2010年1月
東京造形大学における授業の記録
* 冒頭に映像『RAWA アフガン女性の闇に光を』(取材構成:川崎けい子、オフィススリーウェイ、25分)を上映し、続いて以下の話をした。
* 1週前に、国連アフガン支援団報告書『沈黙は暴力:アフガンにおける女性虐待』(2009年)を紹介した。この2回でセットの授業内容。
ミーナの娘たち
――闘うアフガニスタン女性
RAWAと私たち
RAWAに関する映像を見てもらいました。RAWAとは、アフガニスタン女性革命協会という名前です。この30年、戦乱にあえいでいて世界一悲惨な状況にある最も苦しい国がアフガニスタンです。かつてはソ連に侵略され、そのあとムジャヒディンが内戦をやる。そのあとタリバンになってもっとひどくなる。その後アメリカが猛烈な攻撃をしかけて現在に至っているわけです。そういう悲惨な状況の中で、女性たちが苦しんでいるわけです。
前回女性たちがどんな被害を受けていたかを詳しくやりました。今日はその中で闘ってきたミーナとRAWAの話をします。最初に「RAWAと私たち」という書き方をしています。今の映像もそうなんですが、日本にはRAWAあるいはアフガンの女性たちと連携しながら活動している人たちがいます。その大きな契機となったのが9.11の後のアフガン戦争です。
2001年9月11日にあの事件が起きたときに、事件の主たる犯人とされた人たちはサウジアラビア人とか、アラブ首長国などの人たちです。ところがブッシュ米政権は、なぜかアフガニスタンに攻撃をしかけたわけです。9.11事件と関係ないアフガニスタンが目標になりました。それはアルカイダ、ビン・ラディンがいるという話で、そこからビン・ラディンは世界一有名になって、未だにアメリカは「ビン・ラディンはどこか」とやっているわけです。果たして、いるのかいないのか分からない人物です。2001年から2002年にかけてアフガニスタンは世界中の注目を浴びていました。
ビン・ラディンとミーナは同じ年齢だそうです。アフガニスタンというとビン・ラディンを思い出す人が多いのですが、ビン・ラディンはサウジアラビア人です。ミーナがアフガン人です。
9.11が一つの画期でしたが、実はそれ以前にもう20数年間戦争で悲惨な状況になっていて、カブールは壊滅的な状態になっていたのですが、そこにさらに爆弾の嵐が降りそそぐ。何十万という人々が難民となって逃れる。女性や子どもたちが死んでいく。そういう状況が起きていたわけです。
RAWAのメンバーが日本に来たのが、今の映像の終わりのほうのものです。2000年前後から何人かのメンバーが来日しています。2003年日本でアフガニスタン国際戦犯民衆法廷(ICTA)という運動が行われました。アフガニスタンにおいて米軍が民間人を爆撃して殺している、これは戦争犯罪だ。ということで、日本の平和運動が始めたのがICTAです。その時に再度、RAWAのメンバーを日本にお招きして、RAWAはICTAの共同代表になりました。それ以来、この時からRAWAと日本の平和運動が常に連絡を取り合うようになったわけです。
その時に出した本が『アフガニスタン女性の闘い』という本です。これがそれなんですが、『アフガニスタン女性の闘い――自由と平和を求めて』ということで2003年に出版しました。中身はミーナの生涯やRAWAのアピールを収録しています。この本のタイトルをつけるときに、最初は、アフガニスタン女性の抱えている問題状況、世界より悲惨な状況なのでアフガン女性の苦しみとか、貧困にあえぐアフガン女性、殺されたりレイプされたりしているアフガン女性のことをどうタイトルをつけようかと思ったんですが、RAWAの存在を強調して『アフガニスタン女性の闘い』というタイトルにしました。
このタイトルを伝えたときにRAWAのメンバーが突然泣き出しました。「こういうふうに言ってくれたのは世界で初めてだ」といってました。世界中どこでも「アフガン女性は貧困、戦争、内戦、そして難民で、苦しくて大変ですね、可哀想ですね」といつも同情される。どこへ行っても同情の言葉。それはそれでありがたいけれども、いつもそう言われてしまう。でもアフガン女性はいつも闘ってきたと、それがRAWAなんだということです。このタイトルをつけて喜んだのが6年前です。
そのあとRAWAが出版した写真集『声なき者の声』というのを、全く同じスタイルで同じ写真、同じ体裁で日本語版を出版しました。さらに2005年に『ミーナ』という本を出しました。これはアメリカ人のジャーナリストのメロディ・チャベスさんという人がRAWAの全面協力の下に取材して、書いたミーナの伝記です。RAWAを作ったミーナの伝記はこれしかありません。パシュトゥ語でもダリ語でもRAWAの伝記は出ていないので、初めて出たのが英語のチャベスさんの『ミーナ』という伝記です。それを日本で翻訳をして出したのがこれです。チャベスさんとは面識がないのですが、調べてチャベスさんにEメールで「翻訳したいので宜しく」と伝えたら、向こうもびっくりしてましたけれど「喜んで」とOKをもらいました。原著の印税はすべてRAWAに寄付するそうです。翻訳の印税ももちろんRAWAに贈りました。サブタイトルは、日本側で「立ち上がるアフガニスタン女性」とつけました。
