Tuesday, October 26, 2010
Friday, October 22, 2010
国際法が他者と出会うとき(2)
『国際法の暴力を超えて』(岩波書店、2010年)の著者は、「歴史の方向性」という小見出しのもとに、次のように述べています。
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「国際法の他者を想像するには、国際法によって実現されなかったこと、あるいは国際法が排除し、断絶してきたものに関心を寄せるのがよい。国際法の教科書や論考に「客体」として名を連ねるにすぎないか、あるいはまったく登場しない事どもに思いをめぐらせ、それらを国際法のアリーナに招喚するために知恵を絞る。そうして、現行国際法の解釈を変え、その構造的変革を求めていくのである。
招喚すべき候補をあげるとすれば、「南」(象徴としての第三世界)が真っ先に思い浮かぶだろうが、このほかにも、たとえば「過去」や「民衆」といったものも代表的な他者にほかならない。現行の国際法は、過去に起きた無数の不正義の上に成り立っている。だが、「慰安婦」訴訟など戦後補償裁判はもとより、日本における空襲被害者や原爆被害者が半世紀以上の時を経て立ち上がる様を見るにつけ、過去を法の場でもきちんと弔わぬかぎり、現在にも未来にも真の平和はないとの思いを強くする。植民地支配の過程で同化と排除を余儀なくされた先住民族の尊厳回復もこの文脈で語ることができる。
また、国際法は一貫して政策決定エリート主導で組み立てられてきた。排除されてきたのは民衆たちである。特に「南」の民衆がそうであろう。国際法の暴力性に日々直面せざるをえないそうした民衆の中から、だが近年、大きな声があがり始めている。二〇〇一年にブラジルのポルト・アレグレで始まった世界社会フォーラムに代表される、新しい社会運動の台頭である。無秩序なまでのダイナミズムを随伴して躍動するこの世界的運動は、社会変革への民衆の関与の度合いを漸進的に高め、国際法をそのためにいかに動員すべきかについて考究する実践的契機に転化しつつある。差別的眼差しに領導された民主化・市場化に資するためではなく、その土地土地で生を営むに人間たちの抵抗を支える法言説として、国際法に生命を吹き込む重要な契機が広がっている。」(16~17頁)
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著者はこうした問題意識に基づいて書かれた諸論文を1冊にまとめています。
その方法論は、法の中立性・客観性を問う批判法学と、国際法の西洋・欧米中心性を告発する第三世界アプローチ、そして、ジェンダーの視座を全面的に提示するフェミニスト・アプローチです。
著者は国際法を徹底的に批判・吟味しますが、国際法を単純に否定するようなことはしません。国際法を単純に否定すれば、赤裸々な暴力支配に道を開くことにしかならないからです。近代国際法は、諸国家による国家のための「国家・間・法」です。国際法は、国際政治の暴力にからみあいつつ、暴力に依拠しつつ、しかも同時に、その「法」という性格からして、暴力を規制する働きもします。もちろん、暴力を規制するという、その作動もまた、国家権力の都合によって左右されます。
それでもなお、国際法に代わりうる存在があるわけではありませんから、国際法の機能を転換させること、国際法の内実に「南」を織り込み、「南」による国際法に作り変えていくことが目指されます。
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私はこれまで仲間とともに、民衆法廷運動に取組み、無防備地域宣言運動に取り組んできました。『民衆法廷の思想』『民衆法廷入門』参照。また、戦争犯罪論についても『人道に対する罪――グローバル市民社会が裁く』という形で、国際人道法の換質を唱えてきました。国家による国際法から、市民社会による国際法へ。これと共通した問題意識で、はるかに理論的かつ包括的に論旨を展開しているのが阿部さんです。
Sunday, October 17, 2010
国際法が他者と出会うとき(1)
阿部浩己『国際法の暴力を超えて』(岩波書店、2010年)
http://www.iwanami.co.jp/search/index.html
「国際社会のあり方を規定してきた国際法.その価値中立的な装いの下には,先進諸国が主導する国際秩序を正当化し,そこからはみ出すものを排除する暴力性(欧米中心主義)が隠されている.排除されてきた「他者」(女性,「南」,民衆……)の視点から国際法を読み直し,真に自由な社会の構築を模索する.」
待望の1冊です。
国際人権法研究者で、人権NGOの現場において理論と実践の関係を問い直してきた阿部浩己さん。女性国際戦犯法廷にも協力し、イラク国際戦犯民衆法廷(ICTI)の裁判長もつとめ、深い思索と鮮やかなメッセージを市民に送り届けてきた阿部浩己さんの最新刊は、国際法研究者だけでなく、平和や人権に取り組む市民にとっても非常に有益な必読書です。
<著者紹介>
1958年伊豆大島生まれ.早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得.現在,神奈川大学法科大学院教授,国際人権NGO「ヒューマンライツ・ナウ」理事長.専攻は国際法・国際人権法.
