュは麦畑の下に埋もれ、今の町並みは数千人の住民しかいない。町というより村といったほうが近いかもしれない。リス行きの鉄道は1時間に1本しかなく、ローザンヌ方面行きも同じ。町の中心部ににホテルが1軒あるだけだ。







野球場と同じスタイルの円形闘技場の上部をぐるりと回り、座席に座ってみてはローマ時代に思いを馳せるが、光景は容易に立ち上がってこない。闘技場の下に降りて土の上を歩く。野球でもサッカーでも、コンサートでも演劇でもできそうな闘技場だ。













スイスがローマ帝国に編入されたのは紀元前15年のティベリウスとドゥルーススによるアルプス地方征服からである。ガリアへの大遠征の一環として行われたヘルウェーティア作戦の延長で、指令したのはアウグストゥスである。ヘルウェーティアといってもどこのことかわからないかもしれないが、これがスイス地方の名称であった。







それまでこの地域には、ケルト民族の部族ヘルウェーティが住んでいた。ゲルマン民族の移動によって圧迫を受けたローマは、ガリア地方に目をつけ、ビブラクテの戦いで支配の手がかりを得て、現在のスイス中央部の台地をローマ帝国の一部とした。







それ以後、約250年にわたって、リーメス・ゲルマーニクスと呼ばれた全長548キロメートルの防壁(ライン川からドナウ川まで)に守られ、この地域キーウィータス・ヘルウェーティオールムはローマ皇帝の平和を享受した。ここに生まれた都市の代表格がローマ市民の植民都市アウェンティクム(アヴァンシュ)であった。周辺の農村地帯にはケルト人が居住していたが、ローマ人の入植によって、ローマ的な生活様式が持ち込まれた。







当時の都市は、アヴァンシュのほかに、ゲナーヴァ(ジュネーヴ)、ロウサンナ(ローザンヌ)、ウィーウィスクム(ヴヴェ)、オクトドゥールス(マルティニ)、サロドゥールム(ゾロトゥルン)、アクアエ・ヘルウェティカ(バーデン)、トゥリクム(チューリヒ)、クーリア(クール)などがある。







神聖ローマ帝国の時代になってアヴァンシュの栄光はかげりを見せる。534年にフランク族がこの地域を征服し、フランク王国を形成するとその一部とされ、中心はアヴァンシュから新しい司教所在地ローザンヌに移った。マルティニの司教もシオンに移った。修道院はサン・クロード、ロマン・モティエ、ムーティエ・グランヴァルで発展した。







中世から近世にかけての封建領主と都市の繁栄と抗争を通じてスイスの盟約者団が形成され、今日のスイスの原型が造られていく。そのスイス史の表舞台にもアヴァンシュの名は登場する。







13世紀にベルンを中心にブルグント盟約者団が形成されるが、それはベルン、フリブール、ムルテン、アヴァンシュの4都市同盟であった。ベルンのツェーリンゲン家が造営した4つの都市の構造が良く似ていることは、今でも一目瞭然としている。ブルグント盟約者団は、さらにゾロトゥルン、ビール、ラウペン、パイエルヌを加え、ハプスブルク家とサヴォア家の対立の間を巧みに動いて、ベルン領を拡大していくことになる。アヴァンシュは4都市同盟の一員として最後の輝きを見せた。







しかし、15世紀に確立したスイス盟約者団と13邦の中にアヴァンシュの名を見つけることはできない。スイス近代史の担い手は、ベルン、チューリヒ、ルツェルン、ツーク、グラールス、フリブール、ゾロトゥルン、バーゼル、シャフハウゼン、アペンツェルである。







アヴァンシュは歴史の彼方に置き忘れられた存在となる。













ローマのアヴァンシュは爽やかな夏の陽射しに輝く麦畑の下に眠っている。発掘作業はまだ残されており、この地域の建築工事は禁止されている。







発掘調査が済んだのは、円形闘技場、野外劇場、教会、聖霊場である。これらは当時のアヴァンシュの郊外に位置していた。現在のアヴァンシュの東南部にあたる。







円形闘技場の塔は博物館として利用され、掘り出された遺物のほとんどを陳列している。ミネルヴァの頭部、シレーヌの頭部や、数々のブロンズ立像や、柱やレリーフの一部、貨幣、壷、皿をはじめとする生活用品が収蔵されている。とびっきりの目玉は、ローマ皇帝16代のマルクス・アウレリウスの純金像だ。博物館に陳列されているのはレプリカだが、なるほど見事な像だ。これが排水溝に落ちていたというのだから、これからは排水溝を見て歩こうかと思ったりする。







ローマのアヴァンシュは、いまアヴァンシュのローマとして甦る。毎年夏に、復元された円形闘技場でオペラ祭が催されるのだ。2001年7月には、ヴェルディの『リゴレット』が上演された。2002年夏には、ロッシーニの『ウィリアム・テル』とプッチーニの『トスカ』が上演されるという。ヨーロッパ各地から、住民より遥かに多い8000人の観客がやってきて、夏のローマの円形闘技場で伝説と歴史のはざ間を行きつ戻りつするのだ。







半日かけてアヴァンシュを歩いて疲れたので、カフェでハイネケンをぐいっと傾けて、たった1つのホテルに行ってみたら、満室だった。







しまった。







とぼとぼと駅まで歩いて隣町へ向かう羽目になった。教訓――ビールは宿を決めてから呑むことにしよう。













(参考文献)







Hans Bogli, Aventicum: La ville romaine et le musee. Association Pro Aventico, Avenches,1996.







Anne Hochuli-Gysel (ed.), Avenches: Hauptstadt der Hervetier, Mitteilungsblatt der Schweizerishen,Gesellschaft fur Ur- und Fruhgeschichte-SGUF,2001.