こうした仕事に関わった人などを含めて、現在、「RAWAと連帯する会」という名前になって活動をしています。形式的にはぼくが共同代表のひとりという形になっていますが、主要なメンバーは日本の女性たちです。RAWAは女性団体ですから、日本側も運動に直接出てくる、中心メンバーは女性たちです。ぼくは「弾よけ」です。
一年おきくらいに、RAWAのメンバーを日本に呼んで、スピーキングツアー、トークショーをします。東京、大阪、那覇とか、あちこちを周ってRAWAのメンバーに講演会をやってもらう。
これが結構たいへんです。というのは、RAWAはアフガニスタンでは非合法団体です。原理主義集団に狙われて怪我したり、場合によっては殺されてしまう。そういう状況にいます。パキスタンでも難民状態です。自分の故郷に出入りはしていますが、パキスタンに難民として来て暮らしている。そういう状況なので、日本に呼ぶのが大変なんです。日本政府は、よくテレビのニュースで見るかと思いますが、外国人を追い出す、難民を追い出す、そういう国なんです。ヨーロッパ諸国だったらそんなことはないんですけど、日本は難民は次々と追い出してしまう。そういう国なので、RAWAのメンバーはもともと難民ですから、すでに難民である人が日本にやってくるだけでも大変で、以前は、外務省といろいろ交渉して、この人は宣伝活動のために日本にやってきて、ちゃんとパキスタンに帰ります、日本に居つく恐れはありませんので、ちゃんとこのスケジュール、このフライトで帰りますよということで、日本に入国を認めてもらって入国をするということになっていました。
アフガン小史――文明の十字路
ミーナとRAWAの歩みを簡単にまとめますが、まずレジュメの2に「アフガンの近代小史」と書いてあります。普段、アフガニスタンなんて遠いので中々分かりにくいかも知れませんが、インドの北西部にパキスタンがあって、さらにその北西にアフガニスタンがあります。アフガニスタンの西側はイランです。さらにその西がイラクになります。ですからイラクとアフガニスタンはニュースではしょっちゅう出てるんですが、イランの両側にあります。
この地域は最も古い文明の地域でもあります。ですから歴史の世界ではアフガニスタンのことを「文明の十字路」といういいかたをします。どういう文明かというと、一はインドに成立した文明ですね。たとえばインダス川にインドの文明があったわけですが、そのインダス川の東側はパキスタン人、西側はパシュトゥ人が住んでいる場所です。アフガンの主要民族はパッシュトゥなんですが、この人たちがいるところです。それから時期によってはギリシャからやってきます。アレクサンダー大王の軍隊もアフガンまで来てますから、ギリシャ文明がこの地域にやってくる。それから当然、仏教もアフガンに流れているわけです。それがのちにイスラムに変わって、仏教が消えてしまうんですけれども、このためにアフガン各地から仏教の遺跡、ギリシャ文明の影響を受けた遺跡、それから北の中央アジア、例えばモンゴルのフビライ・ハンも攻めてきてますから、一時期はモンゴルに占領されている。ですからいろんな大帝国がアフガンにやってきては支配をし、そこを横切っていく。そのために文明の十字路と呼ばれています。
文明の十字路ということはいつも侵略され支配され破壊されている、そういう「破壊の十字路」でもあるんです。新しい文明が押し寄せてくると、それまでの文明が破壊される、そういうことを歴史上何度も繰り返してきた事実があります。
そこが近代になってイギリスに攻撃されます。レジュメの2のところに1,2,3と3回のイギリスアフガン戦争をかいてあります。イギリスはインドを植民地にしました。現在、「イギリスがインドを植民地にした」と言いますが、今のインドだけではないんです。インド、パキスタン、バングラデシュ、現在のこの3つの地域が丸ごとイギリスの植民地だったわけです。東側にバングラデシュで、中央がインド大陸で、西北にパキスタンで、これ全部がイギリスの植民地になっています。東北方面には中国ですね。それでアフガニスタンはパキスタンの西側にある。
インド、バングラデシュ、パキスタンを植民地にしたイギリス。しかし、北にはロシアという大帝国があります。イギリス対ロシアの勢力圏争いで、イギリスはアフガニスタンを押さえようということで、何度も攻めてきて戦争を繰り返したのです。
そういう中でマラライと書いてありますが、一番厳しい戦いだったときに、女性のマラライが男性たちを激励して戦い、イギリス軍を押し返したということで、このとき以来アフガニスタン女性の象徴はマラライという名前になります。現在もアフガンでマラライ・ジョヤという女性が活躍しています。
RAWAの設立趣旨、RAWAの学校の趣旨もそうですけれども、マラライというのはアフガンにおいては解放のため、自由のために戦う女性の象徴的な名前です。ミーナとマラライ両方ともですが、そういうふうになります。