主著に『人権の国際化―国際人権法の挑戦』(現代人文社,1998年),『国際人権の地平』(現代人文社,2003年),『抗う思想/平和を創る力』(不磨書房,2008年),『戦争の克服』(共著,集英社新書,2006年),『テキストブックス国際人権法[第3版]』(共著,日本評論社,2009年)など.
<目次>
http://www.iwanami.co.jp/search/index.html
国際法への眼差し――序にかえて
1 国際法の誕生/2 戦争法規に見る「原罪」/3 普遍化と人間化の実相/4 よみがえる亡霊/5 「他者」と出会う意味
◆第 I 部 国際法の「原罪」としての暴力性
第一章 「人間」の終焉――国際法における〈再びの一九世紀〉
1 テロリズムという記号が動員されるとき/2 弛緩する拷問禁止規範――「非人間化」の力学/3 消し去られる「彼ら」,生き残る「私たち」/4 「北」に覆われる世界の風景――変容する自衛権,改変される人権法/制度/5 リベラリズムと一元化の力学/6 国際人権法の可能性
第二章 愚かしき暴力と,国際人権の物語
1 ヨーロッパの野蛮から/2 真理の体制/3 「不条理な苦痛」を生み出すもの/4 沈黙を招喚する
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◆第II部 招喚される他者――女性,第三世界,民衆,過去
第三章 ジェンダーの主流化/文明化の使命――国際法における〈女性〉の表象
1 真理の体制と国際法言説/2 〈女性〉の表象をたどる/3 主流化の深層/4 フェミニズム,国際法の使命
第四章要塞の中の多民族共生/多文化主義――なぜ「過去」を眼差さなければならないのか
1 豊かさの暴力/2 非EUの創出/3 定住外国人の処遇/4 過去を眼差すこと
第五章新しい人道主義の相貌――国内避難民問題の法と政治
1 国内避難民問題の創出/2 難民としての国内避難民/3 発生原因の封じ込め/4 二分法のレトリックとリアリティ/おわりに
第六章グローバル化と国際法――「人権戦略」の可能性
はじめに/1 トランスナショナル人権訴訟の広がり/2 米国法の正統化過程?/3 市民益の増進/4 民衆法廷
第七章戦後責任と和解の模索――戦後補償裁判が映し出す地平
はじめに/1 国家中心思考と人間の位置/2 時空を超える正義の相貌―Intertemporal からTranstemporal へ/3 法廷の中の出来事/4 戦後補償裁判を超えて
海賊と,国際法の未来――終章
<以上、目次>
私は、著者にイラク国際戦犯民衆法廷の裁判長を引き受けてもらったり、つい先日、「非国民入門セミナー そしてみんな非国民になった!?」に登場していただいたり、と、借りがあるから言うわけではありません。本書は、もともと国家の国家による国家のための法であり、帝国主義の法体系であった国際法が、その枠組みに「非―国家的なるもの」を取り込まざるをえなくなり、著者の言葉では、「他者」に出会うことによって国際法自体が変容を遂げてきたことを踏まえて、近年の国際人権法の展開を手がかりに、さらに国際法を開いていくための思索と提言が盛り込まれています。だから、とても重要なのです。
著者は、「善きタテマエにこだわること」との小見出しで、次のように述べています。
「暴力に彩られたその歴史的形相を想起するのなら、国際法を無条件に世界に平和をもたらすものと思い込むことだけは避けなくてはならない。図らずしてその暴力性に加担することになってしまうおそれが小さくないからである。国際法を差し向ける側にではなく、差し向けられる側に身を置いてその効能を捉え直してみるとよい。
むろんだからといって国際法を遠ざけよ、などというつもりはない。大切なのは、国際法の暴刀性の契機を見据えたうえで、この法のもつ社会変革機能を最大化する途を探っていくことである。どれほど暴力性を抱え込んでいようとも、現段諧の国際法が人間間・国家間の平等、そして人間の尊厳を最大の理念として打ち立てていることは紛れもない。脱暴力を求めていることも確かである。この「善きタテマエ」に徹底的にこだわり、その恨幹を劣化させようとする潮流に正面から対特することがまずもって肝要である。
そのうえで、国際法全般を暴力の契機から解放していくために欠かすことができないのは、なにより、国際法自体が排除してきた「他者」の視点に寄り添っていくことである。国際法の他者とは、国際法の保護から排除される者であり、それゆえ、この法のもつ暴力性を最もよく実感でさる者といってよい。他者の声を聴き、閉ざされた国際法の境界を引き直す。その絶えざる営みによってのみ、国際法は暴力から自由な社会の構築に真に貢献できるものとなっていくのだろう。」(15頁)
この一文だけでも著者の方法意識が浮かび上がってきます。
著者とは逆の思考様式を見てみるとよくわかります。
