『救援』448号(救援連絡センター、2006年8月号)
ヘイト・クライム(憎悪犯罪)(一)
テポドン騒動
七月五日以来、各地で朝鮮人に対する暴行・暴言・脅迫事件が続発している。大阪の生野朝鮮初級学校一年の男子生徒が通学路で殴られた。愛知朝鮮中高級学校中級部二年の男子生徒も暴力被害を受けた(『毎日新聞』七月一四日)。暴行事件以外にも、「朝鮮帰れ」「三国人は日本から出て行け」「殺してやる」「ただじゃおかないからな」などの脅迫や無言電話、暴言、器物損壊など百件を超える嫌がらせが続いている(『読売新聞』七月一四日)。日本政府による制裁のため、生徒の修学旅行さえ実施できなくなっている。
きっかけは、七月五日、朝鮮がミサイル実験を行なったことである。各種のミサイルが日本海のロシア沖に落下したという。アメリカが事前に警告していたため、ある程度予想された実験強行であった。ところが、日本では待ってましたとばかりに異常な騒ぎが始まった。マスコミ、政府、社会の順で確認しておこう。
マスコミは、ロシア沖に落下したのに、当初は日本に向けて発射したかのようにセンセーショナルに取り上げた。予想された実験にもかかわらず「何をするか分からない」と興奮する。報道の視点も論評も、事実確認よりも興奮状態での大騒ぎである。アメリカ情報に依拠し、米日の利害だけを持ち出す。
日本政府は、即座に非難を打ち出し、英米仏などと国連安保理事会に制裁決議を提出したが、国連憲章第七章(武力行使)を含むという異常さであった。決議から第七章が削除されたのは当然である。
政府もマスコミも次から次と虚偽宣伝で戦争を煽っている。そもそもミサイル打ち上げは国際法に違反していない。これまでに四十数カ国がミサイルを保有している。毎年百回ほどのミサイル打ち上げが行なわれているが、非難された国はほとんどない。こうした事実を隠して、朝鮮が国際法違反をしたかのように誘導している。通告なしに打ち上げたというが、日本がロケット(物理的にはミサイルと同じ)を打ち上げる際に朝鮮に通告したことはない。また、七月七日、海上自衛隊は米軍との合同演習リムパックで、護衛艦三隻によるミサイル発射を行なっているが、朝鮮に通告していない。すべてのミサイル打ち上げを非難するべきだろう。日本もミサイル打ち上げを自粛するべきだ。
このように日本の行動と主張は常軌を逸しているのに、マスコミは「北叩き」に専念している。「拉致問題」以来、そうした感情が日本社会に蓄積されているから何でもありである。政府とマスコミが差別を煽り、戦争の火付け役になっている。その結果、多数の朝鮮人生徒が深刻な被害を受けることは、従来の経験からよくわかっていることである。一九九四年の「核疑惑」騒動、九八年のテポドン騒動、二〇〇二年の拉致問題など、朝鮮半島に緊張が走ると、日本社会は朝鮮人の子どもたちに襲いかかり、差別と犯罪を繰り返してきた。
差別の現象学
「日本において朝鮮人が陥っている苦境は、それ自体、日本という巨大な密室におけるドメスティック・バイオレンスなのではないか」と問う郭基煥『差別と抵抗の現象学』(新泉社、二〇〇六年)は、現象学を手がかりに「差別の哲学的人間学的問い」に迫る試みである。郭は、まず被差別体験を現象学的に分析し、その生成と意味を問い返した上で、差別行為の分析に向かう。人間を差別へと誘引する人間的条件とは何かを問うのである。
「<私>における他者の超越は、もっとも基層においては、他者は、別の他者のところからやってきたし、同時にまた、別の他者のところへ行きうる存在であるという形で知られている、と言えないだろうか。言い換えれば、他者の超越についての知は、この<あなたたちの世界>経験によって形成され、その知の中核に常に保持されているのではないか。他者が別の他者のところからやってきたし、別の他者のところへ行きうるという事態を、ここでは<社会的運動>と名づけておこう。」
<あなたたちの世界>経験によって社会的世界の超越の知が得られる。<あなたたちの世界>の痕跡こそが「われわれの社会・国」という社会表象を可能にする。これは単なる一般論や抽象論ではない。郭は次のように論及する。
「差別の力が二つの方向に向けられていることは明らかであり、その点に最大限の注意が払われるべきであろう。その一つは、『被差別者』に対するそれであり、もうひとつは『仲間』に対するそれである。差別は、『仲間』を『仲間』として拘束すると同時に、『被差別者』を『仲間ならざるもの』という『役割』に拘束する。その拘束は具体的には何に向けられているのか。それは、いつも他者の社会的運動に向けられているのだ。したがって、二重に他者の社会的運動を封じ込める行為であると言いうる。」
差別者の世界のリアリティは<あなたたちの世界>によって脅かされている、と感じられている。それでも自己のリアリティを固持するためには、別のリアリティの存在を意識の内部で抑圧しなければならない。見えているものすら見えなくなるのはここである。他者から不意打ちされ、世界を奪われるかもしれないという<根源的社会的不安>に促されて、逆に他者に不意打ちをかけ、世界を剥奪しようとするのである。したがって、差別の事実を暴露したり、差別者の罪を非難したり、差別者のその暴力性に気付かせるだけでは不十分である。郭は「<病>としての差別」について語る。
「人間についての徹底的な反省は、<あなたたちの世界>を経験せざるを得ないという変更不可能な人間の条件に対する<根源的社会的不安>に、差別へと人を誘惑する最初の動機を見出すのである。その意味では、差別は暴かれるべき<罪>ではなく、むしろ治癒されるべき<病>なのであり、差別者とは暴力的存在である以前に、不安におののく者なのである。」
郭によれば、ヘイト・クライムもまた<罪>である以前に<病>であるということになるだろうが、<病>であると同時に<罪>でもあることが否定されるわけではない。