三度の戦争に勝ち抜いたおかげで、1921年、イギリスがようやくあきらめ、アフガニスタンが完全独立することになります。アマヌラーという国王が社会政治の近代化を始めて、このときには女性の教育を促進する、そういうことが行われています。1920年代、この時期だけアフガンは女性に自由があった、そういう最初の時期です。
そのあとザヒール・シャーという王様が穏健な西欧流統治を行って、かなり平穏な日々をすごしています。ザヒール・シャーの時代にアフガンは一応平和な時代を過ごしたということになります。間に第一次大戦が入ります。第一次大戦が行われていたのですが、アフガニスタンはそれに関わっていないということになります。ヨーロッパ諸国も日本も戦争やってる。日本は太平洋に出たりする。当時のドイツの植民地を狙ったわけです。そういうところまで攻撃をしている。当時、日本軍はここまできているわけですね。アジア大陸も、各地で、ヨーロッパ戦略による戦争です。第一次大戦の戦場は欧州が中心ですが、アジアでも若干の戦争が起きています。ところがアフガンだけ第一次大戦に巻き込まれずにすんだ。第二次大戦もそうです。第二次大戦では、日本がインドシナに進出していますから、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ビルマなど各地が戦場になっています。しかし、アフガンにとってはかろうじて平和な時期だった。
ところがその後、ソ連との関係でいろいろ問題がおきます。政治が二転三転するんですが、ソ連に近づいたり、あるいはソ連とはやっぱり距離をおく。つまり、第二次大戦後の東西対立のなかで、東につくか西につくか、これにアフガンは揺れ動いていくことになります。そのあたりのことがレジュメの2から3にかけていろいろ書いてありますがとばします。
ミーナの時代
1957年に、ミーナが生まれています。カブールの西のほうの貧しい地域に生まれたそうですが、お父さんは地図を作る仕事をしていました。政府の役人の一人で、下級官吏で地図を作る仕事をしていた人物だそうです。ごく普通の家庭に育って勉強していたんですが、中学生のときに、マラライ・リセという中学校に入り、そこでフランス語の先生に出会います。その先生がヨーロッパの女性たちがどうやって自由を手にしてきたか、そういうことをいろいろ教えてくれる人で、それで私もと考えて自分でいろいろ勉強することになったというのが中学生時代のことです。彼女の少女時代というのは1960年代のことで、60年代半ばから70年にかけて、アフガン史では2度目の女性の自由の時期になります。
1959年、ダウード首相などがべールを被っていない妻たちとともに公衆の場に現れるということが起きます。当時としては衝撃的だったわけです。それまでは女性は素顔をさらすことは許されない、ベールを被って出てくる。ところがダウード首相はそういうことはやめて、女性も素顔で歩けるようにしようということで、首相その他の大臣が率先して努力したということです。このためにこれ以後ベールが選択的になります。被ってもいいし、被らなくてもいい、ということに変わります。それから大学に女性が入れるようになる。女性が外で働くことができるようになる。1960年代にアフガン女性たちが社会に出て行くことになります。さらに1964年、女性が新憲法規定に参加して、女性に投票権を要求する。1964年に第1回国民投票が実施されます。このときに男女ともに投票ということになります。今、第1回といいましたけれども、アフガニスタンの歴史で国民投票が行われたのはこれが最初で最後でした。アフガンが民主化して女性も選挙権を手にして、第1回国民投票。これが最後になるわけです。
1973年に革命がおきます。ダウードがソ連と手を組んで王様を追い出します。ザヒール・シャーの王政を転覆します。王様はイタリアに逃げました。その後アフガンが悲惨なことになっているわけです。ちなみにこのザヒール・シャーは、タリバンが崩壊した後にアフガンに帰って、再び王様になり、そして引退するというふうになっています。29年間イタリアに逃げていたというかたちになります。
1973年まで、1959年から73年までが、アフガンの女性が自由へ向かって歩いていた時期です。1920年代と1960年代、このときだけアフガン女性は自由だった。ですから60年代の記録をみるとカブールの街中をミニスカートの女性が歩いていた。今はブルカを被らないと命に関わる、そういう状況ですけれども、60年代半ばはミニスカートの女性が歩いていたのです。今では全く想像がつかない。そういう状況になっていたみたいです。
そのもっとも自由な時代に、ミーナは中学校・高校で勉強するようになっていました。小学校から中学校ですかね。1976年、ミーナはカブール大学に入学します。カブール大学はカブールの西側にある総合大学です。しかし、彼女は残念ながら卒業することができません。学生の間に、一つはRAWAを作って活動を始めました。秘密結社RAWAの前身です。女性の権利のために闘う運動を始めたので大学に通うことができなくなりました。もう一つは結婚したことです。20歳で結婚したので、パートナーの仕事も手伝う。パートナーも政治活動をやっていたので、大学は卒業できなくなります。
