Monday, August 03, 2009

ヘイト・クライム(2)

救援』449号(救援連絡センター、2006年9月号)

ヘイト・クライム(憎悪犯罪)(二)

差別の<今、ここ>

 郭基煥『差別と抵抗の現象学』(新泉社)は、差別を<罪>ではなく<病>の位相で捉え返そうとする。それは差別者を許したり労わったりするためではない。被差別者の立場から差別を克服するためである。差別されるという経験を人間学的に分析する中から、抵抗する主体としての思想を立ち上げるためである。

 しかも、今日、在日朝鮮人に対する差別の局面がかつてとは異なっている。朝鮮による日本人拉致事件や「核疑惑」のため、「北朝鮮は当然のこととして警戒され、正当のこととして批判されている」からである。その批判を振り向けられないために、「自分と『北朝鮮』を結びつけることは『間違い』であると自分に納得させることが可能だとしても、心の外部にいる『日本人』が自分の思うように納得するものだと信じきることなどできはしない」という状況に置かれているからだ。この状況の中で、在日朝鮮人は、「北朝鮮の他者化に共犯するよう脅迫」されている。差別者が用意した罠を罠と知りつつ、共犯となることで「未来の同胞への責任」を果たすことも困難をきたしている。

 こうした状況を把握した上で、郭は、「差別に対する抵抗の意思の生成とその初源の姿を明らか」にしようとする。フランツ・ファノンの「身体」についての議論や、レヴィナスの<顔>に関する議論を援用した郭は、こう述べる。

 「命名の暴力は、<恐怖する分身主体>への無限責任を生みだす。そしてその責任は、<恐怖する分身主体>、理念としての、しかし<私>の肉を分け持った被命名者の恐怖への応答である以上、<私>が恐怖の中に赴こうとする運動の中でしか果たせないだろう。<恐怖する分身主体>は<私>に恐怖の中で暴力に抗うように常に責める。恐怖のないところではなく、恐怖のさなかで暴力に抗うこと、つまり<対決>の場にいるように責める。」

 <責任としての抵抗>は命名の暴力によって生み出される経験の構造から生まれる。

 「朝鮮人という語で自らを語ろうとした者たち、己の身体でその語が持つ響きを吸収しきろうとした者たちは、この語によって圧倒された同胞、殺されさえした同胞への責任、そして、この語によって圧倒されるかもしれない未来の同胞への責任に呼びかけられた者たちのことなのだ。」

 <責任としての抵抗>は、それゆえ「決して支配者たちに回収されない形で抵抗する」ことを必要とするという。日本における「北朝鮮表象」の現実の中で、共犯化から免れ、<対決>へと不可避的に促されること――こうして郭は「差別と抵抗の<ひそやかな関係>」を語る地点に到達する。差別の人間学的考察は、差別者と被差別者の対立構図を<責任としての抵抗>を手がかりに乗り越えようとする。

しかし、先を急ぎすぎたかもしれない。郭の現象学からいったん離れて、そもそもヘイト・クライムとは何かを考えてみよう。

ヘイト・クライムとは

 「人種差別禁止法を必要とするような差別は日本には存在しない」。人種差別撤廃条約に基づいて設置された人種差別撤廃委員会が人種差別禁止法制定を勧告したのに対して、日本政府は差別の存在を否定して見せた。在日朝鮮人に対する就職差別、アパート入居差別、差別的表現をはじめとする数々の人種差別を指摘されても、法律を必要とするほどの深刻な問題ではないと言う。各種資格試験などについて日本政府自身が差別を繰り返してきたのだから始末に終えない。

 焦点の一つとなったのがヘイト・クライムである。人種差別撤廃条約第四条は、人種的優越性に基づく差別・煽動の禁止を定め、同条(a)は人種差別の煽動を犯罪であるとし、同条(b)は人種差別煽動団体・活動を違法であるとし、法律を制定することを求めている。日本政府は条約を批准した際に、この条項の適用を留保した。

 ポーツマス大学講師で犯罪学者のナタン・ホールは、その著『ヘイト・クライム』(ウィラン出版、二〇〇五年)でヘイト・クライムの複合的な性格を解明して、効果的対策を提言しようと試みている。

 ホールはまず「ヘイト・クライムとは何か」について、それが複合的性格を有するため、研究者や実務家にもコンセンサスがないとして、社会的構築としてのヘイト・クライムに関して従来なされてきた様々な定義の試みを検討する。例えば、バーバラ・ペリーは、ヘイト・クライムは他の犯罪とは異なって、直接当事者だけではなく、異なるコミュニティ間の関係にもかかわり、被害は身体的被害や経済的被害にまで及ぶ。コミュニティに恐怖、敵意、疑惑を生み出すと特徴づけている。ホールは、これを異なる者の集団全体に対する象徴的な犯罪と捉えるが、だからこそ定義が困難であると見る。憎悪や偏見の社会的分析を行なえば判明することだが、その表出形態は実に様々である。偏見の意味を解明するとともに、偏見が犯罪と結びつく性格や程度を明らかにしなければならない。ヘイト・クライムに対応するためには正確で有効な定義が必要である。

 そこでホールは「偏見と憎悪」の関係を問い直す。まず偏見と差別について、偏見は心理学的概念であり、差別行為との関係が問題となる。両者は互換的に用いられることが多いが、区別されるべきである。偏見は社会集団構成員に対する態度であり、差別は社会集団構成員に対して向けられた行為である。次にホールは、ステレオタイプな決め付けや権威主義や日常的な偏見について論じて、意図的でない偏見、カタルシスの偏見、善意による偏見、ありきたりの偏見を検討し、これらが憎悪と結びつく場面に向かう。

 さらにホールはヘイト・クライムの歴史を探り、この言葉が使われるよりずっと以前から、アメリカにおいてはネイティヴ・アメリカン、アフリカ系アメリカン、アジア人移住者に対して、リンチ、奴隷化、ジェノサイド、偏見による行為が実に長いこと続いたことを確認する。歴史は古いが、ヘイト・クライムは現代の社会問題として理解されている。しかし、ヘイト・クライムが新しいのではなく、社会的関心が新しいのである。