最近、眼にした事例でいえば、尖閣諸島をめぐる日中の領土問題について議論したがる人たちが、日本政府の主張を批判してあれこれと述べた後に、最後になって突如として、「日本政府の主張は帝国主義の主張に過ぎない、こんな主張を支える国際法そのものがナンセンスだ」と叫んで、議論を投げ出します。(日中の領土問題がどうかは、ここでは関係ありません。国際法についての認識の仕方が問題です。)こうした議論の萌芽は井上清の『「尖閣」列島』でしょう。最近でも井上清の議論は説得的だなどと持ち上げる人たちがいます。しかし、領土問題に関する主張の当否は別として、この議論は「酔っ払いおじさんのちゃぶ台返し」でしかありません。近代世界において国家の領土問題を議論するならば、国際法と国際政治の力学に依拠せざるを得ません。だから議論をしているのに、ちゃぶ台をひっくり返しても、そこから何も出てはきません。他人を帝国主義だなどと非難していますが、そもそも領土問題を議論している自分が実は帝国主義の土俵に乗っていることを見失っています。都合の良いときは国際法を持ち出しながら、都合が悪くなると国際法を非難する姿勢です。これでは何も解決できません。
これに比して、著者は、国際法の限界を見定めながら、いかに国際法を開き、脱構築するのかを論じています。現実の世界に「普遍的に」「実効的に」存在しているのは、いやでも、国際法だからです。
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それでは著者の言う「他者」とは何でしょうか。
Wednesday, October 13, 2010
国境を下から越える思想を
『無罪!』2006年12月
法の廃墟(9)
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国境を下から越える思想を
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出会いの場所・検問所
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二〇〇六年一一月、下北沢のザ・スズナリで上演された坂手洋二+燐光群の『チェックポイント黒点島』は、国境の検問所をめぐる物語である。かつて東西ベルリンの壁につくられたチェックポイント・チャーリーを舞台に、三つの物語が交錯し、反響しあう。
一つは、まんが家ヒロコと弟クニオ、そして母親の日常と非日常の物語。革命家クニオは日本を離れドイツで地下工作をつづけ、苦境の際に姉に助けを求める。「チェックポイント・チャーリーで待つ」。一日遅れでチェックポイント・チャーリーにたどり着いたため、弟と会えなかった姉は、後に自宅にチャーリーのレプリカを建てる。
二つ目は、ヒロコが描いた未完の傑作マンガ『チェックポイント黒点島』である。太陽黒点の観測を行なっていた天文学者夫婦は、突然の海底隆起によって東シナ海の中央に生まれた新島を黒点島と名づけて、チェックポイント・チャーリーと酷似した検問所を建てる。新領土の浮上に色めき立つ日本や周辺諸国のスパイ合戦が始まる。
三つ目は、住宅街に設置されたチャーリーそっくりの検問所と周辺住民の物語である。マンガ『チェックポイント黒点島』の読者である主婦のヒロコは、いつの間にかマンガの中のヒロコになりきる。主婦ヒロコはなぜ自宅に帰らないのか。平和な住宅地で年末に起きた殺人事件の謎は・・・。
三つの物語が交錯し、絡み合いながら進行するが、途中で二〇〇六年春の法政大学事件も登場する。構内の看板撤去をめぐる不当逮捕事件、不当退学事件、そして正門で学生証を見せないと入校させない「検問所」。法政大学は笑えないパロディを現実世界で演じてしまった。他方、マンガ家のヒロコは九州の対馬にあるという「カフェ・チェックポイント・チャーリー」を訪れたりもする。
正しいチェックポイントのあり方とは何であるのか。ベルリンのチェックポイント・チャーリーは、東西ベルリンを分画し、人々を隔てたが、同時にそこを通過する人々が出会う場所でもあった。マンガ家ヒロコのチェックポイント・チャーリーにも仲間や母親が集まり、そして弟クニオが帰ってくる。チェックポイント・チャーリーを通過できない主婦ヒロコは、向こうへの眼差しを持ちながら、恐怖の予感に立ち尽くす。黒点島チェックッポイントに集まる各国政府のエージェントたちも、東シナ海における出会いを演じることになる。
『チェックポイント黒点島』は、時代の最先端を鋭利に切り取り、折り曲げ、重ね合わせ、仮想現実の世界を構築してきた坂手洋二+燐光群の本領発揮の作品である。『ブレスレス』(一九九一年)から『だるまさんがころんだ』(二〇〇四年)へと辿ってきた燐光群の世界は、いつものことながら考えさせられ、悩まされ、楽しめる。ゲスト出演の竹下景子と渡辺美佐子と、燐光群スタッフとの出会いも素敵だ。しかも、日本の領土問題、国境問題を通じて、世界のあり方に思いをめぐらし、そして何より「国境を越える」思想へのチャレンジに立ち会うことができる。