私は目覚めた女性
ミーナの詩にあるように「私は目覚めた女性」ということですが、77年にミーナはRAWAアフガニスタン女性革命協会を作ります。高校の先生とのやり取りの中で、将来大学に入ったらこういうことをやるんだという思いは持っていたようなのですが、実際大学に入ってから苦労してつくることになります。表に出すことはできません。女性が大学に通うようになったとは言っても、原理主義者がいる、社会主義者もいる。アフガンの国内情勢は非常に厳しい。ですからRAWAは秘密で作った組織です。ビラを作り、女性たちの間にそっとビラをまいたり、そういうことをしながら徐々に徐々に広めていく。そういう中で当局、政府当局からも大学当局からも見つからないように、男性に見つからないように徐々に連絡網を作って、女性たちの権利、自由ということを主張し始めるようになる。
ところが、そうやって始めたとたんに、79年にアメリカ大使誘拐殺害事件のことでとても厳しいことになり、アメリカが出てくるかというのに対して、逆にソ連軍が攻めてくる。それが1979年12月のソ連軍のアフガン侵略ということです。
このソ連軍アフガン侵略はもちろん世界中に大々的に報道されてますけども、日本ではあまり大きく報道されていない。当時のことを思い起こしてみると、そのときに日本で話題になったのは、ソ連がアフガンに侵略したため、当時予定されていたソ連のモスクワにおけるオリンピック。このモスクワ・オリンピックに日本は代表団を派遣しない、棄権するということが行われているわけです。モスクワオリンピックはボイコットとなったわけですが、その理由はソ連がアフガニスタンを攻撃していた、そういう理由でアメリカや日本がオリンピックをボイコットした。そのことは良く覚えているんですが、しかし当時、アフガンはどうなっているのか、ソ連はアフガンで一体何をやっているのか、カブールはどうなっているのか。それは日本のメディアでもさして注目されなかったし、ぼくも当時そういう関心を持っていませんでした。それを後になって思い出しました。実際には熾烈な戦いが始まっていたわけです。
ちょうどお隣のイランでもイラン革命ということで、アメリカとソ連の狭間で、イランではイスラム革命に猛烈に叫ばれてたし、イスラムがここから政治化してきたわけです。原理主義といいますが、向こうでは原理主義とは言いません。原理主義という言葉はアメリカがイスラムに対して批判するときに「イスラム原理主義」という言葉を作ったのです。なぜこの原理主義という言葉ができたのかというと、もともとアメリカの中のキリスト教原理主義が、まあブッシュ大統領がまさにキリスト教原理主義ですが、アメリカの中で極端なキリスト教で、特にプロテスタントの過激なグループが原理主義と言われていたわけです。穏健なキリスト教と極端な原理主義のキリスト教。これがアメリカの中で争いをやっている。そこからイスラムを見ると、イスラムの中にも極端な原理主義がある、ということでイスラム原理主義という言葉がつくられました。
今、イランやイラクの人たちはポリティカル・イスラムという言い方をします。イスラム原理主義ではなくて、宗教のイスラムが政治に口を出す。これが問題だ。ということで政治的イスラムというんですが、その発信源がこのイランとイラクなんですね。特にイランのホメイニ革命、それからイランイスラム革命で、イスラム世界を全部おさえて、アメリカやヨーロッパ諸国を追い出し、イスラムの世界を作るんだ、という原理主義になるわけです。
お隣のアフガンにもこれがなだれ込んでくるわけです。アフガンの中に政治的イスラムが入ってくることになります。ですからミーナが、古い考え方のアフガンで、なおかつイスラムで女性が抑圧されているその中で、女性解放の運動を始めたとたんに、戦争になってしまった。しかも、イスラムがどんどん過激になっている。本来穏健なイスラムもどんどん過激になっている。非常にタイミングが悪いことになっていくわけです。
ソ連が攻めてきたときにはどういうことになるのかというと、ソ連対ムジャヒディンの戦いになるわけですね。二転三転するので意味が分からなくなるかもしれませんが、1979年から92年までアフガニスタンを侵略して人民を殺していたのは旧ソ連軍です。今のロシアにあたりますが、社会主義時代のソ連です。ソ連は社会主義ですね。それに抵抗していた、戦っていたのは主としてムジャヒディンということになります。このムジャヒディンというのは「聖戦士」と訳されていたわけですね。正確な訳ではないと言われていますが、当時はこういうふうに訳されていました。アフガニスタン解放のために、侵略してきたソ連と戦う、これがムジャヒディンということで、国を守るための英雄となっていくわけです。
