Thursday, July 08, 2010

堀越事件東京高裁判決

法の廃墟

堀越事件東京高裁判決

逆転無罪判決

三月二九日、東京高裁は、日本共産党機関紙を配ったとして国家公務員法違反の罪に問われた被告人(元社会保険庁職員堀越明男)を逆転無罪とする判決を言い渡した。判決要旨は次のように述べている(便宜上、段落ごとに番号を付して紹介する)。

①表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を支えるものであり、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為の禁止は、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保にあり、判断するのに最重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する。

②罰則規定を合憲とした猿払事件最高裁大法廷判決当時は国際的に冷戦下にあり、国民も戦前からの意識を引きずり、「官」を「民」より上にとらえていたが、その後大きく変化した。勤務時間外の政治的行為の禁止も、滅私奉公的な勤務が求められていた時代とは異なり、現代では職務とは無関係という評価につながる。ただし集団的、組織的な場合は別論である。

具体的に検討すると、本件は地方出先機関の社会保険事務所勤務の厚生労働事務官で、職務内容・権限は年金相談のデータに基づき回答するという裁量の余地のないもので、休日に職場を離れた自宅周辺で公務員であることを明らかにせず、無言で、郵便受けに政党の機関紙などを配布したにとどまる。

④被告人の行為を目撃した国民が、国家公務員による政治的行為だと認識する可能性はなかった。発行や編集などに比べ、政治的偏向が明らかに認められるものではなく、配布行為が集団的に行われた形跡もなく、被告人単独の判断による単発行為だった。

⑤このような行為を、罰則規定の合憲性を基礎付ける前提となる保護法益との関係でみると、国民は被告人の地位や職務権限、単発行為性を冷静に受け止めると考えられるから、行政の中立的運営、国民の信頼という保護法益が損なわれる抽象的危険性を肯定することは困難である。被告人が公務員だったと知っても、国民が行政全体の中立性に疑問を抱くとは考え難い。

 ⑥本件配布行為への罰則適用は、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、処罰の対象とするものであり、憲法違反との判断を免れず、被告人は無罪である。

判決には次のような付言がついている。

⑦国家公務員に対する政治的行為の禁止は一部とはいえ、過度に広範に過ぎる部分があり、憲法上問題がある。政治的行為の禁止は、法体系全体から見た場合、さまざまな矛盾がある。

⑧時代の進展、社会的状況の変革の中で、国民の法意識も変容し、表現の自由の重要性に対する認識は深まっており、公務員の政治的行為についても、組織的なものや、ほかの違反行為を伴うものを除けば、表現の自由の発現として、相当程度許容的になってきているように思われる。

⑨また、グローバル化が進む中で、世界標準という視点からもあらためてこの問題は考えられるべきだろう。公務員制度改革が論議され、他方、争議権付与も政治課題とされている中、公務員の政治的行為も、さまざまな視点から刑事罰の対象とすることの当否、範囲などを含め、再検討されるべき時代が到来している。

法解釈の歪み

国公法による「政治」的行為処罰には、憲法学、労働法学、刑事法学のいずれの分野からも厳しい批判があり、猿払事件最高裁判決は集中非難を浴び、判例としての価値にも疑問が付されてきた。本件以前、長期間にわたって検察も同種行為を立件することができなかった。判例としての意義はほとんど失われていた。流れが定着しようとしていたのを、本件訴追によって逆流を謀り、東京地裁が漫然と有罪判決を書いたことによって、時代錯誤の最高裁判決がよみがえることになった。

その意味では、東京高裁判決は画期的な無罪判決である。先例を前に思考停止することなく、果断に無罪判決を言い渡したことを高く評価したい。何よりも、裁判闘争を見事に闘い抜いた被告人と弁護団に敬意を表したい。その上で本判決の法解釈には、方法論的に看過できない問題点があることを指摘し、検討を加えておきたい。

第一に、付言⑦の認識が本当にあるのならば、適用違憲ではなく罰則自体の違憲を選択すべきであった(最高裁判決があるため難しかったのだろうが)。市民的権利と「政治」的権利の憲法論的考察が不十分である。

第二に、①以下で展開されている「国民の法意識」論では、憲法にも国公法にも書かれていない要件である「国民の法意識」を、保護法益論を媒介として法解釈に取り込んでいる。刑法解釈における国民の法意識論、国民性論、一般人標準説などは、いずれも立法者意思の確認もなく、法意識や国民性の科学的認識もなく、何らの論証抜きに、裁判所が恣意的に認定してきた。ごまかしのマジックワードにすぎない。

第三に、②の「法意識変容」論も恣意的認定でしかなく、その都度、裁判所が任意に判断してきた。憲法よりも「国民の法意識」を上に置き、「国民の法意識」を裁判所が恣意的に決める。

第四に、②で「集団的、組織的な場合は別論」としているが、これも憲法にも国公法にも書かれていない要件を、保護法益論を口実に盛り込んでいる。その判断が論理的に行われる可能性は皆無であろう。憲法によって保障された表現の自由を、単独なら違法性がないとしながら、集団なら違法とする恣意的解釈である。

第五に、逆に言えば、国民主権と議会制民主主義のもとでは、刑罰法規の合憲性が「国民の法意識」に裏打ちされるべきは当然のことである。国公法の場合にだけ「国民の法意識」を持ち出すのは欺瞞でしかない。「国民の法意識」を誰がどのように判断すべきなのか。

第六に、⑨では「国民の法意識」に依拠せずに裁判所の判断がストレートに述べられているが、矛盾である。

全体として言えば、もともと最高裁判決が捩れていたのを正すのではなく、「いっそのこともっと捻じ曲げれば正しい結論を導き出せる」という方法論に基づいている。この国の裁判の理論水準をよく体現していると言うべきだろうか。