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国境を越えるために
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国境をめぐる物語は、国境とは何か、領土とは、国家とは、国民とは何かを問い返すことになる。
地図上に描かれた国境線は人々の意識を捻じ曲げて固定させる。あたかもそこに何らかの実在が存して、国境を隔てているかのごとく。あたかも太古の昔から国境が引かれていたかのごとく。あたかも国境は越えられないかのごとく。
しかし、国境なるものが近代の国民国家によって考案された新案特許に過ぎないことは言うまでもない。古代や中世においては、国家や都市の中心部は確定していても、外延の国境は不可視であり、無規定ですらあった。「人外魔境」は国家の関心の外であっただろう。世界史に時として登場した帝国も、猛烈な膨張と収縮を繰り返したので、安定した国境とはなじみにくい。
ところが、大航海時代の世界の急激な拡大と、資本主義のグローバリゼーション、つまり植民地主義の世界支配、帝国主義による世界分割によって、地上のあらゆる土地が国家の領土として区分されていった。国民国家の形成は、国境による世界分割と同時進行で進められた。
近代法は、国家を主権、領土、国民によって定義してきた。国際法は領土の帰属をめぐる原則を構築してきた。芹田健太郎『日本の領土』(中央公論新社、二〇〇二年)は、北方領土、尖閣諸島、竹島の領土帰属をめぐる国際法を丁寧に検討している。明石康他『日本の領土問題』(自由国民社、二〇〇二年)も、世界の中の日本という視点を盛り込みつつ、特に北方領土問題について詳細な検討を行なっている。
こうして国境の国際法は鮮やかにも、と言うよりも、あざとくも見事に国家イデオロギーの浸透を完成させる。第三の道は予め否定されているからだ。
日本国憲法には領土の規定がない。このことを国際法学者は、カイロ宣言(一九四三年)およびポツダム宣言(一九四五年)で、本州・北海道・九州・四国および諸小島に決まっていたからだと説明する。なるほどカイロ宣言とポツダム宣言にはそう明示されている。もっともな説明に見える。しかし、実は大日本帝国憲法(一八九〇年)にも領土の規定がなかった。大日本帝国にとって、国境とは伸縮自在な、恣意的に変更可能な当座の線でしかなかった。国境の本質を表現しているのではないだろうか。北方領土、尖閣諸島、竹島問題を見れば明らかなように、日本はいまだに国境が不明確な国家である。国境を画定することが本当に外交の目的となったことがあるのかすら疑わしい。国際法学者の説明よりも、国境を画定しないことこそ国家戦略だったとでも説明した方が説得的である。日本は一度も国境を画定したことのない国家なのだ。
国境の不確実性と恣意性は、国境の越え方にも示唆を与える。国民国家論が盛況な時期に「国境を越える」といった物言いが流行ったが、日本政府発行のパスポートを握り締めて入管を通過しても「国境を越えた」ことにはならないだろう。
国境を越えるためには、国家や国民というイデオロギーそのものを思想的に越えなければならない。近未来物語の黒点島が東シナ海の現実を下から乗り越えようとしたように、国境を下から越える思想を紡ぎだしていくことが求められている。それは国民国家の只中で「非国民」として生きることを自らに課す思想闘争の彼方にはじめて立ち現れる課題であろう。
Wednesday, October 06, 2010
ぐろーばる・みゅ~じっく(20)お~らんど(1)
フィンランド領のオーランド諸島は、バルト海とボスニア湾の間にあります。フィンランド、スウェーデン、ロシア、ドイツ、バルト3国など周辺諸国にとって海上の要衝の地となっています。ここにはスウェーデン語を話すスウェーデン系の住民が住んでいます。ところが、フィンランド領となっているため、複雑な歴史を歩んできました。
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様々の偶然と島民の努力の結果として、オーランド諸島は非武装・中立・自治の島として知られるようになりました。フィンランド領なのにフィンランド軍が立ち入ることがありません。基地もありません。仮に戦時になっても中立です。そして、フィンランドのほかの自治体が持っていない特別の強い自治権を持っています。まれに見るピースゾーンです。
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首都マリエハムンのオーランド博物館の売店で買ったフォークミュージックです。