ところが話はそう単純ではなくて、このムジャヒディンたちは2種類の援助をもらう。一つはパキスタンの援助で、その背後にアメリカがいるわけです。アメリカがパキスタンを通じてムジャヒディンに支援をする。武器を提供し、お金を提供し、これをやっていたわけです。ですからこの時代ムジャヒディンは、たとえばお父さんのブッシュ大統領、ついこの間の大統領だったブッシュ大統領のお父さん、昔やっぱり大統領だったんですが、そのブッシュ父大統領がこのムジャヒディンたちを「自由の戦士だ!」といって大統領官邸に招いてます。息子ブッシュ大統領は「ムジャヒディンはテロリストだ、テロリストを叩け」といって必死になって戦争やってたわけです。でもそのテロリストたちの元は実は父ブッシュが一所懸命お金つぎ込んで「戦え」とやっていたわけです。ソ連と戦うムジャヒディンは「自由の戦士」です。アメリカの言いなりになっているから「自由の戦士」ということになるんですね。ところが逆になると、ムジャヒディンはアメリカにも抵抗する。そうすると「テロリスト」と呼ぶことになるんです。ですから言葉に注意しなきゃいけないのは、テロリストというときに、誰が誰をなぜテロリストと呼んでいるのか、それが一番重要ですね。
ところが日本政府もマスコミもアメリカがやってることなら、そのままムジャヒディンはテロリスト。でも20年前アメリカはムジャヒディンを「自由の戦士」、すばらしい仲間といってお金をつぎ込んでいた。状況によって立場がコロコロ変わるんですね。前のことには責任を持たない。
ソ連はどうなったかというと、この戦争で、アメリカのベトナム戦争と同じ泥沼にはまることになります。結局92年にソ連は敗れて撤退することになります。89年から92年までソ連軍が徐々に撤退していくと、それは年表の後のほうに出てくることになります。そういう中、RAWAは非暴力で平和なアフガニスタンを作ろう、そういう立場をとってますが、同時にやはり国を守っているムジャヒディンを支援しています。非暴力がまだ徹底していなかったのかもしれません。
そういう中で80年にRAWAの雑誌「女たちの声」というのを発表します。さらに81年、ミーナはヨーロッパに出かけていきます。フランスやベルギーでアフガンの状況を報告する。世界に無視されてるけれどもアフガンでは今も戦争が続いている。その中で女性たちがどういう風になっているのか。どうやって闘っているのか、ということで演説をして回るわけです。これは後のミーナの命を縮めることになったといわれてます。パリやブリュッセルで講演したときの写真。この写真によってミーナの顔がばれるわけです。ムジャヒディンたちにも政府にも、あの秘密組織、非合法のRAWAの代表、ミーナの写真が手に入った。この写真で顔が知られてしまった。それが後に狙われるというきっかけになってくわけです。
ミーナの死
1982年にミーナは一端アフガンに戻りますが、顔がわかってしまったのでもうアフガンには居られないということで、パキスタンに難民として逃れます。それはもうカブールに戻って数日後に、もう原理主義者たちがミーナを探してる。そういうのがわかるんですね。あちこちでミーナを探して男たちが必死の形相で街中を動いてる。これは危ないということで、直ちにパキスタンに逃げることになったわけです。
それ以来、82年以来、ミーナは時々アフガンにこっそり戻ったりしていたそうですが、基本的にはパキスタンのクエッタとペシャワールで活動をすることになります。82年から86年にかけてラワの学校を作ったり、孤児院を作ったり、そしてマラライ病院を作ったりする。そういう形で活動していきます。
RAWAの組織というのは非合法のために秘密にしてるものですから、中々わかりにくいんですけども、現在は集団指導体制をとっているんですが、当時はミーナを頂点にいくつかのグループに分けて、そのグループごとに連絡を取りながら活動をしていた。クエッタのグループ、ペシャワールに居るグループ、カブールに居るグループ、それぞれ連絡を取りながら活動をしていたということになります。
ところが87年2月4日、ミーナが失踪します。パートナーもミーナも行方不明になる。忽然と姿を消して、一体どこに行ったのかわからない。そういう状態になります。RAWAの他の残されたメンバーたちは必死に連絡取り合って探すんですが、全く情報がない。数ヶ月全く情報がなくてわかりませんでした。
後々ようやくわかったのが、パキスタン警察がムジャヒディンの一派、ヘルマティアル派というんですが、ムジャヒディンの一派の男たち3人を捕まえます。その3人の話によると、この3人の男たち、アフガン人のムジャヒディン出身の戦士たちが、ミーナとその夫が気に入らないので、許せないということで、拉致して殺して井戸に投げ込んだ。そういう事件であったということが、パキシタン警察の手によって明らかになった。殺されたのは行方不明になったその日、2月4日に殺されていた。数ヵ月後にわかったということになります。
RAWAの組織
