無罪!07-04法の廃墟(12)
砕かれた「神話」――袴田事件
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無罪心証で死刑判決
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三月二日の日刊スポーツ(ウェブサイト)は、袴田事件・死刑再審請求審に関して、「袴田事件、元判事『無罪の心証だった』」との見出しで、次のような事実を報道した。
「静岡県で一九六六年に一家四人を殺害したとして死刑が確定した袴田巌死刑囚(七〇)が再審を求めている『袴田事件』で、一九六八年の静岡地裁の一審で死刑判決を書いた当時の裁判官が『無罪の心証を持っていたが合議の多数決で敗れた』と告白していたことが分かった。袴田死刑囚の支援団体(静岡市)が二日、公表した。/裁判官は合議体で行う裁判の議論内容などを漏らしてはならないという『評議の秘密』が裁判所法で規定されており、こうした告白は極めて異例。/支援団体によると、元裁判官は九州在住の熊本典道さん(六九)。六六年の第二回公判から、合議の裁判官三人のうちの一人として主任裁判官を務めた。/熊本さんは自白や証拠などに『合理的な疑いが残る』として合議の前に無罪の判決文を書いていたが、裁判長ら二人は有罪を主張。多数決で死刑判決が決まり、熊本さんが死刑判決を書いたという。/昨年末、熊本さんからメールが団体に寄せられ、メンバーが三回にわたり面会。うち一回に同行した袴田死刑囚の姉秀子さん(七四)に対し、熊本さんは『力が及ばず、申し訳なかった』と涙を流して謝罪した。/熊本さんは『私と袴田君の年齢を考えると、この時期に述べておかなければならない』とし、支援活動への協力を申し出ている。/袴田死刑囚は六六年に静岡県清水市(現静岡市清水区)でみそ製造会社の専務一家四人を殺害したなどとして八〇年に最高裁で強盗殺人罪などで死刑が確定したが、冤罪を訴えて再審請求を続け、最高裁に特別抗告中。」
つまり、熊本元判事補は、袴田事件の主任裁判官として無罪の判決文を準備していたが、裁判長など二人の判事の多数意見によって二対一の多数決で有罪と決まったため、死刑判決を書いた。自分では無罪と思いながら有罪判決を書いた。しかも、それが死刑判決だというから驚きである。
いったん起訴されたら、無実の人間が無罪を獲得するのが非常に困難な有罪率九九・九%の日本の刑事裁判では、裁判官も右から左へ有罪判決を乱発しているのではないかとの「疑い」はずっと指摘され続けてきた。とはいえ、それは外部からの「疑い」の指摘であって、いやしくも裁判官たる者、有罪の確信を持って初めて有罪判決を書いているのだという建前は揺らぐことがなかった。しかし、熊本証言は「神話」を打ち砕いた。「無罪と思いつつ死刑判決を書いた」と本人が言っているのだ。とんでもない裁判官もいたものである。問題は、これが熊本元判事補だけなのかというところにある。裁判所は認めないであろうが、ますます「疑い」が強まる。
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再審請求審への影響
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十亀弘史は、熊本元判事補がテレビ朝日「報道ステーション」に登場して「あの事件は無罪だった」と語ったことについて、「四〇年後であるにしろ元裁判官が冤罪事件について自己の誤りを告白するというのは希有な事態であり、それとして勇気を要したであろうことは十分に想像できます。しかし、その四〇年の間に袴田巌さんその人が蒙った、また今も蒙り続けているいいようのない惨苦を思うと、どうしても、当の四〇年前の時点で熊本判事補にもっと何かができなかったのか、と思わずにいられません」と述べる(本誌第二三号)。
もちろん、できることはあった。無責任な死刑判決を書くよりも、裁判官を辞するという選択肢があった。熊本判事補は、その決断ができなかったが、死刑判決を下した後に苦悩を抱えつつ辞職したという。
熊本元判事補は「これからは袴田さんの再審活動を共に進める」という。他に誰も知らず、沈黙を守り通すことができたのに、あえて自らの誤りを公表し、あらゆる非難を覚悟で袴田再審に協力しようという勇気ある姿勢には、敬意を表したい。
問題は熊本証言が再審請求審に与える影響をどのように見るかである。言うまでもなく、第一の可能性は、熊本証言を再審請求事由に組み入れることであり、再審弁護団が十分に検討しているであろう。死刑判決の有罪認定に至る心証形成過程を再検討する必要がある。
しかし、逆の可能性が懸念される。熊本証言を受け容れることは、無罪心証にもかかわらず死刑判決を書いた裁判官が実在したことを認めることである。このような「ありえない事態」を一つ認めてしまえば、刑事裁判に対する社会的信頼が喪われてしまう。他の裁判でも・・・との疑いが続くことになる。このようなことを現職裁判官が正面から認めることができるだろうか。
免田・財田川・松山・島田死刑再審四事件は、いずれも三〇年という長期にわたる凄絶な闘いを経て、ようやく再審請求事由の存在を裁判官に認めさせ、それによって原判決の事実誤認を認めさせ、無罪判決を勝ち取った。原判決の誤りが正されたが、あくまでも新証拠による事実認定の変化という事態であった。袴田事件における熊本証言の衝撃は、質が異なる。刑事裁判官のプライド(アイデンティティ)そのものへの衝撃となりかねない。「精密司法」と称して優秀さを誇ってきた日本刑事司法の担い手にとって、あくまでも認めがたい事実である。
熊本証言の衝撃を抑え込む方法はいくつもありうる。第一に、今になって再審請求のためにこのような証言をしているが、四〇年前に果たしてそのような事実が本当にあったのか疑念を付すことである。第二に、熊本証言が真実であったとしても、他の二裁判官は有罪心証で死刑判決に関与したのだから、事実認定には何ら問題がないと判定することである。熊本元判事補が特異な人物であったかのように描き出せれば、なおよい。
再審請求審担当判事にとって、熊本証言を正面から受け容れることは多大な心理的困難を伴う。さらに、熊本証言を除外して客観的証拠による再審開始事由があったとしても、再審開始を認めてしまえば、世間は熊本証言によるものと推測するであろう。熊本証言の衝撃は、裁判官に、いかなる事由であれ袴田事件の再審を認めてはならないという決断を惹起しかねない。こうした懸念を踏まえて、再審請求弁護団と支援者の闘いをいっそう強化しなければならないだろう。