設立者で中心人物のミーナが亡くなってしまったということで、RAWAは大変な危機に陥るわけですが、ここから組織を作り変えることになります。集団指導体制というのを作ります。アフガンの中で言うと、RAWAはソ連からも狙われてるし、ムジャヒディンからも狙われている。その後の状況も、回りみんな敵だらけなわけです。政府からも狙われてるし、非合法組織である。1人のミーナが指導者で、RAWA全体のことはミーナしか知らなかった。みんな自分の持ち場のことしか知らない。ミーナだけが全部知ってる。そのミーナが殺されたということで大ピンチになって、それを反省するために集団指導体制というものを作ります。1人だけではなくて委員会、中央委員会なんですが、これを作って数人の人間で持ち回りでやろう。RAWAという組織の意思決定は中央委員会のメンバーたち、何人いるかも公表してません。誰であるのかも外には公表してません。
外国人の男で、RAWAと付き合ってて、RAWAの本を3冊も出したのは、たぶんぼくくらいのものだと思いますが、そのぼくでもラワの中央委員メンバーは知りません。長年付き合っても中央委員のメンバーは極秘ということで誰であるのか知りません。多分会ったことあるんだと思うんですが、会った人の何人かは中央委員の可能性はあるんですけど、それは教えてくれません。普段は本名も教えてくれません。ただ日本に来るときには日本に入国しなければいけませんから、日本政府のビザを取る必要があるので、そのときには本名を出すんですけども、それはRAWAと連帯する会が手続きをして外務省に出さなければいけないんですが、でもその一つ一つの名前も僕も覚えてません。何人かの本名は知っていましたが、忘れました。覚えないことにしています。アフガンの中では彼女たちは全部本名を隠して、活動家名で動いています。原理主義者の暗殺リストに名前がのりますから、本名を出せません。さっきのビデオに出てたのもあれは本名ではありません。本名出すと本人が狙われるだけじゃなくて、下手をすると家族も狙われるということで隠しながら活動している。時々ばれたりはするんですが、そういうやり方をしています。
中央委員会の下にいくつかの委員会を作ります。教育担当の委員会とか、企業担当の委員会、就労・労働担当の委員会、広報活動の委員会、それから国際活動の委員会。いくつかの委員会を作って活動をするという風になります。日本との関係も国際委員会、RAWA国際委員会と僕らは直接会って日本に来てもらったりするというのをやっているわけです。詳しいことは、メリーランド大学准教授のアンヌ・ブロツキーさんが書いた『われら全力をもって――アフガニスタン女性革命協会』(ルートリッジ出版、2003年)に出ています。とても優れた本で、日本に紹介しなければ、と言いながら多忙のためぜんぜんできていません。
87年、ミーナが殺されて今RAWAではこういう集団指導体制、委員会制で組織を作って活動をしています。RAWAメンバーの数ですが、その前に、そもそもRAWAメンバーは全員女性です。男はメンバーになれません。ただし、RAWAが指導していた難民キャンプでも、RAWAの学校でも男はたくさんいるわけです。RAWAはどうしているかと言うと、小学校、中学校、高校に男の子も入れて、その子たちに自由と平等と民主主義を教えて、女性差別をしない、そういうふうに教育しています。その教育を受けた男たちは、その後、RAWAのサポーターになるわけです。
ですからさっきRAWAのデモ行進のシーンがありました。ちょっとわからなかったかも知れませんがデモ行進で中心をどっと歩いてたのは全部女性たちです。子どもは男の子もいますけど。ところがその女性たちの周りに男性たちがいるんです。イスラマバードとかクエッタでデモ行進するときに、女性たちが横断幕とか看板持って、シュプレヒコール挙げながらずっとデモするんですね。道路をこう歩いてデモします。大勢の女性たち、先頭はもう中心メンバーの女性たちです。この状況なんですが、実は男性たちが周囲をガードしてます。普段のデモでも脇と後ろの方は男性たちがガードしているんです。それはRAWAメンバーの家族や、RAWAの学校で勉強した男性たちでサポーターになってる人たちです。これがいないと危ないからです。原理主義者に襲撃されますので、デモやるときには必ずガードをしている。そういう状況で彼女たちはやってます。そういうふうにメンバーは女性だけ。しかしサポーターの男性はたくさんいる。
RAWAメンバーはたいてい、そういう人たちとしか結婚できません。RAWAメンバーたちは勉強して意識が高いので、女性差別をする男なんかと結婚しないという形になりますので、自分たちの手で、女性差別をしない男たちを作るんです。黙ってるとアフガンの中には、そういう男は少ししかいませんから、アフガンの中で教育をやるってのは、この教育の部分ってのは女性たちに正義や自由を教えるだけじゃなくて、男性たちに女性差別しない、そういうのを必死で教えてるんです。それをやらないとRAWAの活動はできないということでずっとやり続けています。
RAWAメンバーですが、パキスタンにいる難民とアフガンと含めて正式メンバーは2000人ほどということです。アフガンの人口全体が2000万ですから、1000万人の女性がいるわけです。その中でRAWAメンバーは2000人ほどです。クエッタ、ペシャワール、イスラマバード、ラワルピンディ、それからラホール。いくつかの地域にいるという形で活動してますけども、学校って、RAWAの学校はパキスタンでは公然とやってますけど、アフガンの中では非合法なので非公然でやるわけです。女性たちが勉強していると攻撃目標になりますから、学校が焼かれるとか、場合によっては捕まって銃殺されるとか、そういうことさえ起きてる国ですので、家庭の中で秘密に女性たちが集まって学校として、勉強する、そういうのをやっています。したがって建物としての学校ではなくて、先生が移動していく、車で移動して家庭を訪ねて勉強をさせる。そういうやり方で頑張っているというものです。サポーターの男性は入れ替わり立ち代りなので数はわかりませんけども、まあ大体1000人くらいはいるんだという話をしてました。
決して後戻りしない
次に「決して後戻りしない」ということですが、ミーナの娘たち、RAWAの若い人たちが今頑張ってます。先ほど「中央委員に会ってない」と言いましたけど、おそらく会ったんです、一人、ミーナの高校のときの先生がいるんですが、その先生は現在もRAWAの活動家なので、多分彼女が一番の最高責任者じゃないかなと思います。ミーナの先生だった人なので、もう引退するかどうかというところです。というのはミーナが今年生きてれば52歳です。ミーナの高校時代の先生ということですから、もう70というぐらいの年齢になります。アフガニスタン女性の平均年齢というのはちゃんとした数字ありませんけれども40台、40歳台といわれてるわけです。前回紹介した国連の文献ではアフガニスタンの平均寿命は45くらいになってました。日本の女性の平均寿命というのは86歳か87歳です。アフガン女性の平均寿命は45歳前後、すごい短いですね。その中でミーナの先生は今70ぐらいにはなってますから、かなり長老のおばあちゃんなので引退だろうと思いますけども、そういう中で普段ぼくらが出会っているRAWAの活動家は、だいたい30台の人が多いです。30歳代で難民として暮らしてRAWAの学校で勉強して、それで活動していて国際委員会の人たちはみんな英語を話せます。英語で世界に訴える。こうしてRAWAはアフガン女性の状況を訴える。そういう活動をし続けてきたということになります。
話が行ったり来たりになりますけど、ソ連が撤退したのが89年からで、特に92年から状況が変わって、今度は内戦になります。ムジャヒディン、さっきアメリカの援助のことだけ言いましたけども、他方でイランからの援助もあるわけです。アフガンのムジャヒディンはいろんな国際的援助を得て戦ってました。みんなバラバラにソ連と戦っていた。それが今度は内戦になるわけです。4つのグループが権力争いで内戦になります。悲惨な状況でカブールがまた壊滅をしてくのが92年から96年です。この時期のことが一番わからない。国際メディアも無視をし、国連も無視し、日本も無視をしていた時期。ほとんど世界に知られていない中で、アフガンは中でずっと内戦が続いていた。それが92年から96年です。
そこに突如登場したのがタリバンなわけです。96年に登場してきたタリバン。そうするとここでまたタリバン対ムジャヒディンになるわけです。タリバンは実際はパキスタンの後押しで成長してきた若いグループです。「神学生」、まあ神様の学生ですね。神学を勉強していたといわれたグループですが、世直し運動というのを始めます。内戦で悲惨でとんでもない。ただアフガンを立て直すんだ。世直し運動だ。といってこのタリバンがやってくるわけです。あっという間にアフガン大半を制圧しましたけど、実際はパキシタン軍の援助をもらって戦ってたので強かった。この時期ムジャヒディンは援助はあまりないわけです。一番初めのときはソ連と戦ってますからアメリカがジャンジャン援助してくれたのです。ところが内戦のときからもう援助はもらえない。そういう風になってますからここでもムジャヒディンは援助はない。弱いんですね。タリバンの方はパキスタン軍の援助を貰ってますからとても強い。ということでムジャヒディンは追い詰められて、団結します。分裂していたのが、まとまります。それが「北部同盟」です。アフガンのニュースで時々、北部同盟という言葉を聞くことがあるんですが、いきなり北部同盟って何かというと、バラバラだったムジャヒディンは、このままだとタリバンにみんなやられちゃう。だから仲違いをやめてみんなでまとまろうということで、北に逃げた。パンシールという地域なんですが、アフガン北方を、この辺を握ってた。
タリバンはアフガンの90%以上を押さえてます。北部同盟が残り10%を押さえてる。そういう状況になりました。タリバンがカブールに入場してそれから数年間、暗黒の時代になるわけです。世直し運動でムジャヒディンの内戦をやめさせる。カブール市民は大喜びでタリバンを迎えたんです。ところがそのタリバンはとんでもない連中で非常に厳しい政治を行う。女性たちは学校にも行けないし、職場にも行けない、外出もできない。ものすごい厳しい状況になるわけですね。男性たちも弾圧される。さっきの映像にあった公開処刑とかですね、ああいうのをやっていたのがタリバンということになります。そのタリバンがバーミヤンの大仏を爆破したりですね、いろいろわけのわからないことをやり出す。
アフガンとRAWAの現在
国際社会は困っていたんです。タリバンをどうするんだ。こんなもの認めるわけにいかないけどもうどうしたらいいか。打つ手がない。そういう時に9.11の大事件が起きたんです。9.11とアフガニスタンは何の関係もない。関係ないけれども9.11で2600人のアメリカ人が死んだといわれた。アメリカとしては必ずやり返す。でもやり返す相手がいない。犯人の主要メンバーはサウジアラビアです。サウジアラビアはアメリカと仲がいいので、サウジアラビアを攻撃することはできません。そこでブッシュ大統領は突如ビン・ラディンがいるアフガニスタンだ。9.11の背後にビン・ラディンがいるんだ。アルカイダだ、ということでビン・ラディン攻撃なわけです。
ビン・ラディンは一民間人です。アフガンはタリバン政権です。ビン・ラディンは外国人にすぎない。ビン・ラディンはサウジアラビア人ですから単なる外国人に過ぎない。そこを世界が理解してないのをいいことに「ビン・ラディンだ、アルカイダだ、それに協力してるタリバンだから、タリバンを全部潰してしまえ」ということで2001年10月からアメリカが乗り込んだわけですね。タリバンに対してアメリカが攻撃するというのが2001年に始まった戦争です。
こういう形でアフガンは非常に苦しい状況がずっと続いてるわけです。内戦がずっと続いている。誘拐、行方不明、暗殺、拷問、そして強姦、それがもうほんとにもう覆い尽くしてるという状況が今日も尚続いていて、アメリカは次々と作戦を展開してきたけれども未だに何もうまくいかない。今年になって米軍兵士もどんどん死んでる。これでは困るということでオバマ大統領は来年にかけて3万人増派する。要するに抵抗するアフガン人を皆殺しにしないとアメリカの思うようにならないという話に現在なっているんですね。これが現状ということになりますが、次々と入れ替わってきた中で今の政府はこの北部同盟プラス、カルザイ大統領。これが現在のアフガン政府です。タリバンを倒したので北部同盟が戻ってきて、そこにカルザイというアメリカ軍の支援を受けた人物が乗っかって、アメリカの支援でアフガン政府ができている。アメリカの支援がないと今のアフガン政権はすぐに潰れる。そういう関係になっています。
この間、ソ連、ムジャヒディン、タリバンそして現政権、アメリカ――女性のために何かしてくれた政権があるか? RAWAの答えはノーです。すべての勢力が女性を差別し、抑圧し、襲撃し、殺害し、暗殺してきた。どの勢力も女性を攻撃してきた。それはイスラムだけに限った話ではない。社会主義のソ連も、自由主義と言ってるアメリカも、そして原理主義のタリバンも、いずれも同じように女性を虐殺し虐待してきた。日本では北部同盟の将軍マスードを英雄として持ち上げる人がいますが、女性から見れば、マスードなど強盗強姦集団のボスにすぎません。これがRAWAの主張です。そのことで今もアフガン女性の解放のために彼女たちは闘っているわけす。想像を絶する深刻な戦争の状況、そして食糧難の状況。でもあきらめずに闘っているアフガニスタン女性革命協会。小さな組織ですけども懸命に頑張っている女性たちがいるということです。
彼女たちと知り合ってしまったので、できることはいろいろ協力しなきゃいけない。こういう協力関係になっていますが、アフガンの状況を見ると大変な長期的な運動になります。RAWAの闘いは数十年あるいは100年という単位でずっと続けていくしかない闘いでしょうから、ずっとやり続けるしかないのかなというふうに思ってます。
日本ではRAWAと連帯する会という会が活動してますが、この会は2年に1度パキスタンに行きます。アフガニスタンにはさすがに行けないので、ここまで行くわけですね。パキスタンのイスラマバードへ行ってペシャワールへ行って、カイバル峠という峠があるんですが、そこまで行きます。今日配った資料の中には、これですね。カイバル峠の写真を載せてありますけれども、向こう側の山がアフガニスタンで、写真を写してる手前がパキスタン側です。ランディコタールから見たアフガニスタンという写真。ここに2年に1度行きます。逆にRAWAのメンバーを時々日本に招いてツアーをする。我々は時々向こうへ行って、まぁRAWAスタディツアーということでやってますが、基本的には資金援助、日本でカンパ集めてRAWAに資金援助をしてるわけです。この本も出版して印税を丸ごとRAWAに贈るという形で、ずっと取り組んできたわけです。
あまりにも遠い話で中々実感がわからないかも知れませんけれども、日ごろアフガニスタンのニュース、いろんな形で出ますのでそのときに「ニュースでなんか話した。」と聞いたらこんな闘ってる、頑張ってるすごい女性たちがいる。そのことを思い出してみてください。今日は以上でおしまいにしますが、次回は女性に対する暴力のまとめということにします。また日本の側に戻ってくることにしようと思います。